天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

窓を扉にしてはいけない事もある

The Mist

私:2007年製作のアメリカの映画『The Mist(邦題:ミスト)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:『The Mist』(邦題:ミスト)は、2007年に公開されたアメリカのホラー映画です。フランク・ダラボンが監督し、スティーヴン・キングの同名小説を原作としています。

物語は、突然の濃霧に包まれた小さな町を舞台に、スーパーマーケットに閉じ込められた住民たちが恐怖と闘いながら、生き残るために奮闘する姿を描いています。霧の中に潜む未知の怪物たちが人々を襲い、その中で極限状態に陥った人々の心理的な変化や緊張感が緻密に描かれています。

映画はその驚愕のエンディングでも知られており、視聴者に強烈な印象を残しています。

 

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 『ドラえもん』を代表作とする日本漫画界の巨匠、藤子・F・不二雄(藤本 弘)は、「日常の中にある不思議」を物語に組み込む手腕に長けていた。彼はその不思議な出来事を「Sukoshi Fushigi(SF)」と小気味よく表現した。

 アメリカの現代作家スティーブン・キングも、その「Sukoshi Fushigi」の取り扱いが非常に巧みな創作家のひとりだ。彼の小説はホラー、サスペンス、ドラマなど幅広い物語を創作し、幾度となく映画化されている。そうしたキング原作の映画作品の中でも特に評価の高い『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』は、どちらも同じ監督フランク・ダラボンが手掛けている。

 本作の『ミスト』は、その2作品の後に発表された内容だ。当時、私がこれを鑑賞した際はどうしてあんなにも実直で素晴らしい作品群を創れる監督が、このような意味不明なホラー映画を手掛けたのか不思議に思ったものだ。ただ、改めて調べてみるとダラボン監督はこの作品でデビューをしたかったらしく、当人も作品の出来栄えに自信を持っているようだ。原作者のキングもその完成度に感嘆しているようだ。創作家と鑑賞者の想いは時にすれ違う事があるが、これはそうした事例のひとつであると思う。

 私は本作の取って付けたような"テーマパーク化"された人間描写や群集心理が気に入らない。善人はどこまでも善人、悪人がどこまでも悪人、脇役はどこまでも脇役。主人公の息子は可哀そうなぐらい自我がまったく無く、パパーママーと言いながら物語の最初から最後まで泣いて誰かに抱き付いている。明確な勝利やカタルシスも得られず、ラストシーンは無意味に残酷だ。54分付近までの導入部まではシチュエーションスリラーとして非常に精度が高いと思うが、それ以降の品質は緩やかに下降線を辿る。(ただ、2017年に製作されたテレビシリーズと比較するとずっとマシだという事が分かる。そちらは導入されたプロットの何もかもが薄っぺらい人形劇の状態と化しており、スリラーとしての面白さにも完全に欠けている。短編小説から映像用の物語を肉付けしていく作業は非常に難しい。ダラボン監督はその点、非常によくやっていると見ることも出来る。実際、この作品の愛好者は多い。)

 一方でこの作品では、後にコメディシリーズ『ブルックリン・ナイン-ナイン』でレイモンド・ホルト所長役として有名になる、昨年12月に肺がんによって急逝した俳優アンドレ・ブラウアーの演技を楽しむ事が出来る。彼が演じたのはニューヨーク一流弁護士のノートン役。この作品では1日のうちに、籠城したスーパーマーケット内で「保守派(狂信的な宗教、悪人)」「革新派(妄信的な科学、悪人)」「中立派(信念や信条のない場当たり的な人々、善人)」という三国志状態の陣営にクッキリと分かれ、弁護士ノートンはその革新派の指導者として機能した。コメディの方のホルト所長役を思い出しながら彼の演技を改めてみると、ひとつひとつの言動が妙に面白い。

 またこの作品に登場するひとつの台詞もまた興味深い。「保守派」の指導者として機能した女優マーシャ・ゲイ・ハーデン演じるミセス・カーモディが、この濃霧の超常現象を軍による極秘計画の失敗だと決めつけて、その場にいた軍人にこう叫ぶのである。

 

"Well maybe your window turned out to be a door! Isn't it!?"

「あなたたちが『窓』を『扉』に変えてしまった!そうでしょ!?」

 

 現実世界に当てはめると、その「窓から扉への変化」の見方は三つある。

 

  1. 【不可能から可能へ】出来ないと思っていた事が出来るようになった
  2. 【抽象から具体へ】理論や概念が応用可能な技術や方法となった
  3. 【他人事から自分事へ】縁の無い世界が自分の世界と繋がった

 

 GPT君、それぞれの実例を挙げてくれる?

 

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ChatGPT:面白いテーマですね。それぞれの視点に関する実例を挙げてみます。

 

  1. **【不可能から可能へ】できないと思っていたことができるようになった:**

これに該当するのは、例えば人類初の月面着陸です。1969年、NASAアポロ11号が初めて人を月に送り、アームストロング船長が月面に足を踏み入れた瞬間、長らく夢に過ぎなかったことが実現されました。数十年前まではフィクションのように思われた「月への旅」が、科学と技術の進歩により可能となったのです。

 

  1. **【抽象から具体へ】理論や概念が応用可能な技術や方法となった:**

インターネットの誕生は、抽象的なアイデアが具体化した一例です。情報をコンピュータ間でやり取りするという理論が、具体的な通信ネットワークとなり、最初は限定的だったネットワークが、やがてワールドワイドウェブを生み出し、私たちの生活に不可欠なインフラとして確立されました。情報交換の手段を根本から変えたこの技術は、今や日常生活のすべてに関わっています。

 

  1. 【他人事から自分事へ】縁の無い世界が自分の世界と繋がった:

新型コロナウイルスパンデミックが良い例です。最初は武漢での感染症として報じられていたものの、瞬く間に世界各地に広まり、グローバルなパンデミックへと変わりました。地理的に遠く感じていた感染リスクが、自分や家族の生活を直撃し、誰もが感染症対策を強いられる現実が生まれたのです。

これらの例は、フランク・ダラボン監督の映画『ミスト』の台詞の「窓から扉への変化」という視点とも共鳴する部分があるかもしれません。

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 まさにGPT君が挙げてくれたインターネットは、無尽蔵にある窓から自分の知らない世界を眺める事が出来る革新技術だ。だが、その窓の中には決して扉にして、自分の部屋と繋げてはいけない世界もある。もし私がその「インターネット技術の『窓から扉』の三大原則」を定めるとするなら、それは次のような表現に集約されるだろう。

 

・身体的な健康を害する生活面の窓を扉にしてはならない。(特別かつ妥当な事由なく麻薬や凶器などの不正で危険な物品を入手しようと試みてはいけない。)

・精神的な健康を害する文化面の窓を扉にしてはならない。(特別かつ妥当な事由なく極端に偏った思想や意見などに接近または加担を試みてはいけない。)

・関係的な健康を害する社会面の窓を扉にしてはならない。(特別かつ妥当な事由なく危険な活動を行う組織との双方向のアプローチを試みてはいけない。)

 

 当たり前の事だが、この当たり前が守られないからこそ、『ミスト』のようにとんでもない異世界の害虫が部屋に入って来てしまう事がある。『ドラえもん』のしずかちゃんも、次のように言っている。

 

"ときどき りくつにあわないことするのが人間なのよ"

 

 我々は十分に一人ひとりが注意をしなければならない。その窓を扉にして良いかどうかを。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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