天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

あー、えー、要するに、要するに

Thank You For Smoking

私:2005年製作の映画『Thank You For Smoking(邦題:サンキュースモーキング)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:映画『Thank You for Smoking』は2005年に製作されたアメリカ映画で、ジェイソン・ライトマンが監督を務めました。この風刺的なコメディ映画は、クリストファー・バックリーの同名の小説を原作としています。
主人公はニック・ノーラー、彼はたばこ業界のロビイストとして活動しており、一般的には健康に害を及ぼすとされるたばこを、メディアや公共の場で巧みに擁護する役割を担っています。映画は、ニックがたばこ産業のスポークスマンとして、政治家、メディア、そして一般公衆とのやり取りを通じて、自身の仕事や倫理観について葛藤する様子を描いています。
『Thank You for Smoking』は、社会的なタブーに挑戦し、議論を呼ぶテーマをユーモアを交えて提示することで、観客に考えさせる作品となっています。主人公の魅力的で機知に富んだキャラクターが、複雑な問題に対する一つの視点を提供しています。

 

私:「ロビイスト」という職業について教えてくれる?

 

ChatGPT:「ロビイスト」とは、政府や立法機関に対して、特定の業界や団体の利益を代表して影響を行使し、政策決定に介入しようとする人々のことを指します。彼らは通常、クライアントの利益を保護または促進するために、政策立案者や政治家に働きかけを行います。

ロビイストは以下のような活動を行うことが一般的です:

 

1. **情報提供**:ロビイストは、特定の政策や法律が特定の業界や団体にどのような影響を与えるかについて、詳細な情報やデータを政治家や政策立案者に提供します。
2. **意見形成**:政治家や政策立案者が公衆の利益に沿った決定を下せるよう、意見や立場を形成するのを助けます。
3. **説得活動**:特定の政策や立法に対する支持または反対を表明し、その理由を説得力を持って伝えます。

 

ロビイストの仕事は、しばしば議論の的となります。一方で、彼らは専門知識を提供し、多様な利害関係者の声が政策決定プロセスに反映されることを助ける重要な役割を果たしていると考えられます。しかし、過度の影響力や透明性の欠如が問題となることもあります。そのため、多くの国ではロビイ活動を透明にし、適切に規制するための法律が設けられています。

 

------------------------------
 私の三元論に基づいて考えると、人を説得する際に"餌"として用いられる要素は「物理的要素」「精神的要素」「帰属的要素」に集約されるものと考える。「物理的要素」とは事物(金銭、物品、所有物としての人材等)を意味する。これはもっとも分かりやすい餌であり、これが有効な場合はもっとも単純なよく深い人間に限られる。「精神的要素」とは概念(規範、良識、美徳等)を意味する。ここでは義侠心を持っている者には正義を訴え、野心を持っている者には媚びを売るといった具合に、相手が求めている知的欲求を満たす観念的な餌をまく必要がある。そして「帰属的要素」とは関係(貸借、脅迫、信頼等)を意味する。これはその人物が属する社会や組織の関係性に対して何らかの影響をもたらす"餌"であり、集団からの排斥をちらつかせて脅してみたり、過去の貸しを返して欲しいと願ってみたり、今後の信頼を約束する代わりにお願いを聞いてくれと懇願してみたりと、多様な方法がある。
 この「説得」という行為に関する三要素を基本的な八類型にまとめると、それは以下の通りとなる。

弱い物理的要素・弱い精神的要素・弱い帰属的要素
弱い物理的要素・強い精神的要素・弱い帰属的要素
弱い物理的要素・弱い精神的要素・強い帰属的要素
弱い物理的要素・強い精神的要素・強い帰属的要素
強い物理的要素・弱い精神的要素・弱い帰属的要素
強い物理的要素・強い精神的要素・弱い帰属的要素
強い物理的要素・弱い精神的要素・強い帰属的要素
強い物理的要素・強い精神的要素・強い帰属的要素

 その「説得」を仕事とするロビイストや広報・広告関係者などは、相手に応じて、このいずれかの事項を用いた弁論術を駆使する。現代社会におけるこのソフィストたちは古代ギリシャよろしく利己的な傾向があり、衆愚状態に陥っている羊たち(市民)を都合よく誘導しようとする。本作『サンキュースモーキング』はそうした衆愚の社会と文化をとても軽快に皮肉っている。アーロン・エッカート演じるニックが論戦をあっさりと制してしまうので、対話部分には物足りない点も感じるが、それでも十分に「言ったもん勝ち」の有象無象の弁論家たちにしっかりと剣を突き刺している。
 人間は合理的な生き物であり、感覚的な生き物でもあり、そして組織的な生き物でもある。それらの全ての行動原理を繋げるのが「言葉」である。したがって「言葉」を操作すれば、人間の合理性、感覚性、組織性に対して、良い意味でも悪い意味でも影響を与える事が出来る。その人間の特異な機能を冗談半分に説明している逸話が「化学物質DHMO」に関するものだ。
 化学物質DHMO(Dihydrogen Monoxide)は「周囲に大量に存在すると呼吸困難になる」「固体状態は凍傷、気体状態は火傷を引き起こす」「強い習慣性があり、飲用を止めると中毒症状により絶命する」「台風、豪雨、豪雪などの大規模な自然災害を引き起こす」といった、何とも恐ろしい危険性を有している。もし弁論家が雄弁にこの説明を行えば、DHMOは規制対象の化学物質にすぐ認定されるかもしれない。しかし、実はこの化学物質DHMOとは「水」の事である。水は「水素原子2個(Dihydrogen)と酸素原子1個(Monoxide)の化合物」だから「Dihydrogen Monoxide」という訳だ。何という事もない身近な事物や事象であっても、「言葉」を用いれば人間をどのようにも誘導出来る。冗談ではあるが、教訓的な話でもある。
 ただ、この「言葉」をどうにか上手く使おうとするあまりに生じるひとつの癖がある。それが通称「フィラー症候群(えーあー症候群)」と呼ばれるものだ。フィラー(filler)とは詰め物や充填材を意味する用語。例えば、水漏れを防ぐ為に用いるシーリング剤(洗面台や風呂場にある白いゴム状の溶剤)はフィラーの一種だ。フィラー症候群は会話の最中に"詰め物"のように不要な繋ぎ言葉を押し込む癖で、日本語でよく用いられるのは「あー」「えー」などの母音を中心とした嘆息のようなものが多い。「症候群」という名称で知られているが、これは明確な医学用語ではなく造語であると思われる。
 英語では「Filler Word」と呼ばれている。「Well」「Um / Er / Uh」「Hmm」といった日本語の「あー」「えー」によく似た繋ぎ言葉から、「Actually」「Basically」「You know」といった接続的に用いられる言葉もある。後者は日本語で言うと「要するに」「つまり」といった単語だ。私の知人が勤めている行政機関の同僚にもこの癖が極まっている者がいる。その人は上司や同僚に何かを説明する際、その会話の中のあらゆる場所で「要するに、要するに」という詰め物を挟み込んでしまう。その言葉の後に続く文章がまったく要約されていないので、相手は完全に混乱と困惑の渦に巻き込まれる。最終的には相手の方が悩みながら「それはこういう事ですか?」と要約すると、その人は「そうそうそうそう!要するにそういう事です!」と甲高い声を挙げる。私は知人からこの話を聞くだけで、そのあまりの無能ぶりに吐き気を催してしまう。
 「あー」「えー」「えっと」「要するに」「つまり」といったフィラーワードそのものは別に悪いものではない。一般の人がそれを意識し過ぎるとかえって円滑に話せなくなってしまうだろう。特に知人や家族など社会的距離が近しい者同士であればフィラーワードにはほとんど問題なく、むしろ愉快なキャッチボールの精度を上げる効果すらあるかもしれない。
 しかし、社会的距離が遠い者同士が話す場合においては話が別である。先述の「要するに」の事例のように、公的な環境においてフィラーワードを連発すると、聞き手の理解と集中力が完全に削がれてしまう。それはまるで通信状態が悪い環境でNetflixYoutube動画を鑑賞するような具合だ。いちいち"読み込み"のクルクルマークが表示されて会話が停止するので、相手は鑑賞に耐えられなくなる。
 日本では論理的能力の欠如した社会的地位の高い人間が、よくこの悪癖を発揮してしまう。特に政治家は記者会見や答弁の現場で「あー」「えー」を連発する。例えば、良くも悪くも"帝国"を築いた故・安倍晋三元首相。彼は税金を用いて様々な組織を私物化した功罪ともに大きい政治家だ。2020年12月、野党から私物化した組織のひとつ(桜を見る会)の会計問題を追及された際、彼は次のような答弁を行なっている。

------------------
安倍元首相:会計処理等が、あー、私自身が、え、知らない中で、え、行われていたこととはいえですね、道義的責任があると、お、考えておりますし、今回の出来事、の反省の上に立って、えー、国民の、おー、信頼を、おー、回復するために、わ、あらゆる努力を、重ねていきたい。
------------------

 予め原稿が用意された演劇答弁であればここまでひどいフィラーワードは出てこないが、彼が自分の言葉で話そうとした際はこのような悪癖状態に陥っていた。この悪癖の原因は先に述べた通り論理的能力(及びそれに付随する身体的能力)の欠如から生じるものであるが、それと同時に「言えない事」「言うべき事」を丹念に頭の中で選別し、何とか会話の主導権を握ろう(話をはぐらかして逃げよう)としているが故に、ますますフィラーの遅延が発生しているのである。
 ただでさえ腕の鈍い料理人が、いちいち店から出てスーパーでひとつひとつの食材を選んで買って帰り料理をし始めているような具合なので、永遠に我々の卓に皿が運ばれて来ない。そして、そのうち我々は自分が何を注文したのかも忘れてしまう。(今をときめくメガネ岸田さんも、結構このフィラー癖が強い。ただ、彼が2024年4月にアメリカ議会で34分間の英語演説をした際はフィラーを一切持たない驚くほど完璧な話しぶりだった。彼はもう日本の国会でも英語を使った方が良いのではないだろうか。あの話し方であれば、まだ彼の言葉を信用できそうだ。ただ、手振りや仕草などの非言語コミュニケーション部分はせっかちな配膳ロボットのようだったので、あれはもう少しゆっくりと大きな輪を描くようなやり方にした方が良い。その方が余裕と自信を演出する事ができる。)
 政治家とは言葉を用いて国民に理解を促す弁論家だ。話し方だけが巧みであっても良い政治家とは言えないが、話し方が巧みな人間は良い政治家の条件のひとつである。したがって、フィラーワード連発の悪癖は職務怠慢の行為だとすら言える。アメリカのロビイストほど過激な弁論家になれとは言えないが、政治家を目指す以上は弁論術の訓練をした方が良い。弁論術の技能が身につかない限り、仮にその人物がどれだけ有能であっても、その言葉は我々国民には届かない。
 もしそのような最低限の技能も身につけられないのであれば、彼らはその席から自ら下りるべきだ。日本はただでさえ疲弊をしている。無能な者が高い席に座り続けるほどの余裕はないのだ。(ただし、映画『英国王のスピーチ』で描かれたイギリス王ジョージ6世のように先天的な吃音症などを有する事例はこの条件には当てはまらない。訓練により改善されない先天的な個性としてのフィラー癖を持ちながら、それでも民に尽くすという志を持って大事を成し遂げたいと誠実に思考と行動をし続ける政治家であれば、我々民は大歓迎をするべきだろう。)

※画像:DALL-E私:2005年製作の映画『Thank You For Smoking(邦題:サンキュースモーキング)』を簡単に紹介してくれる?

ChatGPT:映画『Thank You for Smoking』は2005年に製作されたアメリカ映画で、ジェイソン・ライトマンが監督を務めました。この風刺的なコメディ映画は、クリストファー・バックリーの同名の小説を原作としています。
主人公はニック・ノーラー、彼はたばこ業界のロビイストとして活動しており、一般的には健康に害を及ぼすとされるたばこを、メディアや公共の場で巧みに擁護する役割を担っています。映画は、ニックがたばこ産業のスポークスマンとして、政治家、メディア、そして一般公衆とのやり取りを通じて、自身の仕事や倫理観について葛藤する様子を描いています。
『Thank You for Smoking』は、社会的なタブーに挑戦し、議論を呼ぶテーマをユーモアを交えて提示することで、観客に考えさせる作品となっています。主人公の魅力的で機知に富んだキャラクターが、複雑な問題に対する一つの視点を提供しています。

私:「ロビイスト」という職業について教えてくれる?

ChatGPT:「ロビイスト」とは、政府や立法機関に対して、特定の業界や団体の利益を代表して影響を行使し、政策決定に介入しようとする人々のことを指します。彼らは通常、クライアントの利益を保護または促進するために、政策立案者や政治家に働きかけを行います。

ロビイストは以下のような活動を行うことが一般的です:

1. **情報提供**:ロビイストは、特定の政策や法律が特定の業界や団体にどのような影響を与えるかについて、詳細な情報やデータを政治家や政策立案者に提供します。
2. **意見形成**:政治家や政策立案者が公衆の利益に沿った決定を下せるよう、意見や立場を形成するのを助けます。
3. **説得活動**:特定の政策や立法に対する支持または反対を表明し、その理由を説得力を持って伝えます。

ロビイストの仕事は、しばしば議論の的となります。一方で、彼らは専門知識を提供し、多様な利害関係者の声が政策決定プロセスに反映されることを助ける重要な役割を果たしていると考えられます。しかし、過度の影響力や透明性の欠如が問題となることもあります。そのため、多くの国ではロビイ活動を透明にし、適切に規制するための法律が設けられています。

 

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 私の三元論に基づいて考えると、人を説得する際に"餌"として用いられる要素は「物理的要素」「精神的要素」「帰属的要素」に集約されるものと考える。「物理的要素」とは事物(金銭、物品、所有物としての人材等)を意味する。これはもっとも分かりやすい餌であり、これが有効な場合はもっとも単純なよく深い人間に限られる。「精神的要素」とは概念(規範、良識、美徳等)を意味する。ここでは義侠心を持っている者には正義を訴え、野心を持っている者には媚びを売るといった具合に、相手が求めている知的欲求を満たす観念的な餌をまく必要がある。そして「帰属的要素」とは関係(貸借、脅迫、信頼等)を意味する。これはその人物が属する社会や組織の関係性に対して何らかの影響をもたらす"餌"であり、集団からの排斥をちらつかせて脅してみたり、過去の貸しを返して欲しいと願ってみたり、今後の信頼を約束する代わりにお願いを聞いてくれと懇願してみたりと、多様な方法がある。
 この「説得」という行為に関する三要素を基本的な八類型にまとめると、それは以下の通りとなる。

 

弱い物理的要素・弱い精神的要素・弱い帰属的要素
弱い物理的要素・強い精神的要素・弱い帰属的要素
弱い物理的要素・弱い精神的要素・強い帰属的要素
弱い物理的要素・強い精神的要素・強い帰属的要素
強い物理的要素・弱い精神的要素・弱い帰属的要素
強い物理的要素・強い精神的要素・弱い帰属的要素
強い物理的要素・弱い精神的要素・強い帰属的要素
強い物理的要素・強い精神的要素・強い帰属的要素

 

 その「説得」を仕事とするロビイストや広報・広告関係者などは、相手に応じて、このいずれかの事項を用いた弁論術を駆使する。現代社会におけるこのソフィストたちは古代ギリシャよろしく利己的な傾向があり、衆愚状態に陥っている羊たち(市民)を都合よく誘導しようとする。本作『サンキュースモーキング』はそうした衆愚の社会と文化をとても軽快に皮肉っている。アーロン・エッカート演じるニックが論戦をあっさりと制してしまうので、対話部分には物足りない点も感じるが、それでも十分に「言ったもん勝ち」の有象無象の弁論家たちにしっかりと剣を突き刺している。
 人間は合理的な生き物であり、感覚的な生き物でもあり、そして組織的な生き物でもある。それらの全ての行動原理を繋げるのが「言葉」である。したがって「言葉」を操作すれば、人間の合理性、感覚性、組織性に対して、良い意味でも悪い意味でも影響を与える事が出来る。その人間の特異な機能を冗談半分に説明している逸話が「化学物質DHMO」に関するものだ。
 化学物質DHMO(Dihydrogen Monoxide)は「周囲に大量に存在すると呼吸困難になる」「固体状態は凍傷、気体状態は火傷を引き起こす」「強い習慣性があり、飲用を止めると中毒症状により絶命する」「台風、豪雨、豪雪などの大規模な自然災害を引き起こす」といった、何とも恐ろしい危険性を有している。もし弁論家が雄弁にこの説明を行えば、DHMOは規制対象の化学物質にすぐ認定されるかもしれない。しかし、実はこの化学物質DHMOとは「水」の事である。水は「水素原子2個(Dihydrogen)と酸素原子1個(Monoxide)の化合物」だから「Dihydrogen Monoxide」という訳だ。何という事もない身近な事物や事象であっても、「言葉」を用いれば人間をどのようにも誘導出来る。冗談ではあるが、教訓的な話でもある。
 ただ、この「言葉」をどうにか上手く使おうとするあまりに生じるひとつの癖がある。それが通称「フィラー症候群(えーあー症候群)」と呼ばれるものだ。フィラー(filler)とは詰め物や充填材を意味する用語。例えば、水漏れを防ぐ為に用いるシーリング剤(洗面台や風呂場にある白いゴム状の溶剤)はフィラーの一種だ。フィラー症候群は会話の最中に"詰め物"のように不要な繋ぎ言葉を押し込む癖で、日本語でよく用いられるのは「あー」「えー」などの母音を中心とした嘆息のようなものが多い。「症候群」という名称で知られているが、これは明確な医学用語ではなく造語であると思われる。
 英語では「Filler Word」と呼ばれている。「Well」「Um / Er / Uh」「Hmm」といった日本語の「あー」「えー」によく似た繋ぎ言葉から、「Actually」「Basically」「You know」といった接続的に用いられる言葉もある。後者は日本語で言うと「要するに」「つまり」といった単語だ。私の知人が勤めている行政機関の同僚にもこの癖が極まっている者がいる。その人は上司や同僚に何かを説明する際、その会話の中のあらゆる場所で「要するに、要するに」という詰め物を挟み込んでしまう。その言葉の後に続く文章がまったく要約されていないので、相手は完全に混乱と困惑の渦に巻き込まれる。最終的には相手の方が悩みながら「それはこういう事ですか?」と要約すると、その人は「そうそうそうそう!要するにそういう事です!」と甲高い声を挙げる。私は知人からこの話を聞くだけで、そのあまりの無能ぶりに吐き気を催してしまう。
 「あー」「えー」「えっと」「要するに」「つまり」といったフィラーワードそのものは別に悪いものではない。一般の人がそれを意識し過ぎるとかえって円滑に話せなくなってしまうだろう。特に知人や家族など社会的距離が近しい者同士であればフィラーワードにはほとんど問題なく、むしろ愉快なキャッチボールの精度を上げる効果すらあるかもしれない。
 しかし、社会的距離が遠い者同士が話す場合においては話が別である。先述の「要するに」の事例のように、公的な環境においてフィラーワードを連発すると、聞き手の理解と集中力が完全に削がれてしまう。それはまるで通信状態が悪い環境でNetflixYoutube動画を鑑賞するような具合だ。いちいち"読み込み"のクルクルマークが表示されて会話が停止するので、相手は鑑賞に耐えられなくなる。
 日本では論理的能力の欠如した社会的地位の高い人間が、よくこの悪癖を発揮してしまう。特に政治家は記者会見や答弁の現場で「あー」「えー」を連発する。例えば、良くも悪くも"帝国"を築いた故・安倍晋三元首相。彼は税金を用いて様々な組織を私物化した功罪ともに大きい政治家だ。2020年12月、野党から私物化した組織のひとつ(桜を見る会)の会計問題を追及された際、彼は次のような答弁を行なっている。

 

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安倍元首相:会計処理等が、あー、私自身が、え、知らない中で、え、行われていたこととはいえですね、道義的責任があると、お、考えておりますし、今回の出来事、の反省の上に立って、えー、国民の、おー、信頼を、おー、回復するために、わ、あらゆる努力を、重ねていきたい。
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 予め原稿が用意された演劇答弁であればここまでひどいフィラーワードは出てこないが、彼が自分の言葉で話そうとした際はこのような悪癖状態に陥っていた。この悪癖の原因は先に述べた通り論理的能力(及びそれに付随する身体的能力)の欠如から生じるものであるが、それと同時に「言えない事」「言うべき事」を丹念に頭の中で選別し、何とか会話の主導権を握ろう(話をはぐらかして逃げよう)としているが故に、ますますフィラーの遅延が発生しているのである。
 ただでさえ腕の鈍い料理人が、いちいち店から出てスーパーでひとつひとつの食材を選んで買って帰り料理をし始めているような具合なので、永遠に我々の卓に皿が運ばれて来ない。そして、そのうち我々は自分が何を注文したのかも忘れてしまう。(今をときめくメガネ岸田さんも、結構このフィラー癖が強い。ただ、彼が2024年4月にアメリカ議会で34分間の英語演説をした際はフィラーを一切持たない驚くほど完璧な話しぶりだった。彼はもう日本の国会でも英語を使った方が良いのではないだろうか。あの話し方であれば、まだ彼の言葉を信用できそうだ。ただ、手振りや仕草などの非言語コミュニケーション部分はせっかちな配膳ロボットのようだったので、あれはもう少しゆっくりと大きな輪を描くようなやり方にした方が良い。その方が余裕と自信を演出する事ができる。)
 政治家とは言葉を用いて国民に理解を促す弁論家だ。話し方だけが巧みであっても良い政治家とは言えないが、話し方が巧みな人間は良い政治家の条件のひとつである。したがって、フィラーワード連発の悪癖は職務怠慢の行為だとすら言える。アメリカのロビイストほど過激な弁論家になれとは言えないが、政治家を目指す以上は弁論術の訓練をした方が良い。弁論術の技能が身につかない限り、仮にその人物がどれだけ有能であっても、その言葉は我々国民には届かない。
 もしそのような最低限の技能も身につけられないのであれば、彼らはその席から自ら下りるべきだ。日本はただでさえ疲弊をしている。無能な者が高い席に座り続けるほどの余裕はないのだ。(ただし、映画『英国王のスピーチ』で描かれたイギリス王ジョージ6世のように先天的な吃音症などを有する事例はこの条件には当てはまらない。訓練により改善されない先天的な個性としてのフィラー癖を持ちながら、それでも民に尽くすという志を持って大事を成し遂げたいと誠実に思考と行動をし続ける政治家であれば、我々民は大歓迎をするべきだろう。)

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 
著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール訪問記

The 13th Warrior

私:1999年製作の映画『The 13th Warrior(邦題:13ウォーリアーズ)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:1999年に製作された映画『The 13th Warrior』は、マイケル・クライトンの小説『イーターズ・オブ・ザ・デッド』を原作としています。この映画はジョン・マクティアナンが監督を務め、アントニオ・バンデラスが主演を務めています。

物語は、10世紀のアラブの使節であるアフマド・イブン・ファドラーン(アントニオ・バンデラス演)が、北欧のヴァイキングと出会い、彼らと共に謎の敵と戦うための旅に出ることから始まります。彼は最初は異文化に戸惑いながらも、13人の戦士の一員として受け入れられ、彼らと共に成長していく様子が描かれています。

映画は、異文化間の交流や勇気、友情などをテーマにしており、スリリングなアクションシーンとドラマチックな展開が特徴です。また、ヴァイキングの伝説や神話が織り交ぜられ、幻想的な要素も感じさせます。

 

私:ありがとう。その映画のモデルとなった、10世紀に活躍した学者「アフマド・イブン・ファドラーン」を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:アフマド・イブン・ファドラーンは10世紀に活躍したアラブの探検家で、学者でもあります。彼は主にイスラム教の教義を広める目的で、バグダッドアッバース朝のカリフから派遣された使節団の一員として北方の土地を訪れました。

イブン・ファドランは、922年に始まるその旅行で、ヴォルガ川沿いに住むヴォルガ・ブルガール人を訪れ、さらにはその地域に住むさまざまな民族と接触しました。彼の最も有名な業績は、ヴァイキング(彼の記録では「ルーシ」と呼ばれています)の風俗や習慣についての詳細な記述です。これらの記述は『イブン・ファドラーンの旅行記』として知られており、彼が目撃したヴァイキングの葬儀の儀式などは、非常に貴重な歴史的文献とされています。

イブン・ファドラーンの記録は、異文化間の交流と理解に貢献するだけでなく、中世の北欧社会やイスラム世界の知識にも大きく貢献しており、後の文化や文学作品にも影響を与えています。

 

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 SF小説アンドロメダ病原体』『大列車強盗』『ジュラシック・パーク』などの作家として、また映画『ウェストワールド』『ツイスター』やドラマ『ER 緊急救命室』などの脚本・監督として、20世紀後半のエンターテイメント文化に大きな影響を与えたアメリカのマイケル・クライトン。彼が1976年に著した小説『イーターズ・オブ・ザ・デッド(邦題:北人伝説)』を原作として発表された映画が、この『13ウォーリアーズ』だ。

 アラブ人の詩人がヴァイキングと連携して悪霊を討ち滅ぼすという旅物語。展開も人物の描写も唐突な場面が連続するので全般的にのめり込みにくい作品であるが、俳優アントニオ・バンデラスの演技には大きな存在感があるし、映像自体も場面によってはよく描き込まれている箇所もある。映画の題材も特異なものであるから、その冒険から放たれる閃きや輝きも少なくない。

 ちなみに、もともと本作はジョン・マクティアナン監督が『死者を喰らう者』という題名で映画を完成させていたのだが、テスト上映後に「観るに堪えない」といった酷評が乱舞。これを受けて急遽、原作者のマイケル・クライトン本人が撮影と編集をし直す事になって、何とか観るに堪える内容に昇華された。構成がチグハグになっている感を受けるのは、そのような制作上の事情によるものだろう。本作のファンの中には最初にテスト上映されたバージョンを鑑賞したいと所望する者も多いのだが、現時点で映像は発掘されていない。

 上述の通り、物語としては純然たるファンタジー物語であるが、実はこの作品には実在のモデルがいる。10世紀初頭、アッバース朝の第十八代カリフ=ムクタディルに支えていた神学者のアフマド・ブン・ファドラーン・ブン

アルアッバース・ブン・ラシード・ブン・ハンマード(通称「イブン・ファドラーン」)がその人だ。このファドラーンは政治・宗教の使命を帯びて、現在のイラクバグダードからウラル山脈寄りのヴォルガ川流域にあるブルガール王国(別称「サカーリバ王国」、現在のロシア西部)まで遠征旅を指導した。その遠征旅が後世の作家によって娯楽物語(13ウォーリアーズ)となった経緯を鑑みると、これは「アラブ版の西遊記」と言えるかもしれない。彼らの場合は北へ向かっているので、日本語に訳するのなら『北遊記』だ。(明王朝時代に編纂された『西遊記』は、唐王朝の仏僧である玄奘がオリジナルの仏典を求めてインドまで旅をした報告書『大唐西域記』を娯楽化した作品である。)

 ヴォルガ川は、作家ドストエフスキーを師と仰ぐ私にとってそれなりの知見を有する地域だ。ドストエフスキー社会主義に関わった政治犯として四年間の流刑生活を送る事になるが、モスクワからシベリアのオムスク要塞監獄まで送られる際にヴォルガ川付近を通過している。またドストエフスキーの日記を紐解くと、画家イリヤ・レーピンが発表した絵画『ヴォルガの舟曳き』を鑑賞して、「民衆に対する上流階級の政治・経済的、社会的負債などという思想が、いつにもあれ、このロシア開闢以来の悲しみに打ちひしがれた百姓の、うなだれた貧しい頭に潜入することがあり得ようとは、想像だもできない話ではないか!」「愛すべき批評家よ、ほかならぬこの百姓のつつましい無邪気な気持こそ、君らの考えているよりも比較にならぬほど力強く、諸君の欲する傾向的な自由主義的な目的を達成させるのであるが、それを果たして感じ取れたか?」といった具合に、魂を震わせている様子が確認できる。(※補足:当時のロシアの知識人たちは瓦解寸前のロシア帝国に危機感を抱いていた。ドストエフスキーもそのひとりで、彼はこれまで貴族の所有物・隷属物でしかなかった民衆を愛し、その民衆の為にヨーロッパの進んだ社会体制や産業を自国に取り入れるべきだと考えていた。ドストエフスキーは絵画『ヴォルガの舟曳き』に描かれている民衆の姿に愛と尊厳を見出したようだ。)

 しかしなぜ、"アラブ版の玄奘(ファドラーン)"はブルガール王国まで旅をする必要があったのか。これには国際情勢が関係をしている。

 当時、中東地域のカスピ海周辺には主に大きな三つの勢力があった。南部のアッバース朝(アラブ民族と周辺民族の融合国)、北部のハザル王国(ユダヤ教に改修したテュルク系民族の国)、東部のグッズ族(「オグズ」とも呼ばれるテュルク系遊牧民)だ。その大きな勢力のうち、ハザル王国とグッズ族に挟まれるヴォルガ川流域に、ブルガール王国(スラブ民族と同化したテュルク系遊牧民の一派の国)があった。

 ブルガール王国はハザル王国と小競り合いを続ける難儀な関係にあったので、城砦作りの為にアッバース朝に技術や資金の支援を求める判断をした。アッバース朝のカリフは立地や国外情勢を関係などを加味し、ブルガール王国を自国勢力に組み込んでおいた方が後々得策であると判断して、イスラム教への改宗を条件にその依頼を受け入れた。こうして、宗教改宗と軍事連携の最終的な合意を行うべく、ファドラーンは使節団を率いてブルガール王国へと向かう事になったのだ。

 ファドラーンはこの出張の報告書(リサーラ)を作成する義務も負っていた。そしてありがたい事に、この報告書が謎めいた10世紀のヴォルガ流域の生活・文化・社会に光を当てる文献として現在の歴史学に大きな貢献を果たす結果となった。ファドラーンのブルガール王国旅の報告書は、ドイツ語、ロシア語への翻訳を経て、フランス語版『Voyage chez les Bulgares de la Volga』、英語版『Ibn Fadlan's journey to Russia』などへと訳されていった。日本語でも東洋文庫から『ヴォルガ・ブルガール旅行記』が出版されている。

 ファドラーンの報告書を紐解きながら、我々も彼らの旅を少しばかり追ってみよう。彼らがバグダードを出発したのは921年6月21日。随行者はファドラーンを筆頭に、法学者、教師、使者、数名の従士など、十数名。目的地はヴォルガ川と支流のカマ川が交わる地域にある、ブルガール王国の本営地。方角は真北になるのでカスピ海左側を北上すれば最短距離(約3400km)となるが、そのルートでは安全性が確保できなかった為、ファドラーン一向はカスピ海を右側から迂回するルートを採用。その概算距離は約6000km。現代で言うと、イラク─イラン─トルクメスタンと西へ進み、そこから北へ向かってウズベキスタンカザフスタン─ロシアへ至る道のりだ。

 何かと所用を果たしながらの旅であり、途中で政治的事由による滞留もあったので、アムダリヤ川流域(現在のイラン北東部)まで辿り着いたのが冬の時期。ここからしばらく船旅となるが、「あまりに寒かったので昼間しか進めなかった」という記述がある。

 同年11月初旬、ジュルジャーニーヤ(現在のウズベキスタンカザフスタンの国境付近)まで辿り着くが、完全な厳冬期に突入した為に一端停止。「アムダリヤ川の氷の厚さは17シブル(約4メートル)にも達していた」「われわれはまさに苦しい苦しい生き地獄のような寒さの扉が開かれているとしか思えない地方を目にした」「誠に非常に高きにあるアッラーの神が、我々に薪(たきぎ)という寛大な恩恵を、とても安価に授けてくださった。荷車一杯分のターグの薪は、彼らによるディルハム銀貨でわずか2ディルハムだった。つまり3000ラトル(約1.25トン)もの薪を2ディルハムで購入できた」といった記述がある。こうした訳で、彼らは寒さが和らぐ春先まで滞在しなければならなかった。(ちなみに、このジャルジャーニーヤの東側にはかつて世界第4位の大きさを誇るアラル海という湖があった。日本の福島県が丸ごと入る湖だ。しかし、近代の大規模な産業・農地開発の影響で現在は完全に干上がってしまった。このアラル海の消滅は「20世紀最大の環境破壊」とも評されている。)

 翌922年3月4日。冬の間に用意した3か月分のパン、ヒエ、乾燥の塩漬け肉と一緒に、再び彼らは出発しようとする。しかし、法学者、教師、数名の従士が未知のトルコ領域に入る事に恐怖を感じて逃亡。こうして旅の面子はファドラーン、使者スーサン、スーサンの義弟、従士タキーンとバーリスの五名のみとなる。彼らはとにかく寒い寒いと言いながら、何とかトルコの領域まで到達。トルコ語を話せる従士タキーンがトルコ人とまた寒さに関する会話をして笑い合っている。この年は本当に異常な寒冬だったのかもしれない。

 トルコ領域のグッズ族による支配地域(現在のカザフスタン)に入ってから、ファドラーンは生活・文化・社会の細かい記述をし始めている。グッズ族は遊牧民として剛健な生活と文化を持ち、天(テングリ)という形而上学的な概念を信仰していた。

 ファドラーンたちは最初、グッズ族の人々が男女共に性器をしっかりと衣服で隠す習慣がない事に驚いた。そしてファドラーンは世話人の夫婦と話し合っている際、妻が自らの性器を手で掻いている様子をつい目にしてしまい、「アッラーよ!お許しください!」と叫んで顔を覆った。それを見たグッズ族の夫がゲラゲラと笑いながら「見ることは許されるし、それは隠すよりも好ましいことだが、触れてはいけないぞ」と言ったという。

 この笑い話を聞くと性に開放的な部族であったのかと思いきや、むしろ真逆のようだ。男女の不貞が発覚した場合、その不貞者たちは木に括り付けられて体を真っ二つに引き裂かれる刑罰が下されたらしい。古代中国の五牛分尸のような引き裂き刑で、これは現代的な感覚からするとあまりに残虐である。男女の貞操観念はかなり強いものがあったと推測する。

 この領域では体系的な国家が上下の権力によって結びつけられているのではなく、多様な部族が左右に連なってしなやかに繋がっているような社会なので、仮に体制側の人間と親しくしていても、その土地によっては思いがけない妨害に遭う事もあった。これは現代のアフガニスタンの様子を想像すると分かりやすいだろう。現在、同国はタリバン暫定政権が国を統治しているが、多様な民族や部族に対する統一的な支配構造を完全に確立できている訳ではない。これは彼らが長年に渡って有する社会的課題である。

 ファドラーンは道中、山賊のようなキャラヴァン隊と遭遇して大きな騒動になりかけた。このキャラヴァン隊の構成は約300頭の馬と5000人の大編成。その首領が「ここを通さん!」と立ちはだかり、前に進めなくなったのだ。ファドラーンはグッズ族のクーザルキーン(部族の副長官)と知己があったが、それを伝えても組織が異なるのでまったく通じない。すったもんだの末、ファドラーンたちは彼らが要求するままに備蓄食材を提供する事により、ようやく解放された。この地域ではそれぞれのやり方でそれぞれの権力が統治を行っている。ある程度の横の繋がりがあるにしても、それは一枚岩の国家ではない。

 また次の場所でも、別部族の軍団内で、ファドラーンたちを通過させるかどうかが話し合われた。その軍団内でもっとも身分が高いタルハーンは「これまでにアッバース朝使節が我々の土地を通過したなどという話は聞いた事がなく、陰謀の可能性もある。彼らがこの先でハザル王国と結託して戻り、我々の地を侵略するのかもしれない。それを阻止する為に、ここで従士の身体を真っ二つに引き裂いて、他の者は財産を全て没収した上で、ここから追放するべきだ」と言った。この議論は7日間も続けられ、最終的には幸いな事に通過が許可された。その結論が出るまで、ファドラーンたちは全く生きた心地がしなかったと言っている。

 川を渡る際も一筋縄ではいかなかった。彼らはラクダの皮と骨で作られた、持ち運びが可能な折り畳み舟を用いてヤギンディー川、ジャーム川、ジャーフシュ川、ウザル川、アルドゥン川、ワールシュ川、アフティー川、ワトバー川、ジャラムシャーン川、ウールン川、ウーラム川、バー・ヤナーフ川、ワティーグ川、ナヤーサナ川、ジャーワシーズ川などを渡った。(この地域は川が多く、だいたい2〜4日歩くごとに川を渡る必要があった。)馬やラクダは泳がせて渡らせたというので水深はそこまで深くないようだが、ファドラーンたちは激しい水流によって舟が転覆して流されてしまった別のキャラヴァン隊の事故を目撃している。決して油断してはならない。また、こうした渡河の最中にバジャナーク族のような山賊に突然襲われる事例も聞いていたらしく、気を抜く事は出来なかった。

 こうして922年5月12日、彼らは遂にブルガール王国の本営まで辿り着いた。でっぷりと太った王が使節団を出迎えて、頭を地に付けて平伏し、銀貨を地面にばら撒いた。使節団は天幕(クッパ)に入り、書簡の確認、贈り物の授与、食事の儀式などを取り交わした。ここでひとつの問題が生じた。ファドラーンたちは旅途中のトラブルによって、本来ここで王に受け渡すはずの4000ディナール銀貨を用意出来ていなかった。

 ファドラーンは神学者と言えど、頑固な豪傑者だったので、王と真正面からこの件について衝突をした。王は最初こそ「我々が弱小民族であるからと言って侮るな」と激高していたが、次第に気骨のあるファドラーンの剛直さを認め始めた。そして、王はこの一件でアッバース朝との関係がこじれてしまう事を危惧し、溜飲を下げる事にした。

 王はこの議論後、周囲の仲間をいったん天幕から出させて、ファドラーンに向かって「スィッディークのアブー・バクルよ!(正直者の英雄よ)!」と大声で言った。アブー・バクルは初代カリフの名前であり、ここでは愛称のように引用をしている。ファドラーンはブルガール王に大いに気に入られたのだ。

 その後もしばらく、ファドラーンはブルガール王と行動を共にした。報告書には、この地の伝承であったり、幾つかの部族の特徴であったり、この地にしか生息していないバイソンであったりと、様々な見聞が記されている。またファドラーンはブルガール王の取り組みに随行するうちに、ブルガール王国が皇子をハザル王国に人質として送る事で和平状態を保っていたり、この国が想像していたよりも豊かな財政を持っていたりと、かなり強い国力を有していることを知った。ブルガール王がアッバース朝に求めていた「城砦建築の為の資金と技術」についても、彼らはそれを自分たちで行う事ができるだけの力があったのだ。

 ファドラーンがその状況を疑問に思って、どうして自分たちに助けを求めたのかブルガール王に聞いた。するとブルガール王は「確かにその通りだ」と前置きをしながら、「私たちが本当に欲しいのは金や銀ではなく、実は君たちのカリフがもたらしてくれるバラカ(精神的な恩恵と宗教的な権威)なんだ」と答えた。

 確かに歴史的に鑑みれば、国が大事を成すには道(技・人・物)と論(法・知・徳)と天(神・王・府)が必要であり、ブルガール王国には道があっても論と天が欠けていた。そこで、彼らはその論と天を有しているアッバース朝に力を借りようと考えたのだろう──

 このような具合で、ファドラーンのブルガール王国・出張報告書は一旦区切られる。帰路に関する記述は存在しない。(これは文献が紛失したのではないかという見解もある。)ただし、報告書はこれに続いて、2点の事項が補足されている。1点目は、旅途中のイティル河畔で遭遇したルース(ヴァイキング)に関する事項。ルースは文字で歴史を刻む文化を持たなかったので、ファドラーンの記録が極めて有効な歴史的材料となった。そして、2点目はハザル王国に関する事項だ。ハザル王国の方は、ファドラーンがブルガール王国滞在中に人々から聞いた話が短くまとめられている。これは『東方見聞録』のマルコ・ポーロが中国人から伝え聞いた日本人の事を記録するような構図だと言えるだろう。ただし、ファドラーンは主に使節団の随行員となったハザル人のアブド・アッラー・バーシュトゥーからハザル王国の情報を聞いているので、ポーロのようないい加減さは無いものと思われる。

 さて、この旅から3世紀後、ブルガール王国も、彼らにバラカを与えたアッバース朝も、モンゴル帝国に攻め込まれて滅亡する事になる。この出来事において私が非常に興味深いと感じるのが、モンゴル帝国という圧倒的な脅威にさらされても尚、ブルガール王国内の部族もアッバース朝の軍事勢力も、十分な協力をし合わなかったという事だろう。特にブルガール王国はほとんど内戦の状態のままモンゴル帝国とたたかっていた。「敵の敵は味方」という機能はここでは働かなかったようだ。彼らが圧倒的な脅威による有事を目の当たりにしても連携を取れないのであれば、何事もない平時においても国としてのまとまりを得る事は不可能であったろう。

 道(技・人・物)と論(法・知・徳)と天(神・王・府)。大規模な地域・民族を統括する為に必要な三要素のうち、ブルガール王国は特に論が欠けていたか、あるいは不具合を起こしていたものと私は考える。

 

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呑気好亭 華南夢録

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原作者と製作者の解放型と閉鎖型

The Founder

私:2017年製作の映画『The Founder(邦題:ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(2017年)は、ジョン・リー・ハンコックが監督し、マイケル・キートンが主演を務める伝記映画です。この作品は、マクドナルドという世界的なファーストフードチェーンの創業と急成長の背後にある物語を描いています。

映画の中心人物はレイ・クロックというビジネスマンで、彼は1950年代にカリフォルニア州サンバーナーディーノでマクドナルド兄弟が運営するハンバーガー店を訪れます。その店の効率的な運営方法と革新的な「スピード・サービス・システム」に感銘を受け、クロックはフランチャイズの権利を得て、自らがそのビジネスモデルを全米に広めることを決意します。映画は、クロックがどのようにしてマクドナルド兄弟との関係を築き、時には狡猾な方法で彼らを出し抜きながら、マクドナルドをアメリカ国内外に拡大していく過程を描いています。

この映画は、アメリカンドリームを追求する中での倫理的ジレンマや、ビジネスの世界での野心と利害の衝突を浮き彫りにしています。

 

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"Danny Dreamer is at it again!(夢見るダニーちゃんのおでましね!)"

 

 よく空想に耽っている息子を目にして、彼の母親がよくそう茶化していたらしい。Dannyというのは彼の愛称ではなく、おそらくDaydreaming(白昼夢)を語呂合わせした造語らしい。田舎のファーストフード店舗を世界企業に引き上げた実業家、レイ・クロックの昔話だ。

 空想家が成功を夢見続けて50年以上。レイは自分の会社プリンスキャッスルセールスを立ち上げて、シェイクを一度に複数作れるマルチミキサーという装置を自ら販売していた。当初はまったく売れず、第二次世界大戦に突入した後は装置販売そのものが不可能となったが、戦後になるとシェイク需要が一気に高まって事業は急成長。ある年は自分ひとりで1年に8000台ものミキサーが売れたらしい。単純計算で1日に22台のミキサーを売り捌く必要があるから、営業マンとしての手腕は天才的な所があったと言えるだろう。

 本作はこの時分から物語の幕が上がる。物語の娯楽性を上げる為に事実のテーマパーク化(意図的な誇張)がなされており、レイは人生の袋小路に入り込んだしがない中年男として描かれている。しかし、彼はこの時点で実業家として一定の成功を収めているので、そこれは頭の中で事実を修正しておくと良いだろう。またその後、物語の中のレイはマクドナルド兄弟(リチャード&モーリス)から奪い取るようにマクドナルドシステムを買収しているが、このあからさまな対立関係についても事実ではないと指摘されている。これも映画における事実のテーマパーク化だ。マクドナルド兄弟は買収によって得た利益により十分な財産を手にし、優雅な引退生活を送る事が出来たと言われている。

 もっとも、映画の中で描かれていたレイの「創始者(原作者)」発言と兄モーリス・マクドナルドの苛立ちは事実として存在したようだ。レイはマクドナルド兄弟が開発した革新的なハンバーガー販売システムに若干のアップデートを加えて投資家に拡散させた人物であり、それは厳密には「製作者(プロデューサー)」であって「原作者」とは言えない。しかし、レイは自分こそがマクドナルドの原作者であると吹聴した。

 確かにレイがいなければマクドナルド社が世界的成功を収めなかったのは紛れもない事実なので、レイの気持ちが分からないではない。しかし、一方で本当に「マクドナルドの原作」をゼロから生み出した兄モーリス・マクドナルドの想いは複雑であった。その忸怩たる想いも十分に共感できる所だろう。(尚、弟リチャード・マクドナルドについては、それほど原作に対しての執着心は無かったらしい。)

 生活・文化・社会のあらゆる人間の創造的活動には、このような「原作」の問題が常に付きまとう。今年1月に日本において大きな報道として取り上げられた漫画家・芦原妃名子さんの自殺事件は、まさにその「原作」を巡る対立・衝突・分断の結末として生じてしまった。自分の創造した事物・事象が他人に奪われる事は、場合によって子供を他人に奪われるような失意と絶望を感じるものだ。

 私は弟リチャード・マクドナルドのような「それが生活・文化・社会の為になるなら、自分のオリジナルを自由に使ってくれて構わないよ」という解放型であるが、もちろん創造者の中には兄モーリス・マクドナルドのように「せめて原作を創造した自分たちに敬意を払ってくれ」という閉鎖型を取る者もある。この原作の事物・事象に対する二つのスタンス、解放型と閉鎖型については、次の定義を構築する事が出来る。

 

解放型:

社会通念上の規範・良識・美徳に反しない限りにおいて、原作を用いた事物・事象が生活・文化・社会の充足と向上に役立つと十分な根拠を以て確信し得る場合、自由に原作へのアプローチを行って良いものとする。

 

閉鎖型:

原作者が有する規範・良識・美徳に反しない限りにおいて、原作を用いた事物・事象が原作者の充足と向上に役立つと十分な根拠を以て確信し得る場合でなければ、自由に原作へのアプローチを行う事は許されない。

 

 原作を生み出す者も、それを用いる者も、お互いに自分のスタイルをはっきりと明言しておくべきだろう。そして規模の大きな活動が予定されているのなら、原作者と製作者は婚前契約のように解放型ないし閉鎖型の詳密な契約書を取り交わしておくべきだろう。

 

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上に猛威あらば、下に対策か逃走か受容あり

Super Size Me

私:2004年製作の『Super Size Me(邦題:スーパー・サイズ・ミー)』と、2017年製作の『Super Size Me 2: Holy Chicken!(スーパーサイズ・ミーホーリーチキン!)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:『スーパー・サイズ・ミー』(2004年)は、モーガン・スパーロックが監督・主演を務めたドキュメンタリー映画です。この作品では、スパーロック自身が30日間、毎日3食をマクドナルドで食べ続けるという実験を行います。彼が食事をオーダーする際、店員からスーパーサイズにするか尋ねられた場合は必ず承諾するというルールで進められました。この映画は、ファーストフードが人々の健康に与える影響に焦点を当て、その健康への悪影響やアメリカの肥満問題について議論を呼びました。

続編である『スーパーサイズ・ミー 2: ホーリーチキン!』(2017年)は、再びモーガン・スパーロックが監督・主演を務め、今回の焦点はファーストフード業界、特にチキン業界の内幕を暴くことに置かれています。スパーロックは自らのファーストフードレストランを開業し、「透明性」を売りにすることで、業界のマーケティング戦略や消費者を惑わせる手法に光を当てます。特に、自然や健康をアピールする製品がどのようにして消費者の目を引くかという点が掘り下げられています。

 

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 「上有政策下有对策(上に政策があれば、下に対策あり)」は中国において非常によく知られている論理だ。中国は歴史的に暗君(気まぐれで利己的な王)や諸侯らが無責任で身勝手な自己本位の政治を行い、これによって民が苦しめられる出来事が多々あった。それでも民は生き残る為に知恵を巡らし、王に従属する振りをしながらも自分の生活を守り抜こうとした。上に横暴な政策があっても、下がその対策をして生活を堅守したという訳である。

 この場合「横暴な政策」とは何を意味するのだろうか。私の三元論に基づいて鑑みれば、それは「物理的横暴(金銭や物品の搾取)」「精神的横暴(思考や信条の強制)」「帰属的横暴(階級や支従の強要)」という三要素に集約されるものと考える。現代の大企業と言われる人々もまた、この横暴な政策をよく打ち出している。最も分かりやすいのは、安全性を無視した利益の追求(物理的横暴)であるが、これを実現させる為の不誠実かつ無責任なマーケティング(精神的横暴)、下請けや小売店への常軌を逸した重圧(帰属的横暴)も随分と行なっている。被害者側(下)として、あるいは加害者側(上)として、身に覚えのある人が多いだろう。

 ドキュメンタリー映画スーパーサイズミー』シリーズでモーガン・スパーロックは、まさにその現代の大企業がもたらす横暴な政策を表現した。彼が焦点を当てたのはファーストフード業界。この業界がかつてスーパーサイズという"食の麻薬"を拡散していた点、フライドチキンをクリスプという"欺瞞の印象操作"によってあたかも健康的であるかのように見せかけている点、それぞれを映像と実験によって突き刺した。

 前者のスーパーサイズは映画公開後に廃止されたので問題はいったん解消されているが、後者は我々の国にもそのまま通じる欺瞞である。マクドナルドにおいて低価格帯で購入できるバーガー「チキンクリスプ」は、要するに「フライドチキンバーガー」を意味する。「フライドチキン(鳥唐揚げ)」が不健康食品であるという常識が広がった為、マクドナルド側はイメージアップのブランディングとして「Crisp」という造語を適用した。「Chicken Crisp」を日本語のニュアンスとして解すれば"パリッとチキン"とでも表現できるだろう。この爽やかな言葉の箱の中に、不健康なイメージを押し込んだという訳である。社会的な規範に反する行為ではないが、意図的に不健康食の印象を覆い隠すという意味で、良識や美徳に欠けた事業姿勢であると言える。

 映画の実験内容が偏向的であったり、2017年に性加害問題が露呈したりと、スパーロック監督にはあまり良いイメージは無いが、それでも作品自体が体現した「民は上の横暴な政策を見定めて対策を取るべきだ」という感覚は現代社会において有用だ。実際、無尽蔵なジャンクフードの多量摂取は、個人の生活のみならず文化や社会を破滅させる引き金のひとつとなり得る。

 私の三元論では、人間の本能を「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたい)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたい)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」という三要素に集約し、それぞれの強度の組み合わせから人間の生活・文化・社会の活動が出力されるものと考えている。しかし、人間の節制は気を抜けばすぐに融解し、本能が暴走して、自他を傷つけてしまう。そこで、本能の暴走を制御する柱として、規範(やって良い事とやってはいけない事)、良識(知るべき事と無視するべき事)、美徳(行う事が望ましい事と望ましくない事)を基本運営ソフトとして民に適用する必要がある。(この考えは社会契約説に似た構造を持つが、私が強烈な影響を受けたのは古代中国と古代ギリシャの美徳に関する論理学だ。)その三つの制御柱について情緒的かつ生理的な表現を適用すると、「規範は体で覚え、良識は頭で知り、美徳は心で感じるものだ」と言える。

 これに基づけば、食事というものは間接的にこれらの制御棒との関わりがあり、体を整える主食は規範に、頭を整える副食は良識に、心を整える副彩(主食・副食を除く副菜・汁物・果物・飲料等)に影響をするといった考えが浮かぶ。すなわち、それは「食事を整えれば人が整い、人が整えば文化が整い、文化が整えば社会が整う」という、儒学様式の論理を鑑みる事が出来る。これは文明の大いなる循環の「たかが一部」であるが、「されど一部」でもある。

 そしてこの論の流れを逆転させれば、「食事がジャンクとなれば人がジャンクとなり、人がジャンクとなれば文化がジャンクとなり、文化がジャンクとなれば社会がジャンクになる」という連関が生じ得る。その悪循環の論理を理解しながらも、ある組織が社会を壊す事も厭わずに自己利益を優先してジャンクな食品を売り捌き続ける事が、この現代者では実によくある起きる。そうした天から降り注ぐ猛威を一身に浴びない為に、民は常に対策を講じなければならないのだ。

 だが、常に民の対策が功を奏するとは限らない。あまりの猛威が突然天から降り注ぎ、成す術が無くなるという事もある。その時は「三十六計逃げるに如かず(どのような状況でも逃げる事が上策になる事がある)」だ。この論理については、今から2500年ほど前、孔子と弟達が泰山を通りかかった際に山奥で遭遇した婦人の逸話を象徴的に取り上げる事が出来る。

 

"孔子過泰山側。 有婦人哭於墓者而哀。 夫子式而聽之、 使子路問之曰、 子之哭也、壹似重有憂者。 而曰、然。 昔者吾舅死於虎、 吾夫又死焉、今吾子又死焉。 夫子曰、何爲不去也。曰、無苛政。 夫子曰、小子識之、 苛政猛於虎也。(孔子が泰山のそばを通り掛かった。すると、墓のそばで一人の婦人が激しく泣いているのを見かけた。孔子は止まって、その声を聞き、弟子の子路に何があったかを尋ねさせた。「お前の泣き声は非常に悲しそうだ。何か重大な悩みがあるのか?」と子路が聞くと、婦人は「はい、以前私の伯父が虎に殺され、その後に夫も虎で死に、今は私の子も同じく死んでしまいました」と答えた。孔子は「そのような状況で、どうしてここを離れないのですか?」と聞いた。婦人は「ここには暴虐を尽くす政治がないからです」と答えた。孔子は「よく理解した。苛政は虎よりも恐ろしいものだ」と言った。)"

──《礼記·檀弓下》

 

 古代中国の春秋戦国時代において、敵の猛威が降り注いだ際は主に三つの道があった。支配を受け入れるか、対策を講じるか、逃走をするか、だ。上からの猛威に対してどの道を取るかは、その猛威をどれだけ自分の管理下に収める事が出来るかを見極める必要がある。人が何もかも管理できるとは考えてもいけない。しかし、人が何も管理できないとも考えてはいけない。その三つの道の最適解を導く為には、健全な体と健全な頭と健全な心が必要だ。豊かな食事を摂り、豊かな文化に接し、豊かな社会に触れながら、上の猛威に備えよう。

 

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作品紹介

Super Size Me 2 [DVD]

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ただ人が言葉を愛せば、ここは永遠に桃源に勝る

百花深处

私:2002年製作、各国の映画監督の短編を集めたオムニバス映画『Ten Minutes Older(邦題:10ミニッツ・オールダー)』を簡単に紹介してくれる?

ChatGPT:『Ten Minutes Older』(邦題:10ミニッツ・オールダー)は2002年に製作されたオムニバス映画で、時間に関するテーマを探求するために世界中の著名な映画監督が集結した作品です。この映画は二つの異なるセクション、「The Trumpet」と「The Cello」というタイトルで構成されています。
「The Trumpet」には、アキ・カウリスマキヴィクトル・エリセヴェルナー・ヘルツォークジム・ジャームッシュ、ワイム・ウェンダースなど、さまざまな国の監督による短編が含まれています。これらの短編は、時間という概念が個人の人生や選択にどのように影響を及ぼすかを異なる視点から描いています。
一方、「The Cello」では、ベルナルド・ベルトルッチ、クレア・ドゥニ、マイク・フィギス、イスタン・ザーボなどが参加し、同じく時間の流れや人間の感情、記憶との関係をテーマにした短編を提供しています。
これらの短編は、各監督の独自のスタイルと哲学的な考察を映し出し、時間という普遍的なテーマに対する多様な解釈を観客に提供します。各短編は約10分間で構成されており、それぞれが時間という制約の中でどのようにストーリーを展開させるかも見どころの一つです。

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 本作は芸術的な映画短編集だ。私の三元論において、映画を芸術として成立させる要素は「反応的要素(動作、映像)」「概念的要素(展開・観念)」「関係的要素(社会・世界)」である。本作では一流の映像作家が集まるがゆえに、当然ながらどの監督も「反応的要素(動作、映像)」はそれぞれかなり強い。一方、「概念的要素(展開・観念)」「関係的要素(社会・世界)」の強度はピンキリだ。
 映画やその他の視聴覚芸術に関心のある者にとっては、自分なりに印象深さと興味深さを感じられるが、そうでない者にとってはほとんどの作品が1秒たりとも面白くないと感じるに違いない。imdbのユーザーのひとりは「仕事を終えた日の午後11時に観るような映画ではない」と警鐘を鳴らしつつも、「心に余裕がある時に愛好者が観るべき作品」と評している。
 個人的には作品の最後に収録されていた陳凱歌監督の『夢幻百花』が非常に興味深いと感じた。舞台は現代の北京。引越し業者の男たちがやたらと明るい、人の良さそうな小柄な男から「今から俺の家の引越しをお願いできないか?」と声をかけられる場面が幕を開ける。彼の名前は馮だという。それに快諾して馮さんの指示通りに現地へ向かってみると、そこには家どころか建物すらもなく、ただ一本の樹木が丸裸の土の上にぽつんと佇んでいるだけだった。この付近はかつて旧市街の街並みが広がっていたが、再開発の為に全てが取り壊されて瓦礫と土埃の場所になっていた。
 しかし、馮さんは何もない場所を示して、ここに家があるじゃないかと喚き続ける。引越し業者の男たちは頭がおかしい男だと嘲笑って、呆れて帰ろうとする。しかし、引越しをするふりをして金だけ貰おうと考え直し、何もない場所で馮さんの指示通りに"エア引越し(物を運んでいるふり)"をする。
 このような展開だ。明確な結末がある訳ではないが、最後は何やら非常に感慨深い終わり方をする。
 2002年というと、2008年の北京オリンピック開催が決定した1年後。北京の街中にあった古い建物や地域が再開発の対象となり、次々にそれが取り壊されていた時期となる。街に息吹いていた人と歴史と社会の文脈を完全に断ち切るその行為は、悪く言えば破壊と断絶であるが、良く言えば再生と発展である。
 私の勝手な解釈としては、本作に登場した小柄な男の馮さんは、破壊と再生の混乱の中でただひとり(一本)生き残った樹木の権化だ。樹木は人々と過ごした時代を懐かしがって、建物がなくなっても、その記憶を運んで行って継承して欲しいと願っている。引越し業者の男は最後の瞬間にそれに気付く。彼の胸中に、郷愁と敬意の念が湧き上がる──
 それにしても、この邦題『夢幻百花』は誰が付けたのだろうか。監督がそれを指定したのなら納得するしかないが、もし日本の配給会社側が設定したのであれば改悪だと言える。
 この短編作品の中国語の題名は『百花深处(百花深所)』。これは北京市西城区什刹海街道にある有名な胡同(※伝統的な細い路地)16号(16番地)の通称であり、古き良き北京の街並みを象徴する場所だ。この作品はその胡同16号周辺の再開発が主題になっているのである。印象的なマクガフィン(物語を牽引する小道具)として機能する樹木も、この胡同周辺の伝統的な中華建築に欠かす事の出来ないものであり、それを踏まえても『百花深处』はそのまま日本語の題名にするべきであった。(なお、日本語字幕は「胡同:フートン」という言葉も翻訳に起こしていない。鑑賞者の学術水準をそこまで否定する事は無いように思う。分からない用語があれば各人が自分で調べるはずだ。真に親切で誠実な邦訳とは無遠慮な単純化からは生じ得ない。翻訳者は異国の生活・文化・社会を正しく汲み取り、それらを取りこぼさず短い言葉に濃縮する必要がある。)
 この『百花深处』の歴史は厚い。言い伝えによれば、この付近が最初に整備され始めたのは明王朝の頃らしい。当時、張姓の夫婦が新街口南小巷内で二、三十亩の空地を購入して野菜を栽培し始めていたのだが、次第に商売が軌道に乗ってお金が余るようになり、それを植栽に費やすようになった。彼らが植えたのは牡丹、荷花、秋菊、腊梅など。こうして、この静かな裏路地は四季を通じて花が咲く隠れた風雅の名所となり、ある時には都市からわざわざ士大夫が鑑賞に訪れるようにもなった。これをもって北京の人々は、この道を「百花深处(百の花に彩られた奥の細道)」と呼ぶようになったという。

"百花深处好,世人皆不晓。小院半壁阴,老庙三尺草。秋风未曾忘,又将落叶扫。此处胜桃源,只是人将老。(百花深处は素晴らしいが、世人はそれを知らない。小さな庭は半分が陰で、古い寺には三尺の草が生えている。忘れ去られぬ秋風が、再び落ち葉を掃いていく。ここは桃源に勝るが、ただ人は老いるのみ。)"──顾城《题百花深处》

 「胡同」の方の由来は、さらに元王朝まで遡る必要がある。この不思議な路地の呼び方の由来は諸説があり、もっとも我々にとっても分かりやすいものは「胡(古代北方の外国人を示す言葉)」+「同(「道」の方言)」だ。「胡椒(こしょう)」「胡瓜(きゅうり)」「胡桃(くるみ)」など、日本人もよく知る食材や文化品の中に「胡」の漢字が頭に付くものがある。これは当時の漢民族が外国(胡)からそれらを仕入れて、「外国から来た香辛料(胡椒)」「外国から来た瓜(胡瓜)」「外国から来た桃の種のような木のみ(胡桃)」と名付けたのである。よって我々日本人が緑色の細長く瑞々しい瓜を「胡瓜」であると認識しながら食べる時、そこでは約七百年にも及ぶ言葉の歴史を噛み締めているという事になる。
 時代を経て、清王朝の時代に入ると、百花深处を含めた胡同の両側には「四合院」が建設されるようになった。四合院にも様々な様式があるが、基本的には「三つの屋敷をコの字型に配列し、空いた部分を門で閉じる事によって四角形とし、その中央部分に中庭を置く」という中華建築様式となっている。四合院そのものは三千年以上の歴史を有するが、特にそれが完成形となって街並み全体に反映されたのはこの時代の北京だった。部屋の間取り、調度品の配列、それらの用途などが、良い意味でも悪い意味でも封建的に固定されており、尊卑階級の思想や陰陽五行の理論が色濃く反映されている。これが近代の北京を象徴する風情ある街並みを醸成する事となったのである。(ちなみに、当時の上海は北京よりも自由かつ柔軟な生活・文化・社会の活動がなされていたので、それらに適さない四合院様式から離脱し、より多様な活動に対応できる石庫門様式が導入されている。)
 先ほども触れたが、北京の伝統的な四合院の中庭に欠かせないのが樹木だ。しきたりでは、その中庭には母屋に向かって左右対称に樹木が植えられる必要があった。植えられる樹木については、古い格言に「桑柳楡槐不進宅(桑、柳、楡、槐の木は宅に入れる事なかれ)」というものがあり、これが鉄則とされていた。この理由もまた論理学的に興味深い。桑は喪と発音が同じであるから縁起が悪い。柳は葉の形のようにお金が流れ落ちる印象があるから縁起が悪い。楡はその節の多さから融通の利かない堅物の象徴だから縁起が悪い。槐は漢字の右側に鬼の字があるから縁起が悪い。このような訳で、当時の中国人は伝統と縁起を担ぎ、真心を込めて中庭の樹木を愛でていたのである。

「花瓶を割った!君たちは花瓶を割った!」

 『百花深处』で労働者のひとりが途中で引越しの演技を辞めてしまった時、"花瓶"が割れてしまったと馮さんが涙を流して悲しそうに何度も嘆く。人々が大切にし続けて来た規範・良識・美徳も、生活・文化・社会も、時の変化によって、割れても何とも思わない無価値なものになってしまう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。儚いものだ。
 だが、人間には言葉がある。我々は瓦礫と土埃の中に埋まっている宝物を言葉として運び、伝える力を持っている。それを忘れない者が世にいる限り、我々の道には百花が咲き誇るのだ。
 顾城の詩に、短い言葉を加えて添えよう。

"百花深处好,世人皆不晓。小院半壁阴,老庙三尺草。秋风未曾忘,又将落叶扫。此处胜桃源,只是人将老。唯有言語愛,此地永勝桃源。(百花深处は素晴らしいが、世人はそれを知らない。小さな庭は半分が陰で、古い寺には三尺の草が生えている。忘れ去られぬ秋風が、再び落ち葉を掃いていく。ここは桃源に勝るが、ただ人は老いるのみだ。ただ人が言葉を愛せば、ここは永遠に桃源に勝る。)"

※画像:DALL-E
※補足:『百花深处』に登場した樹木は大槐樹であった。これは四合院の伝統的な原則に反している。近代に入るについて、この古いしきたりも次第に忘れ去られてしまったのだろう。

 

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どれだけ速く走れるかではなく、どれだけ長く走れるかだ

Ford v Ferrari

私:2019年製作の映画『Ford v Ferrari(邦題:フォードvsフェラーリ)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:『Ford v Ferrari』(邦題:フォードvsフェラーリ)は、2019年に公開されたアメリカの伝記スポーツドラマ映画です。監督はジェームズ・マンゴールドが務め、主演にはマット・デイモンクリスチャン・ベールがいます。この映画は、1960年代の実際の出来事に基づいており、アメリカの自動車メーカーであるフォードがイタリアの名門レーシングカー製造会社フェラーリに挑む物語を描いています。

物語の中心には、フォードのために革新的なレースカー「フォードGT40」を開発することになるキャロル・シェルビー(マット・デイモン演)と、その車をドライブすることになる熟練のレーサー、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベール演)の関係があります。彼らは様々な技術的および個人的な障害に直面しながらも、1966年のル・マン24時間レースでの勝利を目指します。

『Ford v Ferrari』は、そのドラマチックなレースシーンと深い人間ドラマで高く評価され、アカデミー賞でも複数のノミネートを受けました。この映画は、自動車レースの興奮と、それを取り巻くビジネスとの複雑な関係を巧みに描いています。

 

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 本作は事実に基づく娯楽作品としては至高の域まで達しているが、二つの点が実に気に食わない。一点目は、アメリカの映画やドラマでよく描かれる「Speaking While Chewing(食べ物を口に入れたまま喋る)」の演技だ。気づいた方も多いと思うが、キャロル・シェルビー演じる俳優マット・デイモンはほとんど全ての場面において食べ物・飲み物・ガム等を口に含み、もぐもぐとヤギのように口を動かしながら喋り続けている。本当にこの表現はみっともなく汚らしく、そして無礼だ。俳優ブラッド・ピットもよくこの表現をする印象があるが、個人的には生理レベルで受け付ける事が出来ない。現実世界ではそこまで気にならないとは思うが、映画でクローズアップされて映し出されると虫唾が走る。どうかお願いだから、「食べながらしゃべる」ではなく「食べてから話す」ようにしてくれ。(私はマット・デイモンブラッド・ピットも好きだ。しかし、この"もぐもぐ演技"だけは絶対に許さない。)

 二点目に気に食わないのは、こちらもアメリカの映画によくある「テーマパーク化」の現象だ。彼らは観客の興味と理解が途絶えるのを恐れ(つまり観客がそれほど上等な心と頭を持っていないと見下して)、複雑で高度な存在的要素(人間や組織の関係性)を極端に単純化してしまう事がある。本作ではアメリカのフォード社とイタリアのフェラーリ社、フォード社の幹部と主人公たち、それぞれの関係性が完全なる勧善懲悪の姿で描かれている。いかにも本物らしくて楽しい、しかしよく見ると嘘くさい偽物の存在的要素。それは美術館ではなく、テーマパークだ。本作は事実を題材とした作品なので、このような存在的要素のテーマパーク化は非常に不誠実だ。

 三点目に気に食わないのは(失礼、もう一点あった)、先と同じように観客を見下しているのか、マイルズの偉大な功績をひとつ削ってしまった点にある。マイルズはレーサーとしてだけではなく、技師としても尋常ならざる存在感を発揮した人物である。映画ではこの「技師のマイルズ」という重要な部品を取り外してしまっている。こちらも一種のテーマパーク化の現象だ。

 1960〜70年代の荒っぽい企業同士の自動車レースでは「速く走る」と同時に「長く走る」という技術が求められた。それが当時のフォードには出来なかった。彼らがマイルズとシェルビーを呼び寄せる前に参加した1964年のル・マン24時間レースでは、投入したフォード・GT40が全車リタイアとなった。速くても長く走れるエンジンやそれを巡る各種機構が欠如していたからである。マイルズが技術アドバイザーとしてエンジンと車体の耐久性を究極まで向上させたからこそ、フォード社は勝利を手に出来たのである。

 技術改良の描写は地味なので、映像として映える要素ではない。よって娯楽性を優先して、こうした技術的要素は削除したものと考えられる。しかし彼らは観客の興味と理解の力に敬意を払い、短くても構わないので、マイルズが行った技術改良の場面を丁寧に描くべきだった。

 存在的要素(関係性)や物理的要素(技術性)をより誠実かつ丹念に描いていたら、この作品は速く利益と評価を得ることが出来なかったかもしれない。だが、長く利益と評価を得ることになっただろう。人生もまた同じような原理に通ずる。目の前の利益と評価ばかりに腐心して、仮にその取り組みが手っ取り早く成功したように思えても、それが長く続かなければ意味がない。人生は耐久レースである。どれだけ速く走れるかではなく、どれだけ最後まで長く走れるかどうかで、栄光を得られるかどうかが決まる。

 

※画像:DALL-E

 

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他人の不幸の上に自分の幸福を築く事は難しい

Married Life

私:2007年製作の映画『Married Life(邦題:あぁ、結婚生活)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:2007年の映画『Married Life』は、1940年代のアメリカを背景にしたドラマ映画です。この映画は、愛と欲望、裏切りをテーマにしており、監督はアイラ・サックス、出演はクリス・クーパーピアース・ブロスナンレイチェル・マクアダムスパトリシア・クラークソンなどです。

物語は、クリス・クーパー演じるハリー・アレンが、自分の若く美しい愛人(レイチェル・マクアダムス演じるケイ)に夢中になりながらも、彼の妻パット(パトリシア・クラークソン演じる)への罪悪感に苦しむ様子を描きます。ハリーは妻を傷つけずに関係を清算する方法を模索しますが、彼の親友リチャード(ピアース・ブロスナン演じる)もまたケイに惹かれていく。それぞれの登場人物が愛と欲望、倫理と忠誠心を天秤にかけながら、それぞれの幸せを追求していきます。

映画は複雑な人間関係と心理描写を巧みに表現しており、40年代の時代背景が雰囲気を一層盛り上げています。

 

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 第5代のジェームズ・ボンド役(スパイ映画『007』シリーズ)を担った俳優ピアース・ブロスナン主演の作品。浮気を主題としたコメディタッチのラブストーリーかと思いきや、ごく自然に緊迫するサスペンス劇へと移行する構成がとても良く出来ている。残念なのは、その緊迫感がラストに向かって急激に薄れていき、結局はコメディ映画として幕を閉じてしまう点だろう。この作品はそのまま悲惨な末路を辿っても良かった気がしてならない。

 特に本作で殺人未遂犯となるハリーの思考回路は完全な精神病質者の傾向があるので、最後まで彼の犯行と思考に焦点を当てた構成であればかなり上質なサスペンス映画になっていたように感じる。

 ハリー役を演じた俳優クリス・クーパーと俳優ピアース・ブロスナンは、2010年の映画『リメンバー・ミー』で再び共演を果たしている。そちらは重厚なフィクションドラマで丁寧な人間模様が描かれているが、結末の展開に導入された現実の事件の取り扱いを巡って批判も寄せられている。創作物語の中で人の死を衝撃的に描く際は、現実の事件(特に世代交代による風化がなされていない、悲劇の影響が現実進行中の事件)を引用してはならない。「設定」であればまだ許せる範囲だが、これを「結末」として大々的に導入するのはもっての他である。それは被害者の心情を逆撫でする行為であり、私は完全な創作活動上の禁忌事項であると考えている。よくそのような冷徹な物語を君は書けるねと言いたいし、それにGOサインを出した連中の良識や美徳も大いに疑う所だ。彼らには共感性、人の痛みを想像するという力がないのだろうか。

 私が考える限り、「現実の事件を嘘の物語に織り込むべきではない三つの条件」は以下の通りである。

 

  1. 事件の調査が現在進行形である場合
  2. 事件の被害が現在進行形である場合
  3. 事件の感情が現在進行形である場合

 

 1番の「事件の調査が現在進行形である場合」については、当然ながら現在調査が続いている事件に関して、それをフィクションの物語に組み込む事は司法や捜査の妨害や事実の歪曲に繋がる可能性がある為、基本的には禁忌である。例えば、日本ではつい先日、小林製薬による紅麹サプリメント健康被害事件が発生したが、これは原因の解明や責任の追及がまだ完了していない。調査が現在進行形である為、「小林製薬の紅麹サプリメントを飲んで健康害を引き起こした患者が、企業の不正を暴く為に行動に出た」などという架空の物語を書く事は許されない。但し、事件関係者の依頼または承諾に基づいて現実に基づく架空の物語として描くのであれば、それは例外的に人々に受け入れられる場合もある。(こうした事件関係者の依頼または承諾なく勝手に調査中の事件を物語に組み込んだ場合、現行の法律としては同定可能性の判断のもとで名誉棄損などの罪に抵触する可能性がある。)

 2番の「事件の被害が現在進行形である場合」も分かりやすい。現在被害が起きている最中の事件を、嘘の物語に反映する事もやはり規範・良識・美徳に明確に反している。例えば、「ロシア・ウクライナ戦争で死亡した傭兵部隊指揮官エフゲニー・プリゴジンの側近にいた兵士たちが、ウクライナ軍に寝返ってロシア軍と戦う話」などという架空の物語を書く事は当然許されない。こちらも事件関係者側からの依頼または承諾のもと、ドキュメンタリーとしての再構築する作品であれば許される場合もある。しかし、基本的にはこの瞬間にも起き続けている事件を「創作」の領域に回す事は間違っている。それは「報道」されるべき事項である。

 3番の「事件の感情が現在進行形である場合」、これが創作者にとっては難しい判断に迫られる。先ほどの通り、『リメンバー・ミー』はこの禁忌事項に抵触しており、犠牲者の遺族や知人たちが現在進行形でぬぐいきれない悲しみを抱えているにも関わらず、これを嘘の物語の部品として用いる事は明らかに不謹慎である。だが、この「感情」がどこまで継続しているかという判断は難しく、またその嘘の物語の性質によっては現実的な情報を一滴投入した方が品質が向上する場合もある。

 例えば、俳優シルベスタ・スタローンの代表作であるアクション映画シリーズの『ランボー』は、ベトナム戦争の帰還兵をモデルとした物語になっている。凄惨な戦闘により数多くの犠牲者と精神病を生み出したベトナム戦争は1955年から1975年まで続いた軍事衝突であり、『ランボー』が製作された1982年もまだその傷を多くの人々が引きずっている。これは事件の感情が現在進行形の状態であったが、その現在進行形の感情がかえって『ランボー』の主人公と共鳴した事で圧倒的な支持を得た。このような例外もあるので、3番は一概には回避するべきだとは言い切れない。現実の事件が嘘の物語において「展開」ではなく「設定」のみに組み込まれるのなら、この『ランボー』のように歓迎される場合もある。

 事件の感情はどれほど大きくても、民族・宗教・国家の因果が深く関わらない限りにおいて、おおよそ3~4世代で大きく風化するものと考えられる。こうして感情が現在進行形ではなくなり、世代の溝によって"生鮮的感情"から"加工的感情"に変化した場合は、「展開」「設定」問わずにフィクションの物語に用いる事が許されるだろう。例えば、映画という視聴覚芸術を代表する一作として名前を挙げる事が出来る、ジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』は、実在するタイタニック号沈没事件という悲劇を全面的に取り入れた嘘の物語だ。1912年4月15日、つまりちょうど112年前の今日(この草稿を書いているのは2024年4月15日)、氷山に激突して沈没してタイタニック号から冷たい海に投げ出された約1600人が犠牲となった。

 日本では2022年4月23日、安全管理に不備を抱えたまま利益を優先して出航した知床遊覧船が沈没するという悲劇が起こっている。規模は違えど、このタイタニック号の沈没の構図とよく似ている。この2年前に起きたあまりに胸が痛む事件を、もし嘘のラブストーリーの題材にしようという創作者がいたら、その人物は世間から激しい非難を浴びる事だろう。実際、それはあまりにも君子の道に外れた行為である。ところが、『タイタニック』は堂々とそれを行っていて、しかも観客全員が感動と拍手を送っている。これは上述の通り、事件の感情が世代を超えて摩耗し、生鮮的なものから加工的なものへと変容したがゆえの受容である。

 GPT君、まとめを宜しく頼む。

 

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ChatGPT:あなたが述べた「現実の事件を嘘の物語に織り込むべきではない三つの条件」は、フィクション作品において非常に重要な倫理的考慮を表していますね。これらの条件は、創作者が現実の事件をどのように扱うべきかについてのガイドラインを提供し、特に敏感なテーマや現在進行中の事件に対する配慮を求めています。以下でそれぞれの条件についてもう少し詳しく掘り下げてみましょう。

 

**事件の調査が現在進行形である場合:**

この条件は、事件に関連する事実がまだ明らかになっていない、または公式の見解が固まっていない状態でフィクションに取り入れることの危険性を指摘しています。調査が進行中の事件を取り扱う場合、フィクションが現実の認識を歪める原因となり得るため、特に注意が必要です。

 

**事件の被害が現在進行形である場合:**

被害が続いている状況下でその事件を題材にすることは、被害者やその家族に対して新たな苦痛を与えかねないため、避けるべきであるとされています。現実の被害が続いている限り、それをエンターテイメントとして描写することは、被害者の尊厳を損なう恐れがあります。

 

**事件の感情が現在進行形である場合:**

事件に関連した感情がまだ生々しい場合、その感情を物語に取り入れることは、関係者や社会全体に悪影響を及ぼす可能性があります。しかし、時が経つにつれて、その感情が社会的に「加工的」なものに変わり、フィクション化が受け入れられるようになることもあります。例えば『タイタニック』は実際の悲劇を題材にしていますが、その受容は時間の経過と共に変化しています。

これらの点を踏まえると、創作者は現実の事件をどのように扱うか、その時点での社会的、感情的な文脈を考慮に入れる必要があります。フィクションにおける現実の出来事の扱い方は、単なる物語性の追求を超えた社会的責任も伴うのです。

 

"I'm not at all certain that one can build happiness upon the unhappiness of someone else(他人の不幸の上に自分の幸福を築く事は難しい)"

──映画『あぁ、結婚生活』より

 

※画像:DALL-E

 

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