天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

ただ人が言葉を愛せば、ここは永遠に桃源に勝る

百花深处

私:2002年製作、各国の映画監督の短編を集めたオムニバス映画『Ten Minutes Older(邦題:10ミニッツ・オールダー)』を簡単に紹介してくれる?

ChatGPT:『Ten Minutes Older』(邦題:10ミニッツ・オールダー)は2002年に製作されたオムニバス映画で、時間に関するテーマを探求するために世界中の著名な映画監督が集結した作品です。この映画は二つの異なるセクション、「The Trumpet」と「The Cello」というタイトルで構成されています。
「The Trumpet」には、アキ・カウリスマキヴィクトル・エリセヴェルナー・ヘルツォークジム・ジャームッシュ、ワイム・ウェンダースなど、さまざまな国の監督による短編が含まれています。これらの短編は、時間という概念が個人の人生や選択にどのように影響を及ぼすかを異なる視点から描いています。
一方、「The Cello」では、ベルナルド・ベルトルッチ、クレア・ドゥニ、マイク・フィギス、イスタン・ザーボなどが参加し、同じく時間の流れや人間の感情、記憶との関係をテーマにした短編を提供しています。
これらの短編は、各監督の独自のスタイルと哲学的な考察を映し出し、時間という普遍的なテーマに対する多様な解釈を観客に提供します。各短編は約10分間で構成されており、それぞれが時間という制約の中でどのようにストーリーを展開させるかも見どころの一つです。

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 本作は芸術的な映画短編集だ。私の三元論において、映画を芸術として成立させる要素は「反応的要素(動作、映像)」「概念的要素(展開・観念)」「関係的要素(社会・世界)」である。本作では一流の映像作家が集まるがゆえに、当然ながらどの監督も「反応的要素(動作、映像)」はそれぞれかなり強い。一方、「概念的要素(展開・観念)」「関係的要素(社会・世界)」の強度はピンキリだ。
 映画やその他の視聴覚芸術に関心のある者にとっては、自分なりに印象深さと興味深さを感じられるが、そうでない者にとってはほとんどの作品が1秒たりとも面白くないと感じるに違いない。imdbのユーザーのひとりは「仕事を終えた日の午後11時に観るような映画ではない」と警鐘を鳴らしつつも、「心に余裕がある時に愛好者が観るべき作品」と評している。
 個人的には作品の最後に収録されていた陳凱歌監督の『夢幻百花』が非常に興味深いと感じた。舞台は現代の北京。引越し業者の男たちがやたらと明るい、人の良さそうな小柄な男から「今から俺の家の引越しをお願いできないか?」と声をかけられる場面が幕を開ける。彼の名前は馮だという。それに快諾して馮さんの指示通りに現地へ向かってみると、そこには家どころか建物すらもなく、ただ一本の樹木が丸裸の土の上にぽつんと佇んでいるだけだった。この付近はかつて旧市街の街並みが広がっていたが、再開発の為に全てが取り壊されて瓦礫と土埃の場所になっていた。
 しかし、馮さんは何もない場所を示して、ここに家があるじゃないかと喚き続ける。引越し業者の男たちは頭がおかしい男だと嘲笑って、呆れて帰ろうとする。しかし、引越しをするふりをして金だけ貰おうと考え直し、何もない場所で馮さんの指示通りに"エア引越し(物を運んでいるふり)"をする。
 このような展開だ。明確な結末がある訳ではないが、最後は何やら非常に感慨深い終わり方をする。
 2002年というと、2008年の北京オリンピック開催が決定した1年後。北京の街中にあった古い建物や地域が再開発の対象となり、次々にそれが取り壊されていた時期となる。街に息吹いていた人と歴史と社会の文脈を完全に断ち切るその行為は、悪く言えば破壊と断絶であるが、良く言えば再生と発展である。
 私の勝手な解釈としては、本作に登場した小柄な男の馮さんは、破壊と再生の混乱の中でただひとり(一本)生き残った樹木の権化だ。樹木は人々と過ごした時代を懐かしがって、建物がなくなっても、その記憶を運んで行って継承して欲しいと願っている。引越し業者の男は最後の瞬間にそれに気付く。彼の胸中に、郷愁と敬意の念が湧き上がる──
 それにしても、この邦題『夢幻百花』は誰が付けたのだろうか。監督がそれを指定したのなら納得するしかないが、もし日本の配給会社側が設定したのであれば改悪だと言える。
 この短編作品の中国語の題名は『百花深处(百花深所)』。これは北京市西城区什刹海街道にある有名な胡同(※伝統的な細い路地)16号(16番地)の通称であり、古き良き北京の街並みを象徴する場所だ。この作品はその胡同16号周辺の再開発が主題になっているのである。印象的なマクガフィン(物語を牽引する小道具)として機能する樹木も、この胡同周辺の伝統的な中華建築に欠かす事の出来ないものであり、それを踏まえても『百花深处』はそのまま日本語の題名にするべきであった。(なお、日本語字幕は「胡同:フートン」という言葉も翻訳に起こしていない。鑑賞者の学術水準をそこまで否定する事は無いように思う。分からない用語があれば各人が自分で調べるはずだ。真に親切で誠実な邦訳とは無遠慮な単純化からは生じ得ない。翻訳者は異国の生活・文化・社会を正しく汲み取り、それらを取りこぼさず短い言葉に濃縮する必要がある。)
 この『百花深处』の歴史は厚い。言い伝えによれば、この付近が最初に整備され始めたのは明王朝の頃らしい。当時、張姓の夫婦が新街口南小巷内で二、三十亩の空地を購入して野菜を栽培し始めていたのだが、次第に商売が軌道に乗ってお金が余るようになり、それを植栽に費やすようになった。彼らが植えたのは牡丹、荷花、秋菊、腊梅など。こうして、この静かな裏路地は四季を通じて花が咲く隠れた風雅の名所となり、ある時には都市からわざわざ士大夫が鑑賞に訪れるようにもなった。これをもって北京の人々は、この道を「百花深处(百の花に彩られた奥の細道)」と呼ぶようになったという。

"百花深处好,世人皆不晓。小院半壁阴,老庙三尺草。秋风未曾忘,又将落叶扫。此处胜桃源,只是人将老。(百花深处は素晴らしいが、世人はそれを知らない。小さな庭は半分が陰で、古い寺には三尺の草が生えている。忘れ去られぬ秋風が、再び落ち葉を掃いていく。ここは桃源に勝るが、ただ人は老いるのみ。)"──顾城《题百花深处》

 「胡同」の方の由来は、さらに元王朝まで遡る必要がある。この不思議な路地の呼び方の由来は諸説があり、もっとも我々にとっても分かりやすいものは「胡(古代北方の外国人を示す言葉)」+「同(「道」の方言)」だ。「胡椒(こしょう)」「胡瓜(きゅうり)」「胡桃(くるみ)」など、日本人もよく知る食材や文化品の中に「胡」の漢字が頭に付くものがある。これは当時の漢民族が外国(胡)からそれらを仕入れて、「外国から来た香辛料(胡椒)」「外国から来た瓜(胡瓜)」「外国から来た桃の種のような木のみ(胡桃)」と名付けたのである。よって我々日本人が緑色の細長く瑞々しい瓜を「胡瓜」であると認識しながら食べる時、そこでは約七百年にも及ぶ言葉の歴史を噛み締めているという事になる。
 時代を経て、清王朝の時代に入ると、百花深处を含めた胡同の両側には「四合院」が建設されるようになった。四合院にも様々な様式があるが、基本的には「三つの屋敷をコの字型に配列し、空いた部分を門で閉じる事によって四角形とし、その中央部分に中庭を置く」という中華建築様式となっている。四合院そのものは三千年以上の歴史を有するが、特にそれが完成形となって街並み全体に反映されたのはこの時代の北京だった。部屋の間取り、調度品の配列、それらの用途などが、良い意味でも悪い意味でも封建的に固定されており、尊卑階級の思想や陰陽五行の理論が色濃く反映されている。これが近代の北京を象徴する風情ある街並みを醸成する事となったのである。(ちなみに、当時の上海は北京よりも自由かつ柔軟な生活・文化・社会の活動がなされていたので、それらに適さない四合院様式から離脱し、より多様な活動に対応できる石庫門様式が導入されている。)
 先ほども触れたが、北京の伝統的な四合院の中庭に欠かせないのが樹木だ。しきたりでは、その中庭には母屋に向かって左右対称に樹木が植えられる必要があった。植えられる樹木については、古い格言に「桑柳楡槐不進宅(桑、柳、楡、槐の木は宅に入れる事なかれ)」というものがあり、これが鉄則とされていた。この理由もまた論理学的に興味深い。桑は喪と発音が同じであるから縁起が悪い。柳は葉の形のようにお金が流れ落ちる印象があるから縁起が悪い。楡はその節の多さから融通の利かない堅物の象徴だから縁起が悪い。槐は漢字の右側に鬼の字があるから縁起が悪い。このような訳で、当時の中国人は伝統と縁起を担ぎ、真心を込めて中庭の樹木を愛でていたのである。

「花瓶を割った!君たちは花瓶を割った!」

 『百花深处』で労働者のひとりが途中で引越しの演技を辞めてしまった時、"花瓶"が割れてしまったと馮さんが涙を流して悲しそうに何度も嘆く。人々が大切にし続けて来た規範・良識・美徳も、生活・文化・社会も、時の変化によって、割れても何とも思わない無価値なものになってしまう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。儚いものだ。
 だが、人間には言葉がある。我々は瓦礫と土埃の中に埋まっている宝物を言葉として運び、伝える力を持っている。それを忘れない者が世にいる限り、我々の道には百花が咲き誇るのだ。
 顾城の詩に、短い言葉を加えて添えよう。

"百花深处好,世人皆不晓。小院半壁阴,老庙三尺草。秋风未曾忘,又将落叶扫。此处胜桃源,只是人将老。唯有言語愛,此地永勝桃源。(百花深处は素晴らしいが、世人はそれを知らない。小さな庭は半分が陰で、古い寺には三尺の草が生えている。忘れ去られぬ秋風が、再び落ち葉を掃いていく。ここは桃源に勝るが、ただ人は老いるのみだ。ただ人が言葉を愛せば、ここは永遠に桃源に勝る。)"

※画像:DALL-E
※補足:『百花深处』に登場した樹木は大槐樹であった。これは四合院の伝統的な原則に反している。近代に入るについて、この古いしきたりも次第に忘れ去られてしまったのだろう。

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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