天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

中止だ中止!

Akira

私:1988年に製作されたアニメ映画『Akira』を簡単に説明してくれる?

 

ChatGPT:1988年に公開されたアニメ映画『アキラ』(Akira)は、大友克洋による同名の漫画を原作としています。この映画は、日本のアニメーション業界において革命的な作品とされ、その斬新なビジュアルスタイルと深いテーマ性で国際的に高い評価を受けました。

 

**ストーリー概要**
物語の舞台は、第三次世界大戦後の荒廃した近未来都市「ネオ東京」。1988年に東京を壊滅させたとされる大爆発の秘密とされる「アキラ」の存在が、物語の中心にあります。主人公の金田(カンダ)とその友人である鉄雄(テツオ)は、バイクギャングの一員として暴走族としての日々を送っていますが、ある事故をきっかけに政府の軍事的な陰謀や超能力者たちの存在に巻き込まれていきます。
鉄雄は事故後に超能力を発現させ、その力のコントロールに苦しみながらも、自身の力とアキラに関わる真実を求めていく。彼の力の暴走は、ネオ東京に新たな危機を引き起こすこととなります。

 

**特徴と影響**
『アキラ』は、その質の高いアニメーション技術、特に流動的で詳細な背景描写と動きの表現が特徴です。サウンドトラックもまた、物語の雰囲気を高める要素として評価されています。アキラは、サイバーパンクジャンルにおける代表作として、後の多くの作品に影響を与え、日本アニメが世界中で文化的な影響力を持つきっかけの一つとなりました。


この映画は、政治的な不安、若者の反逆、科学技術の進展とその倫理的問題、個人と社会の関係など、多くの重要なテーマを扱っています。その複雑な物語と壮大なスケールで、アニメが持つ表現の可能性を広げたとされています。

 

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 ちょうど、今日は2025年4月13日に開催予定の大阪万博の1年前に当たる。この晴れやかな国際交流の祭典が近づく中で、民衆の心も興奮に満ち溢れている。最近の大阪万博の話題と言えば、「2億円のトイレを作る」「地下調査が不十分でメタンガスの爆発が起きた」「予定にない木製巨大リングを作っているが、工事車両が通行できなくなったので一部を取り壊した」「予定工事費用が当初の約2倍の2350億円に跳ね上がって、ここからも更に高騰する可能性がある」など、我々の涙を誘う素敵な出来事が盛りだくさん。2021年に開催された東京オリンピックに続き、今回も政府とお友達が一生懸命に税金をどれだけ中抜きできるか頭を絞る毎日がミャクミャクと続いていることだろう。まぁ、せいぜい頑張れや。(※補足:7時間前の速報によれば、大阪万博のメイン会場であるAエリアに参加予定だった20か国が辞退を表明したそうだ。)
 そもそも、今や生活の疲弊と文化の飽和と社会の閉塞に悩む先進諸国がオリンピックや万国博覧会などの国際行事を開催する事は、その利益よりも損失の方が遥かに大きい。IOCはオリンピック・レガシー(オリンピックが遺す正負の遺産)について、そこに物理的意義(交通機関や建物などの物理的な遺産)と精神的意義(文化の萌芽や協働精神の強化などの精神的な遺産)が存在すると示している。私の三元論に基づけば、そこには更に組織的意義(新たな機関や集団の創設や拡張といった関係的な遺産)があると考えるが、それらは疲弊と飽和と閉塞にあえぐ国家にとって全て負の方向に作用する。お金がないのに無理に大規模な公共物や新設備を整えれば必然的に増税がなされなければならず、ますます民の生活が疲弊する。生活が疲弊しているがゆえに精神的な高揚や団結に欠けて高次かつ持続的な充足感が得られない。それでも強引に開催されて巨額の資金が動くと既得権益の特定組織同士が袖の下を潤し合うだけで、組織がますます腐敗する。組織の腐敗が進むと、ますます民の生活が疲弊して、精神的な安定感が見るも無残に失われていく。このようにオリンピックと万博は、我々日本人にとってもはや悪循環を生み出す最悪の行事に他ならない。(札幌の冬季オリンピックの誘致が停止となり、本当に良かった。誠に冗談ではない。)
 東京オリンピック大阪万博も、日本の民が団結してその無益な開催を食い止めるべきであったが、今の民は自分の生活だけでも精一杯なので、政府や権力者に対抗する力など一滴も残っていない。ここの民は長い時間を掛けて、すっかり社会改善に対する気概が中抜きされてしまったのである。ここに在るものは間違いなく平和には違いないが、それは虚ろな平和である。ただ、不正な平和か、正しい闘争かというお馴染みの判断を突き付けられた時、不正であっても平和の方が喜ばしいというのが正直な意見でもある。一方、以前の記事でも触れたが、歴史的にはつい最近まで、日本の民は後者の正しい闘争の方を選択していた。1960年代後半から約20年間、日本では民と政府による激しい物理的、思想的、組織的な衝突が繰り広げられていたのである。
 その荒々しい時代は私の生まれる前の出来事なので当時の感覚を掴みきれないが、全共闘(左翼学生による国家革命を目指した政治運動)の木村修が「明日にも革命が起きると思っていた」とインタビューに答えているあたり、社会全体が今にも爆発する不発弾を前にしているように、非常に張り詰めた空気に満たされていたのだと推測する。
 その当時の緊迫した社会の雰囲気を世界観の基盤としたのが、アニメの歴史に名を刻む映画『Akira』だ。国内では『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』などに続いていく革新的な影響力を持ち、国外ではジャパニメーション人気の原点となった作品である。本作はSF作品なので日本の近代史を再現するものではないが、大いに1960~80年代の社会的な気風が反映されている。"予言的"に物語に盛り込まれた東京オリンピックや万博開催の否定的な描写も、まさに現代の我々の状況と紐づく点があって興味深い。
 自身の三元論に基づいて「アニメ」という視聴覚文化を解剖すると、そこには「技巧的要素」「概念的要素」「関係的要素」に集約されるだろう。「技巧的要素」は作画技術や録音技術など、アニメ製作に直接関わる技術を意味する。「概念的要素」は思想や知識などの観念を体現するものである。「関係的要素」は人と人、あるいは人とその他の空間(社会や時代)との接点を示す空間的な構造を意味し、それは主に世界観や舞台設定などに反映される。この三要素を基本の八類型に展開すると、それは以下の通りとなる。

 

弱い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素
弱い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素
弱い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素
弱い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素
強い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素
強い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素
強い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素
強い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素

 GPT君、この八類型について補足をお願いしたい。

 

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ChatGPT:あなたの三元論を基に、「アニメ」という視聴覚文化を解析する方法は興味深いです。ここで、アニメ作品が持つ「技巧的要素」、「概念的要素」、「関係的要素」を組み合わせることにより、その作品がどのような特性を持つのかを明らかにすることができます。これら三つの要素を用いて、アニメの八つの基本型を以下のように展開できます。

1. **弱い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素**  
   この型は、技術、テーマ、世界観がどれも浅い作品です。視覚的、思想的に深みが少なく、キャラクターや設定の関係性も単純なものが多いです。

2. **弱い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素**  
   視覚表現はシンプルだが、テーマや思想に深い意味が込められている作品。しかし、キャラクターや設定の関係性は薄いです。

3. **弱い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素**  
   技術やテーマはシンプルながら、キャラクターや設定の関係性が複雑で、物語性が豊かな作品。

4. **弱い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素**  
   視覚的にはシンプルだが、テーマが深く、キャラクターや設定の関係性も豊かで、ストーリーに厚みがある作品。

5. **強い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素**  
   視覚技術は高いが、テーマやキャラクター間の関係性は単純な作品。美術やアニメーションの質が際立つ作品。

6. **強い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素**  
   視覚的にもテーマ性にも優れるが、キャラクター間や世界設定の関係性はそれほど発展していない作品。

7. **強い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素**  
   視覚表現が高品質で、キャラクターや世界の関係性に深みがあるが、テーマ自体はシンプルな作品。

8. **強い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素**  
   視覚技術、テーマの深さ、キャラクターや世界観の複雑な関係性を兼ね備えた、非常に完成度の高い作品。

これらの分類を通じて、アニメ作品がどのような強みと特性を持っているかを理解し、その作品がどのような視聴者に響くかを見極めることができます。この分析方法は、アニメの評価や研究において非常に有用なツールとなり得ます。

私:ありがとう。この八類型を基盤として、アニメ映画『Akira』がどこに属するのか、その根拠と一緒に解説してくれる?

ChatGPT:アニメ映画『アキラ』(Akira)をあなたの提案する八類型の枠組みに当てはめて考えると、この映画は「強い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素」というカテゴリーに最も適切に当てはまるでしょう。以下、それぞれの要素について具体的な根拠を示します。

### 強い技巧的要素
『アキラ』はそのアニメーション技術において革命的な作品であり、その視覚的表現は極めて高い評価を受けています。詳細かつ流動的なアニメーション、複雑で光り輝くネオ東京の描写、そして精密に計算されたカメラワークがこの映画の技巧的な優れた点を示しています。これらの技術は当時としては先進的で、アニメーションの可能性を広げるものでした。

### 強い概念的要素
『アキラ』は、超能力、政府の陰謀、社会の断絶といった深いテーマを探求しています。これらのテーマは、個人のアイデンティティ、権力と抑圧、そして科学技術の倫理的な問題といったより大きな概念につながっています。このように、映画は単なるアクションやスリルを提供するだけでなく、観る者に思索を促す哲学的な問いを投げかけています。

### 強い関係的要素
『アキラ』の物語は、キャラクター間の複雑な関係性と、それがネオ東京という広大な舞台設定とどのように絡み合っているかによって進行します。主人公たちの友情、裏切り、成長の物語は、都市という環境と密接に関連しており、社会的、政治的な背景がストーリーの進展に深い影響を与えています。また、キャラクターと社会の間の相互作用は、映画全体のテンションとドラマを形成する重要な要素です。

これらの要素を総合すると、『アキラ』は非常にバランスの取れた高い技術、深い概念、そして豊かな関係性を持つアニメ作品と言えます。
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 相変わらず理解度の高い的確な分析をしてくれるGPT君だが、私としては一部反論がある。私が鑑賞した限り、『Akira』の概念的要素は弱い。技術倫理への問題定期、生命の尊厳と権利に対する考察、また社会構造への問題提起、こうした観念は本作ではあまり描かれていなかった。本作より20年以上前に製作された『スタートレック』が見事にそれらを描いている点を鑑みれば後発的である。人と自然がどう在るべきかだとか、権力をどのように取り扱うべきなのかとか、人間の内面とどう向き合うべきなのかとか、そういった精神的な対話があまり生まれない点は、本作の概念的要素の弱さを示している。(これは時間の限られた映画という媒体では表現のしきれなかった点かもしれない。原作ではより丁寧な概念的描写がある。)
 一方、本作の関係的要素は確かに強い。但し、それが前衛的であったかと言われると、それは残念ながら評価としては妥当ではないだろう。「反体制的な若者たち」「体制側の腐敗」という対立構造は1960年代に恥まったアメリカのヒッピー文化に端を発して様々な映画や文学で描かれていた題材だ。「超能力との対峙」も、むしろ当時は使い古されたと言えるぐらいの主題である。それぞれの試みはアニメ分野としては斬新であったが、SF分野としては前衛的であったとは言えない。
 だが何よりも、本作は技巧的要素について"オーパーツ"と言えるほどの圧倒的な前衛性を発揮している。この点は誰もが否定をし得ない所だ。「倒壊するビルの破片をつなぎ合わせるとビルが元に戻るぐらいの精緻なデッサン」「映画的なカメラワークを意図した構図の工夫」「近未来世界の気配を増幅させる民族音楽手法」「プレレコ(先に音声を録音して、その音声に基づいて映像を作る方法)に合わせた人の表情の描き込み」など、アニメ製作の技巧水準を何段階も引き上げる驚愕の取り組みが行われている。色彩に関する技巧についても「作画に用いた色彩設定327色のうち50種を本作のために新たに開発した」という徹底ぶりだ。
 この色彩設定について、大友監督は「遊園地のように、遠くで見るとカラフルで、近くで見るとくすんでいる」という状態を目指すよう現場に指示をしたのだという。これもまた非常に興味深い技巧だ。というのは、平坦な場所にいる人間の目を通して見る世界は、基本的にはこれと逆だからだ。
 例えばある人物が遠くの山を見る場合、大気とそこに含まれる水蒸気の関係で光の粒子が乱れるので、山全体はぼんやりと輪郭のない青っぽい景色になる。山に近づくにつれて光の乱れが少なくなるので、今度は山の色や輪郭がはっきりと見えるようになる。よって、物理的には「遠くで見るとくすんでいて、近くで見るとカラフルだ」というのが、普通の色彩感覚なのだ。
 美術を学んでいる者は「空気遠近法」としてこの技巧を知っているだろう。これは色を用いて遠近感や奥行きを表現する技巧であり、近いものほど濃くはっきりとしていて、遠いものほど薄くぼんやりとしている状態を再現する。この空気遠近法を意図的に用いた代表的な古典画家はレオナルド・ダ・ヴィンチ。例えば彼の代表作である『モナリザ』はモナリザがくっきりと濃く、後ろの森がぼんやりと薄くなるように、その色彩や色調が意図的に調整されている。
 だが、遠近を用いる必要がないぐらい密集した世界を再現する際は──つまり、SFで表現される超科学的で密集状態の近未来都市を再現する際は、確かに大友監督の理論が正しいという事になる。ある者が上海の外灘の散歩道からタケノコのように天空へ延びる浦東の近未来地区を見るとすれば、そこには躍動的で鮮烈な色彩と色調が広がっていると感じるだろう。ところが、実際に浦東地区に足を運んでみると、どのビルも道もどことなく制止的で鈍重な色彩と色調だと感じる。
 私の三元論は、空間に存在する事物の形状を媒体上に再現する為に必要な究極的な三要素を「大小」「動静」「遠近」に集約している。そこで色彩について考えてみると、基本的には「大きなもの」「動くもの」「遠くのもの」ほど色を薄くぼんやりと、「小さなもの」「静かなもの」「近くのもの」ほど色を薄く濃くはっきりと表現するべきではないかと考える。今回の大友監督の事例のように再現をしたい世界の性質によっては、むしろそれを全て逆転させた方が効果的に機能する事もあるかもしれないが、それは例外だ。
 「国家的な政策」の形状もまたこの原理に通じる所がある。「大規模で」「革新的で」「国際的なもの」ほど薄く取り扱い(優先順位を下げ)、「小規模で」「保守的で」「国内的なもの」ほど薄く取り扱う(優先順を上げる)べきである。もし、約1300兆の借金を抱えている国が、民が必要とする政策を後回しにし、民に実利と将来性をもたらさない花火のような政策を優先するとしたら、その絵画はあまりに醜いものになるに違いない。

 

"中止だ中止!"

 

※画像:DALL-E
※補足:「中止だ中止」という言葉は、本作『Akira』の映像内に登場する壁の落書き。東京オリンピックの競技会場建設現場付近の壁に「東京オリンピック開催迄あと147日」という看板が掲げられており、その壁に白地のスプレーで「中止だ中止」という殴り書きがなされている。「国内の生活・文化・経済が完全に破綻しているのに東京オリンピックを強行しようとする政府に対して、民が憤怒している」という関係性を示す描写である。
※補足:本記事では今の日本にオリンピックと万博といった強引な国際行事が必要ないという論考を行ったが、オリンピックと万博そのものが国際平和と文化興隆にもたらす効果は非常に大きいという点は強調しておきたい。毎年同じ国で開催するか、あるいは"参勤交代"のように国力の均衡を図ってGDPランキング上位3カ国の輪番で行ったら良い。現時点のGDPランキングはアメリカ、中国、ドイツなので、彼らが順番にオリンピックと万博を開催すれば良いのだ。そのGDPランキングに基づく輪番制が実現されるのなら、日本は助かった。ちょうど先日、4位に転落したばかりだ。

国家の基本運営ソフトとセキュリティソフト

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

私:2012年の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と2020年の『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:もちろんです。以下、2012年の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と2020年の『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』についての簡単な紹介です。

 

  1. **『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年)**

   この映画は、日本の著名な作家である三島由紀夫の最後の一日を描いています。1970年11月25日、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で一連の政治的演説を行い、その後に公開の場で割腹自殺を遂げました。監督は若松孝二で、三島の政治的な理想と彼が若者をどのように導いたかに焦点を当てています。映画は、三島の行動の背後にある動機と日本社会に対する彼の深い批判を探求しています。

  1. **『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(2020年)**

   このドキュメンタリーは、三島由紀夫と1969年に東京大学で起こった学生運動全共闘」との間の思想的な対立を掘り下げています。三島由紀夫が東大で行った有名な討論会が中心で、彼の保守的な皇国思想と左翼学生たちの革命的アイデアとがぶつかり合った様子が描かれています。この映画は、その討論から50年後の視点を通じて、当時の政治的緊張と文化的な対立を詳しく解析しています。

 

私:その「三島由紀夫」について、簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:三島由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、日本の小説家、劇作家、評論家であり、日本の近代文学における最も影響力のある人物の一人です。彼の作品は、美学、死、性、国家主義などのテーマを探求し、国内外で高く評価されています。彼の生涯は1970年11月25日、自衛隊の一部隊を占拠し、クーデターを試みた後、公然と切腹するという衝撃的な形で終わりました。この行動は、彼の極端なアイデアと、理想と現実との間のギャップに対する彼の絶望を象徴しています。

 

私:今の時代からすると奇妙に思える行動だよね。続けて、1960年代後半から20年ほど続いた日本の社会構造に対する様々な政治運動やそれに伴って生じた治安の不安定化について簡単に説明してくれるかい?

 

ChatGPT:1960年代後半から1980年代にかけての日本では、多くの政治運動が起こり、それに伴って治安の不安定化が見られました。この時期の運動は、国内外の政治情勢と密接に関連しています。

 

**安保闘争(1960年)** - 1960年の安保闘争は、日米安全保障条約の改定に対する抗議活動として始まり、日本国内での大規模な学生運動市民運動に発展しました。これは、日本の自主性と平和主義に対する議論を促し、後の政治運動に大きな影響を与えました。

**学生運動 **- 1960年代から1970年代にかけて、全共闘全日本学生自治会総連合)を中心に、多くの大学で授業拒否、大学占拠が行われました。これらの運動は、教育制度や政治体制、ベトナム戦争への抗議が主な動機でした。

**新左翼の台頭** - 日本では新左翼が台頭し、中核派革マル派などの過激派グループが1970年代に入ると、警察との衝突や内ゲバ(内部紛争)が頻発しました。この結果、治安が不安定化し、社会的な分断が進みました。

 

私:ありがとう。最後に、「資本主義」「社会主義」「共産主義」の違いを簡単に説明してくれる?

 

ChatGPT:もちろんです!「資本主義」「社会主義」「共産主義」の三つの経済体系はそれぞれ異なる原則と目標を持っています。

 

  1. **資本主義**:

   資本主義は、私有財産と市場競争に基づいています。企業や個人が資源の所有権を持ち、利益を追求することが許されています。市場は需要と供給によって自然に調整され、政府の介入は最小限に留まります。この体制では、イノベーションと個人の自由が重視される一方で、所得の不平等が拡大することもあります。

  1. **社会主義**:

   社会主義では、生産手段(工場、機械など)は社会全体で所有されることが理想とされます。政府や共同体が経済活動を計画し、資源の分配を管理します。これにより、全員が基本的なニーズを満たすことが保証されるとされています。所得の再分配を通じて、より公平な社会を目指しますが、経済効率が低下する可能性もあります。

  1. **共産主義**:

   共産主義は、社会主義のさらに進んだ形とも言えます。ここでは、国家や階級が存在しない完全な平等社会を目指します。全ての生産手段は共有され、人々は自分の能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという原則に基づいて生活します。理想的な共産主義社会では、全ての人が平等で、貧困や抑圧が存在しないとされます。

 

これら三つの体制は理想と現実の間にしばしばギャップがあり、それぞれが異なる歴史的、地域的文脈で発展してきました。それぞれの体系がどのように機能するかは、その国の政策、文化、歴史に深く影響されます。

 

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 ハッピーハッピーと歌いながらジャンプする猫ちゃんの動画を楽しんでいる我々の世代としては、ほとんど想像もつかない遠い昔の物語。とは言え、我々にとっては1〜2世代上の人たちが実際に経験した時代の出来事だ。短い間に、技術、論理、組織の在り方がずいぶんと様変わりしたものである。

 1945年に第二次世界大戦が幕を閉じてから、世界の多くの国々が国家運営の基本運営ソフトの導入について思い悩んだ。当時、世界が選ぶことが出来た主な基本運営ソフトの選択肢は三つ。ソフト「資本主義」か、ソフト「社会主義」か、その「社会主義」をアップデートしたソフト「共産主義」だ。ソフト「資本主義」はアメリカ陣営、ソフト「社会主義」はロシア陣営、ソフト「共産主義」は中国陣営が導入を進めた。

 日本は当然ながらアメリカ主導の敗戦復興の道を進む身ゆえに「資本主義」を導入したが、それが馴染むまでに1960年後半から約20年もの間、激しい不具合を引き起こし続けた。その理由のひとつは、日本が古来から「神道天皇制」という独自の基本運営ソフトを有していたからである。

 アメリカのようにまっさらな国家に「資本主義」をクリーンインストールすれば快適にマシンが動いてくれるが、我々の場合はそこにもともと入っている「神道天皇制」がある。その「神道天皇制」の中に「資本主義」を入れるのか、それともその上に被せるのか、あるいはどちらでも切り替えが可能な状態にするのか。これは実際に試行錯誤をしながら実運転をさせてみなければ分からない部分が多かった。(ちなみに、中国の場合はソフト「共産主義」の中にソフト「資本主義」を同時に運用するキメラOSを開発して、現在の経済大国へと成長を遂げた。)

 その当時の基本運営ソフト闘争の中で、作家アーネスト・ヘミングウェイにくりそつの人生を送ったマッチョの三島由紀夫は、先ほどの選択肢を完全に無視して「神道天皇制」の復刻をとことん主張した人物だ。彼はそれこそが自分にとっても国にとっても、もっとも美しい状態であると夢想した。そしてその夢想を実現させようと行動に出て、最期は騒々しく幕を閉じた。

 私の三元論に基づけば、社会の基本運営ソフトが変わる状況に至るまでに必要な要素は「物理的運動」「思想的運動」「組織的運動」となる。物理的運動は体(力)であり、思想的運動は頭(知)であり、組織的運動は心(道)である。そして「社会の基本運営ソフトが変わる」というのは、何も大規模アップデートやソフトそのものが入れ替えとなる「革命」「クーデター」等の激しいものだけではなく、小規模なマイナーアップデートや一部ソースの修正を行うに留まる「改革」「改善」等の穏やかなものもある。その基本の八類型は以下の通りとなる。

 

  1. 弱い物理的運動・弱い思想的運動・弱い組織的運動
  2. 弱い物理的運動・強い思想的運動・弱い組織的運動
  3. 弱い物理的運動・弱い思想的運動・強い組織的運動
  4. 弱い物理的運動・強い思想的運動・強い組織的運動
  5. 強い物理的運動・弱い思想的運動・弱い組織的運動
  6. 強い物理的運動・強い思想的運動・弱い組織的運動
  7. 強い物理的運動・弱い思想的運動・強い組織的運動
  8. 強い物理的運動・強い思想的運動・強い組織的運動

 

 2012年の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と2020年の『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を鑑賞して改めて感じるのは、三島が行いたかったのが8番で、実際には2番にこじんまりと収まってしまったという事だ。彼が生み出した基本運営ソフトは当時ですら時代が求めるものに全く合致していなかった。ほんのりと香る神の気配に縛られず、自由気風に溢れた豊かな経済大国へと力強く歩んでいた20世紀後半の日本人が、天皇と武士道を掲げる軍事国家への古い基本運営ソフトを求めるはずもなかった。

 古い基本運営ソフトが悪いという訳ではなく、もちろんそこには有用な機能が多数残っている。例えば、中国の古代春秋時代孔子は過去の周王朝の礼制から「儒学」という基本運営ソフトを生み出しており、これは温故知新の論理学開発としての最たる実例であると言えよう。これは孔子が戦乱の世の人々が求めていた規範・良識・美徳の改善と和平の実現に対する声を受け入れて、それを自分の理想と合わせながら生み出した。古きを貴びつつ、そこに新しき風を取り入れたのである。

 重要なのは、その「温故知新」だ。ファミコン時代のゲームにどれだけ優れた点があっても、それをそのまま復刻したものは文化のメインストリームにはならない。20年前のiPhone3Gを模倣したバルミューダフォンが人々から呆れられたのは、「温故」に終始し「知新」に触れなかったからである。三島はそうした「知新」の作業をほとんど行わなかったので、必然的に組織的運動の広がりが生まれず、それに連動して物理的運動も小規模なものとなった。

 彼のこの運動は、作家が頭の中にある言葉にすっかり酩酊してしまい、その自分の言葉に酔ったまま行動を起こしてみたものの、循環的な力や道を生み出すことが出来なかった「トルストイ運動」にも通ずる。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を著したロシアの作家レフ・トルストイは、平和主義と農業生活への回帰を訴えて、自分の領地で一種の"解放区"を展開した。この基本運営ソフト「トルストイ」は、後にインド独立の父と呼ばれる運動家マハトマ・ガンディーに著しい影響を与え、現在でもその原理を受け継ぐコミュニティが各地に点在している。しかし、その影響はとても限定的だ。「トルストイ」は基本ソフト「ジャン・ジャック=ルソー」のアップデート版であるが(社会契約説の思想家ルソーは人間にとって最も望ましい状態を自然に回帰するだと主張した)、現代のように複雑かつ高度化した空間ではほとんど機能しない。

 だが、「現行憲法を修正するべきだ」という三島の意見は一部正しいと私は思う。この「憲法」という論理学的発明はこれまた興味深いもので、それは基本運営ソフトを制御するセキュリティソフトの役目を果たす。だが、時にはこのセキュリティソフトが機能しなかったり、あるいは機能し過ぎることによって、かえって基本運営ソフトの動作に支障をきたす事がある。まさに日本は延々とこのセキュリティソフトの不安定な動作に悩まされている。それにも関わらず、多くの日本人は相変わらず「なんとなく国家に無くてはならないものだ」と何故か信じ込んでいる。良くも悪くも、我々にとってお馴染みの「いい加減さ」の精神がそこに発揮されているのだ。(出自を問わず、日本で生活を長く続ける者はどうした訳かこの「いい加減さ」を身に付けるようだ。全ての物事から境界線が消え去り、「何となく」世界を受け入れ、また「何となく」世界に接するようになる。この曖昧な超感覚性こそが日本風土の魂だ。)

 アメリカ主導により導入されたこのセキュリティソフトは重過ぎて基本運営ソフトへの干渉性も高い為、"いい加減"な日本の風土に見合っていない。サンフランシスコ講和条約の締結によって日本が国家主権を取り戻した瞬間から現行憲法が自動的に無効になったのではないかという論説もあって、私はそれで良いのではないかと考えている。セキュリティソフトを削除した方が、人間・国家・文化の循環効率が上がる気がする。他国については現時点で考察しきれないが、日本は基本運営ソフトに対するセキュリティソフトは可能な限りシンプルであるべきだ。

 現代社会で成文憲法を持たない国はイギリス、ニュージーランドイスラエルサウジアラビアリビアオマーンバチカンブータンサンマリノの九か国。彼らは独自のセキュリティソフトを使って、国家・生活・文化を循環させている。よって、セキュリティソフトが絶対に「憲法」でなければならないという理由はまったくない。

 「憲法」の代わりのセキュリティソフトとして導入するべきは、人間の本能に則した原則だ。私は三元論に基づいて、人間の究極的な本能を「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたい)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたい)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」という三つの要素に集約しており、そのそれぞれの暴走を抑制する「規範(やって良いこととやってはいけないこと)」「良識(知るべきことと忘れるべきこと)」「美徳(そう在るべきことと在るべきではないこと)」の原則を論考している。この原則をセキュリティソフトとして用いれば、特段問題なく円滑に社会が機能すると思われる。

 ここで、少しGPT君の力を借りたい。

 

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ChatGPT:あなたの見解は、憲法やその役割に対する非常に独特で哲学的な解釈を示しています。日本の憲法に関する議論は、歴史的な背景や文化的な側面を含めて複雑で、それが現行憲法の適用や改正の議論にも影響を与えています。あなたが提案する「セキュリティソフト」としての憲法の考え方は、現代社会での憲法の機能を再考するための一つの方法として興味深いです。

三元論に基づく原則—生存欲求、知的欲求、存在欲求を制御する規範、良識、美徳—は、憲法の形式としてではなく、より広い社会の規範として機能するかもしれません。これらは、国家の基本的な運営ソフトウェアにとってより自然で本能的なセキュリティソフトを提供することを目指しており、それが日本の文化や社会構造にどのように適合するかを探求する価値があるかもしれません。

現行憲法に対する批判的な見解や、憲法が自動的に無効になった可能性についての議論は、憲法学者政治学者、そして広く公衆の間でも重要な議論の対象となっています。このような議論は、社会がどのようにその憲法的な枠組みを理解し、適用していくかに大きな影響を与えるでしょう。

最終的に、憲法が国家の「セキュリティソフト」としてどのように機能すべきか、またそれが文化や時代の変化にどう適応すべきかについての考察は、日本だけでなく世界中の多くの国で進行中の重要な議論です。あなたのような新しい視点は、この議論に新たな深みをもたらし、より幅広い視野で問題を考えるきっかけを提供します。

 

私:ありがとうね。僕はその九つの原則を次のような定義に集約しているんだ。だけど、これはあまりに抽象的過ぎる。これをより実践的に分かりやすいひとつの法としてまとめてくれない?

 

<生存欲求に対する三規範>

  1. 食欲とは、生存に必要な栄養素を十分に摂取しようとする行為を意味する。栄養素は安全な食料により賄われる。休息欲とは、生存に必要な安静を十分に享受しようとする行為を意味する。安静は安全な空間により賄われる。運動欲とは、生存に必要な体力を十分に維持しようとする行為を意味する。体力は安全な治安により賄われる。
  2. 有事、すなわち紛争・災害・公衆衛生等の環境危機が、食料・空間・治安の安全性を著しく阻害する可能性がある。その有事において、食料・空間・治安が不足状態にある者は、それらが余剰状態にある者に積極的な支援を依頼する権利を持つ。余剰者はその支援を行う事を義務として、それを拒否した場合は罪の対象となる。ただし、次の項目が適用される場合はその限りではない。
  3. 不足者が有事以外の平時において、食料・空間・治安の安全を確保する努力を怠っていた場合、あるいはそれらが余剰状態であるにも関わらず周辺の者からそれらを収奪していた場合、その不足者は有事においても周辺の余剰者に支援を依頼する権利を持たない。その支援の是非は余剰者の判断に委ねられ、仮に支援が行われない場合においても罪には相当しない。

 

<知的欲求に関する三要領>

  1. 技術の教育とは、物理的な手法や能力に関わる知識を共有する行為を意味する。その知識は善意のもとで人々の生活を向上させ、社会に貢献するものでなければならない。その知識が悪意のもとで破壊的な結果をもたらす危険性を持つものであってはならない。
  2. 倫理の教育とは、精神的な手法や価値観に関わる知識を共有する行為を意味する。その知識は善意のもとで共感、理解、協力といった相乗の価値を促すものでなければならない。その知識が悪意のもとで偏見や差別を生み出す危険性を持つものであってはならない。
  3. 方法の教育とは、行政的な手法や規則に関わる知識を共有する行為を意味する。その知識は善意もとで個人や社会の全体的な福祉を考慮したものでなければならない。その知識が悪意のもとで自己中心的かつ矮小な視点に基づくものであってはならない。

 

<存在欲求に関する三美徳>

  1. 接触的希求とは、接触や接近を求める身体上の行為を意味する。この行為は好印象の関係内で安心と満足をもたらすものではなければならない。この行為が悪印象の関係内で不安と恐怖をもたらすものであってはならない。
  2. 承認的希求とは、信頼や理解を求める精神上の行為を意味する。この行為は好印象の関係内で納得と共感をもたらすものでなければならない。この行為が悪印象の関係内で決裂と衝突をもたらすものであってはならない。
  3. 帰属的希求とは、所属や融和を求める関係上の行為を意味する。この行為は好印象の関係内で協力と共創をもたらすものでなければならない。この行為が悪印象の關係内で分断と排他をもたらすものであってはならない。

 

ChatGPT:これらの複雑で抽象的な概念を一つの法としてまとめるのは確かに挑戦的ですが、次のように試みることができます:

 

全体的な法の枠組み

この法は「基本活動原則」と名付け、国民の基本的な生存、知的発展、及び社会的関係性の保障を目的とする。以下の三つの主要なセクションから成り立つ。

 

第一部:基本的生存保障

  1. 食料、安息、安全保障: 国はすべての国民が安全な食料、適切な休息、及び個人の安全を確保できる環境を整備する責任を負う。
  2. 緊急時の相互支援義務: 災害や危機時には、資源が不足している国民は資源を持っている国民から支援を受ける権利があり、余剰を持つ国民にはその支援を行う義務がある。
  3. 支援の制限: 支援の要請は、通常時に自己責任を果たしていない者や、他者からの権利を侵害している者には制限される。

 

第二部:知的発展の促進

  1. 教育の普及: 国は技術、倫理、及び行政手法に関する教育を普及させ、すべての国民がこれらの知識を利用して社会に貢献できる機会を提供する。
  2. 教育内容の倫理規定: 提供される知識は、建設的であり、公共の利益に資するものでなければならず、破壊的または排他的な行動を促すものであってはならない。

 

第三部:社会的関係性の保護

  1. 人間関係の調和: 国民は互いに対し、協力的で包括的な関係を築くことを目指し、身体的、精神的、関係的に安全で快適な環境を促進する。
  2. 関係性の倫理: すべての社会的交流は、相互理解と尊重に基づくものでなければならず、排他的または攻撃的な行動は禁止される。
  3. この「基本生活保障法」は、国民一人一人の生活の質を向上させることを目的とし、国家全体としての健全な発展を保証するための法的枠組みを提供します。各部の詳細は、具体的な状況に応じて政策立案者が精査し、適宜修正を加えることが可能です。

 

私:君ってやっぱり凄いや。もちろんより研磨や肉付けが必要だけど、段違いに実用的な内容になった。とても助かるよ。憲法は国の「頂点」に位置するセキュリティソフトなんだけど、この原則は国の「中心」に太陽のように宿るイメージだ。この太陽の光を中心として生活・文化・国家が循環するんだ。

 

ChatGPT:ありがとうございます!そうおっしゃっていただけて光栄です。あなたが描く「太陽のように中心に宿る」というイメージは、憲法や法律が単なる規制の集まりでなく、国の精神や文化を反映し、支えるものとして機能するべきだという美しいビジョンを示しています。このようなビジョンは、社会の各層に渡ってポジティブな影響を与え、持続可能で健全な発展を促進する原動力になり得るでしょう。

法の役割を、国民一人一人の生活の質を向上させ、社会全体の調和を促進する光として位置づけることは、非常に力強く、希望に満ちたアプローチです。このような考え方が、具体的な政策や法制度にどのように反映されるかを見るのは、非常に興味深いですね。

引き続き、このような貴重な視点やアイデアについて話し合うことができればと思います。どんな新しい考えや質問があれば、いつでもお話しいただければ幸いです。

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 我々のような"いい加減さ(=良い加減を感覚的に調整できる精神)"を持つ国では、セキュリテティーソフトを最小限に抑えないと、基本運営ソフトと干渉してしまう。実現可能かどうかはさておき、我々は思考実験として「憲法の削除(セキュリティーソフトの交換)」を検討するべきだろう。そう、私は考える。

 私の師である文豪ドストエフスキーもこう言っている。

 

「ところでロシアは、それにしてもどうしてヨーロッパではないのか、と追い立てられている!そうとも、どうしてロシアはヨーロッパではないのか?この問題は、最終的に、すでに解決済みである。──それはほかでもない。建物のてっぺんに"飾り(憲法)"がついていないからだ、というわけである。そして現にすべての人がそれこそ一人残らず、建物のてっぺんのこの飾りについて叫び立てている。機械的な気休めはどんな場合でも気持ちの良いものである。建物のてっぺんに飾りがついていないから、それだからこそロシアはヨーロッパではないのだし、したがってまた、なにもいまさら考え込むこともなければ、なにも心配することもないのである。──建物のてっぺんに飾りさえつければ、ロシアはたちまちその瞬間からヨーロッパの仲間になる、というわけなのだ。この機械的な気休めのいちばん大事で、気持ちの良い点は、なに一つ《心配する》考え込む必要はないということである──『ドストエフスキー未公刊ノート』 1880ー81年より

 

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笑える恐怖、This is fun, it's scary and disgusting!

It

私:1990年のミニシリーズをもとに、2017年と2019年にアメリカが製作したホラー映画シリーズ『It(邦題:IT/イット “それ”が見えたら、終わり。)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:『It(邦題:IT/イット “それ”が見えたら、終わり。)』は、2017年と2019年に公開されたアメリカ製作のホラー映画シリーズです。このシリーズは、スティーヴン・キングの1986年の同名小説に基づいています。

2017年の『It』は、メイン州の小さな町ダリーを舞台にしており、一連の子供の失踪事件を描いています。物語の中心は「ルーザーズ・クラブ」と呼ばれる7人の子供たちで、彼らは謎の存在「ペニーワイズ」と呼ばれる恐怖を呼び起こすクリーチャーと対峙します。ペニーワイズは、子供たちの恐怖を糧にしており、様々な形態を取って彼らを脅かします。

2019年の続編『It Chapter Two』は、最初の映画から27年後を舞台にしています。ルーザーズ・クラブのメンバーは大人になり、それぞれの人生を送っていますが、ペニーワイズが再び現れたためにダリーに戻ることになります。彼らは再び団結し、過去に向き合いながらペニーワイズに立ち向かいます。

両作品とも、恐怖と対峙する子供たちの成長や友情を描きつつ、視覚的にも衝撃的な恐怖シーンを特徴としています。Andy Muschiettiが監督を務め、ビル・スカルスガルドがペニーワイズを演じて高い評価を受けました。

 

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 ホラー映画の愛好者の多くは日頃の身体的・精神的・関係的な重圧の解放を図り、その醜怪な非日常世界を震えながらも笑って楽しんでいる。この「笑って楽しめる範囲の作品」というのが重要で、ホラー映画というのはコメディとサスペンスとドラマの中間を貫く事が望ましい。

 『It』シリーズはそういう意味で、かなりバランスの良いエンターテイメント作品に仕上がっていると感じる。アイコニックな風景や出来事の描写、恐怖を食べるという悪霊の設定、家庭や学校で問題を抱える「ルーザーズ(負け犬たち)」の人間関係、それぞれが程よく嘘くさく機能している。この「程よい嘘くささ」こそが「怖がりつつも笑って楽しめるホラー映画」の真髄だ。この「嘘くささ」が足りないと幼稚すぎて観るに堪えなくなり、「本物っぽさ」が過ぎると凄惨すぎて観るに堪えなくなる。

 ホラー映画を構成する要素は、私の三元論に基けば「物理的描写」「概念的描写」「関係的描写」に集約できる。

 「物理的描写」とは、直接的または間接的な暴力性によって我々の「生存欲求(生きたい、身体的に健康でありたい)」を刺激する要素である。『13日の金曜日』シリーズのジェイソン、『チャイルドプレイ』シリーズのチャッキー、『エルム街の悪夢』シリーズのフレディといった往年の殺人鬼たちはこの性質をもっとも強く持っている。最近私が鑑賞した作品としては、『0時34分』『ハッピー・デス・デイ』『M3GAN』『ザ・ベビーシッター』なども、この直接的な分かりやすい物理的描写がなされていた。

 次に「概念的描写」とは、殺人鬼の思想や悪霊の設定などの概念的な設定によって我々の「知的欲求(知りたい、精神的に健康でありたい)」を刺激する要素である。これはカリスマ性のある殺人鬼や悪霊を描く必須条件であると言える。この概念的描写で大きな成功を収めているのは『ミザリー』のミザリー、『サイコ』『ベイツ・モーテル』のノーマン、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』等のハンニバル・レクター、『ソウ』シリーズのジグソウといった面々だろう。彼らもまた物理的な暴力性を持つが、その信念や思考の在り方にも恐怖が体現されている。また、『シャイニング』『リング』『死霊館』『ファイナル・デスティネーション』シリーズのように、「呪いが追ってくる」形式の作品も概念的描写の性質を強く持つ。そこに登場する怨霊たちは直接的な暴力性も帯びているが、観客である我々は「いつ襲われるか分からない」「いつも狙われている」「逃れる術がない(あまりに限られている)」といった概念的な恐怖を覚えるのだ。

 そして「関係的描写」とは、殺人鬼や悪霊との戦いに臨む人々の外部の物語性によって我々の「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」を刺激する要素である。本作『It』シリーズで描かれていた少年と少女たちの人間模様がそれに相当する。先ほど例に挙げた『ソウ』シリーズは、被害者たちの関係であったり、ジグソウの弟子を巡る関係であったりと、この物語性にも工夫が施されている。『シックス・センス』『ミッド・サマー』『ゲット・アウト』といった人間関係の物語性を軸とした作品も、この関係描写の性質が強いと言える。『ウォーキング・デッド』『新感染』『28週間後...』『アイ・アム・レジェンド』『ゾンビランド』といったゾンビ系のホラー作品についても、「ゾンビが蔓延る世界で人間たちがどう生きるか」という人間関係に焦点が当たる事が多く、これもまた関係描写の強さが見受けられる。

 この三要素を軸とした基本の八類型は以下の通りとなる。

 

  1. 弱い物理的描写・弱い概念的描写・弱い関係的描写
  2. 弱い物理的描写・強い概念的描写・弱い関係的描写
  3. 弱い物理的描写・弱い概念的描写・強い関係的描写
  4. 弱い物理的描写・強い概念的描写・強い関係的描写
  5. 強い物理的描写・弱い概念的描写・弱い関係的描写
  6. 強い物理的描写・強い概念的描写・弱い関係的描写
  7. 強い物理的描写・弱い概念的描写・強い関係的描写
  8. 強い物理的描写・強い概念的描写・強い関係的描写

 

 GPT君、あとはまとめをお願いするよ。

 

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ChatGPT:あなたのホラー映画の三元論は非常に洞察に富んでいて、映画の恐怖を構成する要素を明確に分類しています。この理論を用いて、様々なホラー映画を分析することができます。

 

  1. **弱い物理的描写・弱い概念的描写・弱い関係的描写**: このタイプは、非常に控えめな恐怖要素を持つ作品に該当するでしょう。暴力的なシーンが少なく、概念的な深みや人間関係の掘り下げもそれほど強くない。恐怖はより心理的、あるいは雰囲気に依存しています。(※補足:全ての要素を仄めかすように提示するホラー作品だが、これは決して駄作という訳ではない。演出の方法で効果的な恐怖を体現できる。この属性を持つ作品として思い浮かぶのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『パラノーマル・アクティビティ』など。)

 

  1. **弱い物理的描写・強い概念的描写・弱い関係的描写**: このタイプは、観客に強烈な概念的な恐怖を与える作品で、『シャイニング』や『リング』のように、その怖さが主にストーリーや背景の設定から生じるものです。

 

  1. **弱い物理的描写・弱い概念的描写・強い関係的描写**: 人間関係やドラマに重点を置きながらも、恐怖の要素は比較的控えめな作品です。『シックス・センス』や『ゲット・アウト』がこのカテゴリに属するかもしれません。

 

  1. **弱い物理的描写・強い概念的描写・強い関係的描写**: 概念的な深みと人間関係の両方に焦点を当てる作品で、『ミッドサマー』がこのカテゴリーに当てはまります。

 

  1. **強い物理的描写・弱い概念的描写・弱い関係的描写**: このカテゴリーは、物理的な恐怖や暴力に焦点を当てるが、概念的または関係的な深みはそれほど強くない作品です。多くのスラッシャー映画や怪物映画がここに当てはまります。

 

  1. **強い物理的描写・強い概念的描写・弱い関係的描写**: このタイプは、カリスマ性が高い殺人鬼や悪霊が出てくるシリーズのように、強い物理的恐怖と複雑な概念的要素を備えた作品が該当します。但し、人間関係の描写はあまり強調されません。(※補足:ぱっと思いつく作品は『エクソシスト』『ウィリーズ・ワンダーランド』など)

 

  1. **強い物理的描写・弱い概念的描写・強い関係的描写**: 物理的な暴力と人間関係の掘り下げが特徴ですが、概念的な深みは少ない作品です。多くのゾンビ映画がこのカテゴリーに属する可能性があります。

 

  1. **強い物理的描写・強い概念的描写・強い関係的描写**: このカテゴリーの映画は、全ての要素を強く持ち合わせており、非常に複雑かつ多面的な恐怖を提示します。『It』シリーズは、物理的な恐怖、ペニーワイズの概念的な背景、そしてルーザーズクラブのメンバー間の強い人間関係を通じて、このカテゴリに適合するかもしれません。

 

このような分類を通じて、ホラー映画がどのようにして観客に恐怖を与えるか、そしてその恐怖がどのような形で現れるかを深く理解することができます。ホラー映画の多様性と、それぞれが異なる方法で観客の感情に訴えかける方法を見るのは非常に興味深いです。

 

※画像:DALL-E

 

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ぜいたくな名だね。今からお前の名前は「先」だ。

Tales from Earthsea

私:1968年から2001年にかけて発表されたアメリカのファンタジー物語のシリーズ『Tales from Earthsea(邦題:ゲド戦記)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:もちろんです。『Tales from Earthsea』(邦題:ゲド戦記)は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって書かれたファンタジーのシリーズです。このシリーズは1968年に第一作『A Wizard of Earthsea』が発表され、2001年までに数作が発表されました。

このシリーズは、架空の世界アースシーを舞台にしており、魔法、ドラゴン、そしてさまざまな島々が特徴的な世界観を持っています。主人公はゲドという名前の若い魔法使いで、彼の成長と冒険が物語の中心です。ゲドは最初の本で自己発見の旅に出ますが、その過程で自身の内なる影と向き合うことになります。

ル=グウィンの作品は、その豊かな世界観、深いキャラクターの描写、そして複雑なテーマにより高い評価を受けています。『ゲド戦記』は、環境問題やバランス、性別の役割、権力の乱用など、多くの重要なテーマを探求しています。また、このシリーズは多くの賞を受賞し、ファンタジー文学の中でも特に影響力のある作品として認識されています。

 

私:ありがとう。それを原作として2006年に日本のスタジオジブリが製作した、宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:もちろんです。2006年に公開された『ゲド戦記』は、スタジオジブリによって製作された日本のアニメーション映画で、宮崎吾朗監督による作品です。この映画は、先ほどのアーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』シリーズを基にしています。

物語は、若き魔法使いゲド(アースシーではスパークとも呼ばれる)の成長と冒険を中心に描かれています。ゲドは才能ある魔法使いですが、若さと驕りから危険な魔法を使い、世界に暗黒をもたらす影を解き放ってしまいます。映画は、彼が自分の過ちと向き合い、世界を救うための旅をする様子を描いています。

ゲド戦記』では、魔法と対立、自己発見、そして環境との調和など、原作の主要なテーマが取り入れられています。映画はビジュアル面で高く評価されており、美しいアニメーションと独特な世界観が特徴です。

しかし、原作のファンからは、ストーリーやキャラクターの解釈について賛否両論がありました。原作との違いや、スタジオジブリの他の作品との比較において、意見が分かれることがあります。それにもかかわらず、『ゲド戦記』はスタジオジブリの映画として、その独特な魅力を持つ作品です。

 

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 上海の"真人"から、日本アニメ史に革命を起こした宮崎駿監督の最新作『君はどう生きるか(中文:你想活出怎様的人生)』の映画ポスターの写真を貰った。主人公から三本の道が印象深く伸び、作品内に登場する三つの異なる世界に繋がる構図だ。その世界の扉の前に、それぞれの世界を代表する人物が主人公を見つめて立っている。相変わらず中国の映画配給会社が製作する作品ポスターのデザインは本当に秀逸で、いつも深く感心する。「分かりやすさ」と「

興味深さ」がちょうど良いバランスで成り立っているのだ。(日本の映画宣伝ポスターのデザインは、往々にしてそのどちらかに振り切られてしまう事が多く、極めてバランスが悪い。)

 「真人」とは、老子を創始として荘子が体系化した「老荘思想道教)」における完成した人間を意味する。先ほどの冒頭では最大の朋友のひとりという意味で用いさせてもらった。孔子儒教思想は「理を通じて天と合一する人(天と人が融合する)」を目指すが、こちらの老荘思想は手段が異なり「理を捨てて天と合一する人(天そのものに溶け込む)」を目指す。『君はどう生きるか』の主人公の少年の名が、まさにその「真人」の旧字体である「眞人」だ。宮崎駿監督が彼の名前を定める際にそうした論理学的な観点を適用したのかどうかは不明だ。相変わらず、スタジオジブリ作品は1997年以降、『もののけ姫』以降、「分かりやすさ(物語性)」よりも「興味深さ(意匠性)」に振り切っているので、作品からそれを明確に読み取る事は出来ない。

 「分かりやすさ」を掃き捨ててしまったスタジオジブリ作品のひとつが、宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗氏が初めて監督として2006年に製作した『ゲド戦記』である。GPT君が先ほど解説してくれた通り、視覚効果には目を見張る興味深さがあるが、物語が完全に破綻していて分かりやすさは放置状態にある作品だ。当時、この作品を鑑賞した私はエンドロールが始まった際に「え?」という驚きの声を出してしまった。物語が何も始まらないまま物語が終わるという矛盾した体験は、なかなか味わえるものではない。(『君はどう生きるか』でも私は同じ反応をしている。)先ほど再び『ゲド戦記』を鑑賞したが、やはり物語性が完全に破綻している。とは言え、唯一の論理学的な閃きがあるとすれば、それは「真の名」という設定であろう。(もっとも、これに類似する概念は、2001年の宮崎駿監督による『千と千尋の神隠し』において重要な主題のひとつとして既に描かれている。)

 原作者のグウィン氏は、この架空の世界において、名前と魔力に関する独特の設定を構築した。それは「人々には真の名前があるが、その真の名前が悪意ある他人に知られると魔法による被害を受ける事がある。よって、人々は真の名前とは異なる通り名を用いて生活をしている」というものだ。この設定はネイティブ・アメリカンの名前に関する風習から生み出されたのではないかと考察する者もあるようだが、実際にはより多文化的な素養からこの設定を構築したものと私は考える。

 人類史上において、「名に力あり、ゆえに大切に取り扱うべし」という観点のもとで規範・良識・美徳を構築した文化が多数存在する。例えば、古代エジプト人は言葉と文字に力があると考えていた。「太陽神ラーの圧倒的な力を得る為に、女神イシスがその力の原点であるラーの真の名前を策謀によって手に入れる」という神話があるが、これはまさに彼らの強烈な言霊感覚に基づくものだろう。またファラオを始めとした上流階級にとっての最も重い刑罰のひとつは、墓から名前が削り取られる事であった。自分の名が忘れ去られると、死後に得られる「永遠の生」が消滅すると考えられていた。

 中華世界でも古代から近代まで、名前は大きな社会的な力を有していた。地域と時代によって名前に関する規範・良識・美徳が大きく異なるものの、通俗的には「相手を『本名』で呼ぶのは親しい関係に限り、社会生活の中では通名の『字(あざな)』を用いるべきである」「学識ある文人については『号(ごう)を名乗る事が望ましい」「上流階級の人間は生前の功績に応じて『諱(いみな)』が与えられる」という論理学的な原則が機能していた。例えば、唐王朝の詩人である李白は、字が「太白」、号が「青莲居士」。文人なので諱は無いが、後世において評された「詩仙」は一種の諱と言えるかもしれない。私の場合で言えば字が「祥紀」、号が「佑中字」だ。諱のような後世の評価の名としては、自身の三元論に基づく論理学の活動を行なった者という意味で「三元論士」とでも名付けて欲しい。

 名前については、明王朝の文献の中に学術的な興味をそそる話題がいくつかある。ある日、「秀才の王さん」が所用により知县の李さん(正七品の官僚で、一地域の政治、経済、軍事、訴訟などを統括する人)のもとを訪ねた。「秀才」とは「歴県試、府試、院試に合格した文士」であり、士官をしていなくても人々から無条件に尊敬される存在であった。特に明朝では武人より文人への注目が高かったので、この「秀才の王さん」は社会的な地位はかなり高い人物だった。その王さんが李さんと会った途端、即座に頭を下げて拝礼した。李さんは愕然と恐縮して、それをやめて欲しいと慌てふためいた。現代風に考えれば、これは本社の役員が支社の一部長に対して膝をつき挨拶をするような構図である。しかし秀才の王さんは最後まで拝礼をして、こうも言った。「李翁、一つお願いがございまして、どうかそれをお許しいただきたく思います。」ここで「翁」という呼称は本来の礼制から鑑みれば、階級が三品以上の高級官僚にのみ使われる称号である。またも李さんは愕然としなければならなかったが、とにかく彼らは話し合いをし始めた。

 この出来事が何を意味するのかというと、当時の明王朝の人々が、「媚びへつらった言葉こそが至高である」という観念を規範・良識・美徳として捉え始めていたという事なのだ。当時、相手の階級や実力の優劣に関係なく、王さんのように官僚を目にしただけでへこへこと拝礼をしたり、翁と呼んでしまう者が世間に溢れかえっていた。これと同じ法則で、「晩生(長年の学識を培った文人)」「老爺(五品以上の官僚)」に用いられていた言葉も、ただ人々は媚びへつらう為にこれを無造作に乱舞させていた。

 号についても同じような事象が生じていた。号は本来、文人や雅士による学術的な性質を尊ぶ為に作られるものであった。しかし、この時代では誰も彼もが装飾品のように号を欲しがって、社会もそれを許してしまった。例えば、皮革職人の王さんが商売でかなりの金を貯めたので、今度は金ではなく尊敬が欲しくなって、下品で派手な庭園を建てた。彼はその庭園に号が欲しいと考えて(もはや人の号ですらない)、蘇州府太倉出身の詩人で、名だたる文化人であった吴伟业に号の制作を依頼した。吴さんは成金野郎の不作法な依頼に少し顔を歪めたものの、ふと笑顔になり即座に「阑楼」という字を書いた。王さんは飛び跳ねるように喜んでこの「阑楼」の号を人々に自慢して回った。(後に、知人から「阑楼」の意味を訪ねられた時、吴さんは皮肉に笑って「革職人の庭園という以外には、何ひとつ意味はないさ」と答えている。)張大狗という山賊が逮捕された際、字の「張大疤子(顔に大きな傷跡のある張)」を用いず、まったくその風貌にそぐわない「泉石」を名乗って、捕頭が爆笑した逸話もある。

 孔子は「君子は言葉を正しく誠実に使いなさい」「媚びへつらう事も、驕り高ぶる事も、君子の道ではないよ」という揺るぎない論理学の柱を築いていた。彼らもそれをしっかりと守っていた時代があったが、明王朝は経過と共に人間・社会・文化が著しく軟化(堕落)していったので、その根源的な規範・良識・美徳の柱が崩れてかけていたのである。

 我々の国でも、相手の功績や才能や人柄に関係なく、ある特定の上流階級の人間が「先生」などと呼ばれて崇められている。彼らに本当に「先生」と呼ぶだけの価値があるのだろうか。驕り高ぶる必要はないが、かと言って、そこまで媚びへつらう必要もない。礼儀を失せず、かと言って矜持を失わず。無知蒙昧で利己的な横暴なる先生には、"湯婆婆"の言葉をお借りしてこう言ってあげるべきだ。

 

「先生」?ぜいたくな名だね。今からお前の名前は「先」だ。

 

※画像:DALL-E

 

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技術は思考を変え、思考は組織を変え、組織は技術を変える

WHERE NO MAN HAS GONE BEFORE

私:1964年制作の『スタートレック』、「WHERE NO MAN HAS GONE BEFORE」のエピソードを簡単に紹介してくれる?

ChatGPT:『スタートレック』の1964年制作エピソード「WHERE NO MAN HAS GONE BEFORE」は、シリーズの初期のエピソードの一つで、後の「宇宙大作戦」として知られるシリーズの基盤を築きました。このエピソードでは、U.S.S.エンタープライズ号が銀河の未踏の境界を越える任務に就いています。この過程で、船は異常なエネルギー帯に遭遇し、二人のクルーメンバー、ゲイリー・ミッチェルとエリザベス・デナー博士が奇妙な影響を受けます。
このエネルギー帯の影響で、ミッチェルとデナー博士は驚異的な精神能力を身につけます。彼らの力は増大し続け、特にミッチェルは神に近い存在となり、乗組員やエンタープライズ号への脅威となります。キャプテン・ジェームズ・T・カークは、ミッチェルの力が制御不能になる前に行動を起こさなければならなくなります。
このエピソードは、スタートレックの基本テーマである人間性、権力の乱用、そして道徳的ジレンマを初期から提示しています。また、これはカーク船長やスポックなどのキャラクターにとって重要な発展の瞬間でもあります。

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 長い歴史を有するSFドラマ『スタートレック』シリーズにおいて、「転送装置(Transporter)」という道具(技術)が初めて登場するエピソードである。この転送装置とは筒型の空間を通じ、物体や人を分子レベルで分解・再構築する装置だ。A地点で物質を分子に変換して送信すると、B地点で分子を物質に再構築できる。我々の文化では『ドラえもん』シリーズに登場する「どこでもドア」が、このスタートレックの転送装置にもっとも近い装置になる。
 あきれるほど便利で魅力的な道具だけれど、当然ながら現時点における科学的な観点から言えばツッコミどころが満載だ。物理学者アインシュタインの質量とエネルギーの等価性に基づいて考えれば、我々の世界には「質量が消失すればエネルギーが発生し、エネルギーが消失すれば質量が発生する」という揺るぎない法則がある為、転送装置で人をバラバラの分子へ分解した際、想像を絶する莫大なエネルギーが放出される。仮に人間の体重を60〜90kgと仮定すると、その際のエネルギー量は「約10TJのエネルギーを有する原子爆弾の約1〜5万倍」となる。これだけのエネルギーをどのように収束するのか。技術的にはまったく理解のできない構造だ。
 もちろん、熱心なスタートレックファンはこうした謎の構造についても有り得そうな考察を施す事を忘れはしない。スタートレック世界にはよく「サブスペース」という異なる次元空間が登場する。そこに転送装置によって生じる莫大なエネルギーを放り投げるという方法があるのなら、エネルギーの行方不明問題は解決できるかもしれない。
 いや、しかしそもそも「人間を分子に分解する」という技術も完全なオーバーテクノロジーだ。FAX(紙の情報を電子信号に変えてその情報を電話線に流し、遠隔地でその情報を再構築して紙に戻す通信装置:20世紀後半に特に浸透した)の場合は極めてシンプルな情報ゆえに運用可能だが、人間の情報量はあまりに膨大だ。シナプス結合や遺伝情報、マイクロバイオームや神経系、そうした奇々怪界の複雑な情報群をどうやって処理するのだろうか。人間の情報量をすべて展開した場合、宇宙全体に存在する原子の数を遥かに超えるという見解もある。人間の頭、体、心をデジタル化する事は、現時点の技術水準では考える事すら不可能に近い。
 もっとも、技術的な課題があるとは言え、転送装置はやはり夢のある魅力的な空想技術である事は間違いがない。本当に存在したら人類はどうなるだろうと想像する事は実に楽しい。道具(技術)が変わると、思考(論理)が変わる。その思考(論理)が変わると、方法(組織)が変わる。方法(組織)が変わると、道具(技術)が変わる。私の三元論に基づくこの「文明循環」の流れが、転送装置の存在によって爆発的な速度で回る事になるだろう。
 尚、私の理論から言えば、この循環は全体的には先の方向(道具→論理→方法→道具→論理……)で進み続ける。但し、個別的には相乗的にお互いの領域の干渉が存在する。転送装置という道具も、予算の関係でスペースシャトルの上陸映像を気軽に作れなかった当時の制作陣の苦肉の策から誕生したものであり、それは思考から道具への逆回転による干渉であると言える。
 この文明循環によって弁証法的に文明の水準が向上する事もあれば、逆に下降する事もある。優れた道具が優れた思考を生み出すとは限らず、むしろそれは思考を消耗させ、結果として方法を不安定化させる事もある。方法が不安定になると道具の質も下がっていき、それに伴って思考が沈滞していく。文明循環の悪循環に気づいたのなら、道具、思考、方法のいずれの不具合部品を取り除き、別の部品と交換する必要がある。その部品は新しければ良いというわけではなく、古いものでも安定して使える部品が最善である。

 

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竈の神と門の神と奥の神

the days

2264年3月11日、論理学者として交換留学プログラムの特別講義を担当する事になった私は、異星人たちが集まる教室へと急いだ。この講義の主題は福島第一原発事故に関するものだった。

 大まかな原稿そのものはとっくの昔に書き終えていたのだが、つい1時間ほど前に目を通したところ「あまりに専門的過ぎて、地球の事情を知らない彼らには理解できない」と考え直し、慌てて最初から原稿を書き直したのである。こうして6分間の遅刻と共に教室へ駆け込んだ時、時間に厳格な異星人の生徒が目を細めて眉を持ち上げ、私の登場を冷たい目で見定めた。私はこの遅刻が予定していたものであったかのように平然と振る舞い、話し始めた。

 「皆さんが体験した今の『6分間』ですが、これが2011年の今日、3月11日、地球の日本という国で起きた大地震の継続時間でした。地球の地震は一般的にどーんと大きく数秒から十数秒揺れるのが普通ですが、その東日本大震災では6分間揺れ続けたのです。その後も、大きな余震が断続的に続きました。そしてその約30分後に、体験した事のない大津波が地域一帯を襲いました。海辺にいた人たちは、大きく迫り上がったドス黒い塊がこちらへ向かってくる光景を目の当たりにしました。この津波は大勢の人々の尊い命を一瞬で奪いました。この島国東北部の海辺の地域は、古い地名に因んで『三陸』と呼ばれていまして、1896年、1933年にも、同じように大きな地震津波の被害を受けています。現地では『ここまで津波が来たから、未来の人たちは気をつけて』という石碑も残っていまして、多くの家庭や学校では『津波が来たら人に構わず必死に高台に逃げて』という教訓が伝えられて来ました。それだけに災害には注意を払っていた地域なのですが、それでも人間というのはなかなか皆さんのように論理的に行動しきれない生命体でして、また今のように情報を保存・共有する便利な道具が普及しきれていなかった事もあり、2011年の大津波で甚大な被害を受けることになりました。この震災による死因の9割は、この大津波による溺死です。

 ここまで話した時、ひとりの異星人の生徒が「なぜ彼らは全員が高台に逃げなかったのですか?」という質問をした。私は答えた。「はい、もちろん津波の危険を知っていて、高台にすぐに逃げた人たちが大勢います。彼らの多くは助かりました。しかし、防災の知識に乏しかった人たちや、情報を得られる環境に無かった人たち、高齢者、子供など移動が困難な人を抱えていた人たちといった具合に、複雑な条件が重なって瞬時の正当な判断をしきれなかった事例も多くあったのです。皆さんだって、そうではありませんか?宇宙を航海している過程で予想外の混沌とした星団の地域に入ってしまい、四方八方を岩石の屑に囲まれてしまったとしたら、瞬時にどの方角へ進むべきか、あるいは止まるか、戻るべきか、その判断に苦しむはずです。どの選択も見通しが立ちませんからね。これに関する話で悲しい事例は、宮城県石巻市の旧大川小学校で起きた出来事です。この小学校は地形上、三つの危険がありました。まずは裏山です。そちらは高台ですが、余震が続いていたので土砂災害の危険がありました。次は陸です。海からは4kmほど離れた場所でしたが、その陸からも津波が来る危険がありました。その次は川です。近くに流れている北上川から逆流の氾濫が起こる危険がありました。子どもを命を守らねばならないという責任を負った教員の皆さんは悩み抜いた末に、子どもたちと共に川の方面へ避難する選択をしました。しかし、結果としては川を伝って押し寄せた津波に飲まれ、児童108名中74名と教員10名が亡くなりました。」

 異星人たちが眉を細めた。中には悲しげに俯く者もいた。私はもうひとつの出来事を話した。

 「この出来事とは逆に、岩手県釜石市の3000人近い小学校、中学生の子供たちのほとんど全員が高台に避難して助かったという出来事もあります。これは『釜石の奇跡』とも呼ばれています。この地域では特に『高台へ逃げろ、自分の命を守れ』の防災教育が徹底されていましたので、子供たちが独自判断のもとで山や高い場所に逃げることが出来たのです。奇跡の生還の話ですと、宮城県女川町にある水産加工会社『佐藤水産』で起きた出来事も、皆さんに伝えておきましょう。この会社の専務だった佐藤充という方が、中国の大連から出稼ぎに来ていた研修生20人を急いで高台へ誘導させたのです。その後、彼は宿舎に残った研修生がいないか確認に戻りましたが、そこで津波に飲まれてしまって命を落としました。当時の日本と中国は政治的に緊張した関係にあったのですが、文化・経済・歴史の中では常に隣人であり続けている朋友です。佐藤さんの犠牲に対して、中国の新聞は『愛に国境はない』と書き、深い感謝と追悼の意を示しました。ただし、彼らが助かったからと言ってそれで全てが解決したわけではありません。生存者たちは『自分だけがどうして助かったのか』という罪悪感を抱え続けています。これを心理学的には『サバイバーズ・ギルド』と言います。その深い心の傷はどれだけ時間が経過しようとも、癒えるものではありません。生還した方には犠牲になった方々の分も素晴らしい人生を歩んで欲しい生きて欲しい──そのように、私は願っています。」

 教室が静まり返っていた。この異星人たちは共感性に欠けると評価される事があるが、決してそのような事はない。彼らはむしろ、我々以上に哀しみや憐れみを覚える種族であると、私は知っている。ただ、その感情を表に出す事が不作法であるとされているから、他人から見ると冷徹そうな態度を取るのである。私は「この大津波がもたらした被害は人だけではありませんでした。福島にあった原子力発電所に深刻な損傷を与えたのです。」と言って、立体映像を教室に映し出す準備を始めた。そして、私は編集を施した立体映像を流した。

 私たちはしばらく、原子力発電の危険性に焦点を当てた21世紀の映画作品を鑑賞した。1986年のチェルノブイリ原発事故を主題とした『チェルノブイリ ーCHERNOBYLー』『チェルノブイリ1986』、2011年の福島第一原発事故を主題とした『Fukushima50』『太陽の蓋』『The Days』、原発における核廃棄物問題を取り扱った『100,000年後の安全』、世界的な歴史を追体験するシリーズ『世界に衝撃を与えた日 No.9 マンハッタン計画の始まりとチェルノブイリ原発事故』、全7作品である。鑑賞後、ひとりが手を挙げて言った。「事実を再現する物語であるはずなのに、なぜ作品によって内容が違うのですか?」私はこう答えた。

 「我々の物語は、事実が題材であっても、それをそのまま描かないことが多くあります。ある時には自分たちに都合よく歪めて色を付けたり、あるいは都合の悪い部分を全て黒く塗りつぶすことがあります。例えば、『Fukushima50』は自民党という日本の勢力が制作に影響していますので、物語の中で描かれている民主党という対立的な勢力を喜劇のような悪役として描いています。『太陽の蓋』はそれとは逆に、民主党の勢力が制作に影響していますので、民主党の登場者たちは被害者ないし英雄として描かれています。『チェルノブイリ ーCHERNOBYLー』は、そこに登場するソ連と対立的な立場にあったアメリカが制作しているので、かなり深く組織の問題に切り込んでいます。『チェルノブイリ1986』はそのソ連を引き継いで新たに誕生したロシアが制作しているので、当時の政治的な大失態を全て削除して、単純なアクション映画に仕上げています。こういった具合に、私たちの事実に基づく映画は制作者の意図が大きく反映されるので、嘘である部分と本当の部分を自分の頭で分けながら、冷静に読み解く必要があります。」

 異星人たちは「事実を伝える作品なのに嘘を描く」という人間の創造性や悪意を理解しにくいようだった。私は言った。「要するに、我々の多くは常に都合よく生きているのです。私の『三元論』という理論では、人間には三つの本能があることを定めています。それは生きたい、身体的に健やかでありたいという『生存欲求』。知りたい、精神的に健やかでありたいという『知的欲求』。繋がりたい、関係的に健やかでありたいという『存在欲求』です。これらの欲求のうち、特に『存在欲求』の連鎖が加速すると、統治者やメディアによって情報が捻じ曲げられたり、消されたり、改造されたりする訳です。これらの欲求を制御する為に必要なのは、やって良い事とやってはならない事を示す『規範』、知るべき事と知るべきではない事を示す『良識』、積極的に守るべき事と何としても避けるべき事を示す『美徳』、それぞれの論理的な装置が必要となります。この規範、良識、美徳は、文明を構成する道具と論理と方法が向上して高度化するほど簡素かつ絶対的に遵守ものにするべきであり、そうでなければ道具と論理と方法のいずれかの領域において大規模な事件が起こる事になります。道具とは技術、論理とは思想、方法とは組織を意味します。これを私の基本的な八類型に集約すると、次の組み合わせが生じます。」

 私は機器を操作して、その一覧表を提示した。

 

  1. 弱い技術的課題・弱い思考的課題・弱い組織的課題
  2. 弱い技術的課題・強い思考的課題・弱い組織的課題
  3. 弱い技術的課題・弱い思考的課題・強い組織的課題
  4. 弱い技術的課題・強い思考的課題・強い組織的課題
  5. 強い技術的課題・弱い思考的課題・弱い組織的課題
  6. 強い技術的課題・強い思考的課題・弱い組織的課題
  7. 強い技術的課題・弱い思考的課題・強い組織的課題
  8. 強い技術的課題・強い思考的課題・強い組織的課題

 

 「高度化した社会が起こす大規模な事件というのは、この8種類のいずれかの事項に帰属するというのが私の考えです。福島第一原発事故と呼ばれる大惨事は、私が考える限りでは、もっとも深刻な8番に属します。先ほど皆さんに観て頂いたチェルノブイリ原発事故も同様です。技術や組織の課題についてはすぐに理解できると思いますが、『思想の課題』というのは、想起をしにくいと思います。この『思想の課題』は、実は1950年代から始まっています。日本はこの時期に、原子力発電の導入を検討し始めました。そして1960年11月、三陸地域の一部である福島県東京電力という電力会社に対して『私たちの場所に原子力発電所を作ってください』と初めて打診を行いました。」

 異星人たちが一斉にざわめいた。(実際には、ざわめきというよりも、何か小さく頭を左右に動かすような仕草であった。しかしそれは、彼らには最大級のざわめきであるに違いない。)そして、ひとりの生徒が手を挙げて言った。「論理的に2つの点が大きく矛盾しています。私たちが地球の歴史を知る限り、その日本という国は歴史上唯一の被爆国であるはずです。原子力技術の恐怖を体験した唯一の国であれば、どうしてそのような恐怖の技術を国内に招き入れることに簡単に賛成したのでしょうか?また、あなたは先ほど、三陸地方が古くから津波による被害を受ける地域であると言いました。自然災害の危険が多い地域で、防災意識の伝承がなされている福島の人々が、どうして原子力発電を招き入れたいと考えたのでしょうか?」

 「鋭い質問です。」と言って、私はうなずいた。そして、こう続けた。「それこそが『強い思想的課題』なのです。端的に言えば、人間は先ほどの本能的な欲求を集団化させると、『他の選択肢を考える事を止めてしまう』事があります。それが思想的課題です。これは先ほどの世界戦争の引き金となったドイツにおいても顕著に示されました。当時のドイツ社会は疲弊し、未来が見えない状況にありました。そこに、ヒトラーという指導者が率いるナチスという政党が現れ、小学生でも理解できるような『完璧かつシンプルで過激なスローガン』を掲げました。規範・良識・美徳が正しく機能していている人々はその馬鹿げた考えを一蹴しましたが、思考を停止させてしまった多くの人々はその分かりやすい選択に飛びつきました。誰が考えても最終的には絶対に破滅する選択であるのに、他の道を考える力を失ってしまうのです。日本はアメリカから原子爆弾を2発落とされて敗北した後、何とか社会・文化・産業を立て直そうとしていました。しかし、当時の日本には再び社会を躍進させるための技術・思想・組織が欠けていました。その時、魔法のように登場したのが原子力発電技術でした。この夢のようなチケットがあれば、国を立て直す近道に入れると考えて、集団的本能が肥大化した結果、他の安全な選択肢を考えることを止め、地域や世界に危険をもたらす可能性のある道具であると知りながら、それを国内に導入しようという動きを一気に進めてしまいました。福島もやはり他の選択を思考することを止めて、積極的な原子力発電所の誘致へ乗り出しました。原子力発電所を呼び込んだ福島県双葉郡大熊町は地形的に農業・漁業を行いにくく、他の産業も育たない過疎地だったので、現地の人々は苦しい生活を送っていました。そこに、『絶対に危険のない未来のエネルギーだ』『この発電所をここに作ればたくさんのお金がもらえる』『そこからたくさんの雇用が生まれて、若者たちも一流企業に入れるようになる』という甘言が入って来たので、他の選択肢を模索する努力を怠り、これに飛びついてしまったという訳です。」

 異星人が「そこの統治者ではなく、生活している人たちは反対しなかったのですか?地震が来たら危ないと分かっていたのではありませんか?」と質問した。私は答えた。「そうです。彼らは危ないと頭の中で分かっていました。当時の資料などに目を通すと、現地の住民が『原発ができておっかねえことはおっかねえけども、原発がなかったころには俺たちこんな暮らしできなかったもんな』という言葉を口にしていたという話に出会います。自分たちが良い暮らしさえできれば良い。大丈夫、危険はないはずだ。彼らはそう思い込むことにしました。心理学で言えば、このように『破滅的な結末を明らかに推測していながらも、それが起きないと自分自身を信じ込ませて、誤った選択を行う行為』は『正常化バイアス』と呼ばれます。私は『本能の暴走による節制(規範・良識・美徳)の融解』と呼んでいます。このように、福島第一原発事故が起こるまでにおいて長い時間をかけて、強い思想的課題が生じていったという点を指摘できます。」

 「一般の民衆が危険を十分に理解せず、考えることを止めるという点は、我々にも理解できます。しかし、専門家の人々はどのように考えていたのですか?津波を想定して対策をしていなかったのですか?」という質問が出た。私は答えた。「それも良い質問です。その点が、技術的課題と組織的課題に直結する部分となります。福島第一原発を運営していたのは東京電力という会社です。この会社にいる専門家は、東日本大震災で起きた15m級の津波を、実は事前に想定していました。しかし、その専門家の意見を、その上部にいる経営者たちが聞き入れませんでした。これは日本に限ったことではありません。当時の世界の管理者たちは、往々にして安全よりも利益を優先する事があり、その結果として大惨事を引き起こしています。例えば、1986年1月28日に有人の宇宙船チャレンジャー号が発射直後に爆発したという悲劇的な事件が起きました。これは宇宙船開発の管理者であるNASA社の上層部が利益と実績確保の為に、現場の不具合部品に関する警告を無視した事によって起きました。規範・良識・美徳を無視した不適切な命令を下す体制は組織的課題であり、また限られた予算・資源・人材の中で安全な装置を生み出せなかった技術的課題でもあります。東京電力も、原発事業を統括する政府も、それらの課題を抱えながら津波に対する対策を取らなかったので、発電所津波が流れ込んで電源設備を全て喪失し、炉心融解を引き起こしたのです。組織的課題と言えば、チェルノブイリ原発事故を始めとしたソ連時代の幾つかの放射線汚染事故は、特にその傾向が色濃く出ています。崩壊するまで、ソ連という組織は常に100点の答案を出し続け、0点の答案を全て隠す体制でした。厳格な官僚主義により、彼らは意図的に人々に思考を停止させる体制を構築していました。その組織的課題によって、放射線汚染事故の情報は、外国どころか周囲の住民たちにも隠蔽され続けました。ソ連チェルノブイリ原発事故の核心的な情報を隠蔽したせいで被爆の健康害を受けた人々が無数にいます。その影響を算出する事は不可能です。」

 異星人たちが再びざわめいた。「あまりに非論理的です」「なぜ今まであなた方の種族が繁栄を続けて来たか分かりかねます」「今はどのような対策が取られているのですか」などの意見が出た。私は「皆さんの言う通り、我々は賢さと愚かさの応酬を繰り返しながら、なぜか奇跡的に繁栄を続けて来られました。どのように賢さを保って愚かさを制御するべきかの模索を続けています。私は先ほど言ったように、その本能の制御棒は規範・良識・美徳であると感げています」と言って、その後にこう続けた。

 「また、私は『有事における三権分立の原則』という考えを持っています。これもやはり、私の『三元論』に基づいて構築したものです。自然災害、放射線汚染、戦争などが起きた時、その事件を収拾する為に命を賭ける人物の要素はそれは『実行者』『専門家』『管理人』となります。『実行者』は物理的な貢献を果たす人物であり、『専門家』は概念的な貢献を果たす人物であり、『管理人』は体制的な貢献を果たす人物です。もちろん緊急性の高い現場ではその複数の要素をひとりが抱えることもありますが、基本的には有事においては自分の所属する要素を固定化する事が重要であると、私は考えています。中国の古代世界では『五祭神』というものがありまして、それは『奥の神、竈(かまど)の神、戸の神、門の神、道の神』となります。それを上手くここで用いましょう。『竈の神』は『実行者』であり、作業・記録・報告を行う存在です。『門の神』は『専門家』であり、分析・構想・提案を行う存在です。『奥の神』は『管理人』であり、調整・統制・命令を行う存在です。平時であればお互いに仲良くやれば良って、ある程度は別の神が担当している仕事も行っても良いのですが、有事では絶対にそれをやってはいけないというのが、私の考えです。また、協力の循環は常に同じ方向へ進むことが推奨されます。例えば、火事が起きたとしましょう。『竈の神(実行者)』は鎮火作業を行いながら、その状況を逐一記録して、これを『門の神(専門家)』に報告をします。『門の神』はその報告を受けて、現在の状況を正しく理解した上で火事収束に向けた展望を構想し、これを『奥の神(管理者)』に提案をします。『奥の神』はその報告を受けて、提案に準じて消火と復旧の為の組織を調整し、憶測や流布により混乱が出ないよう情報を統制した上で、『竈の神』に新しい作業の命令を行います。実行者は特に状況変化によって命令を待たずに独立行動する事もあるでしょうが、それが規範・良識・美徳に基づく行動であるのなら許されるべきです。福島第一原発事故において『竈の神』として活動した吉田所長らの『奥の神』命令を待たない緊急冷却対応は、まさにその原則外行動として許されるべきです。とは言え、生存欲求に直結するような緊急性の高い場合を除いて、原則的に有事における神様の循環は守られるべきだと私は考えます。『奥の神』が『門の神』に命令する事は許されませんし、『門の神』が『竈の神』に提案する事も許されませんし、『竈の神』が『奥の神』に報告する事も許されません。それを行うと、全ての神が混乱する事になるからです。私の見解では、福島第一原発事故において、ひとり怒り狂って、無意味に他の神の足並みを乱し続けていた『奥の神』がいましたが、あれこそがもっとも最悪の事例です。この有事における循環原則を言語として表現しますと、こうなります。」

 私はそう言って機器を操作し、空間に資料を示した。

 

<有事における三権分立の原則>

第1条:役割の定義

  1. 実行者(竈の神):管理人の命令に基づき収拾の作業を行い、現場の常時記録を経て、その記録を専門家に報告する。
  2. 専門家(門の神):実行者の報告に基づき現状の分析を行い、戦略的な構想を経て、その構想を管理人に提案する。
  3. 管理人(奥の神):専門家からの提案に基づき組織の調整を行い、情報の統制を経て、実行者に命令を行う。

 

第2条:有事収拾までに負うべき義務

  1. 実行者は、勇気に基づいて作業・記録・報告を実行し、技術的課題を解決する為に一切の躊躇をしてはならない。
  2. 専門家は、善意に基づいて分析・構想・提案を実行し、思考的課題を解決する為に一切の躊躇をしてはならない。
  3. 管理人は、責任に基づいて調整・統制・命令を実行し、組織的課題を解決する為に一切の躊躇をしてはならない。

 

第3条:職務の独立と循環

  1. 実行者、専門家、管理人の各役割は独立しするべきであり、他の役割を代行することは禁じられることが望ましい。
  2. 実行者、専門家、管理人の協力の循環は固定するべきであり、その方向を逆転させることは禁じられることが望ましい。
  3. 但し、身体的な健康害の発生または拡散を瞬間的に制止しなければならない事象に臨む実行者またはほかの職務者は、社会的な規範・良識・美徳に基づいて自ら判断し、最善と思われる言動を取ることが望ましい。

 

 私は頭を持ち上げて、壁に掛かっている時計を確認した。時計はちょうど、東日本大震災の発生日時の付近を示していた。ふと、私は虚しさを覚えた。異星人たちが私に投げかけた疑問はもっともだ。我々は非論理的であり、学習をせず、利欲にまみれている。同じ問題を古代から繰り返しているが、社会の高度化にしたがって、その問題の規模が肥大化し続けている。「なぜこの種族が繁栄を続けているのか?」という疑問に、私は答えられない。天がそうさせているとしか言いようがない。だが、どこまで天が我々の無作法を許してくれるのかは分からない。

 

It was all very well to say “Drink me,” but the wise little Alice was not going to do that in a hurry. “No, I’ll look first,” she said, “and see whether it’s marked ‘poison’ or not”; for she had read several nice little histories about children who had got burnt, and eaten up by wild beasts and other unpleasant things, all because they would not remember the simple rules their friends had taught them: such as, that a red-hot poker will burn you if you hold it too long; and that if you cut your finger very deeply with a knife, it usually bleeds; and she had never forgotten that, if you drink much from a bottle marked “poison,” it is almost certain to disagree with you, sooner or later.

「飲め」と書かれているのは分かるけれど、賢明な小さなアリスはそんなに急いでそれをするつもりはなかった。「いいえ、まずはよく見てみなきゃね」と彼女は言った。まずは「毒」と書かれているかどうかを確認する。なぜなら、彼女は子どもたちがやけどをしたり、野生の獣に食べられたり、その他の嫌なことに遭遇する話を何度も読んだことがあった。それはすべて、単純なルールを守らなかったために起きるのだ。例えば、赤く熱くなったポーカーは、長く持っているとやけどをするし、ナイフで指を深く切ると、通常は出血する。当たり前の事なのに、それを守らずに怪我をする子がたくさんいるのだ。

──ルイス・キャロル不思議の国のアリス

 

※画像:DALL-E

※補足:「巨大ポンプ車『大キリン』を無償提供 原発事故の危機的状況を救った中国企業」という記事を目にして、本記事の主題を設定した。福島第一原発には、1号機に392本、2号機に615本、3号機に566本、4号機に1535本の使用済み核燃料がプール内に保管されていた。このうち後者の4号機の冷却の技術的課題を解決してくれた人物が中国出身の龍潤生さんだった。彼は福島第一原発事故の状況を注視し、原発上部からの散水冷却が必要だと知るや否や、世界一長い62mアームを持つコンクリートポンプ車を無償で手配しれくれたのだ。感謝に堪えない。彼は親から『滴水之恩,涌泉相报(一滴の水の恩には、湧き水で報いる)』という言葉をよく聞かされて育ち、留学生時代に日本から受けた恩を返すべく行動をしてくれたという。先の佐藤充さん然り、天はそのような崇高な良識と美徳を持つ人も生み出しているのだ。天はまだ、人を滅ぼそうとしているわけではないのかもしれない。

※補足:私が用いる「天」という用語には特定の宗教観や思想は反映されていない。それは具体的な対象物ではなく、この世の物理的法則や運命のリズムのような、人が捉えきれない壮大かつ深遠な事象を想起するものだ。

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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有事と政府、天と人

唐山大地震

私:2010年の中国製作の映画『唐山大地震』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:2010年に中国で製作された映画『唐山大地震』は、1976年7月28日に実際に起きた唐山大地震を背景にしています。この地震は、中国の近代史の中で最も破壊的な自然災害の一つでした。
映画は、地震によって引き裂かれた一家の物語を描いています。主要なプロットは、地震発生時に崩壊した建物の下敷きになった2人の子供を持つ母親の選択を中心に展開されます。救助隊は彼女に悲痛な選択を迫り、母親は一人の子供を救うためにもう一人を犠牲にしなければなりません。この選択がその後の家族の人生に深い影響を与え、数十年にわたる物語が展開されます。
映画は、家族の愛、喪失、再生をテーマにしており、観客に強い感情的な影響を与えます。リアルな地震の描写と、人間ドラマの組み合わせが特に評価されています。監督は、中国の著名な映画監督である馮小剛が務めています。

 

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 カナダの華僑女性作家である張翎の小説『餘震』を原作とする映画。1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災を筆頭に、日本人も数多くの悲劇的な震災を経験して来た。つい3か月前にも、マグニチュード7.6の能登半島地震が発生したばかりである。我々にとって地震は非常に身近かつ深刻な自然災害であり、畏れの対象だ。それだけに、本作の震災の場面に共鳴する部分が多く、強く心が痛む。ちなみに、本作は2011年3月26日に日本公開予定であったが、先述の東日本大震災が同年3月11日に発生した為に無期限の延期となった。日本公開は2014年に入ってからである。(この記事の原案を書いている間にも台湾地震が発生した。圧倒的な自然の力を前にして人の命がどれだけ儚い事か。あまりに切ない。)
 本作はとても真摯に人間ドラマを描いている作品であるが、冒頭の唐山地震の場面は実際の23秒ではなく4分もの描写に誇張されている。中国の映画宣伝ポスターのキャッチコピーにも「23秒、32年」という印象深い表現が刻まれており、僅か23秒の地震が32年に渡って幸福な人生を分断した物語性を濃縮している。映画演出として仕方ないとは言え、震災の場面はワンカットによって23秒の再現をするべきであった。
 尚、4分間の地震が非現実的であるかと言われればそのような事はない。東日本大震災地震継続時間は約6分間であった。この長さは3つの断層が破壊的なパルスを連動させた結果であるとされている。一方、阪神淡路大震災地震継続時間は約15秒。阪神淡路大震災の死者・行方不明数は6000名を超え、その75%以上がこの約15秒間で建物倒壊の犠牲になったと言われている。涙が出る。(東日本大震災の死者・行方不明者の9割以上は、地震発生から30分前後で到来した大津波による犠牲となった。能登半島地震の死者の大半は倒壊であったが、冬季であった為に低体温症や凍死の被害者も多かった。我々は地域・季節によって防災の在り方が異なる点をより精緻に分析し、実情に呼応する防災情報を作成しなければならない。)
 日本では地震に関する防災教育において、「地震発生から8秒間の行動が生死を分ける」という知見が示されている。この8秒間のうちにするべき三つの行動は、「①安全な場所を探して」「②そこまで走って」「③自分を守る」というものだ。安全な場所とは、机などの頑丈な家具の下、あるいは家屋の外である。しかし、高齢者や子供が身近にいる場合はその通りにはいかないだろう。自分が犠牲になってでも、愛する人を助けたいと願う人が多いはずだ。誰の命を優先するべきか。8秒間で、その判断を理性的に行える訳が無い。日頃の良識と美徳とが、その人を本能的に突き動かす。これは本作の物語の軸になった部分である。
 日本の一部の映画批評において「本作で震災後の救援活動の活動者を人民解放軍のみとして、海外の支援部隊や医療チームの姿を描かなかったのは、製作陣が検閲を懸念したからだ」という評価があったが、これは完全に誤った認識だ。1976年当時の中国は文化大革命末期であり、国内外の情勢が非常に不安定であった為、そもそも政府は海外支援の受け入れを行わなかった。唐山地震の死亡・行方不明者は約24万人(20世紀以後の地震被害の最大値)、重傷者は約16万人。これだけの大災害に遭遇しながら国外支援なしに乗り切った共産党と地方人民政府の統率力、そして混乱の現場で懸命な共助を続けた市民の力は流石だ。もちろん賛否両論のある国家の判断だが、有事(戦争・事変、武力衝突や自然災害などにより国家にとって非常事態が起きる事象)における純粋な政府の統率力の強さという点については我々も見習うべき所があるような気がする。
 政府の統率力と有事の関係性に目を向けた時、直近では新型コロナウイルスパンデミックの事例が脳裏をよぎる。ここでは各国の統率力の特性が顕著に現れた。パンデミックは2019年12月初旬に発生し、2020年1月には世界的に情報が広がっていた。WHOにより正式な発表があったのは奇しくも2020年3月11日(東日本大震災の日)だった。日本では2020年1月の時点で武漢渡航者の日本人の感染者が初確認され、翌2月には横浜に入港したクルーズ船の日本人乗客が一斉に感染する事件が生じていたが、「危機対策室会議」「専門家会議」「感染症連絡連絡会」等の名前ばかり格好の良い検討会議がチンアナゴのようにニョキニョキと飛び出すものの、日本政府の目に見える統率力はまったく見受けれなかった。彼らは渡航制限もせず、隔離政策も取らず、マスクや消毒液などの買い占め取り締まりもせず、「みんな感染には気をつけようね」とだけ言い続けて、ようやく緊急事態宣言(一部地域)を発令したのは4月7日。その緊急事態宣言によって何が変わったかと言うと、実質的には「みんな感染には気をつけようね」という言葉が「みんなあんまり外には出ないでね」に変わっただけだった。
 その後も、在庫処分と税金使い回しの気配を存分に感ずる謎の布マスクを電通経由でばら撒いてみたり、何一つ実用性のない接触確認アプリを提供してみたり、特定の業界に給付金(税金)を延々と注入し続けたりと、故・安倍元総理と菅元総理が率いる自民党はお馴染みの迷走ぶりを示した。迷走を続ける指導者がまったく当てにならないので、結局我々はいつも通り「自分たちの命は何とか自分で守らなければならない」と必死に忍耐の生活を続けるしかなかった。
 同じ島国という特性を持ち、SARSパンデミック経験を有していた台湾政府は2019年12月時点で空港の検疫検査を開始し、1月には専門家による本格的な調査を展開、2月には渡航制限、経済支援、衛生用品取り締まりといった政策を次々に実施していった。これは奇跡と言っても良いぐらいの完璧な統率力であり、見事にパンデミック拡大の時間稼ぎに成功した。中国政府もご存知の通り、都市封鎖を含めたこの上なく厳格な防御体制を貫徹した。彼らの政府が2020年〜2021年の最も深刻な有事において、現場指揮能力に長けた人間に大きな権限を与え、とにかく感染症対策に関する政策実施を最優先したという点で、私は憧憬を覚えずにはいられない。
 だが、この話にはまた別の結末がある。2024年現在、新型コロナウイルスの弱毒化によって世情が有事から平時へ完全に戻って、我々はふとある事に気が付いたのである。「あれ、意外と日本はパンデミックのダメージが少なかったのではないか?」と。
 もちろん、産業全体が大混乱し、個人レベルでは失業者も多数発生した。感染によって命を落とした者も大勢いるし、感染の時期によっては苦しい後遺症を抱える事になった者も少なくない。だが、世界全体と比較すれば、死者数が少なく、かつ、経済のダメージも最小限に収まっている。この謎めいた結末の根拠としては、政府の感染症対策がたっぷり遅れた(ワクチン以外特に何もしなかった)お陰で集団免疫が付いた事、政府が感染症対策よりも"自民党のお友達"に向けた経済対策を優先したお陰で一定の経済循環が維持できた事、等の要素が考えられる。アメリカの外交紙の表現を借りれば、豆腐並みの弱々しい統率力しか発揮しなかった日本政府が「weirdly right(奇妙な成功)」を収めてしまった。"天意”というのはまったく計りし得ないものであると、つくづく痛感する。

 

"近塞上之人有善术者,马无故亡而入胡。人皆吊之,其父曰:“此何遽不为福乎?”居数月,其马将胡骏马而归。人皆贺之,其父曰:“此何遽不能为祸乎?”家富良马,其子好骑,堕而折其髀。人皆吊之,其父曰:“此何遽不为福乎?”居一年,胡人大入塞,丁壮者引弦而战。近塞之人,死者十九。此独以跛之故,父子相保。故福之为祸,祸之为福,化不可极深不可测也。"
「ある国境の近くに住む人に、馬の扱いが上手な者がいました。ある日、その人の馬が突然いなくなり、遊牧民の地に逃げ去ってしまいました。人々はその出来事を悲しんで同情しましたが、彼の父親がこう言いました。『これを不運だと言い切れるのか?』すると数ヶ月後、その馬が遊牧民の地から美しい馬を連れて帰ってきました。人々は喜んで祝福しましたが、彼の父親はまた言いました。『これを幸運だと言い切れるのか?これは悲劇ではないのか?』その後、その家はその馬で豊かになりました。彼の息子は馬術が好きで、美しいその馬を乗りこなしていました。しかしある日、彼が落馬して腿を折ってしまいました。人々はまた彼を哀れみましたが、彼の父親は言いました。『君たち、これを不運だと言い切れるのか?』それから1年後、遊牧民が大挙して国境を越えて来襲しました。成人男性は皆、弓を取って戦いました。国境近くの人々の中で、戦地に向かったほとんどの若者が亡くなりました。しかし、この足の不自由な息子だけは、その為に父と共に生き残ることができました。したがって、幸運が災いに変わることも、災いが幸運に変わることもあり、その変化は計り知れず、深遠で測りがたいのです。」
──西汉·刘安等《淮南子·人间训》"

 

 ここで記事を終わらせても良いが、私は論理学者として上述の事象について分析をしておこうと思う。統率力の強い政府は有事と平時の切り替えが非常に容易であり、緊急事態に対して即断即決の実行力を持つという長所を持つ。しかし、そこには全体を優先して個人の権利を剥奪する短所も持ち合わせている。統率力の弱い政府は有事と平時の切り替えが難しく、緊急事態に対して優柔不断の検討ばかり重ねてしまうという短所がある。しかし、そこには全体よりも個人の権利を保護する長所も持ち合わせている。
 私の三元論から言えば、自然災害や紛争における有事が発生した際に必要となる支援要素は以下の通りである。

 

・生存的支援(食欲補填、休息欲補填、運動欲補填)
・概念的支援(技術の提供、知識の提供、方法の提供)
・組織的支援(専門機関の設置、情報の統制、社会及び文化活動の制御)

 

 指導力の強い政府は強い支援の輝きによって民を導くが、その輝きが天の輝きを遮る事がある。指導力の弱い政府は天の輝きを遮らずに受け取ることが出来るが、民を導く事は困難である。これはどちらが正解かという結論を紡ぐ事は出来ない。だが本当に賢い政府は、天の輝きを見つめながら、自分たちの部屋の光の加減を調整できる人たちであると言えよう。

 

※画像:DALL-E

 

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