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<容成氏とは?>
容成氏は中国の伝説上の人物。黄帝の大臣として知られ、暦法を発明したとされる。北周の庾信は「賀平邺都表」で「沉雄内断,不劳谋於力牧;天策勇决,无待问於容成(沈着で雄大な決断を持ち、力で謀ることはない;天策による勇敢な決断を、容成は問わずに従っているのだ)」と彼を評している。また清の曹寅は『游仙诗三十韵和萝山』の第十四首において、容成氏が残したとみられる竹簡について、「空同未出人间世,更听容成说大丹(空同[伝説上の仙人や仙境]がまだ人間界に現れていない時代について、容成氏が大丹[不老長寿の薬や仙薬]について語っている話を聞くものだ)」と評している。だた、この竹簡は神話的な部分はあれど、具体的な政策や出来事についても論じている箇所もあり、中華世界の黎明期を調べる上で極めて重要な意義を担っている。
<彼はいつ竹簡を書いた?>
姜広輝は『上博蔵簡<容成氏>の思想史意義』(『中国社会科学院院報』2003年1月23日)において、『容成氏』が禅譲を提唱しているため、「燕王哙行禅譲」事件以前の公元前314年以前に成書されたという説を唱えている。
<竹簡の内容は?>
三皇五帝の古国時代(紀元前3800年〜紀元前1920年)について、その出来事を整理した内容となっている。それぞれの事項について明確な年代を算出する事は出来ないが、もっとも古い時代の記述が五千年以上前という事になる。惑星以外の生命的な存在で当時から現在まで命を紡いでいる存在は、縄文杉のような大樹のみか。樹木と会話や思念の交換が出来るのなら、当時の出来事を聞いてみたいものだ。
<竹簡の研究>
『容成氏』は『上海博物館蔵戦国楚竹書(二)』(上海古籍出版社、2002年)の一篇であり、李零が整理を担当した。彼は簡序編連と簡文釈読に関して非常に優れた仕事を行い、その後に多くの著作や論文がその研究に取り組む事となった。例えば、季旭升が主編した『<上海博物館蔵戦国楚竹書(二)>読本』(万巻楼図書股份有限公司、2003年)の『<容成氏>訳釈』部分は、蘇建洲が執筆し、『容成氏』に題解、語訳、注釈を施している。また邱德修の『上博楚簡<容成氏>注訳考証』(台湾古籍出版有限公司、2003年)は簡文を逐句注訳している。郭永秉の『帝系新研——楚地出土戦国文献中的伝説時代古帝王系統研究』(北京大学出版社、2008年)においては、『容成氏』を含む出土文献を利用して、伝説時代の古代帝王系統を研究している。
<研究の問題点>
簡序編連に関して学者間の意見が一致していない点、文字釈読の面で解釈が難しい字句が多く残されている点などが、理解の妨げとなっている。また先秦の歴史や地理に関する問題、上古帝王系譜の禅譲問題、商湯と文王、武王に関する評価など、具体的な議論が必要な事項が多く残されている。
<王朝の交代に対する出来事>
「堯・舜・禹は優秀であった為に禅譲された(禅譲:王位を譲る事)」「湯・文・武は天命を受けて暴政を行っていた王を討伐した(例えば「紂與文王」の章において殷の紂王が文王に制圧されている:これは明王朝時代の歴史ファンタジー小説『封神演義』の題材にもなった)」。この「禅譲」と「討伐」の二点が、中華世界の王朝の交代劇に関する根源的な要素である。『水滸伝』で描かれた北宋末期・徽宗治世に対する梁山泊勢力の姿勢は「討伐」寄りであったが、後半部で「禅譲」の流れへと転換した。一方、歴史上における実際の北宋は政治腐敗に伴って生じた民の反乱とその後の異民族の侵攻によって瓦解しているので、これは「討伐」の性質を帯びている。
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(日本語素訳)
[昔訟(容)城(成)氐(氏)、大]溋(庭)是(氏)が天下を治めていたとき、厚く愛し、税を薄くし、身をもって百姓に労を尽くした。亓(その)政は公正であり、褒賞を求めず、官位や爵位を求めなかった。民に強制せずとも、治世は乱れることなく、故に賢者と呼ばれた。
[昔尊]膚(盧)氏、茖(赫)疋(胥)氏、喬結氏、倉頡氏、軒緩(轅)氏、慎(神)戎(農)氏、杭丨氏、壚蹕氏が天下を治めたとき、皆その子に授けず、賢者に授けた。亓(その)徳は清らかであり、愛を尚んじ、一意専心し、兵を休め、才能を官職に用いた。
唫(喑)聾は燭を持ち、𣔺(矇)攻(瞽)は瑟を鼓し、跛䠋(躃)は門を守り、殊(侏)需(儒)は矢を作り、長者は宅を修理し、婁(僂)者は数を数え、癭者は塩を煮、宅憂者は漁を行い、癃棄者は捨てられなかった。民が疲弊している者には教えを与え、飲食を与え、役職を与え、月に一度点検した。故に当時、統治は安定していた。
※最後の部分を意訳すると、当時の障害者に対する施策が示されている事が分かる。内容は以下の通り。「そこで、言語聴覚障害者は灯を持ち、視覚障害者は瑟を演奏し、足の不自由な者は門番をし、先天的に背の低い者は矢を作り、腹の膨れた者は風水の占いをし、背骨の曲がった者は天文観測をし、頸にこぶのある者は塩を作り、体に疣のある者は沢で魚を捕り、通常では見捨てられる人でも見捨てられない。」(論文『古代中国の社会と福祉』[横山 裕])
**堯前古帝王**
孝治は、三俈を設け、聖を求めるための規範とした。東方に三俈、西方に三俈、南方に三俈、北方に三俈を設け、谷を越え、川を渡り、高山を登り、密林に入り、正しい政治を行った。ここに初めて爵位を設け、禄を与え、有虞迵に譲った。有虞迵は「徳が速く衰える」と言った。ここにおいては、賞罰がなく、刑罰もなく、殺害もなく、国に餓死者はおらず、道路に死者はなかった。上下貴賤は各自の所を得ていた。四海の外には賓があり、四海の内には貞があった。禽獣は朝を迎え、魚鼈は献上した。有虞迵は天下の政を19年治め、天下を王にし、37年で亡くなった。
**堯**
昔、堯は丹府と藋陵の間に住んでいた。堯は公正に施し、時に応じて民力を励まし、刑罰を用いずして盗賊がなく、穏やかに民が従った。そこで方百里の範囲内で天下の人々を率い、彼を奉じて天子とした。その後、方円千里に広がり、四方を和解させ、天下の民を迎えた。堯は賢者を視て地を踏みしめ、義と信を重んじ、天地の間にあって四海を包み、その事を全うして天子として立った。
堯は教えを示し、「自ら入り、窓から覗き、賢者を求めて譲る」と言った。堯は天下を賢者に譲ろうとしたが、天下の賢者は誰もこれを受け入れることができなかった。万邦の君主もその邦を賢者に譲ろうとしたが、賢者はこれを受け入れなかった。そこで天下の人々は堯が善く賢者を興し、立てたとした。
昔、舜は鬲丘で耕し、河岸で陶を作り、雷沢で漁をし、父母を孝養し、親を善くし、邦子に及んだ。堯はこれを聞いてその行いを美とした。堯は車15台を作り、3人を従えて舜を畎畝の中に訪ねた。舜は笠を脱ぎ、草を除いて座った。堯は南面し、舜は北面した。舜は堯に天地人民の道を語り、政を話し、簡素にして行い、礼を話し、和を長くし、広くして逆らわないことを語った。堯はこれを喜んだ。
堯は老い、視力が衰え、聴力が鈍った。堯には9人の子がいたが、その子を後継とせず、舜の賢を見て後継としようとした。舜は5回譲り、天下の賢者に譲ろうとしたが、受け入れられず、やむを得ず受け入れた。
**舜**
舜は3年間政を聞き、山陵は乱れず、水は清く、禹を司工に立てた。禹は命を受け、草服を着、芙蓻をかぶり、手足に胼胝ができ、面は日焼けし、脚には毛が生えず、激流に立ち向かった。禹は自ら畚耜を握り、明者の沢を治め、九河を開いた。これにより、夾州と徐州が住めるようになった。禹は淮と沂を通し、東へ海に注ぎ、青州と莒州が住めるようになった。禹は滱と易を通し、東へ海に注ぎ、并州が住めるようになった。禹は三江と五湖を通し、東へ海に注ぎ、荊州と揚州が住めるようになった。禹は伊と洛を通し、東へ河に注ぎ、豫州が住めるようになった。禹は経と渭を通し、北へ河に注ぎ、雍州が住めるようになった。禹は漢の南に五百の谷を名付け、北に五百の谷を名付けた。天下の民が定住し、食を整え、后稷を田に立てた。后稷は命を受け、野で食し、野で宿し、穀を育て、五年で豊作となった。民は余りの食糧を持ち、求めるものがなく、満ち足りた。民が慢心し始めると、皋陶を理に立てた。皋陶は命を受け、陰陽の気を調え、訴訟を聞き、三年で天下に訴訟がなくなり、天下は大和均衡となった。
舜は天地の気を会し、それを用いるために刬を楽正に立てた。刬は命を受け、六律六呂を作り、五音を分け、男女の声を定めた。当時は疫病がなく、妖祥が行わず、災害が去り、禽獣が肥え、草木が成長した。天地が舜を助け、善を保護した状況であった。舜は老い、視力が衰え、聴力が鈍った。舜には7人の子がいたが、その子を後継とせず、禹の賢を見て後継としようとした。禹は5回譲り、天下の賢者に譲ろうとしたが、受け入れられず、やむを得ず受け入れた。
**禹啟益**
禹が政を行った3年間、革を作らず、金属を刃にせず、矢を作らず、田には雑草がなく、宅は空でなく、市場には税がなかった。禹は山陵の平地を封邑にするために利用し、近くの状況から遠くを知り、苛政を去り、簡素にした。民の欲望に応じて、天地の利を合わせた。そのため、近くの者は喜び、遠くの者も自然と集まった。四海の内外から貢物が寄せられた。
禹は次に旗を立てて左右を区別し、民を惑わせないようにした。東方の旗には日、西方の旗には月、南方の旗には蛇、中央の旗には熊、北方の旗には鳥を描いた。禹は倹約を行い、美しい衣を着ず、食事に重ねた味を求めず、朝には車で逆行せず、春には米を搗かず、骨を折った羹を食べず、表面を皮で覆った衣を着た。
禹は廷に鼓を設け、民の訴えを聞くために使った。鼓を叩くと禹は必ず速やかに出てきた。冬に寒さを理由にせず、夏に暑さを理由にしなかった。聖人と言われる者は、生きることが容易で、死ぬことも容易で、苛政を去り、その名を成した。禹には5人の子がいたが、その子を後継とせず、賢者である臯咎(陶)を後継としようとした。臯咎(陶)は5回譲り、天下の賢者に譲ろうとしたが、病を称して出なかった。禹は益に譲り、益は攻撃して自ら取った。
**桀與湯**
啓が天下を治めて16世代を経て桀が現れた。桀は先王の道を述べず、自ら改めた。力の不足を顧みず、軍を起こして岷山氏を攻め、その娘琰と琬を奪った。北に去り、その邦を傾宮とし、璿室を築き、瑤臺を飾り、玉門を立て、その驕慢な姿を示した。
湯はこれを聞き、賢者を慎重に徴用し、徳を広めた。これは成功せず、やむを得ず攻撃に転じ、戎遂から北門に入り、中に立った。桀は逃げ、歴山氏へ行った。湯はこれを攻め、鳴條の遂から高神の門を攻めた。桀は逃げ、南巣氏へ行った。湯はこれを追い、桑梧の野へ逃げた。湯は九州の軍を徵し、四海の内を治めた。天下の兵が大きく動き、宗族を離散させ、群れを解散させた。当時は強弱が辞譲せず、多少が訴訟を聞かず、天地の四時の事が修められなかった。
湯は征籍を設け、関市を征した。民は怨み、虐待が始まった。唫、聾、跛、眇、癭、禿、僂が始まった。湯は賢者を求め、伊尹を佐に立てた。伊尹は命を受け、兵を禁じ、暴力を抑え、民を得て、天下を静め、志を一つにし、兵を休め、材を官に使った。
**紂與文王**
湯王が天下を治めて31世代を経て紂が現れた。紂は先王の道を述べず、自ら改めた。九成の台を作り、盂炭をその下に置き、円木をその上に置き、民を通らせた。通る者は通り、通らない者は落ちて死んだ。命に従わない者は桎梏を付けた。金の桎梏を三千作り、酒池を作った。酒に溺れ、夜通し飲んで楽しみ、邦の政を聞かなかった。
九邦はこれに反し、豊、鎬、郍、石、邘、鹿、黎、宗、密須氏が反した。文王はこれを聞き、「君が無道でも臣は仕えるか? 父が無道でも子は仕えるか? 天子が反するか?」と言った。紂はこれを聞き、文王を夏台の下に出し、問った。「九邦は来るか?」文王は「来る」と言った。文王は端正な服装で九邦を巡り、七邦が服従し、豊と鎬は服従しなかった。文王は軍を起こし、豊と鎬に向かった。三度進軍し、三度退却し、「一人が無道でも百姓に罪はない」と言った。豊と鎬の民はこれを聞き、文王に降った。
文王は天の道を知り、地の利を知り、民を病から守った。文王が紂を助けるとき、このように行った。
**武王**
文王が崩御し、武王が即位した。武王は「盛徳者は代わり、次は伐って代わる。今、紂は無道で、百姓を虐げ、諸侯を縛り、種を絶やし、天がこれを討つ」と言った。武王は革車千乗を作り、甲冑を一万人揃え、戊午の日に孟津を渡り、共と滕の間に至り、三軍が大きく進攻した。
武王は革車五百乗を出し、甲冑三千を用い、諸侯の軍を牧野に集めた。紂はその政が成されていないことを知らず、民の口に行き渡っていた。武王は天に祈り、「紂は無道で、百姓を虐げ、諸侯を縛り、種を絶やし、天がこれを討つ」と言った。武王は甲冑を着けて殷の郊に立った。
(原文)
〖上古帝王釋文〗
[昔訟(容)城(成)氐(氏)、大]溋(庭)是(氏)之又(有)天下,厚㤅(愛)而泊(薄)斂安(焉),身力㠯(以)勞百眚(姓),【35B】亓(其)政紿(治)而不賞,官而不爵,無萬(勉)於民,而治亂不(倦),古(故)曰臤(賢)。及□【43】……
[昔尊]膚(盧)是(氏)、茖(赫)疋(胥)是(氏)、喬結是(氏)、倉頡是(氏)、軒緩(轅)是(氏)、慎(神)戎(農)是(氏)、杭丨是(氏)、壚蹕是(氏)之又(有)天下也,皆不受(授)亓(其)子而受(授)臤(賢)。亓(其)惪(德)酋清而上(尚)㤅(愛)【1】下,而一亓(其)志,而寢亓(其)兵,而官亓(其)才(材)。於是虎(乎)唫(喑)聾執燭,𣔺(矇)攻(瞽)鼓瑟,跛䠋(躃)獸(守)門,殊(侏)需(儒)爲矢,長者修厇(宅),婁(僂)者坆(枚)謱(数),癭【2】者煮鹽,厇(宅)憂者漁澤,癃棄不舉。凡民俾𢼆(敝)者,𡥉(教)而𢜯(誨)之,㱃(飲)而飤(食)之,思(使)役百官而月青(省)之。古(故)當是旹(時)也,亡并【3】……
〖堯前古帝王釋文〗
……孝治,方爲三俈,救(求)聖之紀:東方爲三俈,西方爲三俈,南方爲三俈,北方爲三俈,㠯(以)越於溪浴(谷),淒(濟)於往(廣)川,高山陞,蓁林【31】內(入),安(焉)㠯(以)行正(政)。於是於乎始爵而行录(祿),以𤕦(讓)於又=吳=迵=(有虞迵,有虞迵)曰:“惪(德)速蓑(衰)【32】矣!”於是乎不賞不罰,不型(刑)不殺,邦無餓人,道路無殤【4】死者。上下貴戔(賤),各得亓(其)𣧫(所)。四𣳠(海)之外𡧍(賓),四𣳠(海)之內貞(臻),肣(禽)獸朝,魚鼈獻。又(有)吳(虞)迵往(匡)天下之正(政)十又(有)九年而王天下,丗=(三十)又(有)七【5】年而歿冬(終)。
〖堯釋文〗
昔圥(堯)凥(處)於丹府與藋陵之閒,圥(堯)戔(賤)施而旹=賽,不勸而民力,不型(刑)殺而無覜(盜)惻(賊),甚緩而民備(服)。於是虎(乎)方【6】百里之中,率天下之人就奉而立之,㠯(以)爲天子。於是虎(乎)方囩(圓)千里,於是於(乎)持板正立,四向禾(和)褱(懷),㠯(以)來天下之民。【7】是㠯(以)視臤(賢):履地戴天,竺(篤)義與信,會才(在)天地之閒,而包才(在)四𣳠(海)之內,畢能亓(其)事,而立爲天子。圥(堯)乃爲之𡥉(教)曰:“自【9】內(入)安(焉),余穴窺安(焉)”,㠯(以)求臤(賢)者而𤕦(讓)安(焉)。圥(堯)㠯(以)天下𤕦(讓)於臤(賢)者,天下之臤(賢)者莫之能受也。萬邦之君皆㠯(以)亓(其)邦𤕦(讓)於臤(賢)【10】……囗囗囗臤(賢)者,而臤(賢)者莫之能受也。於是乎天下之人,以【11】圥(堯)爲善興臤(賢),而卒立之。
昔舜靜(耕)於鬲丘,匋(陶)於河賓(濱),魚(漁)於雷澤,孝羕(養)父母,㠯(以)善亓(其)新(親),乃及邦子。圥(堯)聞之【13】而𢼸(美)亓(其)行。圥(堯)於是虎(乎)爲車十又(有)五𨍱(乘),㠯(以)三從舜於昀(畎)畝之中。舜於是虎(乎)始免蓻幵槈(耨),菨(芟)芥而坐之子(芓),圥(堯)南面,舜北面。舜【14】於是乎始語圥(堯)天地人民之道。與之言正(政),敓(說)柬(簡)㠯(以)行;與之言樂,敓(說)和㠯(以)長;與之言豊(禮),敓(說)敀(溥)㠯(以)不逆。圥(堯)乃敓(悅)。圥(堯)【8】……圥(堯)乃老,視不明,聖(聽)不聰。圥(堯)又(有)子九人,不㠯(以)亓(其)子為後,見舜之臤(賢)也,而欲㠯(以)爲後。【12】[舜乃五讓以天下之賢者,不得已,然後敢受之。]
〖舜釋文〗
舜聖(聽)正(政)三年,山陵不凥(處),水滎(潦)不浴(谷),乃立㙑(禹)㠯(以)爲司工(空)。㙑(禹)既巳(已)【23】受命,乃卉(草)備(服)𦿍𦴈、冒芙(蒲)蓻,手足[腁胝]【15】,面皯䱜(皵),脛不生之毛,囗濏湝流。㙑(禹)親執枌(畚)䇃(耜),以波(陂)明者(都)之澤,決九河【24】之滐(澮),於是虎(乎)夾州、涂(徐)州始可凥(處)。㙑(禹)迵(通)淮與𢗹(沂),東䜴(注)之𣳠(海),於是乎競(青)州、莒州始可凥(處)也。㙑(禹)乃迵(通)蔞(滱)與易,東䜴(注)之【25】𣳠(海),於是虎(乎)藕(并)州始可凥(處)也。㙑(禹)乃迵(通)三江五沽(湖),東䜴(注)之𣳠(海),於是乎荊州、陽(揚)州始可凥(處)也。㙑(禹)乃迵(通)伊、洛,并(併)里(瀍)、干(澗),東【26】䜴(注)之河,於是於(乎)敘(豫)州始可凥(處)也。㙑(禹)乃迵(通)經(涇)與渭,北䜴(注)之河,於是虎(乎)虘(雍)州始可凥(處)也。㙑(禹)乃從灘(漢)以南爲名浴(谷)五百,從【27】灘(漢)以北爲名浴(谷)五百。天下之民居奠(定),乃飭飤(食),乃立句(后)禝(稷)㠯(以)爲𦀚(田)。句(后)禝(稷)既巳(已)受命,乃飤(食)於埜(野),𠉦(宿)於埜(野),復㝅(穀)豢土,五年乃【28】𤕦(穰)。民又(有)余(餘)飤(食),無求不得,民乃賽(塞),喬(驕)能(怠)始作,乃立咎(臯)𡍒(陶)㠯(以)爲李(理)。咎(臯)𡍒(陶)既巳(已)受命,乃辨侌(陰)昜(陽)之氣而聖(聽)亓(其)詷〈訟〉獄,三【29】年而天下之人亡(無)訟獄者,天下大和𡋕(均)。舜乃欲會天地之氣而聖(聽)甬(用)之,乃立刬㠯(以)爲樂正。刬既受命,作爲六頪(律)六【30】郘(呂),辨爲五音,㠯(以)定男女之聖(聲)。當是時也,列(癘)役(疫)不至,祅(妖)羕(祥)不行,禍才(災)迲(去)亡,肣(禽)獸肥大,卉(草)木晉(進)長。昔者天地之差(佐)舜而【16】右(佑)善,女(如)是狀也。舜乃老,視不明,聖(聽)不聰。舜又(有)子七人,不㠯(以)亓(其)子爲後,見㙑(禹)之臤(賢)也,而欲㠯(以)爲後。㙑(禹)乃五𤕦(讓)㠯(以)天下之臤(賢)【17】者,不得巳(已),肰(然)句(後)敢受之。
〖禹啟益釋文〗
㙑(禹)聖(聽)正(政)三年,不折(製)革,不釰(刃)金,不鉻(㗉)矢,田無刬(蔡),厇(宅)不工(空),𫔢(關)市無賦。㙑(禹)乃因山陵坪(平)隰之可𪢽(封)邑【18】者而緐(繁)實之。乃因近㠯(以)𣉻(知)遠,迲(去)蚵(苛)而行柬(簡)。因民之欲,會天地之利。夫是㠯(以)近者敚(悅)紿(怡),而遠者自至。四𣳠(海)之內及【19】四𣳠(海)之外皆青(請)貢。㙑(禹)肰(然)句(後)始爲之唬(號)旗,㠯(以)辨亓(其)左右,思(使)民毋惑。東方之旗㠯(以)日,西方之旗㠯(以)月,南方之旗㠯(以)它(蛇),【20】中正之旗㠯(以)熊,北方之旗㠯(以)鳥。㙑(禹)肰(然)句(後)始行㠯(以)儉:衣不襲美,飤(食)不童(重)味,朝不車逆,穜(舂)不毇米,饎不折骨,裚【21】表𥀊(皮)尃。㙑(禹)乃建鼓於廷,㠯(以)爲民之又(有)詓(訴)告者鼓安(焉)。墼(擊)鼓,㙑(禹)必速出,𣅈(冬)不敢㠯(以)寒辭,夏不敢㠯(以)暑辭。身言【22】……亂泉。所曰聖人,亓(其)生賜(易)羕(養)也,亓(其)死賜(易)葬,迲(去)蚵(苛)匿(慝),是㠯(以)爲名。㙑(禹)又(有)子五人,不㠯(以)亓(其)子爲後,見【33】叴(臯)咎〈陶〉之臤(賢)也,而欲㠯(以)爲後。叴(臯)秀(陶)乃五𤕦(讓)㠯(以)天下之臤(賢)者,述(遂)爯(稱)疾不出而死。㙑(禹)於是乎𤕦(讓)嗌(益),啓於是乎攻嗌(益)自取,囗囗囗囗囗囗囗囗囗。【34】
〖桀與湯釋文〗
[啓]王天下十又(有)六年〈世〉而傑(桀)作。傑(桀)不述亓(其)先王之道,自爲[𦬊(改)爲,囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗],【35中】不量亓(其)力之不足,𨑓(起)帀(師)㠯(以)伐昏(岷)山是(氏),取亓(其)兩女朁(琰)、𠓗(琬)安(焉),北迲(去)亓(其)邦,制爲冋(傾)宮,築爲璿室,飾爲榣(瑤)臺,立爲玉閠(門)。亓(其)喬(驕)【38】大(泰)女(如)是狀。湯𦖞(聞)之,於是乎慎戒陞(徴)臤(賢),惪(德)惠而不質,三十而能之。女(如)是而不可,肰(然)句(後)從而攻之,降自戎(陑)述(遂),內(入)自北【39】門,立於中囗。傑(桀)乃逃之鬲(歷)山是(氏),湯或(又)從而攻之,降自鳴攸(條)之述(遂),㠯(以)伐高神之門。傑(桀)乃逃之南𦾈(巢)是(氏),湯或(又)從而攻之。【40】述(遂)逃迲(去),之桑(蒼)𫊟(梧)之埜(野)。湯於是乎徵九州之帀(師),㠯(以)𩂡(略)四(海)之內,於是乎天下之兵大𨑓(起),於是乎樊(叛)宗鹿(離)族戔(殘)羣安(焉)備。【41】當是旹(時),強溺(弱)不紿(辭)諹(讓),衆寡不聖(聽)訟,天地四旹(時)之事不攸(修)。湯乃尃(溥)爲正(征)作(籍),㠯(以)正(征)𫔢(關)市。民乃宜怨,虐疾始生,於是【36】乎又(有)唫(喑)、聾、皮(跛)、眇、癭、禿、婁(僂)始𨑓(起)。湯乃𢜯(謀)戒求臤(賢),乃立泗(伊)尹㠯(以)爲差(佐)。泗(伊)尹既巳(已)受命,乃執(戢)兵欽(禁)暴,羕(永)得于民,述(遂)迷(敉)天【37】囗囗囗囗囗囗囗囗惻(賊)逃(盜),夫是㠯(以)得衆而王天下。
〖紂與文王釋文〗
湯王天下丗=(三十)又(有)一偞(世)而受(紂)作。受(紂)不述亓(其)先王之道,自爲𦬊(改)爲,於【42】是乎作爲九城(成)之臺,視(寘)盂炭亓(其)下,加繯(圜)木於亓(其)上,思(使)民道(蹈)之,能述(遂)者述(遂),不能述(遂)者內(墜)而死。不從命者從而桎梏之,於是【44】乎作爲金桎三千。既爲金桎,或(又)爲酉(酒)沱(池),詬(厚)樂於酉(酒),尃(溥)亦(夜)㠯(以)爲槿(飲),不聖(聽)亓(其)邦之正(政)。於是乎九邦畔(叛)之:豐、鎬、郍、石、于(邘)、鹿、【45】逨(黎)、宗(崇)、密須是(氏)。文王𦖞(聞)之,曰:“唯(雖)君亡(無)道,臣敢勿事虎(乎)?唯(雖)父亡(無)道,子敢勿事虎(乎)?䈞(孰)天子而可反?”受(紂)𦖞(聞)之,乃出文王於【46】夏臺之下而𦖞(聞)安(焉),曰:“九邦者亓(其)可逨(來)虎(乎)?”文王曰:“可。”文王於是乎索(素)耑(端)屨裳㠯(以)行九邦,七邦逨(來)備(服),豐、喬(鎬)不備(服)。文王乃𨑓(起)帀(師)㠯(以)卿(嚮)【47】豐、喬(鎬),三鼓而進之,三鼓而退之,曰:“吾所𣉻(知)多廌(存),一人爲亡(無)道,百眚(姓)亓(其)可(何)辠(罪)?”豐、喬(鎬)之民𦖞(聞)之,乃(降)文= 王=(文王。文王)時(持)故時而教民【48】時,高下肥毳(磽)之利盡𣉻(知)之。𣉻(知)天之道,𣉻(知)地之利,思(使)民不疾。昔者文王之差(佐)受(紂)也,女(如)是狀也。
〖武王釋文〗
文王堋(崩),武王即立(位)。武王【49】曰:“成(盛)惪(德)者,吾敓(說)而弋(代)之。亓(其)即(次),吾伐而弋(代)之。含(今)受(紂)爲無道,𦖞(昏)者(諸)百眚(姓),至(桎)約者(諸)矦(侯),絕穜(種)懋(侮)眚(姓),吾勴天畏(威)之。”武王於【50】是虎(乎)作爲革車千𨍱(乘),𦄂(帶)甲萬人,戊午旹=(之日)涉於孟𣿕(津),至於共、絭(滕)之閒,三軍大𨊠(犯)。武王乃出革車五百𨍱(乘),𦄂(帶)甲三千,【51】㠯(以)少(小)會者(諸)矦(侯)之帀(師)於畮(牧)之埜(野)。受(紂)不𣉻(知)亓(其)未又(有)成正(政),而得失行於民之唇也,或(又)亦𨑓(起)帀(師)㠯(以)逆之。武王於是虎(乎)索(素)𠕻(冠)弁㠯(以)造(告)【52】吝(憫)于天,曰:“受(紂)爲亡(無)道,𦖞(昏)者(諸)百眚(姓),至(桎)約者(諸)矦(侯),絕穜(種)懋(侮)眚(姓),土玉水酉(酒),天將䜴(誅)安(焉),吾勴天畏(威)之。”武王索(素)甲㠯(以)申(陳)於殷蒿(郊),而殷【53 正】……
訟(容)成氐(氏)
※翻訳・画像:ChatGPT4o/DALL-E
※追記:この古代文献も『水滸伝』と直接的な関係は無いが、穆弘・穆春の兄弟を調べる過程で名に触れた為、ここに参考として記しておく。『械胡録(水滸伝+α)』においては、宋江が誰かに「容成氏に~~~と書かれているように、我々も~~~」といった具合に引用をして諭す場面を挿入しても良いように思う。特に上述の障害者に対する融和的な政策が書かれた箇所は大変興味深い。
作品紹介