天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

中世ヨーロッパに思春期不適応は存在しなかった?

Somersault

私:2004年製作の映画『Somersault(邦題:15歳のダイアリー)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:映画『Somersault(邦題:15歳のダイアリー)』は、2004年にオーストラリアで製作されたドラマ映画です。この作品は、キャッチャ・ミューゼルが監督を務め、アビー・コーニッシュが主演を演じています。映画のストーリーは、若い女の子が母親との関係が悪化した後に家を出て、自己発見と愛を求めて旅をする内容です。

主人公のハイディは、誤解と孤独を経験しながらも成長していく過程が描かれており、彼女が自己理解と他人との関係を築いていく様子が感動的に描かれています。この映画は、人間関係の複雑さと若者の成長の痛みをリアルに表現しているため、多くの視聴者に共感を呼び、高い評価を受けました。

 

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 文化人類学の研究においてよく触れられる人間の生理学に関する命題がある。それが「中世ヨーロッパには、現代社会において当然のものとして見受けられる思春期(による社会不適応の事象、いわゆる「反抗期」)が存在しなかった」というものだ。
 中世ヨーロッパにはそもそも子供と大人を区分するほどの活動的な余裕がなく、子供も小さな大人であるとみなされていたという。思春期は周囲の年長者たちにその存在を承認して欲しいと願いながらも、自分自身の劣等感や社会構造の中における地位の限定感を脱しきれず、その矛盾から反抗的な態度を取るものと言われている。しかし、そもそも最初から周囲の年長者たちに大人扱いされているのなら、確かにこの思春期の不適応は存在し得ないという事になる。
 よって、もし誰かが中世ヨーロッパにタイムトラベルをして、ある民家で15歳の娘を抱えた母親と話している際、「なるほど、難しい年頃の娘さんを抱えて、今は大変だろうね」としたり顔で話してみても、相手はその現代的な通念を理解できず困惑をするだけだろう。そして、母親のマリーはあなたにこう聞くに違いない。「年齢の何が難しいの?大変ってどういう事?」と。
 本作『15歳のダイアリー』は、まさに現代社会において大きく注目されるようになった思春期の不適応を題材としたオーストラリアの作品だ。残念ながら、日本語の題名はよくある改悪パターン。鑑賞者の感性を侮って「とにかくわかりやすいように」と文章を簡略化した結果、物語の本質が抜け落ちてしまっている。まず、本作においてダイアリー(日記帳)はマクガフィン(物語を動かす小道具)として全く機能をしていない。確かに、彼女が幼少期からの思い出の品物として大事そうに小さな手帳を持っている描写はあるが、あれは日記帳ではなくスクラップブック(シールや雑誌の記事などを貼り付けたもの)だ。そして、本作で主人公を演じる少女の設定は厳密には「16歳」である。
 原題の「Somersault(サマーソルト)」は体操競技における宙返り技を意味する。ゲームが好きな方は、現在も新作が出続けている往年の格闘ゲームシリーズ『ストリートファイター』のガイルが繰り出す「サマーソルト・キック」で、この言葉を聞いた事があるだろう。この物語では思春期で破滅的で頼りない行動を取り続ける少女が大人に"宙返り"していく過程が描かれているので、Somersaultが適用されたものと思われる。よって、このタイトルを日本語に訳するのであれば『16歳のサマーソルト』ぐらいで良かったと思われる。
 私の三元論に基づくと、この現代の思春期が有する不適応の状態を説明する事が出来る。私は人間の本能が三つの要素に集約できると考えている。それは「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたい)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたい)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」という要素である。それぞれの欲求は更に、次の三つの要素に分解する事が出来る。

 

生存欲求…食欲、休息欲、運動欲
知的欲求…技術、論理、方法
存在欲求…物理的希求、承認的希求、帰属的希求

 

 中世ヨーロッパにおける「市民」とは大多数が「農民」であり、毎日を生きる為に行う身体的・生活的な活動が非常に多い。それは子どもであっても例外ではなく、必ず何らかの労働に従事していた。小麦や野菜などの作物を春に植え付け、夏に生育し、秋に収穫し、冬に準備するという季節的な労働の循環をこなし、その他にも家畜の世話、食事や洗濯などの家事もこなさねばならなかった。子供たちはただ不慣れであったり、仕事量が限られていたりするものの、完全に大人と同じ生活をしていたという事になる。
 そうした大人同様の労働に従事していた子供たちは身体的な負担が大きいので、労働後の余暇は必然的に生存欲求を優先する事になる。そちらに行動出力の資源を割いた場合、知的欲求と存在欲求が減少する。ただし、労働の効率化や正確性の向上に関わり技術、論理、方法を学び取る知的欲求が必要となる場面が少なくないので、生存欲求に続いて知的欲求が優先順位に上がって来る。こうして、残るものが存在欲求となる。存在欲求の「物理的希求(触りたい・触られたい)」「承認的欲求(認めたい・認められたい)」「帰属的希求(属したい・属されたい)」は彼らにとって優先順位の低い本能となる。
 一方、現代では多くの子供たちが大人同様の労働に属する事が許されず(良い意味でも悪い意味でも禁じられており)、一律に「子供」という特別な身分が与えられて生活的な庇護のもとで学習に励む必要がある。生存欲求が最初から満たされているので、知的欲求に特化した生活を送る事になるが、それでも本能のリソースが余ることになる。こうして必然的に優先順位が上がるのが存在欲求となる。特に第二次成長期を迎えると生理的に異性への関心が高まる為、その身体的変化とも相まって存在欲求が暴走すると、欲求を制御する規範・美徳・良識が融解し、周囲の大人や仲間に対して不適応を起こしてしまう。これが、現代における思春期の不適応(反抗期)という事象なのだと、私は考える。
 また、思春期の不適応は当人だけの問題ではない。その周囲にいる大人たちも同様に、文明生活における生存欲求の満たしやすさによって、自然と知的欲求と存在欲求への優先順位が上がっている。存在欲求が暴走した大人は、身近にいる者、特に子供に対して過度の繋がりを求めるようになる。そうした大人は常に子供が子供である事と願う傾向があり、彼らを制御・支配し、所有する事を求めて、彼らを信頼・連携し、協力しようとはしない。その結果、大人側と子供側の存在欲求が衝突し、そこに対立が生まれ、ひどい状態になると分断にまで至る。これが思春期の不適応の仕組みである。
 この不具合を起こさない為には、子供の労働比準を少し上げる事が必要だ。現代社会では子供に大人と同じ労働をさせる事が出来ないので、できる限り家事の手伝いや日常生活に必要な仕事を行って貰う事が望ましいだろう。また、それらの仕事を子供が担う際は、ある程度の教育後、彼らにその仕事の完遂を信じて任せる事が重要だ。彼らを一人前として認め、責任と権限を与えるのである。その他、部活や課外活動などを通じて責任ある仕事を行うという方法でも良いし、家業が手伝える分野であれば積極的にそれに参画させるという方法でも良い。これらを実行すれば、子供達は家族またはその他の組織の一員として対等に認められる環境となり、存在欲求(特に承認的欲求と帰属的欲求)を満たしやすくなる。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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