天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex06】晁盖

晁蓋

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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晁盖(ちょうがい/cháo gài)

<三元論に基づく個性判定>

2番 **とても強い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「情熱的指導者」** - 他者を導きながら、自身の知識と経験を活用することに熱意を持つ。

 

<概要>

あだ名は「托塔天王(塔を抱く天王)」。もともとは山東郓城県東渓村の保正(※郷長:下記参照)であり、地元の富豪であった。あだ名の由来は西渓村と東渓村の間で起きた珍事に関する彼の活躍が関係している。幽霊の出没騒ぎが西渓村で発生。西渓村がその幽霊に恐怖して鎮魂の為に青石の宝塔を設けると、今度は東渓村で幽霊が出るようになった。(これはまるで蚊取り線香によって別の部屋に逃げ込む蚊のようだ。)東渓村の晁盖はこの"流れ矢"に憤り、西渓村に乗り込んで鎮魂用の宝塔を抱えて自村まで戻った。東渓村の村民は彼のこの活躍に拍手喝采し、「托塔天王(塔を抱く天王)」と呼ぶようになった。その後、晁盖は義憤に駆られて生辰綱(誕生祝いの財宝)の強奪計画を指揮。その生辰綱は北京の梁中書(りょうちゅうしょ/liáng zhōng shū)が東京の蔡京(さいけい/cài jīng)に送る十万貫の賄賂であったが、それは民から巻き上げた不義の財であった。この強奪計画は成功をしたが、役人に犯行が露呈した事から劉唐(りゅうとう/liú táng)、呉用(ごよう/wú yòng)、公孫勝(こうそんしょう/gōng sūn shèng)、阮小七(げんしょうち/ruǎn xiǎo qī)、阮小五(げんしょうご/ruǎn xiǎo wǔ)、阮小二(げんしょうじ/ruǎn xiǎo èr)と共に逃亡者となった。その後、彼らは梁山泊へ落草。この時の梁山泊勢力の寨主は王倫(おうりん/wáng lún)であったが、晁盖らの力が自分の地位を脅かすのではないかと考えて勢力入りを拒絶。しかし、林冲(りんちゅう/lín chōng)が間に入って王倫(おうりん/wáng lún)を成敗。以後、晁盖は曾頭市との戦いで史文恭(しぶんきょう/shǐ wén gōng)の毒矢に当たって中毒死するまで、梁山泊勢力の寨主として活躍した。

 

<保正>

北宋の時代において登場した「保正」という集落の役職は、王安石の国内改革との関わりがある。(以前取り上げた実在の功臣、仁宗治世を支えた范仲淹の国内改革が反対派の妨害にあって頓挫した。この国内改革を引き継いだのが、後の王安石であった。)《宋史·兵志六》によると、「熙寧の初め、王安石は募兵制を変え、保甲制を実行した……十家を一保とし、主戸で能力のある者一人を保長に選ぶ。五十家を一大保とし、一人を大保長に選ぶ。十大保を一都保とし、多くの人に尊敬される者を都保正に選び、さらに一人を副都保正とする。」と記されている。具体的な数字として、当時の人口平均は1戸あたり5人程度であるから、一都保(十大保:500戸)は約2500人となる。東渓村に「一都保」が幾つあったのかは不明だが、とにかく保正はこれだけの大所帯を取りまとめる指導力が必要であった。

 

<人物描写>

晁盖は『水滸伝』第十四回に登場し、その記述は以下の通りである。「東渓村の保正は、姓は晁、名は蓋。祖先はこの県の本郷の富豪。彼は義を重んじ財を施し、天下の好漢と交友を持つのを好んだ。誰かが彼を頼ると、良し悪しを問わず村に留めて住まわせるという、江湖に名が轟く大人物であった。」また『山東水滸伝』によれば、晁蓋は槍術や棒術に通じており、身強力壮で、妻を娶らず、終日筋骨を鍛えていたという。

 

劉唐が大名府の梁中書が生辰綱を運んで東京にいる岳父蔡京に誕生日の贈り物をすることを探り、晁蓋に知らせに行きましたが、雷横に捕らえられました。晁蓋は彼を甥と認め、雷横に劉唐を放すように頼みました。晁蓋呉用公孫勝らと七星聚義を行い、生辰綱を智取し、事が露見した後、宋江の通風報信のおかげで、呉用公孫勝、阮小二兄弟と共に石碣村で官兵を打ち破り、梁山泊に合流しました。寨主の王倫は彼の才能を妬み、容認できませんでしたが、呉用林冲を激励して王倫と戦わせ、最終的に寨主に推されました(これは梁山の過渡期のリーダーであり、108将には含まれていません)。後に曾頭市を攻撃する際、史文恭の名を刻んだ薬箭が顔に当たり、致命傷を負いました。

 

<情熱の弊害>

晁蓋の性格は豪爽で、江湖の友人を結交することを好み、不正に対して勇敢に立ち向かい、義理を重んじた。そして、友人に対しては真心を持って接した。これらは彼の長所であるが、一方でそうした情熱が過ぎるせいか、急躁(せっかちで冷静さがない様子)な一面も有していた。よって、彼は人から敬愛や尊敬はされるが、人を団結させたり、統率させるのは不得意だった。これは冒頭に述べた私の個性判定が示す通り、生存欲求・知的欲求が過剰な範囲にある人間にありがちな短所である。

 

<原型>

晁蓋の人物設定は、梁山泊勢力が最後の戦いの相手とする方臘(ほうろう/fāng là)の実在の形象を参考した可能性があるという。(方臘は北宋末期に活躍した実在の頭領。)その理由として、方臘の出生地(石碣村)との類似点、晁蓋が夢見る「七星入屋」との共通点などが挙げられている。また、晁蓋が生辰綱強奪事件を指揮したように、方臘も封建統治に反抗して武装反乱を指揮している。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 006】李応

李応

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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李応(りおう/lǐ yìng)

<三元論に基づく個性判定>

21番 **強い生存欲求**、**強い知的欲求**、**とても強い存在欲求** - **「協調的な知識家」** - 知識を持ち寄って他者と協力し、共に問題を解決することに喜びを感じる。

 

<概要>

水滸伝』における"三大富豪"を想起するとしたら、それは北京名家の盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)、後周末裔の柴進(さいしん/chái jìn)、そして李家荘の李応(りおう/lǐ yìng)の名を挙げられるだろう。李応(りおう/lǐ yìng)はその中でも特に資産を持っていたものと思われる。あだ名は"扑天雕(空飛ぶ大鷲)"。郓州の出身で、李家荘(農村集落)の荘主。この李家荘は独竜崗(どくりゅうこう/dú lóng gǎng)の地域にあり、隣接する勢力として祝家荘と扈家荘があった。彼らは通称「三荘」と呼ばれ、有事の際は互助するという同盟を結んでいたのだが、梁山泊勢力との対峙の際に決裂した。用いる武器は混鉄点鋼槍と飛刀。この飛刀については背中に五本を忍ばせ、百歩先の人を正確に射抜く技を持っていた。梁山泊勢力に加わった後、大聚義(百八英傑の結集)の際には柴進(さいしん/chái jìn)に続く序列11位に定まった。一頭領としての役職は柴進(さいしん/chái jìn)と同じく財務管理。梁山泊勢力の最後の戦いである方臘(ほうろう/fāng là)征討戦後は中山府郓州都統制に任命されたが、辞職して故郷に戻り、再び富豪として余生を過ごした。

 

<原型>

宋元時代の『大宋宣和遺事』において、李応は柴進と同様に宋江の部下の一人として登場している。また、元雑劇『梁山五虎大劫牢』でも李応の登場があるが、人物設定は少年勇士となっている。

 

<あだ名の考察>

「扑天雕(空飛ぶ大鷲)」の由来は『武王伐纣平話』に由来する。妖精の偽装を見破り、力で打ち倒す鷲の威力を彷彿とさせる。これは李応の持つ猛々しさを表現している。またこれは外見にも関連しているようだ。原著の詩では、李応は「鷲のような鋭い目と素早い動きを持ち、義理を重んじる豪傑である」と描かれている。更に、彼は有事において瞬時に身を転じる神出鬼没の性質があるらしい。急に重要な場所で現れたり、逆にまったく姿が見えないという事もあった。これもまた大鷹を彷彿とさせる。

 

<善か悪か?>

現代人が生真面目に『水滸伝』を読もうとした場合、「善」の代行者であるはずの梁山泊勢力が幾つかの点で限りなく良識と美徳に大きく反していると感じる事があるに違いない。例えば冒頭に挙げた三大富豪、盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)、柴進(さいしん/chái jìn)、李応(りおう/lǐ yìng)の三名は、それぞれ武芸・人格・財産の三宝を有する非常に有力な人物である。彼らは梁山泊勢力との関わり合いを持つまで、基本的には社会に対して何らやましい事のない豊かな人生を送っていた。一方の梁山泊勢力は三名をどうしても仲間に引き入れたいと考え、策謀を用いた不誠実な方法を用いる事を良しとした。国家の腐敗に疑念を抱く盧俊義、国家による自分たちの扱いに不満を覚えていた柴進はともかくとして、李応(りおう/lǐ yìng)は誠に落草(山賊に身を落とす事)との接点が無かった。それにも関わらず、梁山泊勢力はまだ自分たちの仲間でもなかった犯罪者たち、楊雄(ようゆう/yáng xióng)、石秀(せきしゅう/shí xiù)、時遷(じせん/shí qiān)が独竜崗で起こした騒ぎに便乗し、極めて冷酷な方法で李応たちを絡め取ってしまった。終いには彼らが二度と元の生活に戻れないよう、梁山泊勢力が彼らの屋敷を焼き払うという徹底ぶりである。映画『42 〜世界を変えた男〜』で「我々は時に法律に反すると称賛される事があるが、暗黙の美徳に反すると徹底的に批判される」という台詞がある。『水滸伝』において腐敗した朝廷が自分たちの都合で作り出している規範については、梁山泊の英傑たちがどれだけ破壊をしても気持ちが良いと感じるが、一方で彼らが君子の道(孔子が体現したような良識と美徳)を侵す出来事はどうにも受け付けられない。梁山泊勢力を徹底的に「悪」として描いた『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は、こうした"善悪の彼岸"に関する反証であったものと考えられる。

 

罪と罰

私の師である作家ドストエフスキーが怒涛の如く築いた『罪と罰』の問題提起が頭に浮かぶ。この物語において、主人公のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(愛称「ロージャ」)は「正義を果たす事の出来る超人は、その使命を果たす為にどのような罪を犯しても許される」という思想を持っていた。梁山泊勢力の原動力となった思想「替天行道(たいてんこうどう/tì tiān xíng dào:天の代わりに道を正す)」は腐敗し尽くした朝廷に対する強烈な警句であり、その正義は非常に筋の通ったものであると感じる。しかし、その目的を果たす為に犯罪に及んで良いのか(規範・良識・美徳に反しても良いのか)という点については、私には疑念の余地が残る。この「天に代わってお仕置よ!」という梁山泊勢力の概念は、まさしく「死んだ神の代わりに俺が神となって、無益な人間を成敗してやるのだ!」という理論の元で醜い金貸し女を斧で切り殺したロージャの様相に酷似している。その後にロージャが苦悩と破滅の一途を辿ったのと同じように、やはり梁山泊勢力も何らかの「罰」を受けなければならないのである。談話の作者たちがこれを意図したかどうかは不明であるが、『水滸伝』に登場する英傑たちが悲劇的な結末を迎えているのは理に適っている。そして欲を言えば、私はそこにロージャ式の苦悩を反映させたいと考えている。(少なくとも原本においては、結末を迎えるまで、ほとんど英傑たちは自分たちの言動に何一つの疑問も持たず、自分たちの行動が何もかも正しいと信じきっている。)

 

<三元論に基づく特殊技能>

#### 飛刀の妙技(具術)

**説明**: 李応は、飛刀(投げナイフ)を用いて的を正確に射抜く技能を持つ。この具術は、戦闘や暗殺など多岐にわたる場面で活用される。

- **効果**:

  - **道具性(とても濃い)**: この具術は、投げナイフやその他の投擲武器に強く依存する。

  - **思考性(中程度)**: 飛刀の軌道を計算し、正確に目標を狙うためには一定の思考力が必要。

  - **関係性(薄い)**: この具術は、主に李応自身の能力に依存し、他者との関係性には直接影響しない。

 

#### 適所察知(心術)

**説明**: 李応は、自分の力が最も活かされる場所を察知する能力を持つ。この心術は、戦場や戦略的な状況下で特に有用であり、彼の効率的な戦いを可能にする。

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、李応の洞察力と直感に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 適切な場所や状況を見極めるためには、高い洞察力と戦略的思考が求められる。

  - **関係性(中程度)**: この心術は、李応自身の位置取りを最適化するだけでなく、集団全体の配置や戦術にも影響を与える。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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【Kaikoden(水滸伝+α)制作メモ 005】柴進

柴進

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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柴進(さいしん/chái jìn)

<三元論に基づく個性判定>

5番 **とても強い生存欲求**、**強い知的欲求**、**とても強い存在欲求** - **「野心的協力者」** - 他者と協力しつつも、自身の野心(信義)を追求する。

 

<概要>

柴進(さいしん/chái jìn)、あだ名は小旋風(しょうせんぷう/xiǎo xuán fēng)。滄州(そうしゅう/cāng zhōu)の出身で、後周皇族の末裔。皇帝が禅譲(皇帝の位を別の血筋や組織に受け渡す事)した場合、その末裔に対して丹書鉄券(※下記参照)が適用される為、彼もまたその特権を有していた。柴大官人と呼ばれて人々から敬愛と尊敬の念を集める。作中では悪辣な官僚たちに貶められた林冲(りんちゅう/lín chōng)、宋江(そうこう/sòng jiāng)、武松(ぶしょう/wǔ sōng)などを助け、公正で義理堅く、財産を惜しみなく分け与えた。後に柴進の土地と屋敷を乗っ取ろうとした悪徳屋人の殷天錫(いんてんしゃく/yīn tiān xī)を、梁山泊勢力の李逵(りき/lǐ kuí)が義憤から成敗してしまったことから、その咎を一身に受ける形で高廉(こうれん/gāo lián)により死刑判決が下る。これに対して、梁山泊勢力の好漢たちが死刑執行前に襲撃を断行して彼を救出。これを機に、柴進は梁山泊勢力の一員となった。梁山泊の大聚義(百八人の英傑が全て合流した出来事)の際には序列第十位に位置。以後は主に財務管理を担当した。方臘(ほうろう/fāng là)を討伐する際には柯引(かいん/kē yǐn)と名を変え、内偵者として方臘軍に潜入をした。討伐後、横海軍の滄州都統制に任命されましたが、その後辞職して故郷に戻り、穏やかな余生を過ごした。

 

<丹書鉄券>

「丹書鉄券」とは、もともと古代の皇帝が功臣や重臣に授けた特権証書。朱砂で書かれた文書を鉄板に記していたため、この名前が付いた。偽造を防ぐ為、鉄券は半分に割って当人と朝廷がそれぞれの破片を保管した。その他、名前としては「丹書鉄契」「金書鉄券」「金券」「銀券」「世券」とも呼ばれ、民間では「免死牌」「免死金牌」とも評された。言うなれば「免罪符」であり、特別な功臣は世代を超えて優遇や免罪を保証されたのである。

 

※画像:百度百科より引用

 

宋代においては宋太祖趙匡胤皇位を奪取した後、民心を安定させるために柴氏の子孫を厚遇して丹書鉄券を授与した。この柴氏の特権は「罪を犯しても刑罰を受けない」というものであった。この実在の事象が『水滸伝』の柴進に適用されている。尚、時代によって特権の範囲や規模が異なり、『水滸伝』が書かれた明時代における鉄券制度は宋時代よりも厳密な規範が設けられた。その規範は「公爵は一等、侯爵は二等、伯爵は三等など、全七等に分類」「大きさは一等の公爵の鉄券は高さ1尺、幅1尺6寸5分であり、以後の等級は高さと幅がそれぞれ5分ずつ減少する」「謀反は免罪対象外となる」「免死の回数が減り、子孫には免死の特権が消滅した」といった具合であった。

 

<外見>

馬に乗るその人物は、龍の眉と鳳凰の目、白い歯と朱唇、三つの牙を覆う髭、三十四、五歳の姿であった。

 

<原型>

宋元時代の『大宋宣和遺事』において、"小旋風"の柴進は宋江の部下の三十六人の頭領の一人として登場している。同時期の龔開による『宋江三十六人讃』にも柴進が登場し、「風存大小、黒悪則惧。一嗯之微、香満太虚(彼が織り成す大小の風により、黒く悪しきものはみな恐れをなした。一声の微かなる音も、香りが太虚に満ちるように染み渡った。)」と讃えられている。この二つの文学作品は『水滸伝』の雛形または原型とされており、柴進の人物像もここから出発したものと考えられる。

 

<あだ名の考察>

梁山泊勢力の筆頭株として常に物語を賑やかす存在の「李逵(りき/lǐ kuí)」は、そのあだ名が「黒旋風」。一方の柴進は「小旋風」。単純に漢字表現のみを比較すると柴進の方が下位に属する人物かと感じられるが、この両者の優劣は全くつかず、お互いに個性も才能も活動範囲も完全に異なっている。作中では明確な説明はないので、後世の有識者が次のような考察を行っている。

 

- 「旋風」は金国の大砲の名前である。「三朝北盟会編」によれば、「金人攻東水門、矢石飛注如雨、或以磨磐及碡碌縛之、為旋風砲」と記されている。そして、「小旋風」の「小」は「大小」の小ではなく、「肖」として解釈されるべきである。つまり、「小旋風」は柴進の行動が大砲のような影響力のある人間である事を示している。

 

- 「旋風」は逆方向の二つの風が交差して形成される渦巻き風で、風速が非常に速く、砂土を巻き上げるものである。迷信や伝説では、旋風は「鬼差」とも見なされる。よって「小旋風」は、柴進が助けを求める人々を巻き込んで支援することを意味しているのではないか。

 

- 作家の金聖嘆は「旋風」が悪風を意味すると考えた。これは「その勢いは地から起こり、初めは灰を舞い上げ、次第に砂を吹き飛ばし、天地を暗くし、人と獣を驚かせる」という印象を与えるという。よって、柴進のあだ名が「小旋風」であるのは、特権を持って罪人たちと対等に接する彼を嘲笑する為の一種の皮肉な表現だったのではないかと彼は考えた。

 

<人物評価>

- 余象斗:柴進は財を施して貧者を救い、天星が英雄たちと交わるのを助け、風を四方に動かした重要な人物である。

 

- 李卓吾:朝廷側に属していた朱仝(しゅどう/zhū tóng)、雷横(らいおう/léi héng)、柴進(さいしん/chái jìn)は王法を顧みず、人情を重視した為、最終的には盗賊に成り下がってしまったと言える。また、水滸伝における「文(智絶)」の代表格が柴進であり、「武(勇絶)」の代表格が李逵(りき/lǐ kuí)だと考えられる。

 

- 金聖嘆:盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)と柴進(さいしん/chái jìn)は英雄として描かれているものの、ただの好客(人の良い)中級の人物であるとも考えられる。柴進(さいしん/chái jìn)を「旋風」と名付けるのは、彼を皮肉った表現である。

 

- 袁無涯:柴進の(好漢たちに投じた)千金はすべて侠気に満ち、燕青(えんせい/yàn qīng)がの弩(いしゆみ)はすべて義気に溢れ、石秀(せきしゅう/shí xiù)の跳躍はすべて正気に満ちている。

 

- 張恨水:彼が盗賊に成り下がるつもりはなかったとしても、江湖の山賊とは早くから通じていた。おそらくこうした行動の背景には、柴進の社会的な立ち位置がが関係している。宋の綱紀が乱れ、奸臣が権力を握った結果、柴家の禅譲の功績が長らく誰にも言及されなくなった。柴家は不自由なく宋の糧を食べていたが、自分たちが彼らから尊敬をされていない事を感じ取っていただろう。こうして考えてみれば、仮に唐州の一幕が無かったとしても、彼は遅かれ早かれ梁山泊勢力に加わっていたに違いない。

 

<三元論に基づく特殊技能>

#### 弁証の旋風(導術)

**説明**: 柴進は、人間同士の長所と短所を共に引き立たせ、集団の中に新しい価値や出来事を生み出す能力を持つ。この導術は、個々のメンバーの特性を理解し、それを最大限に融合・交流・衝突させる事により、旋風のような相乗効果を巻き起こす。

 

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この導術は、道具に依存せず、純粋に柴進の観察力と人間関係の理解に基づく。

  - **思考性(中程度)**: 柴進は、集団における個々の特性を見極め、何かが生まれ得る個性同士の組み合わせを無意識的に分析する。

  - **関係性(とても濃い)**: 柴進の導術は、集団において普段であれば交わらないであろう人員同士を自然と引き合わせ、弱点を補い合い、また長所を交差し合う鮮烈な関係を導く。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex04】宿元景 

宿元景

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)

<三元論に基づく個性判定>

50番 **とても弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「戦略的な理論家」** - 理論を駆使して目標を達成し、他者と協力することに価値を見出す。(※『械胡録』の宿元景は実在する北宋の功臣、范仲淹を原型とする。よって、個性判定は范仲淹に準拠する。)

 

<概要>

水滸伝』に登場する役人。物語では皇帝・徽宗の親信の官員であり、殿前太尉(軍司令官)に任じられている。容姿端麗で、髭はない。人柄は寛大で、部下に優しい。四姦(朝廷を腐敗させていた四人の奸臣)に反対する立場を貫き、朝廷では徽宗に民間の苦しみを訴え、忠臣良将を推薦していた。また梁山泊勢力についても肯定的で、彼らを制圧する軍事行動に異議を唱えると共に、招安(反体制集団の梁山泊勢力に恩赦を与えて朝廷に組み込む措置)を強く主張した。徽宗はこれを受け入れて詔を下し、宿元景はその詔を携えて梁山泊へ向かって招安を実現に導いた。この招安後、内憂外患の要因となっていた異民族の遼国や国内山賊集団の田虎を勢力を討伐するべく、梁山泊勢力を討伐隊に推薦した。

 

<考察>

水滸伝』という物語の重要なマクガフィン(物語の進行に強い影響を与える要素)となる宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)。仙女「九天玄女」が梁山泊の指導者となる宋江(そうこう/sòng jiāng)に三巻の天書を授けるという幻想的な場面があるが、その巻の一節に「遇宿重重喜(宿元景との出会いが歓喜をもたらすだろう)」と予言されている通り、梁山泊と宿元景との関係は極めて蜜月的だ。ただ、それにも関わらず登場の回数は少なく、存在感も強くないという不思議な人物である。この宿元景の言動を考察する中国の記事には、次のようなものが見受けられる。

 

- 燕青(えんせい/yàn qīng)が招安のために宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)のもとを訪ねた時、彼は宋江と一度会ったことがあるのをほとんど忘れていた。「遇宿重重喜」というのは九天玄女の一方的な願望に過ぎず、九天玄女宋江に描いた大きな餅に過ぎなかったのではないか?

- 同じ場面で燕青が宿元景に自分の目的を説明した際、彼はすぐには態度を明らかにしなかった。しかし文章を深読みすれば、その後に宿元景は燕青から差し出された金珠宝物を受け取るや否や、態度を改めているようにも感じられる。結局の所、彼もまた他の奸臣のように堕落した役人のひとりに過ぎなかったのではないか?

 

私は『械胡録』の制作において、梁山泊勢力を善として描く正道『水滸伝 七十回・百回・百二十回』『水滸後伝』と共に、朝廷勢力を善として描く詭道『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』の要素も織り込みたいと考えている。「梁山泊が善、朝廷が悪」というハリウッド方式が娯楽作品としては適切であろうが、私の論理学の師がドストエフスキー孔子である以上、人間や社会を極端に単層化する描き方は許されないと考えている。現実世界の人間の関係性というものは玉石と陰陽が入り混じる複層的なものであり、それゆえに「梁山泊、朝廷、それぞれに善悪が混合する」という状態として描きたい。したがって、悪辣な奸臣たちが無尽蔵に跋扈している『水滸伝』の世界に、「圧倒的な善と徳を持つ役人としての宿元景」を盛り込むべきであると私は考えている。その原型となるのは、先の個性判定でも触れた通り、実在の功臣である「范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)」となる。

 

<范仲淹の功績>

北宋の第四代皇帝・仁宗治世において、その善政に最大の貢献を果たした人物が范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)だ。彼の概要については既に前の記事で描いた通りである。以下はこれの補足として、宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)の原型となるその范仲淹の政治・文化の功績を記す。(※一部、前回の記事と重複する。)

 

- 「新政の実施」:慶暦3年(1043年)8月、范仲淹は北宋の内憂(官僚組織の巨大さと行政効率の低さ)と外患(遼と西夏が北方と西北の辺境を脅かしていた状況)に対応するため、《答手詔条陳十事》を提出し、十項目の改革綱領を提案した。これには、吏治の清浄化、科挙の改革、軍備の整備、徭役の減免、農業生産の発展などが含まれており、政治、経済、軍事、教育、科挙など各分野に渡った。この范仲淹の取り組みに、富弼(ふせつ/fù bì)や韓琦(かんき/hán qí)などの功臣たちも賛同し、改革が一気に推進した。この新政の短期間の実施により、政治状況は一新。官僚機構が簡素化され、科挙では実用的な議論文の評価が強調され、特別な才能を持つ者が抜擢されるようになった。また全国的に学校が普及した。しかし、慶暦5年(1045年)、一連の改革によって不利益を被った夏竦(かしょう/xià sǒng)ら改革反対派が、范仲淹たちを「混乱を引き起こす朋党(同じ思想や利害を共にする政治家の集団:いわゆる現代の政党)である」と非難。この政治闘争が朝廷を二分させてしまう。仁宗は范仲淹を支持する立場にあったが、反対派の勢いが凄まじく国政がままならなくなった事から、致し方なく改革を進めていた范仲淹や富弼などの功臣たちを左遷する決断を下した。こうして、「慶暦の新政」という国政改革はわずか一年しか実施されなかった。しかし、これが北宋の改革の先駆けとなり、後に王安石の「熙寧変法」へと繋がった。

 

- 海堤の修築:范仲淹が泰州西渓塩倉監に任命されたとき、4万人以上の民衆を徴発して海堤を再建した。これは天禧5年(1021年)から天聖4年(1026年)にかけて完了し、新しい堤防は通州、泰州、楚州を横断し、全長約200華里にも及んだ。これにより、当時の人々の生活、耕作、塩の生産が保障され、その後の災害防止にも重要な役割を果たす事となった。地元の人々はこの堤防を「范公堤」と名付け、その遺跡が現在でも残っている。

 

※画像:「百度百科」より引用

 

- 「蘇州の治水」:景祐元年(1034年)、蘇州は長雨による洪水で積水が退かず、良田が放棄され、農業生産が打撃を受け、民衆は飢餓に苦しんでいました。范仲淹は蘇州の知事に就任後、水性と地理環境に基づき、昆山と常熟の間の「五河」を開浚し、積水を太湖に導いて海に流す治水計画を提案した。范仲淹の治水計画は、「修囲、浚河、置閘(堤防の修復、河川の浚渫、閘門の設置)」を主とし、その成果は時代を越えて評価された。(浚渫とは、川底から土砂などの堆積物を取り除く作業の事。堆積物が溜まると河川が氾濫しやすくなる為、浚渫はこの危険を予防する効果がある。閘門は運河などに用いられる水量を調節するための堰。この設備があると、河の高低差を調整して船が円滑かつ安定して通過出来るようになる。)この治水策は南宋から元、明の時代にかけての二浙地方でも模範とされた。

 

- 「災害救済」:明道2年(1033年)7月、全国的に大旱魃と蝗害が発生。江淮と京東一帯は特に深刻な被害を受けた。范仲淹は仁宗の詔を受けて災害救済を行い、倉庫を開いて民衆を救済した。また、災民が飢えをしのぐために食べていた野草を朝廷に持ち帰り、贅沢三昧の日々を送っていた六宮(皇后の住居)の貴族に戒めを与えました。(自然災害によって食を失った流民たちは野草で飢えをしのぐ事が多かったが、植物学の知識を持たない者が多く毒草を口にしてしまう者も多く、それによっても大勢の命が失われた。彼らがどれだけ悲惨な状態であったか。飽食の時代を生きる現代人同様、六宮の人々もまったく想像が出来なかった事だろう。)

 

- 「災害救済」:皇祐2年(1050年)、呉中で大飢饉が発生。この時、浙西を主管していた范仲淹は、一方で糧食を調達して救済し、他方で大規模な土木工事を実施し、民衆を雇用して官府が毎日の飲食を提供した。この方法で数万人の日々の生活が安定し、杭州の状況は落ち着き、災民の流出は生じなかった。また皇祐3年(1051年)、青州の知事を務めていた際も、河朔の飢饉に際して同様の策を実施し、糧価を安定させ、青州の民衆が困難な時期を乗り越える手助けを敢行した。

 

- 「軍事改革」:康定元年(1040年)、范仲淹は西北前線に派遣され、辺防の主将を務めた。西北地区の広大で人が少なく、山谷が交錯し、地形が険しい特徴に対して、范仲淹は「積極防御」の戦略を提案。要害地に城寨を築き、防御工事の強化と辺塞の軍隊の訓練を徹底する事で、防御を攻撃の手段とすることを目指した。

 

- 「軍事改革」:軍隊制度では、官職による兵の指揮を廃止し、敵情に応じた戦術を取るために戦将を選んだ。また、営田制を設けて軍需を解決し、軍隊の姿を一新し、応変能力と作戦能力を大幅に向上させた。防御工事の面では、城寨を築き、城池を修復し、烽火台を建設して、大順城を中心とする堅固な戦略体系を形成した。沿辺の少数民族に対しては、誠心誠意で接して団結を促し、寛大な待遇と厳格な賞罰規約を提供して信頼関係を築いた。これにより、西北軍には狄青、種世衡、郭逵などの名将が現れ、張亢、王信、周美なども范仲淹により抜擢された。また、強悍で戦いを恐れない兵士を訓練し、この軍隊は北宋末年まで宋朝の一大強力軍となった。

 

- 「軍事改革」:范仲淹の積極防御の思想は西北の軍事防衛に根本的な変化をもたらし、辺境の状況が抜本的に改善された。慶暦4年(1044年)、北宋西夏は最終的に合意を結び、西北の辺境は再び平和を取り戻している。北宋西夏のこの和議締結は、范仲淹の功績なくして絶対に実現しなかった。

 

- 「教育方略」:范仲淹は教育改革者としての功績も大きい。主なものでは、慶暦の学興、北宋三次の学興、義学、蘇州文廟府学、嘉嶺書院、稽山書院、花洲書院などが挙げられる。

 

- 「教育改革」:范仲淹は儒家の正統な教育思想を受け継ぎ、発展させ、「興学」を人材育成と救世の根本手段に位置付けた。『上執政書』では、「重名器」(慎重な選挙、教育の重視)を明確に提唱し、当時の科挙が試験で人材を選んだ。当時の教育を軽視する世情について、「耕作せずに収穫を求めるようなものだ」と喩え、「学問を勧めて才能を育てる」ことを主張し、科挙と教育を結びつけることを復古しようとした。

 

- 「教育改革」:慶暦年間の政権時、范仲淹は「復古興学校,取士本行実」を再び提案し、科挙試験制度の改革、教育システムの整備、学堂の管理強化に力を注いだ。各地でも勅命に従い学校が建設され、地方の学堂が雨後の筍のように次々と出現した。これによって人材育成が躍進した。

 

- 「教育改革」:教師の選抜では、范仲淹は名師を育てることを提唱し、抽象的な学問ではなく、実務と実学を最重要視した。こうして范仲淹は教師の育成と選抜に力を入れ、「師道」を教育の中心に据えた。彼が推薦した名師には、胡瑗、李觏などがあり、いずれも北宋の著名な教育家として歴史に名を残している。また教育内容について、范仲淹は「宗経」を提唱し、儒家の経典を通じて「六経」に通じ、国を治める術を身につけた人材を育てることを重視した。同時に、算学、医薬、軍事などの基本技能も兼ね備えた実用的な人材を育てる事に努めた。

 

- 「教育改革」:政治闘争に果敢に立ち向かった范仲淹は、幾度となく左遷させられ各地を転々としたが、どこに派遣されても学堂を設立した。その教育の恩恵が広く行き渡った事は言うまでもない。晩年には義田を設け、義学を建て、族中の子弟に無料教育を施し、「読書の美」を奨励した。范氏義学は族人の教化、社会の安定、風俗の改善に大きな成功を収め、中国古代の基礎教育段階での無料教育の新しい風潮を切り開いた。

 

- 「論理学改革」:宋の建国から仁宗に至る70余年の間、朝廷は基本的には祖宗の家法に従って循谨(法の遵守)を重んじてはいたが、その一方で浮華奢靡(娯楽的で軽率な文調が尊ばれる様子:現代日本にすっかり馴染んでいる消費的な文化の氾濫状態のようなもの)が横行していた。范仲淹は学識を伴う言葉(文章)こそが政治の重要な有機的構成部分であり、社会の風俗や国家の興亡に直接関わるものであると主張。范仲淹は宋初文壇の柔靡な文風に断固反対し、宗経復古、文質相救、風化を厚くする文学思想を提唱。范仲淹の文章は、政治に立脚し、文学に依存せず、揚雄、王勃、韓愈、柳宗元などの宋初の復古文論と同じ価値観を持っており、歴史的意義と復古精神を体現した。これは宋初の文風改革に多大なる影響を与えた。

 

- 「論理学改革」:散文創作では、范仲淹の作品は政疏と書信が多く、時政を述べ、厳密な論理性に基づく強い説得力が示された。蘇軾は《上政事書》を「天下に伝わり読まれる」と評した。《灵乌赋》では「宁鸣而死,不默而生(鳴いて死ぬことを寧んで、黙して生きることをしない)」という彼らしい義の心が示された名句が示されている。また彼の名作《岳阳楼记》では、友人に「物に喜ばず、己に悲しまず」という中庸の精神を体現するものであり、その文章は記叙、景写、抒情、議論を一体化させ、動と静が生まれ、思想境界の高いものであった。「先天下之忧而忧,后天下之乐而乐(天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみの後に楽しむ)」は千古の名句となった。

 

- 「論理学改革」:詩歌において、彼は孟子の「浩然の気」を継承し、曹丕の「文気説」、陸機、鐘嶷の「感物説」と「天人合一」の詩学思想を融合させた。その上で、范仲淹は「范围一气、与时消息(一気を込め、時と共に消息させよ)」という原理を主張。詩人の創作の衝動と意向が大道の「一気」を継承するべきであり、それによって万物に感じ、万物を通じて表現できると考えた。そして「与時消息」は、劉勰の「情のために文を作る」という観念と、白居易の「文章は時のために著し、歌詩は事のために作る」の主張を継承するものであり、政治教化と情感の文作りを有機的に結びつけた。范仲淹は宋初詩壇の盲目的模倣と無病呻吟を批判し、詩歌創作は現実生活に忠実であるべきであり、空言ではないと主張した。

 

- 「論理学改革」:范仲淹の詩歌は305首が現存し、その内容は広範囲に亘る。志を言い感懐を述べ、偉大な政治抱負を表現したり、民生に関心を寄せて憂国憂民の情懐を発揮したり、山水を記し、祖国の美しい風景を称賛したり、物を咏じて興を寄せ、自己の人格操守を示したりした。詩意は純粋で真実味があり、芸術手法は多様で、清を美とする特徴が際立ち、文を詩にし、議論化の傾向が非常に明確であった。白描手法と叠字の使用にも注意を払い、当時の白体、晚唐体および西昆体とは異なる風貌を呈し、宋初の詩歌が唐音から宋調へと転換する重要な道筋を示した。

 

- 「論理学改革」:《渔家傲·秋思》では、辺塞の生活の困難を反映し、侵略に反対し、辺防を強化する決意と意志を表現し、外患未除、功業未成、長く辺地に駐屯し、兵士が故郷を思う複雑な心情が描かれている。范仲淹以前には、詞という新しい詩体形式で辺塞生活を描写する人はほとんどおらず、唐人韋應物の《調笑令·胡馬》に「辺草無窮日暮」とあるが、これは生活の基礎的な描写が欠けていた。范仲淹の詞は実際には辺塞詞の創始者だと考えられる。その内容とスタイルは宋代の豪放詞と愛国詞の創作に直接影響を与え、詞の世界に新たな美学の境地を開き、宋詞が社会生活と現実の人生に密接に関連する創作方向を導いた。《剔銀燈·与欧陽公席上分題》と《定風波·自前二府鎮穰下營百花洲親制》の二詞は、歴史を読み、風景を詠じ、題材が広く、艶情とは無関係である。これは北宋前期の詞壇の創作スタイルと合致している。

 

- 「論理学改革」:范仲淹の艶情の詞作には、《蘇幕遮·懐旧》と《御街行·秋日懐旧》がある。これらは広大な時空背景を描写しており、同時代の他の詞人の「小園香径」「庭院深深」の狭小な環境とは全く異なっている。その真摯で感動的なスタイルが宋人の創作観念を大きく変え、詞壇の創作風気の変遷を導き、後世の詞壇に深い影響を与えた。

 

- 「書法の業績」:范仲淹は書道にも優れていた。黄庭堅の『山谷題跋』は「范文正公の書は筆を落とすと痛快で沈着、晋宋人の書に非常に近い。」「范文正公の書『伯夷頌』は前人の筆意を見事に極めている。正書は容易に習得できるが、小楷は清々しく力強い精神を込める事が難しいが、彼はこれを体得している。」と評価している。また朱長文の『続書断』は、范仲淹の晩年に王羲之の『楽毅論』を学んだ点を高く評価し、「彼の筆は一代の墨宝である」と述べている。他、明の唐錦が著した『龙江梦余录』は、范仲淹の書を「非常に力強く美しいが、筆先が乱れることはない」と評価。時代を経て清の高士奇も范仲淹の書に感銘を受け、「力強く美しい。まさに彼の人格を写している。」と称賛している。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex03】范仲淹

范仲淹

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex03】范仲淹  記事

コラム

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近藤祥紀

2024/05/24 23:56

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※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)

 

<三元論に基づく個性判定>

50番 **とても弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「戦略的な理論家」** - 理論を駆使して目標を達成し、他者と協力することに価値を見出す。

 

<概要>

水滸伝』の第一回(序章)のみに登場する人物。実在の人物である。以下に実在の范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)の事項を記す。

 

范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān:989年10月1日〜1052年6月19日)の字は希文。祖籍は邠州だが、その後に蘇州呉県(現在の江蘇省蘇州市)に移住した。北宋時代の傑出した政治家、文学者であり、歴史上においても功臣として名の上がる大人物である。幼少期に父を失い、母の謝夫人が長山の朱氏に再婚したため、范仲淹も朱説と改名。大中祥符八年(1015年)、彼は苦学の末に及第し、広徳軍司理参軍に任命される。その後は興化県令、秘閣校理、陳州通判、蘇州知州、開封府の権知を歴任したが、あまりに公正な発言を行う為に上官たちと衝突し、何度も左遷を命じられた。宋夏戦争が勃発すると、康定元年(1040年)、韓琦(かんき/hán qí)と共に陝西経略安撫招討副使に任命され、西北辺境の強化と宋夏和議に大きく貢献した。西北の情勢が安定すると、皇帝の仁宗は范仲淹を朝廷に召し、枢密副使に任命。その後は参知政事に任じられ、『答手詔条陳十事』の上奏、「慶歴の新政」の発起など、国内の大改革を次々に推進した。しかし、この改革は対立勢力の妨害によって短期間で挫折する事となり、范仲淹は自ら京師(東京、開封と同義)を離れ、邠州、邓州、杭州青州の知州を歴任する事となった。そして皇祐四年(1052年)、頴州知州に転任する途中で病没する。享年64歳。仁宗は彼の碑額に「褒賢之碑」と自ら書き、後に太師、中書令兼尚書令、魏国公の追贈がなされ、諡号として「文正」が贈られた。後世においてはその功績を讃えて「范文正公」と称された。清代以降にもその名が轟き、孔子廟や歴代帝王廟に祀られている。

 

<性格>

范仲淹は文武両道に秀で、智謀に優れ、朝廷での政務や辺境の守備において国家の安危と重責を一身に背負っていた。彼が主導した慶歴の改革運動は短期間であったが(孔子が一時的に魯国の大司空として政治改革を行った時とよく似ている気がする)、まぎれもなく北宋の国内改革の先駆けとなり、これが後の王安石による「熙寧の変法」へと繋がった。文学的な成果も著しく、彼が提唱した「先天下の憂いを憂い、後天下の楽を楽しむ」という基本思想、そしてその高潔な人品は後世に大きな影響を与えた。彼の文集『范文正公文集』が現在にも伝わっている。

 

孔子を彷彿とさせる清廉かつ強靭な正義感>

天聖七年(1029年)、13歳で即位した仁宗は19歳になっていたが、朝政の主導権を握っていたのは依然として劉太后であった。(幼年期に皇帝が即位した場合、中国では皇后や皇太后などの女性が権力を握る体制を取る事があった。)この時、冬至に仁宗は百官を率いて会慶殿で劉太后の寿を祝おうとしたが、范仲淹はこれに猛反対。その理由は「家礼と国礼を混同している」というものであった。(つまり、我々現代日本の政治家でもお馴染みの「組織を私物化してはならない!それでは政治が腐敗をしてしまう!」という指摘であった。国と民の事を一心に考えていなければ、絶対に行われる事のない進言であると言える。)范仲淹は上疏して仁宗に儀式を取りやめるように申し出たが、内廷への報告後も返答はなかった。范仲淹は再び劉太后に上書し、政権を仁宗に返すよう請願したが、これも無視された。晏殊(あんしゅ/yàn shū:兵部侍郎・資政殿学士・翰林侍読学士・秘書監という要職を兼任していた人物)はその范仲淹の上疏を知って非常に驚いて彼を批判したが、一方の范仲淹は徹底的に理を尽くして反論し、自身の政治立場を堂々と示した。加えて、彼は「朝廷に有益な事は公正に発言し、たとえ命を落とす危険があっても惜しまない」と断言した。

 

天聖八年(1030年)、范仲淹は地方官を希望し、河中府通判に任じられた。翌年、陳州通判に転任。地方に向かっても、彼は「遠く離れた江湖にあっても国を憂う心は変わらない」と述べ、何度も朝廷に上疏して問題提議を行った。例えば朝廷は太一宮と洪福院の建設を計画していたが、范仲淹は「大規模な土木工事は民を疲弊させる」として中止を提案した。 [46-47]吏治(地方政府の管理体制)について、郡県の削減と官吏の精選を主張し、中央から直接官を授けることの害を訴えた。一方で現実的な側面にもしっかり目を向け、職田(役人が貰い受ける田畑)の罷免を行わないよう提案。官吏の生活が保障されなければ廉潔な政治は不可能であると述べた。こうした范仲淹の上疏はひとつとして採用されなかったのだが、その熱意に満ちた忠心は仁宗をひどく感動させる事となった。

 

明道二年(1033年)、劉太后崩御した。ここから仁宗による親政(皇帝ひとりが政治の主導権を握る体制)が開始。仁宗はこれまでの信頼から范仲淹を京に召して右司諫に任じた。多くの官僚が劉太后のでたらめだった失政を批判したが、范仲淹は太后が仁宗を養育した功績を評価し、太后の過失を咎めないよう進言。仁宗はそれを受け入れ、太后に対する議論の禁止を命じた。これと同時期、仁宗は劉太后の死後に楊太妃を皇太后に立てようとしたが、范仲淹は頻繁に太后を立てることが皇帝の親政を妨げると主張。仁宗はこの意見も受け入れた。

 

同年七月には全国的な旱魃と蝗害が発生し、江淮や京東一帯が特に被害を受けた。范仲淹は朝廷に視察団を派遣するよう提案したが、仁宗は最初、これを無視した。范仲淹は民の苦しみを理解せず、国難の迅速な対策を看過しようとする仁宗に迫り、「もしこの宮中で半日でも食事を止めたらどうなるか?」と厳しく問いた。彼との会話で仁宗はようやく事態と使命を把握し、范仲淹を派遣して災民を慰撫させた。この時、范仲淹は倉を開けて民に食料を提供し、自身は野草を持ち帰って六宮の貴族の日々の贅沢を強く戒めた。

 

明道二年(1033年)冬、郭皇后と仁宗の関係がいよいよ悪化。(中国ドラマ『孤城閉(2019)』などでも描かれていた題材。仁宗はもともと左骁騎衛上将軍の曾孫娘である張氏を娶りたいと考えていたが、劉太后を後ろ盾とする郭氏を皇后に立てられた。この郭皇后は非常に嫉妬深く、仁宗の言動を厳しく監視し、彼が他の宮女や妃嬪に近づくのを許さない独占欲の強い女性だった。仁宗は彼女が皇后になってから長らく不満を抱いていたが、国政を混乱させない為にずっと我慢をしていたという。)宰相の呂夷簡が郭皇后との不和を理由に廃后(離婚)を主張したが、これに対して范仲淹は国家の規律や倫理が乱れるとして大反対。これには他の官僚も范仲淹に賛同した。范仲淹らは御史中丞の孔道輔、侍御史の蒋堂、段少連など十数人と共に垂拱殿外で跪伏して廃后の取りやめを請願したが、仁宗は面会せず、呂夷簡が説明に来た。范仲淹らは呂夷簡と論争し、最終的に呂夷簡は言い負ける形となった。翌日、范仲淹らは早朝後に再度百官を集め、宰相と論争することを計画したが、朝廷から范仲淹を睦州知州に外放する詔書が下され、孔道輔らも左遷された。河陽にいた功臣の富弼(ふひつ/fù bì)は、そのような短絡的な理由で忠義ある家臣が地方に飛ばされることは国益を損なうと考え、すぐさま范仲淹の左遷を解いて京に召し返すよう上奏したが、これは受け入れられなかった。

 

<景祐の党争>

景祐元年(1034年)、范仲淹は蘇州知州に転任し、南園の地を拓いて郡学(高騰学問機関)を興すと共に、蘇州での治水事業を成功に導いた。その翌年(1035年)に京に戻される事となり、国子監の判官に任命された。彼は京城(状態)権力構造が混迷し、これが弊政に繋がっていると考え、景祐三年(1036年)に『百官図』を仁宗に献じた。これは宰相の呂夷簡が朝政を掌握し過ぎているという人事制度を批判するものであった。当然、槍玉に挙げられた呂夷簡は范仲淹を誹謗し、「范国子監は朋党を結んで君臣の離間を図っている」と弾劾した。それでも范仲淹は連続して上奏し、呂夷簡の奸計を批判したが、その言動があまりに激しかった為に罷免される事となり、またも左遷が決まった。その後、御史の韓渎(かんどく/hán dú)は范仲淹の朋党の名前を列挙し、これを仁宗に告発。この権力争いは秘書丞の余靖(よせい/yú jìng)や太子中允の尹洙(いんしゅ/yǐn zhū)、館閣校勘の欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)なども巻き込まれる大騒ぎとなった。このように各方面で恨みを買ってしまった事もあり、范仲淹は京を離れて左遷先の饒州知州に向かおうという時、ほとんど見送りの者がいなかった。そこには龍図閣直学士の李紘(りこう/lǐ hóng)と集賢校理の王質(おうしつ/wáng zhì)のみが餞行(送別の宴)した。事態が変わるのは翌年、景祐四年(1037年)に呂夷簡が宰相を罷免されてからである。強者が舞台から消えた途端に士大夫たちが連続して范仲淹を弁護するようになり、再び朋党の論争が再燃した。仁宗は宰相の張士遜に尋ね、朋党を結ぶことを禁止した。 この新体制においても范仲淹は人事制度や国内政策を巡って諫言を続け、その為に何度も左遷された。詩人で官僚の梅尧臣(ばいぎょうしん/méi yáo chén)は范仲淹の行く末を案じて、『霊烏賦』という詩を作り、それを通じて彼に「少しだけ口を閉じて、閑事に干渉しない方が良い」と勧めた。これを受けた范仲淹は「鳴いて死ぬとも、黙して生きることはない」と返答。民のために命を懸ける覚悟を強烈に示した。

 

<西北の防衛戦>

宝元元年(1038年)、西北の党項首領・李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が称帝し、大夏西夏)を建国。これによって宋王朝との外交状態が断絶した。翌年(1039年)、西夏宋王朝に国家の地位を認めさせる為、宋領の侵攻を開始。三川口の戦いで宋軍を大敗を喫した。康定元年(1040年)三月、辺境の情勢が緊迫。仁宗はただちに范仲淹を召し戻し、永興軍知事に任命した。同年七月、范仲淹は龍図閣直学士に昇進し、韓琦と共に陝西経略安撫副使に任命され、安撫使である夏竦(かそん/xià sǒng)の副官となった。 同年八月、范仲淹は延州知事を兼任した。ここで范仲淹は軍制を改革し、部隊訓練を強化した上で、輪番による戦闘体制を組んだ。例えば、かつては敵軍の規模に関係なく馬步軍が統兵万余人、兵馬鈐轄が五千、兵馬都監が三千を率い、官卑者が先に出撃するという体制が取られていた。しかし、これでは人材の流動性に偏りが出てしまう為、范仲淹は州の兵を一万八千人に検閲し、これを六部に分け、各部に将を置き、訓練を強化し、敵の寡多に応じて出撃させる体制とした。こうした改革によって、宋軍は塞門諸寨の奪回に成功。余剰した人材を用いて金明寨、万安城などの修復も完了させた。同年九月、范仲淹は将軍の任福を派遣して白豹城を攻略し、西夏軍を撤退させた。また、文武両面で才覚を発揮していた狄青(さいじょう/dí qīng:一兵卒から将軍にまで異例の出世を果たす物語のような兵士)らを派遣して西界芦子平を奪取。種世衡(しゅせいしょう/zhǒng shì héng)には青涧城を築かせ、攻防両面の体制を整えた。十月には朱観(しゅかん/zhū guān)などを派遣して西夏の洪州界郭壁など十余寨を破り、修復を終えた青涧城と鄜城を軍事基地として、辺費の節約を行った。仁宗はこの軍隊を「康定軍(康定元年に生まれた新たな軍)」と命名。十二月、朝廷は韓琦(かんき/hán qí)、尹洙(いんちゅう/yǐn zhū)の策を採用し、次年(1041年)正月上旬に泾原、鄜延の両路から同時に出兵を開始しようとする。これによって西夏を大規模に討伐する事を図ったが、范仲淹はまだ十分に軍力が整っていないと主張。今は攻撃よりも防御を重視し、小規模に出撃するべきだと訴え、最終的にはこの意見が採用された。この西北での防衛期間中、范仲淹は狄青(さいじょう/dí qīng)・種世衡(しゅせいしょう/zhǒng shì héng)・郭逵(かくり/guō kuí)などの有能な将領を育成した。これは范仲淹の行動を全面的に支援した張亢(ちょうこう/zhāng kàng)、王信(おうしん/wáng xìn)、范恪(はんらく/fàn kè)、周美(しゅうめい/zhōu měi)などの力も大きかった。

 

康定二年(1041年)一月、范仲淹は承平、永平などの要塞を修築し、旧要塞十二座を城に改築した上で、敵側が国力を高めるのを防ぐ為、周辺の流民や羌族(チャン族:西部を拠点とするチベット系の遊牧民族)を宋王朝に帰順(亡命)させるよう上奏した。同年二月、西夏側に動きがあり、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が渭州に進攻。これに対して仁宗は夏竦(かそん/xià sǒng)が進言した反撃計画を承認し、これを受けて韓琦(かんき/hán qí)が尹洙(いんちゅう/yǐn zhū)を范仲淹のもとに派遣して同時発兵を要請したが、范仲淹はこれもまた時期尚早として従わなかった。結果、韓琦(かんき/hán qí)は環慶路副都部署の任福を派遣して出撃させたが、西夏軍に惨敗。任福ら16将が戦死し、万余の兵を失った。同年四月、仁宗は夏竦(かそん/xià sǒng)を豪州通判に降格し、范仲淹を耀州知事に任じた。 同年五月、范仲淹は慶州知事に転任し、環慶路都部署司事を兼任した。この時、西夏李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)は羌族との連携を行っており、環慶路の酋長六百余人を案内役として活用していた。范仲淹は兼ねてより注目していたこの到任後、朝廷の名義で羌族の各部を慰撫して回り、彼らと条約を締結し、更に賞罰の基準を厳明に示した。これによって羌族宋王朝を信頼して西夏から離脱し、范仲淹の算段通りに帰順をした。范仲淹はさらに大順城を修築し、白豹城、金湯城一帯の西夏軍の進攻を阻止した後、細腰、胡盧などの軍塞も刷新。これによって敵軍の通行路が切断され、明珠、滅臧の両部族も安心して宋王朝に帰順する事に繋がった。

 

いよいよ戦争が終幕に近づく。慶歴二年(1042年)九月、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が二路に分兵し、再び大規模に宋軍を攻撃した。泾原路経略安撫招討使の王沿(おうえん/wáng yán)はこの西夏軍の進攻を知り、すぐに副使の葛懐敏(かつかいびん/gě huái mǐn)に阻撃を命じたが、定川寨の戦いで宋軍は大敗。当の葛懐敏(かつかいびん/gě huái mǐn)を含めた16将が戦死し、9400余の兵を失った。李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)はこの勝利で勢いづいてそのまま潘原に進攻。関中の地域周辺に住まう人々が宋王朝の瓦解を明確に感じる程、緊張感が高まった。同年十月、范仲淹は六千の軍を率いて邠州、泾州から援軍を輸送。勢いに乗っていた西夏軍はこの精鋭部隊を前に見る影もなく撤退した。この勝利の知らせが朝廷に伝わると、仁宗は「范仲淹が援軍に出れば安心だ」と大いに喜び、彼の軍事才能を高く称賛。そして、仁宗は彼に枢密直学士、右諫議大夫、鄜延路都部署、経略安撫招討使の肩書きを新たに与えた。同年十一月、仁宗は范仲淹の提案を受け入れ、陝西路に安撫・経略・招討使という役職を復置させる事として、これは范仲淹・韓琦(かんき/hán qí)・庞籍(ほうせき/páng jí)が職事を分担した。また范仲淹と韓琦は泾州に官第を設け、文彦博(ぶんしゅんはく/wén yàn bó)、滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)、張亢(ちょうこう/zhāng kàng)が、秦州、慶州、渭州をそれぞれ管理した。西夏軍は宋王朝を圧倒する軍力があったが、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が無計画に度重なる戦役を行っていた為に疲弊していた。これにより、両国は和議への交渉を開始。以後、大規模な戦闘はなく、最終的には慶暦四年(1044年)に完全な休戦の和議へと至った。和議の内容は以下の通りであった。

 

『慶暦和議』

西夏は宋に対して臣下の礼を取ること。李元昊は宋の封号を受け入れること。宋夏戦争中に双方が掠奪した将校、兵士、民衆は返還しないこと。今後は双方の境界を越えて他方の領土に逃げた人々を追撃しないこと。逃亡者を相互に返還すること。宋朝戦争中に西夏が占領した宋朝の領土およびその他の境界の蕃漢居住地はすべて宋朝に帰属すること。双方は自国領土内に城砦を建設できること。宋朝は毎年西夏に銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を賜ること。さらに毎年様々な祭日に銀2.2万両、絹2.3万匹、茶1万斤を賜ること。

 

この和議に至るまで、范仲淹は命令を明確にし、兵士を愛護し、帰順してきた羌人には誠実に接し、彼らを信頼して恭謙の姿勢を徹底した。この圧倒的な存在感により、和議が成立するまで西夏軍が范仲淹の統轄地を侵す事は一度もなかった。

 

<慶歴の新政に参画>

和議の交渉が続いて、だいぶ情勢が落ち着きを取り戻していた慶歴三年(1043年)。仁宗は范仲淹を京に召し、枢密副使に任じた。また仁宗はこの戦いにおいて范仲淹の厳しい進言がほとんど常に有効であった事を改めて感じたので、諫官(皇帝の過ちを正すよう諫言する職務)を設けて、范仲淹同様に優れた見識を有する欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)、余靖(よせい/yú jìng)、王素(おうそ/wáng sù)、蔡襄(さいじょう/cài xiāng)の四名を抜擢した。同年六月、この四名の諫官が「范仲淹に宰相の才能がある」と上奏した為、仁宗は彼を参知政事に任命しようとしたが、范仲淹は自分にその役は務まらないとして辞退をした。同年八月、仁宗は副相の王舉正(おうきょせい/wáng jǔ zhèng)を罷免し、再び范仲淹を参知政事に任命した。ここで仁宗は輔臣の構成を調整し、范仲淹、富弼(ふせつ/fù bì)、韓琦(かんき/hán qí)が同時に執政し、上述の四名が諫官となる体制を組んだ。その後、仁宗は幾度となく国政の諸課題に対して范仲淹、富弼らを召し、大事を相談した。范仲淹は朝廷の弊政が長く続いており、一朝一夕には変えられないと述べた。

 

<国内改革の断行と頓挫>

- 范仲淹は仁宗に国防政策として『答手詔条陳十事』を上奏し、「明黜陟、抑侥幸、精貢挙、擇長官、均公田、厚農桑、修武備、減徭役、推恩信、重命令(人事の登用と解任を明確にし、不当な利益や幸運を抑制し、貢挙[科挙試験]を精緻にし、長官を適切に選び、公田[公共の土地]を均等に配分し、農業と養蚕を重視し、軍備を整え、徭役[平民の軍事労働]を減らし、恩恵と信義を推進し、命令を重んじるべし)」の十事を提案した。仁宗はこれを受け入れ、詔書を統一して頒布したが、この「府兵法」は宰相の反対で中止された。范仲淹は内容を改めて今度は四策を仁宗に上奏し、「一曰和、二曰守、三曰戦、四曰備」を主軸の政策として、具体的に七事(一:密に経略を為す、二:兵屯を再議する、三:遣将を専らにする、四:教戦を急ぐ、五:義勇を訓練する、六:京師外城を修築する、七:討伐の計を密定する。)を実行するよう提案した。また、相権を拡大し、宰相が軍事や官吏の昇進などの権力を行使できるよう提案した。この改革の広度と深度は仁宗の全面的な受け入れもあり勢いよく進んだが、これまで既得権益を有していた家臣たちにとっては不利益な点が多かった為、徐々に新政への批判が増えていった。ここで范仲淹らの改革派を「朋党」とする議論が再燃。ここで辺事(国境地帯の武力衝突)が起きた為、仁宗は范仲淹を陝西、河東の宣撫使に任命して鎮圧を命じた。慶歴五年(1045年)正月、范仲淹の改革に反対する声がますます激化。范仲淹は邠州知州に転任を求め、仁宗が致し方なくこれを承認。范仲淹は参知政事の職を罷免され、資政殿学士、邠州知州(邠州長官)に改めた後、陝西四路辺の安撫使を兼任した。同年冬十一月、范仲淹は病気のため四路帥任の解任と邓州知州(邓州長官)の転任を上奏。仁宗はこれを承認。范仲淹、富弼(ふせつ/fù bì)ら功臣が京を離れると、国内改革を断行していた新政が一気に瓦解。わずか一年余りで仁宗と范仲淹の改革の夢が潰える事になった。

 

<晩年>

慶歴六年(1046年)、范仲淹は邓州任所に到着し、覧秀亭を修築し、春風閣を築き、百花洲を造営し、花洲書院を設立し、閑暇には書院で講学した。これによって邓州の文運(学問活動)が大いに振興した。この時、尹洙(いんしゅ/yǐn zhū)が筠州に左遷されられており、当地で病に苦しんでいた為、范仲淹は尹洙を邓州に迎えて養病させた。 慶歴八年(1048年)、仁宗は范仲淹を荊南府知州に調任する詔を下したが、邓州の人民が熱烈に挽留を行い(ここにいてくださいと引き留める事)、范仲淹自身も邓州を好んでいたため、朝廷に奏請して留任した。こうして范仲淹は邓州に三年間在任し、平民たちは安居楽業の素晴らしい日々を過ごした。『岳陽楼記』など、范仲淹の優れた詩文の多くがこの地で書かれている。皇祐元年(1049年)、范仲淹は杭州知州(杭州知事)に転任。弟子たちは范仲淹が隠退を望んでいると考え、田産を購入して安享晩年を送って貰おうとしたが、范仲淹はそうした施しを受ける程の徳は私にはないとして頑固に受け取りを辞退した。同年十月、范仲淹は自身で千畝の良田を購入し、兄の范仲温に賢人を探して経営させ、范氏義荘を設立し、遠祖の子孫に食糧を義贈し、婚葬などの費用を援助した。皇祐三年(1051年)、范仲淹は戸部侍郎に昇進し、青州知州(青州知事)に転任。この時から冬の寒さで病が重くなり、頴州の異動を願い出た。皇祐四年(1052年)正月、仁宗は范仲淹を頴州知州(頴州知事)に調任。范仲淹は病を押して赴任したが、そのまま病が癒える事はなく、五月二十日(6月19日)に徐州で逝去した。享年64歳。同年十二月、河南洛陽県尹樊里万安山下に葬られた。

 

<仁宗の悼み>

范仲淹の病中、仁宗はしばしば薬を送って彼を慰問した。范仲淹が亡くなったと聞いた時、仁宗はひどく悲嘆に暮れたという。葬儀の後、仁宗は自ら范仲淹の墓碑に「褒賢之碑」と書き、兵部尚書を追贈し、諡号の「文正」を贈った。その後、彼を太師、中書令兼尚書令、楚国公に追封して、生前の功績を大いに讃えたのだった。

 

<朋友の評価>

- 王陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū):范仲淹は若くして大節を持ち、富貴や貧賤、毀誉や歓戚に心を動かされず、天下に志を抱き、『士は天下の憂いを先にし、天下の楽を後にすべし』と自ら誦していた。将としての構えは実に重く、小さな功利を急がなかった。

 

- 韓琦(かんき/hán qí):范仲淹は王佐の才を持ち、非凡な君主に仕えて忠誠を尽くし、知るべきを全うし、危言鯁論を立て、身を織り、義を取られ、天下の正人の道を開き、災を南方に恤し、寇を西垂に扞ぎ、機政を補佐し、宏謀大策を実行し、朝思夕慮し、深切な条疏を立て、志を膏澤中夏に膏し、四夷を鞭笞し、宋の基を万世に不抜としようとした。だが不幸にして、遠くを見、近きを責め、大を識し、寡を合するその態度が周囲に受け入れれず、彼の言は行われず、また行われたものも阻止されることが多かった。

 

- 蔡襄(さいじょう/cài xiāng):范仲淹がこの世を去った後、遺産は残らなかった。だが、君国に忠義を尽くし、親友に義を尽くし、進退安危を問わず志を変えなかった彼の姿を見るに、その立身の大節は明らかである。

 

- 蘇軾(そしょく/sū shì):范仲淹は名相であり、名賢であり、後に憂い、先に喜んだ。天を経緯し、諡を宜然とし、賢哉斯詣であり、後を超え、前を空にした。また天聖中において、太夫人の憂いに居し、既に天下の憂いを先にし、太平をもたらす意図があり、『万言書』を宰相に遺し、天下に伝誦された。その将として、政を執り、平生の所為を考えると、この書に出るものはない。仁義礼楽、忠信孝弟については、飢渇をもって飲食を予し、須臾(少し)も忘れる事が無かった。火の熱さ、水の湿気のように、それが天性として必然的に現れていたのだ。

 

※画像:DALL-E

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex02】仁宗皇帝(宋仁宗/赵祯)

仁宗

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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仁宗(宋仁宗/赵祯/zhào zhēn)

<三元論に基づく個性判定>

22番. **強い生存欲求**、**強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「均衡型の探究心」** - バランスの取れた探求心を持ち、様々な分野で活動する。

 

<概要>

仁宗は北宋の第四代皇帝。名は趙禎(ちょうぜん/zhào zhēn)、初名は趙受益(ちょうじゅえき/zhào shòu yì)。『水滸伝』の第1回にのみ登場する皇帝であり、国内に蔓延する疫病に心を痛めて解決に奔走する姿勢が垣間見られる。実在の仁宗も名前に相応しい名君であり、彼の治世は「仁宗盛治」と高く評価されている。

 

<功績>

北宋を全盛期に導いた立役者であると言える。乾興元年(1022年)、当時13歳で即位した彼は、章献明粛皇后劉氏(しょうけんめいしゅくこうごう:前代皇帝の2番目の側室で仁宗の母親)による垂簾聴政(皇后や皇太后など女性が皇帝の代わりに政治を主導する体制)により朝廷に座し、明道2年(1033年)、23歳から親政(皇帝ひとりが主導する体制)へ移行した。内部の党争問題も外部の武力衝突も慌ただしく起き続ける難儀な情勢であったが、知人善用の才を持って、ひとつひとつの社会課題を堅実に解決し続けた。『水滸伝』第1回にも登場する功臣、参知政事の范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)の力も大きい。文化面では学問と科挙の改革にも着手し、成功に導いている。結果、彼の治世には多くの名臣が輩出され、治安の安定と経済・技術・文化の躍進が実現した。

 

崩御

寛仁と恭謙の精神性、そして学問に対する熱意を持っていた名君。彼自身も書道に優れ、特に飛白体に秀でていた。その名君が崩御したのは、嘉祐8年(1063年)の旧暦3月29日(4月30日)。1ヶ月前から重病を患っていた彼は、東京福寧殿でこの世を去った。享年54歳、諡号は「神文聖武明孝皇帝」、廟号は「仁宗」。崩御後、都の京師(この呼び方は官語:一般的な口語では「東京」「開封」)では市が閉じられ、人々が数日間泣き続け、乞食や子供までもが皇宮前で紙銭を燃やして哀悼した。(紙銭:あの世で故人がお金に困らないように、お札を模した黄色い紙を燃やす葬儀の風習)また、『水滸伝』では敵対者となる異民族の遼国(りょうこく/liáo guó)も彼の崩御を悼み、皇帝の道宗(耶律洪基/やりつこうき/yē lǜ hóng jī)が北宋の使者に向けて「四十二年不识兵革矣(彼が在位していた42年間は、彼のお陰で我々は戦う必要がなかった)」と賛辞を送ったという。

 

<特記事項:疫病について>

近代史における天然痘HIV結核SARSといった感染症、直近では我々が直面した新型コロナウイルスパンデミックのように、人類と微生物は常に共存・共生の為の戦いを続けている。『水滸伝』の物語も「疫病の蔓延」から幕を開ける。北宋時代における疫病との戦いには、具体的に次のようなものが存在した。記事『北宋君臣防疫記』から抜粋する。

 

①14回のパンデミック

後周顕徳7年(960年)1月2日、後周の殿前都点検であった趙匡胤(927-976)は陳橋で兵変を起こし、即位して皇帝となって、建隆と改元した。これによって北宋王朝が成立した。北宋が成立してから王朝末期に至るまでの約200年間(960-1127)、北宋王朝では14回もの疫病問題(パンデミック)が発生したという。

 

②両浙の疫病事件

真宗咸平3年(1000年)、両浙(浙東と浙西を合わせた江南地区の通称)で疫病が発生した。泰州(現在の江蘇省)の知州(宋王朝時代の地方行政長官)が上奏して「餓死者が多く、遺体の片付けもできず、溝渠には死体があふれている」と報告した。地元の僧侶が遺体の埋葬を手伝ったが、1000体に及ぶ遺体をまとめて埋葬するしかなかった。災害が最もひどかった越州では、蕭山県だけでも3000以上の家庭が逃亡し、県内にはほとんど生存者がいなかった。しかも仁宗治世の明道2年(1033年)、南方で大干ばつが発生して作物が全滅し、多くの民衆が流浪を余儀なくされた。この食糧事情と生活環境の悪化によって疫病がますます蔓延して、多数の死者が発生した。

 

都城の疫病事件

人口密集地である都城も疫病の発生が多く、北宋時代全体を通じて合計6回もの疫病事件が発生している。太宗淳化3年(992年)、5年(994年)、真宗咸平6年(1003年)、仁宗慶暦8年(1048年)、至和元年(1054年)、嘉祐5年(1060年)の疫病事件の記録が残されている。

 

④疫病と相乗的に交わる社会問題

『宋史』には「民の災患」として四つの憂が書かれている。「一に疫病、二に干ばつ、三に洪水、四に家畜の疫病」である。疫病は当時の人々にとって最も恐れられる自然災害のひとつであった。

 

⑤第二代皇帝・太宗の疫病戦

第二代皇帝・太宗、本名は趙匡義、即位後に趙炅と改名。在位期間は976〜997年までの21年間。淳化3年(992年)、河南府、京東西、河北、河東、陝西及び亳、建、淮陽の36州で大干ばつが発生し、その後に疫病が大流行をした。やがてこのパンデミックは都の京師(東京・開封と同様)まで押し寄せた。記録には「京师大热,疫死者众(京師は非常に暑く、疫病によって多数の人が死亡した)」と記録されている。これを受けて、太宗は『行聖惠方詔』を発布。新たに編纂された『太平聖惠方』を京城と全国に頒布し、新しい医学知識を用いて疫病の流行を防いだ。この『太平聖惠方』は全100巻に及ぶ医学書であり、太宗が翰林医官院に命じて収集させた万余の処方から特選されたもの。さらに、太宗は太医署を疫病治療の指揮機関に命じ、良医10名を京師の要所に配置して、疫病の調査と病人の診療を徹底した。

 

⑥第四代皇帝・仁宗の疫病戦

上述の通り、名君の仁宗も疫病と戦っている。天聖6年(1028年)、仁宗が即位したばかりの頃、臨安(現在の浙江省杭州市)で大疫病が発生した。仁宗は自らの資金を貧民の治療と薬の購入に充て、棺を購入して死者を収容し、疫病で亡くなった兵士の家族を慰めた。また、慶暦8年(1048年)の年末、大雨が続き、田地が洪水で破壊され、多くの人々が飢饉に見舞われた。これに対して仁宗は即座に内府の資金と絹を三司(塩鉄、度支、戸部)に割り当て、河北の災民に対する救援に使用した。併せて、河北の官府に命じて流浪の民に住居支援を行い、彼らが再び流浪しないように生活環境を整えた。その翌年に河北で疫病が発生したが、もし仁宗がその前年に的確かつ迅速な干ばつ対策を実行していなかったら、無尽蔵の死者が発生してしまったに違いない。疫病発生後、仁宗は同じく即座に特使を派遣して薬を頒布し、各州に薬を購入して治療を徹底するように命じた。加えて、80歳以上の老人や重病者には米一石、酒一斗を与える物資支援も行った。この後、仁宗は慶暦初年(1041年)に国内各地に義倉を設立。いわゆる災害時の備蓄倉庫である。嘉祐2年(1057年)には広惠倉も設置した。これらの義倉は災害発生時にすぐに役立つ事となり、老若貧病を養護する事に大いに貢献した。この備蓄制度は北宋時代の全体に影響を与える事となり、累代にわたって有効な災害対策として継承された。総じて、仁宗は疫病が発生した際、「官吏を処罰せず」「災情を隠さず」「誠実かつ迅速に対応を行った」。この指導者として民を守る君子の行動が、宋王朝の安定と繁栄を支えたと言える。

 

※真逆の事例がある。『金史』によると、金朝が滅亡する2年前、正大9年(1232年)5月に「汴京で大疫病が発生し、50日間で90万人以上が死亡した」と記録されている。疫病蔓延が確認されてから1か月後の記述にあるのは「棺売り、僧侶、医者たちが大きな利益を得た」という文章のみ。防疫対策が放置され、利己的な人間が身勝手に動いていた様子が確認できる。災害や疾病などの有事を解決に導く為には、適切で迅速な政治介入と指導が不可欠だ。

 

⑦宰相・富弼の疫病戦

仁宗の功臣のひとりである富弼(ふせつ/fù bì:1004-1083)は、范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)に見出されて登用された宰相。字は彦国、諡号は文忠、河南洛陽出身。慶暦8年(1048年)、河朔で大洪水が発生。当時、青州知事を務めていた富弼(ふせつ/fù bì)は公的および私的な住居を集めて10万以上の場所を災民の避難所を速やかに整えた。更に彼は地元の退役官員や待機官員を動員し、一定の報酬を与えて救援活動に参加させた。また、非常時には国有の「山林陂沢の利益」を開放し、流民に生計を立てさせた。加えて、死者の即時埋葬体制により疫病の拡散を防いだ点も非常に有効な防疫対策であった。この富弼(ふせつ/fù bì)の対策によって50万人以上の災民が救われたと言われている。尚、仁宗はこの防疫対策の成功を聞き、使者を派遣して彼に褒賞を与えようとした。しかし、富弼(ふせつ/fù bì)は「これは私の本職であり、職責を果たしたに過ぎません」として、褒賞の辞退を固辞した。彼の才能・良識・美徳に溢れる功臣としての行動は天下の模範と評された。

 

⑧参知政事・趙抃の防疫戦

趙抃(ちょうべん/zhào biàn:1008-1084)は、規範を遵守する厳格な態度と揺るぎない公平性から「鉄面御史(鉄のような正義の精神を持つ役人」と評された人物。浙江衢州出身、字は閲道、号は知非子。熙寧8年(1075年)、両浙路で干ばつと蝗害が続き、その後疫病が発生。特に越州(現在の浙江省紹興市)が深刻さを極めた。趙抃(ちょうべん/zhào biàn)がこの越州に派遣され、救援活動の陣頭指揮を展開。彼は募金を募ると共に、米価の自由解放化によって市場の動きを活発化させ、食糧の収集に努めた。これによって一時的に米価が暴落したが、そのお陰で民は災前よりも低い価格で食糧を手に入れる事が出来るようになった。その米価の取り組みを含め、「生者得食,病者得药,死者得葬(生者は食を得、病者は薬を得、死者は埋葬を得る)」という循環性を実現させた事により、疫病の蔓延が大きく防がれた。後に唐宋八大家の一人である曾鞏が、趙抃(ちょうべん/zhào biàn)のその防疫対策を「その施策は越州で行われ、その仁徳は天下に示された」と称賛した。

 

⑨翰林学士・蘇軾の防疫戦

蘇軾(そしょく/sū shì:1037-1101)も仁宗の功臣のひとり。仁宗の垂簾聴政時代から政治に参画している。字は子瞻、一字は和仲、号は鉄冠道人、東坡居士。翰林学士、侍読学士、礼部尚書などを歴任し、諡号は富弼(ふせつ/fù bì)と同じように「文忠」が贈られた。(諡号/おくりなとは、貴人や僧侶などが逝去した後に与えられる称号)蘇軾(そしょく/sū shì:1037-1101)は 元祐4年(1089年)、二度目となる杭州知府に命じられる。この着任早々、疫病事件が発生。蘇軾(そしょく/sū shì:1037-1101)は即座に仁宗に災情を報告し、朝廷の支援を求めた。仁宗らはこれまた即座に20万石の大米を救援物資として輸送し、併せて一部の上納糧の免除支援も行った。続けて、蘇軾(そしょく/sū shì)は友人である巢谷の秘方である「聖散子」を医者の庞安に提供し、民衆の治療に活用。この秘方は元豊2年(1079年)に黄州で瘴気による疫病を治療したものであり、秘方ゆえに厳格な保護権利が主張されていたものであったが、蘇軾(そしょく/sū shì)はその権利を解放させて普及させた。緊急時におけるこの権利の解放が、多くの人命を救う事となった。更に彼は朝廷からの支援金と自らの資金を投じて「安楽坊」を設立し、医僧を配置して病人の治療を展開した。

 

⑩劉安節の疫病戦

仁宗治世からもうひとり。劉安節(りゅうあんせつ/liú ān jié:1068〜1116)は、後に民から「范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)に勝るとも劣らない大人物だ」と評される人物。字は元承、浙江永嘉出身。元符3年(1100年)に進士に合格して以来、その思考性の深さと真面目な態度から監察御史(裁判長・検察・弁護士を兼ね備えたような多角的な要職)に任命。この監察御史の時代には多くの冤罪事件を解決に導いている。その後、宦官と意見が衝突して饒州知事に左遷された。この饒州で饑饉に苦しんでいた地元民の為に食糧を調達し、懸命に災民の救済を遂行した。宣州知事に転任した後、大水害が発生。ここでも彼はすぐに官兵を派遣して救援活動を展開し、難民を寺院に収容する措置を講じた。そして政和6年(1116年)には疫病が流行。彼は医療と薬の提供に奔走し、多くの命を救い出した。自らが陣頭に立って最前線で防疫戦を行っていた為、自身も疫病に感染。49歳という若さで逝去した。宣州の住民は彼の死を心から悼み、祠を設けて彼を祭った。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex01】洪信

洪信

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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洪信(こうしん/hóng xìn)

<三元論に基づく個性判定>

29番 **強い生存欲求**、**とても弱い知的欲求**、**とても強い存在欲求** - **「人懐っこい実践家」** - 他者との親密な関係を築きながら、実際の活動に力を注ぐ。

 

<概要>

水滸伝』第1回の主人公と言うべき人物であり、その後の物語には一才登場はしないものの、物語設定上の存在感は大きい。北宋の仁宗治世における嘉祐年間において、彼は殿前の太尉(軍最高司令官:但し当時は名目ばかりの肩書き)であった。仁宗の命により江西省信州の龍虎山へ向かい、国内に蔓延する疫病問題の解決任務を遂行した。龍虎山の上清宮では住持(道教の指導者)の張真人(道教の長)の案内によって天師を探した。その後、彼は「伏魔之殿」に到着。張真人はその場所が大唐時代の洞玄国師が妖魔を封じ込めた場所だと言い、開けることを拒んだ。しかし、洪信は興味本位に権力を振りかざし、強制的に殿を開けさせてしまった。その結果、殿内の三十六天罡星と七十二地煞星、計百八の魔力を持つ星が解放されていまった。この星を胎児期に宿した人物が、後の水滸の百八好漢(108人の英傑)となった。

 

<三元論に基づく特殊技能>

なし

 

<人物評価>

洪信(こうしん/hóng xìn)の身勝手な言動は、『水滸伝』本編に登場する悪辣な奸臣である「高俅(こうきゅう/Gāo Qiú)」「蔡京(さいけい/cài jīng)」「童貫(どうかん/tóng guàn)」「楊戩(ようせん/yáng jiǎn)」を彷彿とさせる。彼らの前奏とでも言うような奸臣小人(小人:孔子が説いた才能・良識・美徳を持たない理想からもっとも遠い人間の事、「君子」とは真逆の人物)と言える。洪信自身が災いをもたらさなくとも、洪信のような者が災いをもたらすのは避けられないという不条理な法則性を描いている。尚、高俅・蔡京・童貫・楊戩は実在の人物。通称「四姦」。仁宗が国を治めていた頃に朝廷を私物化した最低の政治家として名を刻んでいる。

 

※画像:DALL-E

 

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