天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール訪問記

The 13th Warrior

私:1999年製作の映画『The 13th Warrior(邦題:13ウォーリアーズ)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:1999年に製作された映画『The 13th Warrior』は、マイケル・クライトンの小説『イーターズ・オブ・ザ・デッド』を原作としています。この映画はジョン・マクティアナンが監督を務め、アントニオ・バンデラスが主演を務めています。

物語は、10世紀のアラブの使節であるアフマド・イブン・ファドラーン(アントニオ・バンデラス演)が、北欧のヴァイキングと出会い、彼らと共に謎の敵と戦うための旅に出ることから始まります。彼は最初は異文化に戸惑いながらも、13人の戦士の一員として受け入れられ、彼らと共に成長していく様子が描かれています。

映画は、異文化間の交流や勇気、友情などをテーマにしており、スリリングなアクションシーンとドラマチックな展開が特徴です。また、ヴァイキングの伝説や神話が織り交ぜられ、幻想的な要素も感じさせます。

 

私:ありがとう。その映画のモデルとなった、10世紀に活躍した学者「アフマド・イブン・ファドラーン」を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:アフマド・イブン・ファドラーンは10世紀に活躍したアラブの探検家で、学者でもあります。彼は主にイスラム教の教義を広める目的で、バグダッドアッバース朝のカリフから派遣された使節団の一員として北方の土地を訪れました。

イブン・ファドランは、922年に始まるその旅行で、ヴォルガ川沿いに住むヴォルガ・ブルガール人を訪れ、さらにはその地域に住むさまざまな民族と接触しました。彼の最も有名な業績は、ヴァイキング(彼の記録では「ルーシ」と呼ばれています)の風俗や習慣についての詳細な記述です。これらの記述は『イブン・ファドラーンの旅行記』として知られており、彼が目撃したヴァイキングの葬儀の儀式などは、非常に貴重な歴史的文献とされています。

イブン・ファドラーンの記録は、異文化間の交流と理解に貢献するだけでなく、中世の北欧社会やイスラム世界の知識にも大きく貢献しており、後の文化や文学作品にも影響を与えています。

 

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 SF小説アンドロメダ病原体』『大列車強盗』『ジュラシック・パーク』などの作家として、また映画『ウェストワールド』『ツイスター』やドラマ『ER 緊急救命室』などの脚本・監督として、20世紀後半のエンターテイメント文化に大きな影響を与えたアメリカのマイケル・クライトン。彼が1976年に著した小説『イーターズ・オブ・ザ・デッド(邦題:北人伝説)』を原作として発表された映画が、この『13ウォーリアーズ』だ。

 アラブ人の詩人がヴァイキングと連携して悪霊を討ち滅ぼすという旅物語。展開も人物の描写も唐突な場面が連続するので全般的にのめり込みにくい作品であるが、俳優アントニオ・バンデラスの演技には大きな存在感があるし、映像自体も場面によってはよく描き込まれている箇所もある。映画の題材も特異なものであるから、その冒険から放たれる閃きや輝きも少なくない。

 ちなみに、もともと本作はジョン・マクティアナン監督が『死者を喰らう者』という題名で映画を完成させていたのだが、テスト上映後に「観るに堪えない」といった酷評が乱舞。これを受けて急遽、原作者のマイケル・クライトン本人が撮影と編集をし直す事になって、何とか観るに堪える内容に昇華された。構成がチグハグになっている感を受けるのは、そのような制作上の事情によるものだろう。本作のファンの中には最初にテスト上映されたバージョンを鑑賞したいと所望する者も多いのだが、現時点で映像は発掘されていない。

 上述の通り、物語としては純然たるファンタジー物語であるが、実はこの作品には実在のモデルがいる。10世紀初頭、アッバース朝の第十八代カリフ=ムクタディルに支えていた神学者のアフマド・ブン・ファドラーン・ブン

アルアッバース・ブン・ラシード・ブン・ハンマード(通称「イブン・ファドラーン」)がその人だ。このファドラーンは政治・宗教の使命を帯びて、現在のイラクバグダードからウラル山脈寄りのヴォルガ川流域にあるブルガール王国(別称「サカーリバ王国」、現在のロシア西部)まで遠征旅を指導した。その遠征旅が後世の作家によって娯楽物語(13ウォーリアーズ)となった経緯を鑑みると、これは「アラブ版の西遊記」と言えるかもしれない。彼らの場合は北へ向かっているので、日本語に訳するのなら『北遊記』だ。(明王朝時代に編纂された『西遊記』は、唐王朝の仏僧である玄奘がオリジナルの仏典を求めてインドまで旅をした報告書『大唐西域記』を娯楽化した作品である。)

 ヴォルガ川は、作家ドストエフスキーを師と仰ぐ私にとってそれなりの知見を有する地域だ。ドストエフスキー社会主義に関わった政治犯として四年間の流刑生活を送る事になるが、モスクワからシベリアのオムスク要塞監獄まで送られる際にヴォルガ川付近を通過している。またドストエフスキーの日記を紐解くと、画家イリヤ・レーピンが発表した絵画『ヴォルガの舟曳き』を鑑賞して、「民衆に対する上流階級の政治・経済的、社会的負債などという思想が、いつにもあれ、このロシア開闢以来の悲しみに打ちひしがれた百姓の、うなだれた貧しい頭に潜入することがあり得ようとは、想像だもできない話ではないか!」「愛すべき批評家よ、ほかならぬこの百姓のつつましい無邪気な気持こそ、君らの考えているよりも比較にならぬほど力強く、諸君の欲する傾向的な自由主義的な目的を達成させるのであるが、それを果たして感じ取れたか?」といった具合に、魂を震わせている様子が確認できる。(※補足:当時のロシアの知識人たちは瓦解寸前のロシア帝国に危機感を抱いていた。ドストエフスキーもそのひとりで、彼はこれまで貴族の所有物・隷属物でしかなかった民衆を愛し、その民衆の為にヨーロッパの進んだ社会体制や産業を自国に取り入れるべきだと考えていた。ドストエフスキーは絵画『ヴォルガの舟曳き』に描かれている民衆の姿に愛と尊厳を見出したようだ。)

 しかしなぜ、"アラブ版の玄奘(ファドラーン)"はブルガール王国まで旅をする必要があったのか。これには国際情勢が関係をしている。

 当時、中東地域のカスピ海周辺には主に大きな三つの勢力があった。南部のアッバース朝(アラブ民族と周辺民族の融合国)、北部のハザル王国(ユダヤ教に改修したテュルク系民族の国)、東部のグッズ族(「オグズ」とも呼ばれるテュルク系遊牧民)だ。その大きな勢力のうち、ハザル王国とグッズ族に挟まれるヴォルガ川流域に、ブルガール王国(スラブ民族と同化したテュルク系遊牧民の一派の国)があった。

 ブルガール王国はハザル王国と小競り合いを続ける難儀な関係にあったので、城砦作りの為にアッバース朝に技術や資金の支援を求める判断をした。アッバース朝のカリフは立地や国外情勢を関係などを加味し、ブルガール王国を自国勢力に組み込んでおいた方が後々得策であると判断して、イスラム教への改宗を条件にその依頼を受け入れた。こうして、宗教改宗と軍事連携の最終的な合意を行うべく、ファドラーンは使節団を率いてブルガール王国へと向かう事になったのだ。

 ファドラーンはこの出張の報告書(リサーラ)を作成する義務も負っていた。そしてありがたい事に、この報告書が謎めいた10世紀のヴォルガ流域の生活・文化・社会に光を当てる文献として現在の歴史学に大きな貢献を果たす結果となった。ファドラーンのブルガール王国旅の報告書は、ドイツ語、ロシア語への翻訳を経て、フランス語版『Voyage chez les Bulgares de la Volga』、英語版『Ibn Fadlan's journey to Russia』などへと訳されていった。日本語でも東洋文庫から『ヴォルガ・ブルガール旅行記』が出版されている。

 ファドラーンの報告書を紐解きながら、我々も彼らの旅を少しばかり追ってみよう。彼らがバグダードを出発したのは921年6月21日。随行者はファドラーンを筆頭に、法学者、教師、使者、数名の従士など、十数名。目的地はヴォルガ川と支流のカマ川が交わる地域にある、ブルガール王国の本営地。方角は真北になるのでカスピ海左側を北上すれば最短距離(約3400km)となるが、そのルートでは安全性が確保できなかった為、ファドラーン一向はカスピ海を右側から迂回するルートを採用。その概算距離は約6000km。現代で言うと、イラク─イラン─トルクメスタンと西へ進み、そこから北へ向かってウズベキスタンカザフスタン─ロシアへ至る道のりだ。

 何かと所用を果たしながらの旅であり、途中で政治的事由による滞留もあったので、アムダリヤ川流域(現在のイラン北東部)まで辿り着いたのが冬の時期。ここからしばらく船旅となるが、「あまりに寒かったので昼間しか進めなかった」という記述がある。

 同年11月初旬、ジュルジャーニーヤ(現在のウズベキスタンカザフスタンの国境付近)まで辿り着くが、完全な厳冬期に突入した為に一端停止。「アムダリヤ川の氷の厚さは17シブル(約4メートル)にも達していた」「われわれはまさに苦しい苦しい生き地獄のような寒さの扉が開かれているとしか思えない地方を目にした」「誠に非常に高きにあるアッラーの神が、我々に薪(たきぎ)という寛大な恩恵を、とても安価に授けてくださった。荷車一杯分のターグの薪は、彼らによるディルハム銀貨でわずか2ディルハムだった。つまり3000ラトル(約1.25トン)もの薪を2ディルハムで購入できた」といった記述がある。こうした訳で、彼らは寒さが和らぐ春先まで滞在しなければならなかった。(ちなみに、このジャルジャーニーヤの東側にはかつて世界第4位の大きさを誇るアラル海という湖があった。日本の福島県が丸ごと入る湖だ。しかし、近代の大規模な産業・農地開発の影響で現在は完全に干上がってしまった。このアラル海の消滅は「20世紀最大の環境破壊」とも評されている。)

 翌922年3月4日。冬の間に用意した3か月分のパン、ヒエ、乾燥の塩漬け肉と一緒に、再び彼らは出発しようとする。しかし、法学者、教師、数名の従士が未知のトルコ領域に入る事に恐怖を感じて逃亡。こうして旅の面子はファドラーン、使者スーサン、スーサンの義弟、従士タキーンとバーリスの五名のみとなる。彼らはとにかく寒い寒いと言いながら、何とかトルコの領域まで到達。トルコ語を話せる従士タキーンがトルコ人とまた寒さに関する会話をして笑い合っている。この年は本当に異常な寒冬だったのかもしれない。

 トルコ領域のグッズ族による支配地域(現在のカザフスタン)に入ってから、ファドラーンは生活・文化・社会の細かい記述をし始めている。グッズ族は遊牧民として剛健な生活と文化を持ち、天(テングリ)という形而上学的な概念を信仰していた。

 ファドラーンたちは最初、グッズ族の人々が男女共に性器をしっかりと衣服で隠す習慣がない事に驚いた。そしてファドラーンは世話人の夫婦と話し合っている際、妻が自らの性器を手で掻いている様子をつい目にしてしまい、「アッラーよ!お許しください!」と叫んで顔を覆った。それを見たグッズ族の夫がゲラゲラと笑いながら「見ることは許されるし、それは隠すよりも好ましいことだが、触れてはいけないぞ」と言ったという。

 この笑い話を聞くと性に開放的な部族であったのかと思いきや、むしろ真逆のようだ。男女の不貞が発覚した場合、その不貞者たちは木に括り付けられて体を真っ二つに引き裂かれる刑罰が下されたらしい。古代中国の五牛分尸のような引き裂き刑で、これは現代的な感覚からするとあまりに残虐である。男女の貞操観念はかなり強いものがあったと推測する。

 この領域では体系的な国家が上下の権力によって結びつけられているのではなく、多様な部族が左右に連なってしなやかに繋がっているような社会なので、仮に体制側の人間と親しくしていても、その土地によっては思いがけない妨害に遭う事もあった。これは現代のアフガニスタンの様子を想像すると分かりやすいだろう。現在、同国はタリバン暫定政権が国を統治しているが、多様な民族や部族に対する統一的な支配構造を完全に確立できている訳ではない。これは彼らが長年に渡って有する社会的課題である。

 ファドラーンは道中、山賊のようなキャラヴァン隊と遭遇して大きな騒動になりかけた。このキャラヴァン隊の構成は約300頭の馬と5000人の大編成。その首領が「ここを通さん!」と立ちはだかり、前に進めなくなったのだ。ファドラーンはグッズ族のクーザルキーン(部族の副長官)と知己があったが、それを伝えても組織が異なるのでまったく通じない。すったもんだの末、ファドラーンたちは彼らが要求するままに備蓄食材を提供する事により、ようやく解放された。この地域ではそれぞれのやり方でそれぞれの権力が統治を行っている。ある程度の横の繋がりがあるにしても、それは一枚岩の国家ではない。

 また次の場所でも、別部族の軍団内で、ファドラーンたちを通過させるかどうかが話し合われた。その軍団内でもっとも身分が高いタルハーンは「これまでにアッバース朝使節が我々の土地を通過したなどという話は聞いた事がなく、陰謀の可能性もある。彼らがこの先でハザル王国と結託して戻り、我々の地を侵略するのかもしれない。それを阻止する為に、ここで従士の身体を真っ二つに引き裂いて、他の者は財産を全て没収した上で、ここから追放するべきだ」と言った。この議論は7日間も続けられ、最終的には幸いな事に通過が許可された。その結論が出るまで、ファドラーンたちは全く生きた心地がしなかったと言っている。

 川を渡る際も一筋縄ではいかなかった。彼らはラクダの皮と骨で作られた、持ち運びが可能な折り畳み舟を用いてヤギンディー川、ジャーム川、ジャーフシュ川、ウザル川、アルドゥン川、ワールシュ川、アフティー川、ワトバー川、ジャラムシャーン川、ウールン川、ウーラム川、バー・ヤナーフ川、ワティーグ川、ナヤーサナ川、ジャーワシーズ川などを渡った。(この地域は川が多く、だいたい2〜4日歩くごとに川を渡る必要があった。)馬やラクダは泳がせて渡らせたというので水深はそこまで深くないようだが、ファドラーンたちは激しい水流によって舟が転覆して流されてしまった別のキャラヴァン隊の事故を目撃している。決して油断してはならない。また、こうした渡河の最中にバジャナーク族のような山賊に突然襲われる事例も聞いていたらしく、気を抜く事は出来なかった。

 こうして922年5月12日、彼らは遂にブルガール王国の本営まで辿り着いた。でっぷりと太った王が使節団を出迎えて、頭を地に付けて平伏し、銀貨を地面にばら撒いた。使節団は天幕(クッパ)に入り、書簡の確認、贈り物の授与、食事の儀式などを取り交わした。ここでひとつの問題が生じた。ファドラーンたちは旅途中のトラブルによって、本来ここで王に受け渡すはずの4000ディナール銀貨を用意出来ていなかった。

 ファドラーンは神学者と言えど、頑固な豪傑者だったので、王と真正面からこの件について衝突をした。王は最初こそ「我々が弱小民族であるからと言って侮るな」と激高していたが、次第に気骨のあるファドラーンの剛直さを認め始めた。そして、王はこの一件でアッバース朝との関係がこじれてしまう事を危惧し、溜飲を下げる事にした。

 王はこの議論後、周囲の仲間をいったん天幕から出させて、ファドラーンに向かって「スィッディークのアブー・バクルよ!(正直者の英雄よ)!」と大声で言った。アブー・バクルは初代カリフの名前であり、ここでは愛称のように引用をしている。ファドラーンはブルガール王に大いに気に入られたのだ。

 その後もしばらく、ファドラーンはブルガール王と行動を共にした。報告書には、この地の伝承であったり、幾つかの部族の特徴であったり、この地にしか生息していないバイソンであったりと、様々な見聞が記されている。またファドラーンはブルガール王の取り組みに随行するうちに、ブルガール王国が皇子をハザル王国に人質として送る事で和平状態を保っていたり、この国が想像していたよりも豊かな財政を持っていたりと、かなり強い国力を有していることを知った。ブルガール王がアッバース朝に求めていた「城砦建築の為の資金と技術」についても、彼らはそれを自分たちで行う事ができるだけの力があったのだ。

 ファドラーンがその状況を疑問に思って、どうして自分たちに助けを求めたのかブルガール王に聞いた。するとブルガール王は「確かにその通りだ」と前置きをしながら、「私たちが本当に欲しいのは金や銀ではなく、実は君たちのカリフがもたらしてくれるバラカ(精神的な恩恵と宗教的な権威)なんだ」と答えた。

 確かに歴史的に鑑みれば、国が大事を成すには道(技・人・物)と論(法・知・徳)と天(神・王・府)が必要であり、ブルガール王国には道があっても論と天が欠けていた。そこで、彼らはその論と天を有しているアッバース朝に力を借りようと考えたのだろう──

 このような具合で、ファドラーンのブルガール王国・出張報告書は一旦区切られる。帰路に関する記述は存在しない。(これは文献が紛失したのではないかという見解もある。)ただし、報告書はこれに続いて、2点の事項が補足されている。1点目は、旅途中のイティル河畔で遭遇したルース(ヴァイキング)に関する事項。ルースは文字で歴史を刻む文化を持たなかったので、ファドラーンの記録が極めて有効な歴史的材料となった。そして、2点目はハザル王国に関する事項だ。ハザル王国の方は、ファドラーンがブルガール王国滞在中に人々から聞いた話が短くまとめられている。これは『東方見聞録』のマルコ・ポーロが中国人から伝え聞いた日本人の事を記録するような構図だと言えるだろう。ただし、ファドラーンは主に使節団の随行員となったハザル人のアブド・アッラー・バーシュトゥーからハザル王国の情報を聞いているので、ポーロのようないい加減さは無いものと思われる。

 さて、この旅から3世紀後、ブルガール王国も、彼らにバラカを与えたアッバース朝も、モンゴル帝国に攻め込まれて滅亡する事になる。この出来事において私が非常に興味深いと感じるのが、モンゴル帝国という圧倒的な脅威にさらされても尚、ブルガール王国内の部族もアッバース朝の軍事勢力も、十分な協力をし合わなかったという事だろう。特にブルガール王国はほとんど内戦の状態のままモンゴル帝国とたたかっていた。「敵の敵は味方」という機能はここでは働かなかったようだ。彼らが圧倒的な脅威による有事を目の当たりにしても連携を取れないのであれば、何事もない平時においても国としてのまとまりを得る事は不可能であったろう。

 道(技・人・物)と論(法・知・徳)と天(神・王・府)。大規模な地域・民族を統括する為に必要な三要素のうち、ブルガール王国は特に論が欠けていたか、あるいは不具合を起こしていたものと私は考える。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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