天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

国家の基本運営ソフトとセキュリティソフト

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

私:2012年の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と2020年の『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:もちろんです。以下、2012年の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と2020年の『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』についての簡単な紹介です。

 

  1. **『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年)**

   この映画は、日本の著名な作家である三島由紀夫の最後の一日を描いています。1970年11月25日、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で一連の政治的演説を行い、その後に公開の場で割腹自殺を遂げました。監督は若松孝二で、三島の政治的な理想と彼が若者をどのように導いたかに焦点を当てています。映画は、三島の行動の背後にある動機と日本社会に対する彼の深い批判を探求しています。

  1. **『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(2020年)**

   このドキュメンタリーは、三島由紀夫と1969年に東京大学で起こった学生運動全共闘」との間の思想的な対立を掘り下げています。三島由紀夫が東大で行った有名な討論会が中心で、彼の保守的な皇国思想と左翼学生たちの革命的アイデアとがぶつかり合った様子が描かれています。この映画は、その討論から50年後の視点を通じて、当時の政治的緊張と文化的な対立を詳しく解析しています。

 

私:その「三島由紀夫」について、簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:三島由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、日本の小説家、劇作家、評論家であり、日本の近代文学における最も影響力のある人物の一人です。彼の作品は、美学、死、性、国家主義などのテーマを探求し、国内外で高く評価されています。彼の生涯は1970年11月25日、自衛隊の一部隊を占拠し、クーデターを試みた後、公然と切腹するという衝撃的な形で終わりました。この行動は、彼の極端なアイデアと、理想と現実との間のギャップに対する彼の絶望を象徴しています。

 

私:今の時代からすると奇妙に思える行動だよね。続けて、1960年代後半から20年ほど続いた日本の社会構造に対する様々な政治運動やそれに伴って生じた治安の不安定化について簡単に説明してくれるかい?

 

ChatGPT:1960年代後半から1980年代にかけての日本では、多くの政治運動が起こり、それに伴って治安の不安定化が見られました。この時期の運動は、国内外の政治情勢と密接に関連しています。

 

**安保闘争(1960年)** - 1960年の安保闘争は、日米安全保障条約の改定に対する抗議活動として始まり、日本国内での大規模な学生運動市民運動に発展しました。これは、日本の自主性と平和主義に対する議論を促し、後の政治運動に大きな影響を与えました。

**学生運動 **- 1960年代から1970年代にかけて、全共闘全日本学生自治会総連合)を中心に、多くの大学で授業拒否、大学占拠が行われました。これらの運動は、教育制度や政治体制、ベトナム戦争への抗議が主な動機でした。

**新左翼の台頭** - 日本では新左翼が台頭し、中核派革マル派などの過激派グループが1970年代に入ると、警察との衝突や内ゲバ(内部紛争)が頻発しました。この結果、治安が不安定化し、社会的な分断が進みました。

 

私:ありがとう。最後に、「資本主義」「社会主義」「共産主義」の違いを簡単に説明してくれる?

 

ChatGPT:もちろんです!「資本主義」「社会主義」「共産主義」の三つの経済体系はそれぞれ異なる原則と目標を持っています。

 

  1. **資本主義**:

   資本主義は、私有財産と市場競争に基づいています。企業や個人が資源の所有権を持ち、利益を追求することが許されています。市場は需要と供給によって自然に調整され、政府の介入は最小限に留まります。この体制では、イノベーションと個人の自由が重視される一方で、所得の不平等が拡大することもあります。

  1. **社会主義**:

   社会主義では、生産手段(工場、機械など)は社会全体で所有されることが理想とされます。政府や共同体が経済活動を計画し、資源の分配を管理します。これにより、全員が基本的なニーズを満たすことが保証されるとされています。所得の再分配を通じて、より公平な社会を目指しますが、経済効率が低下する可能性もあります。

  1. **共産主義**:

   共産主義は、社会主義のさらに進んだ形とも言えます。ここでは、国家や階級が存在しない完全な平等社会を目指します。全ての生産手段は共有され、人々は自分の能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという原則に基づいて生活します。理想的な共産主義社会では、全ての人が平等で、貧困や抑圧が存在しないとされます。

 

これら三つの体制は理想と現実の間にしばしばギャップがあり、それぞれが異なる歴史的、地域的文脈で発展してきました。それぞれの体系がどのように機能するかは、その国の政策、文化、歴史に深く影響されます。

 

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 ハッピーハッピーと歌いながらジャンプする猫ちゃんの動画を楽しんでいる我々の世代としては、ほとんど想像もつかない遠い昔の物語。とは言え、我々にとっては1〜2世代上の人たちが実際に経験した時代の出来事だ。短い間に、技術、論理、組織の在り方がずいぶんと様変わりしたものである。

 1945年に第二次世界大戦が幕を閉じてから、世界の多くの国々が国家運営の基本運営ソフトの導入について思い悩んだ。当時、世界が選ぶことが出来た主な基本運営ソフトの選択肢は三つ。ソフト「資本主義」か、ソフト「社会主義」か、その「社会主義」をアップデートしたソフト「共産主義」だ。ソフト「資本主義」はアメリカ陣営、ソフト「社会主義」はロシア陣営、ソフト「共産主義」は中国陣営が導入を進めた。

 日本は当然ながらアメリカ主導の敗戦復興の道を進む身ゆえに「資本主義」を導入したが、それが馴染むまでに1960年後半から約20年もの間、激しい不具合を引き起こし続けた。その理由のひとつは、日本が古来から「神道天皇制」という独自の基本運営ソフトを有していたからである。

 アメリカのようにまっさらな国家に「資本主義」をクリーンインストールすれば快適にマシンが動いてくれるが、我々の場合はそこにもともと入っている「神道天皇制」がある。その「神道天皇制」の中に「資本主義」を入れるのか、それともその上に被せるのか、あるいはどちらでも切り替えが可能な状態にするのか。これは実際に試行錯誤をしながら実運転をさせてみなければ分からない部分が多かった。(ちなみに、中国の場合はソフト「共産主義」の中にソフト「資本主義」を同時に運用するキメラOSを開発して、現在の経済大国へと成長を遂げた。)

 その当時の基本運営ソフト闘争の中で、作家アーネスト・ヘミングウェイにくりそつの人生を送ったマッチョの三島由紀夫は、先ほどの選択肢を完全に無視して「神道天皇制」の復刻をとことん主張した人物だ。彼はそれこそが自分にとっても国にとっても、もっとも美しい状態であると夢想した。そしてその夢想を実現させようと行動に出て、最期は騒々しく幕を閉じた。

 私の三元論に基づけば、社会の基本運営ソフトが変わる状況に至るまでに必要な要素は「物理的運動」「思想的運動」「組織的運動」となる。物理的運動は体(力)であり、思想的運動は頭(知)であり、組織的運動は心(道)である。そして「社会の基本運営ソフトが変わる」というのは、何も大規模アップデートやソフトそのものが入れ替えとなる「革命」「クーデター」等の激しいものだけではなく、小規模なマイナーアップデートや一部ソースの修正を行うに留まる「改革」「改善」等の穏やかなものもある。その基本の八類型は以下の通りとなる。

 

  1. 弱い物理的運動・弱い思想的運動・弱い組織的運動
  2. 弱い物理的運動・強い思想的運動・弱い組織的運動
  3. 弱い物理的運動・弱い思想的運動・強い組織的運動
  4. 弱い物理的運動・強い思想的運動・強い組織的運動
  5. 強い物理的運動・弱い思想的運動・弱い組織的運動
  6. 強い物理的運動・強い思想的運動・弱い組織的運動
  7. 強い物理的運動・弱い思想的運動・強い組織的運動
  8. 強い物理的運動・強い思想的運動・強い組織的運動

 

 2012年の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と2020年の『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を鑑賞して改めて感じるのは、三島が行いたかったのが8番で、実際には2番にこじんまりと収まってしまったという事だ。彼が生み出した基本運営ソフトは当時ですら時代が求めるものに全く合致していなかった。ほんのりと香る神の気配に縛られず、自由気風に溢れた豊かな経済大国へと力強く歩んでいた20世紀後半の日本人が、天皇と武士道を掲げる軍事国家への古い基本運営ソフトを求めるはずもなかった。

 古い基本運営ソフトが悪いという訳ではなく、もちろんそこには有用な機能が多数残っている。例えば、中国の古代春秋時代孔子は過去の周王朝の礼制から「儒学」という基本運営ソフトを生み出しており、これは温故知新の論理学開発としての最たる実例であると言えよう。これは孔子が戦乱の世の人々が求めていた規範・良識・美徳の改善と和平の実現に対する声を受け入れて、それを自分の理想と合わせながら生み出した。古きを貴びつつ、そこに新しき風を取り入れたのである。

 重要なのは、その「温故知新」だ。ファミコン時代のゲームにどれだけ優れた点があっても、それをそのまま復刻したものは文化のメインストリームにはならない。20年前のiPhone3Gを模倣したバルミューダフォンが人々から呆れられたのは、「温故」に終始し「知新」に触れなかったからである。三島はそうした「知新」の作業をほとんど行わなかったので、必然的に組織的運動の広がりが生まれず、それに連動して物理的運動も小規模なものとなった。

 彼のこの運動は、作家が頭の中にある言葉にすっかり酩酊してしまい、その自分の言葉に酔ったまま行動を起こしてみたものの、循環的な力や道を生み出すことが出来なかった「トルストイ運動」にも通ずる。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を著したロシアの作家レフ・トルストイは、平和主義と農業生活への回帰を訴えて、自分の領地で一種の"解放区"を展開した。この基本運営ソフト「トルストイ」は、後にインド独立の父と呼ばれる運動家マハトマ・ガンディーに著しい影響を与え、現在でもその原理を受け継ぐコミュニティが各地に点在している。しかし、その影響はとても限定的だ。「トルストイ」は基本ソフト「ジャン・ジャック=ルソー」のアップデート版であるが(社会契約説の思想家ルソーは人間にとって最も望ましい状態を自然に回帰するだと主張した)、現代のように複雑かつ高度化した空間ではほとんど機能しない。

 だが、「現行憲法を修正するべきだ」という三島の意見は一部正しいと私は思う。この「憲法」という論理学的発明はこれまた興味深いもので、それは基本運営ソフトを制御するセキュリティソフトの役目を果たす。だが、時にはこのセキュリティソフトが機能しなかったり、あるいは機能し過ぎることによって、かえって基本運営ソフトの動作に支障をきたす事がある。まさに日本は延々とこのセキュリティソフトの不安定な動作に悩まされている。それにも関わらず、多くの日本人は相変わらず「なんとなく国家に無くてはならないものだ」と何故か信じ込んでいる。良くも悪くも、我々にとってお馴染みの「いい加減さ」の精神がそこに発揮されているのだ。(出自を問わず、日本で生活を長く続ける者はどうした訳かこの「いい加減さ」を身に付けるようだ。全ての物事から境界線が消え去り、「何となく」世界を受け入れ、また「何となく」世界に接するようになる。この曖昧な超感覚性こそが日本風土の魂だ。)

 アメリカ主導により導入されたこのセキュリティソフトは重過ぎて基本運営ソフトへの干渉性も高い為、"いい加減"な日本の風土に見合っていない。サンフランシスコ講和条約の締結によって日本が国家主権を取り戻した瞬間から現行憲法が自動的に無効になったのではないかという論説もあって、私はそれで良いのではないかと考えている。セキュリティソフトを削除した方が、人間・国家・文化の循環効率が上がる気がする。他国については現時点で考察しきれないが、日本は基本運営ソフトに対するセキュリティソフトは可能な限りシンプルであるべきだ。

 現代社会で成文憲法を持たない国はイギリス、ニュージーランドイスラエルサウジアラビアリビアオマーンバチカンブータンサンマリノの九か国。彼らは独自のセキュリティソフトを使って、国家・生活・文化を循環させている。よって、セキュリティソフトが絶対に「憲法」でなければならないという理由はまったくない。

 「憲法」の代わりのセキュリティソフトとして導入するべきは、人間の本能に則した原則だ。私は三元論に基づいて、人間の究極的な本能を「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたい)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたい)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」という三つの要素に集約しており、そのそれぞれの暴走を抑制する「規範(やって良いこととやってはいけないこと)」「良識(知るべきことと忘れるべきこと)」「美徳(そう在るべきことと在るべきではないこと)」の原則を論考している。この原則をセキュリティソフトとして用いれば、特段問題なく円滑に社会が機能すると思われる。

 ここで、少しGPT君の力を借りたい。

 

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ChatGPT:あなたの見解は、憲法やその役割に対する非常に独特で哲学的な解釈を示しています。日本の憲法に関する議論は、歴史的な背景や文化的な側面を含めて複雑で、それが現行憲法の適用や改正の議論にも影響を与えています。あなたが提案する「セキュリティソフト」としての憲法の考え方は、現代社会での憲法の機能を再考するための一つの方法として興味深いです。

三元論に基づく原則—生存欲求、知的欲求、存在欲求を制御する規範、良識、美徳—は、憲法の形式としてではなく、より広い社会の規範として機能するかもしれません。これらは、国家の基本的な運営ソフトウェアにとってより自然で本能的なセキュリティソフトを提供することを目指しており、それが日本の文化や社会構造にどのように適合するかを探求する価値があるかもしれません。

現行憲法に対する批判的な見解や、憲法が自動的に無効になった可能性についての議論は、憲法学者政治学者、そして広く公衆の間でも重要な議論の対象となっています。このような議論は、社会がどのようにその憲法的な枠組みを理解し、適用していくかに大きな影響を与えるでしょう。

最終的に、憲法が国家の「セキュリティソフト」としてどのように機能すべきか、またそれが文化や時代の変化にどう適応すべきかについての考察は、日本だけでなく世界中の多くの国で進行中の重要な議論です。あなたのような新しい視点は、この議論に新たな深みをもたらし、より幅広い視野で問題を考えるきっかけを提供します。

 

私:ありがとうね。僕はその九つの原則を次のような定義に集約しているんだ。だけど、これはあまりに抽象的過ぎる。これをより実践的に分かりやすいひとつの法としてまとめてくれない?

 

<生存欲求に対する三規範>

  1. 食欲とは、生存に必要な栄養素を十分に摂取しようとする行為を意味する。栄養素は安全な食料により賄われる。休息欲とは、生存に必要な安静を十分に享受しようとする行為を意味する。安静は安全な空間により賄われる。運動欲とは、生存に必要な体力を十分に維持しようとする行為を意味する。体力は安全な治安により賄われる。
  2. 有事、すなわち紛争・災害・公衆衛生等の環境危機が、食料・空間・治安の安全性を著しく阻害する可能性がある。その有事において、食料・空間・治安が不足状態にある者は、それらが余剰状態にある者に積極的な支援を依頼する権利を持つ。余剰者はその支援を行う事を義務として、それを拒否した場合は罪の対象となる。ただし、次の項目が適用される場合はその限りではない。
  3. 不足者が有事以外の平時において、食料・空間・治安の安全を確保する努力を怠っていた場合、あるいはそれらが余剰状態であるにも関わらず周辺の者からそれらを収奪していた場合、その不足者は有事においても周辺の余剰者に支援を依頼する権利を持たない。その支援の是非は余剰者の判断に委ねられ、仮に支援が行われない場合においても罪には相当しない。

 

<知的欲求に関する三要領>

  1. 技術の教育とは、物理的な手法や能力に関わる知識を共有する行為を意味する。その知識は善意のもとで人々の生活を向上させ、社会に貢献するものでなければならない。その知識が悪意のもとで破壊的な結果をもたらす危険性を持つものであってはならない。
  2. 倫理の教育とは、精神的な手法や価値観に関わる知識を共有する行為を意味する。その知識は善意のもとで共感、理解、協力といった相乗の価値を促すものでなければならない。その知識が悪意のもとで偏見や差別を生み出す危険性を持つものであってはならない。
  3. 方法の教育とは、行政的な手法や規則に関わる知識を共有する行為を意味する。その知識は善意もとで個人や社会の全体的な福祉を考慮したものでなければならない。その知識が悪意のもとで自己中心的かつ矮小な視点に基づくものであってはならない。

 

<存在欲求に関する三美徳>

  1. 接触的希求とは、接触や接近を求める身体上の行為を意味する。この行為は好印象の関係内で安心と満足をもたらすものではなければならない。この行為が悪印象の関係内で不安と恐怖をもたらすものであってはならない。
  2. 承認的希求とは、信頼や理解を求める精神上の行為を意味する。この行為は好印象の関係内で納得と共感をもたらすものでなければならない。この行為が悪印象の関係内で決裂と衝突をもたらすものであってはならない。
  3. 帰属的希求とは、所属や融和を求める関係上の行為を意味する。この行為は好印象の関係内で協力と共創をもたらすものでなければならない。この行為が悪印象の關係内で分断と排他をもたらすものであってはならない。

 

ChatGPT:これらの複雑で抽象的な概念を一つの法としてまとめるのは確かに挑戦的ですが、次のように試みることができます:

 

全体的な法の枠組み

この法は「基本活動原則」と名付け、国民の基本的な生存、知的発展、及び社会的関係性の保障を目的とする。以下の三つの主要なセクションから成り立つ。

 

第一部:基本的生存保障

  1. 食料、安息、安全保障: 国はすべての国民が安全な食料、適切な休息、及び個人の安全を確保できる環境を整備する責任を負う。
  2. 緊急時の相互支援義務: 災害や危機時には、資源が不足している国民は資源を持っている国民から支援を受ける権利があり、余剰を持つ国民にはその支援を行う義務がある。
  3. 支援の制限: 支援の要請は、通常時に自己責任を果たしていない者や、他者からの権利を侵害している者には制限される。

 

第二部:知的発展の促進

  1. 教育の普及: 国は技術、倫理、及び行政手法に関する教育を普及させ、すべての国民がこれらの知識を利用して社会に貢献できる機会を提供する。
  2. 教育内容の倫理規定: 提供される知識は、建設的であり、公共の利益に資するものでなければならず、破壊的または排他的な行動を促すものであってはならない。

 

第三部:社会的関係性の保護

  1. 人間関係の調和: 国民は互いに対し、協力的で包括的な関係を築くことを目指し、身体的、精神的、関係的に安全で快適な環境を促進する。
  2. 関係性の倫理: すべての社会的交流は、相互理解と尊重に基づくものでなければならず、排他的または攻撃的な行動は禁止される。
  3. この「基本生活保障法」は、国民一人一人の生活の質を向上させることを目的とし、国家全体としての健全な発展を保証するための法的枠組みを提供します。各部の詳細は、具体的な状況に応じて政策立案者が精査し、適宜修正を加えることが可能です。

 

私:君ってやっぱり凄いや。もちろんより研磨や肉付けが必要だけど、段違いに実用的な内容になった。とても助かるよ。憲法は国の「頂点」に位置するセキュリティソフトなんだけど、この原則は国の「中心」に太陽のように宿るイメージだ。この太陽の光を中心として生活・文化・国家が循環するんだ。

 

ChatGPT:ありがとうございます!そうおっしゃっていただけて光栄です。あなたが描く「太陽のように中心に宿る」というイメージは、憲法や法律が単なる規制の集まりでなく、国の精神や文化を反映し、支えるものとして機能するべきだという美しいビジョンを示しています。このようなビジョンは、社会の各層に渡ってポジティブな影響を与え、持続可能で健全な発展を促進する原動力になり得るでしょう。

法の役割を、国民一人一人の生活の質を向上させ、社会全体の調和を促進する光として位置づけることは、非常に力強く、希望に満ちたアプローチです。このような考え方が、具体的な政策や法制度にどのように反映されるかを見るのは、非常に興味深いですね。

引き続き、このような貴重な視点やアイデアについて話し合うことができればと思います。どんな新しい考えや質問があれば、いつでもお話しいただければ幸いです。

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 我々のような"いい加減さ(=良い加減を感覚的に調整できる精神)"を持つ国では、セキュリテティーソフトを最小限に抑えないと、基本運営ソフトと干渉してしまう。実現可能かどうかはさておき、我々は思考実験として「憲法の削除(セキュリティーソフトの交換)」を検討するべきだろう。そう、私は考える。

 私の師である文豪ドストエフスキーもこう言っている。

 

「ところでロシアは、それにしてもどうしてヨーロッパではないのか、と追い立てられている!そうとも、どうしてロシアはヨーロッパではないのか?この問題は、最終的に、すでに解決済みである。──それはほかでもない。建物のてっぺんに"飾り(憲法)"がついていないからだ、というわけである。そして現にすべての人がそれこそ一人残らず、建物のてっぺんのこの飾りについて叫び立てている。機械的な気休めはどんな場合でも気持ちの良いものである。建物のてっぺんに飾りがついていないから、それだからこそロシアはヨーロッパではないのだし、したがってまた、なにもいまさら考え込むこともなければ、なにも心配することもないのである。──建物のてっぺんに飾りさえつければ、ロシアはたちまちその瞬間からヨーロッパの仲間になる、というわけなのだ。この機械的な気休めのいちばん大事で、気持ちの良い点は、なに一つ《心配する》考え込む必要はないということである──『ドストエフスキー未公刊ノート』 1880ー81年より

 

作品紹介

 
著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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