※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。
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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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楽和(がくわ/lè hé)
<三元論に基づく個性判定>
49番 **とても弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**とても強い存在欲求** - **「知的な夢追い人」** - 知識を探求しながら、自分の夢や目標を追い求める。
<概要>
彼は孫立(そんりつ/sūn lì)の妻である楽氏の弟で、登州城の監獄の小牢子(牢屋の番人)だった。後に「毛太公事件(虎退治を巡る冤罪事件)」を通じて梁山泊勢力に加わる事になる8名(孫立・孫新・楽和・顧大嫂・解宝・解珍・鄒淵・鄒潤)、通称「登州派」のひとりとなる。器用かつ聡明であり、特に音楽や歌唱に精通している。その意味で、名前の「楽和(楽を和する人)」はまさに印象通り。『美女と野獣』の主人公Belle(フランス語:美しき人)のように、架空の人物名にその人の個性を反映する手法だろうか。これを作者が意図したかどうかは不明。梁山泊勢力に加わった後は梁山泊軍中機密伝令歩兵隊長として、渉外(外部交渉役)を担当する。最終戦となる方臘(ほうろう)の征伐戦直前に朝廷の王都尉(おうとい/wáng dōu wèi)によって東京(とうけい/Dōngjīng)に呼び出される事となり、梁山泊勢力から完全に離脱する事となった。
<風流人の才>
梁山泊勢力の指導者である宋江(そうこう/sòng jiāng)や呉用(ごよう/wú yòng)が彼を積極的に用いる描写はなく、『水滸伝』での彼の存在感がとても薄い。とは言え、招安の担当者として彼が任じられる場面もあり、渉外担当者としてはかなり信用が置かれていた様子が分かる。その理由は彼の風流人としての類まれなる才能にあるだろう。彼は鉄箫(鉄の笛)の達人であり、飛び抜けて歌も上手であった。「諸般の楽器を学べばすぐに習得した」「一度聞けば、事の始めから終わりまでを瞬時に理解した」という彼の評価を見ると、文化を吸収する凄まじい感性があったものと思われる。
<武人の才>
「笛と歌の上手な人」の楽和は、実は钩棒という武器の扱いにも通じていた。この武器は堅牢な木材で作られ、長さは約四、五尺(約120〜150cm)である。棒の先端には鋭利な刃が取り付けられており、その下には逆さまの二重の鈎(かぎ)が付いている。更に、尾部には尖った刺が設けられている。この武器の優れた使い手であれば、状況に応じて斬撃、鈎引き、刺突といった多様な攻撃が可能。扱いに癖があり戦略的な武器となるので、相当筋が良く感性が鋭くないとこの武器に精通する事は難しい。
<謎の人物・王都尉>
上述のように魅力のある風流人としての性質を有する楽和であるが、あまり活躍をしないまま梁山泊勢力から離脱する。作品内ではその経緯について詳しい話は無い。この楽和が離脱するきっかけを作ったのは、王都尉(おうとい/wáng dōu wèi)という人物。この王都尉は『水滸伝』第1回に登場する皇帝の仁宗の驸马(皇帝の婿)であり、第2回以降の皇帝である徽宗からすれば姐夫(義兄)に当たる。『水滸伝』における最たる奸臣(無能・無責任・身勝手な役人)である高俅(こうきゅう/Gāo Qiú)は、若い頃にこの王都尉の推薦を受けて小苏学士(蘇東坡)の府に入った。そこで高俅は若き日の端王(後の徽宗)に玉の玩具を届けたことから"風流人"であると認められ、出世が早まったのである。この徽宗もまた"風流人"であり、皇帝としては政治を疎かした暗君として歴史的な評価が下されているが、詩・書画・造園などの文化面では多くの才能を発揮した人だった。このように、『水滸伝』の舞台である徽宗の治世は"風流人優先"であったから、楽和が朝廷に呼び出されたと考えられる。高俅あたりが皇帝に媚びを得る為、「次の梁山泊と方臘は激戦となり、お互いを潰し合って死者が多数出るものと思われます。しかし、楽和は大した風流人ですので、戦場には向かわせず、今すぐに都へ呼ぶべきだと思います。」と奏上したのかもしれない。
<実在の人物・王都尉>
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※画像:百度百科より引用、上海博物館所蔵の王詵の山水画『烟江叠嶂图』
王都尉は徽宗の時代に実在した官僚であり、やはり彼もまた"風流人"だ。本名は王詵(おうしん/wáng shēn)、字は晋卿(しんけい)、そして本当に驸马爷(皇帝の婿)であり、要職に就いていた蘇東坡(そとうば/sū dōng pō:別名「蘇軾」、穆弘の記事で取り上げたマネ碁の発案者と呼ばれる人物)と非常に親しかった。元豊2年(1079年)、政治的な衝突の中でその蘇東坡が罪を負う事になり、これに関わった事から連座で左遷。その後、元祐元年(1086年)に登州刺史および驸马都尉に復職した。風流人としての彼は特に山水画に秀でている事で知られており、煙江雲山、寒林幽谷を好んで描いた。作風は清らかで明るく、青緑の色使いが高貴で独特。書や文章にも優れ、詞(詩の形式)の言葉もまた清らかであり、情感がこもって音調は美しいという高い評価を受けた。
<『水滸後伝』の大活躍>
『水滸伝』の続編のひとつである『水滸後伝』では、生き残った梁山泊勢力の阮小七(げんしょうち/ruǎn xiǎo qī)と孫立(そんりつ/sūn lì)らが手を組み、再び登州で反乱を起こす騒ぎが描かれる。この時、楽和は王都尉の邸宅で風流人として安楽な生活を送っていたのだが、この反乱によって元梁山泊勢力の一員全員に裁きが加わると確信し、座して死を待つよりも逃げて生きるべきだと決心し、名前を尹文和に変えて建康へと急いで向かった。この建康で彼は旧梁山泊勢力に関連する様々な人を助けたり、また繋げたりする役割を演じ、その後に向かった常州でも李俊(りしゅん/lǐ jùn)を救出。その流れで、彼は太湖の悪党である丁自燮を征伐した。その後、李俊に遠く海外に行って志を遂げるべきだと助言し、「金鰲島の奪取」「花逢春の暹羅国の婿入り」「国王との友好関係の構築」など政治家としての見事な手腕を発揮しながら、最終的には李俊を外国の帝位に就けさせる事に成功した。この李俊が、楽和の多大なる功績に対して次の評価を述べている。「かつて梁山泊では宋江の才能、吴用の軍機、盧俊義の威光などがあって発展した。私はその中で単なる一介の人員に過ぎなかったのだが、風向きが変わって賢弟(楽和)の指導を得て、こうして海外まで来て大事業を築く事が出来た。何という僥倖であっただろうか。」
<三元論に基づく特殊技能>
#### 風雅の才(心術)
**説明**: 楽和は、文化的な概念や方法の本質を瞬時に理解できる能力「風雅の才」を持っている。この心術は、彼の鋭い洞察力と深い知識に基づき、あらゆる文化的な事柄を迅速に理解し、活用する力を発揮する。
- **効果**:
- **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、楽和の精神的な力と洞察力に基づく。
- **思考性(とても濃い)**: 文化的な概念や方法を理解し、それを応用するためには、高い知識と分析力が必要。
- **関係性(中程度)**: 楽和の心術は、周囲の人々との文化的な交流を深め、協力を促進する。
#### 具体的な使用例:
- **文化的な理解**: 楽和は、新しい文化的な概念や方法に触れると、瞬時にその本質を理解し、適切に応用することができる。
- **文化の伝達**: 楽和は、自分が理解した文化的な概念を仲間たちに教え、彼らの知識と技能を向上させる。
※画像:DALL-E
作品紹介