天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

中止だ中止!

Akira

私:1988年に製作されたアニメ映画『Akira』を簡単に説明してくれる?

 

ChatGPT:1988年に公開されたアニメ映画『アキラ』(Akira)は、大友克洋による同名の漫画を原作としています。この映画は、日本のアニメーション業界において革命的な作品とされ、その斬新なビジュアルスタイルと深いテーマ性で国際的に高い評価を受けました。

 

**ストーリー概要**
物語の舞台は、第三次世界大戦後の荒廃した近未来都市「ネオ東京」。1988年に東京を壊滅させたとされる大爆発の秘密とされる「アキラ」の存在が、物語の中心にあります。主人公の金田(カンダ)とその友人である鉄雄(テツオ)は、バイクギャングの一員として暴走族としての日々を送っていますが、ある事故をきっかけに政府の軍事的な陰謀や超能力者たちの存在に巻き込まれていきます。
鉄雄は事故後に超能力を発現させ、その力のコントロールに苦しみながらも、自身の力とアキラに関わる真実を求めていく。彼の力の暴走は、ネオ東京に新たな危機を引き起こすこととなります。

 

**特徴と影響**
『アキラ』は、その質の高いアニメーション技術、特に流動的で詳細な背景描写と動きの表現が特徴です。サウンドトラックもまた、物語の雰囲気を高める要素として評価されています。アキラは、サイバーパンクジャンルにおける代表作として、後の多くの作品に影響を与え、日本アニメが世界中で文化的な影響力を持つきっかけの一つとなりました。


この映画は、政治的な不安、若者の反逆、科学技術の進展とその倫理的問題、個人と社会の関係など、多くの重要なテーマを扱っています。その複雑な物語と壮大なスケールで、アニメが持つ表現の可能性を広げたとされています。

 

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 ちょうど、今日は2025年4月13日に開催予定の大阪万博の1年前に当たる。この晴れやかな国際交流の祭典が近づく中で、民衆の心も興奮に満ち溢れている。最近の大阪万博の話題と言えば、「2億円のトイレを作る」「地下調査が不十分でメタンガスの爆発が起きた」「予定にない木製巨大リングを作っているが、工事車両が通行できなくなったので一部を取り壊した」「予定工事費用が当初の約2倍の2350億円に跳ね上がって、ここからも更に高騰する可能性がある」など、我々の涙を誘う素敵な出来事が盛りだくさん。2021年に開催された東京オリンピックに続き、今回も政府とお友達が一生懸命に税金をどれだけ中抜きできるか頭を絞る毎日がミャクミャクと続いていることだろう。まぁ、せいぜい頑張れや。(※補足:7時間前の速報によれば、大阪万博のメイン会場であるAエリアに参加予定だった20か国が辞退を表明したそうだ。)
 そもそも、今や生活の疲弊と文化の飽和と社会の閉塞に悩む先進諸国がオリンピックや万国博覧会などの国際行事を開催する事は、その利益よりも損失の方が遥かに大きい。IOCはオリンピック・レガシー(オリンピックが遺す正負の遺産)について、そこに物理的意義(交通機関や建物などの物理的な遺産)と精神的意義(文化の萌芽や協働精神の強化などの精神的な遺産)が存在すると示している。私の三元論に基づけば、そこには更に組織的意義(新たな機関や集団の創設や拡張といった関係的な遺産)があると考えるが、それらは疲弊と飽和と閉塞にあえぐ国家にとって全て負の方向に作用する。お金がないのに無理に大規模な公共物や新設備を整えれば必然的に増税がなされなければならず、ますます民の生活が疲弊する。生活が疲弊しているがゆえに精神的な高揚や団結に欠けて高次かつ持続的な充足感が得られない。それでも強引に開催されて巨額の資金が動くと既得権益の特定組織同士が袖の下を潤し合うだけで、組織がますます腐敗する。組織の腐敗が進むと、ますます民の生活が疲弊して、精神的な安定感が見るも無残に失われていく。このようにオリンピックと万博は、我々日本人にとってもはや悪循環を生み出す最悪の行事に他ならない。(札幌の冬季オリンピックの誘致が停止となり、本当に良かった。誠に冗談ではない。)
 東京オリンピック大阪万博も、日本の民が団結してその無益な開催を食い止めるべきであったが、今の民は自分の生活だけでも精一杯なので、政府や権力者に対抗する力など一滴も残っていない。ここの民は長い時間を掛けて、すっかり社会改善に対する気概が中抜きされてしまったのである。ここに在るものは間違いなく平和には違いないが、それは虚ろな平和である。ただ、不正な平和か、正しい闘争かというお馴染みの判断を突き付けられた時、不正であっても平和の方が喜ばしいというのが正直な意見でもある。一方、以前の記事でも触れたが、歴史的にはつい最近まで、日本の民は後者の正しい闘争の方を選択していた。1960年代後半から約20年間、日本では民と政府による激しい物理的、思想的、組織的な衝突が繰り広げられていたのである。
 その荒々しい時代は私の生まれる前の出来事なので当時の感覚を掴みきれないが、全共闘(左翼学生による国家革命を目指した政治運動)の木村修が「明日にも革命が起きると思っていた」とインタビューに答えているあたり、社会全体が今にも爆発する不発弾を前にしているように、非常に張り詰めた空気に満たされていたのだと推測する。
 その当時の緊迫した社会の雰囲気を世界観の基盤としたのが、アニメの歴史に名を刻む映画『Akira』だ。国内では『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』などに続いていく革新的な影響力を持ち、国外ではジャパニメーション人気の原点となった作品である。本作はSF作品なので日本の近代史を再現するものではないが、大いに1960~80年代の社会的な気風が反映されている。"予言的"に物語に盛り込まれた東京オリンピックや万博開催の否定的な描写も、まさに現代の我々の状況と紐づく点があって興味深い。
 自身の三元論に基づいて「アニメ」という視聴覚文化を解剖すると、そこには「技巧的要素」「概念的要素」「関係的要素」に集約されるだろう。「技巧的要素」は作画技術や録音技術など、アニメ製作に直接関わる技術を意味する。「概念的要素」は思想や知識などの観念を体現するものである。「関係的要素」は人と人、あるいは人とその他の空間(社会や時代)との接点を示す空間的な構造を意味し、それは主に世界観や舞台設定などに反映される。この三要素を基本の八類型に展開すると、それは以下の通りとなる。

 

弱い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素
弱い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素
弱い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素
弱い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素
強い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素
強い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素
強い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素
強い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素

 GPT君、この八類型について補足をお願いしたい。

 

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ChatGPT:あなたの三元論を基に、「アニメ」という視聴覚文化を解析する方法は興味深いです。ここで、アニメ作品が持つ「技巧的要素」、「概念的要素」、「関係的要素」を組み合わせることにより、その作品がどのような特性を持つのかを明らかにすることができます。これら三つの要素を用いて、アニメの八つの基本型を以下のように展開できます。

1. **弱い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素**  
   この型は、技術、テーマ、世界観がどれも浅い作品です。視覚的、思想的に深みが少なく、キャラクターや設定の関係性も単純なものが多いです。

2. **弱い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素**  
   視覚表現はシンプルだが、テーマや思想に深い意味が込められている作品。しかし、キャラクターや設定の関係性は薄いです。

3. **弱い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素**  
   技術やテーマはシンプルながら、キャラクターや設定の関係性が複雑で、物語性が豊かな作品。

4. **弱い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素**  
   視覚的にはシンプルだが、テーマが深く、キャラクターや設定の関係性も豊かで、ストーリーに厚みがある作品。

5. **強い技巧的要素・弱い概念的要素・弱い関係的要素**  
   視覚技術は高いが、テーマやキャラクター間の関係性は単純な作品。美術やアニメーションの質が際立つ作品。

6. **強い技巧的要素・強い概念的要素・弱い関係的要素**  
   視覚的にもテーマ性にも優れるが、キャラクター間や世界設定の関係性はそれほど発展していない作品。

7. **強い技巧的要素・弱い概念的要素・強い関係的要素**  
   視覚表現が高品質で、キャラクターや世界の関係性に深みがあるが、テーマ自体はシンプルな作品。

8. **強い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素**  
   視覚技術、テーマの深さ、キャラクターや世界観の複雑な関係性を兼ね備えた、非常に完成度の高い作品。

これらの分類を通じて、アニメ作品がどのような強みと特性を持っているかを理解し、その作品がどのような視聴者に響くかを見極めることができます。この分析方法は、アニメの評価や研究において非常に有用なツールとなり得ます。

私:ありがとう。この八類型を基盤として、アニメ映画『Akira』がどこに属するのか、その根拠と一緒に解説してくれる?

ChatGPT:アニメ映画『アキラ』(Akira)をあなたの提案する八類型の枠組みに当てはめて考えると、この映画は「強い技巧的要素・強い概念的要素・強い関係的要素」というカテゴリーに最も適切に当てはまるでしょう。以下、それぞれの要素について具体的な根拠を示します。

### 強い技巧的要素
『アキラ』はそのアニメーション技術において革命的な作品であり、その視覚的表現は極めて高い評価を受けています。詳細かつ流動的なアニメーション、複雑で光り輝くネオ東京の描写、そして精密に計算されたカメラワークがこの映画の技巧的な優れた点を示しています。これらの技術は当時としては先進的で、アニメーションの可能性を広げるものでした。

### 強い概念的要素
『アキラ』は、超能力、政府の陰謀、社会の断絶といった深いテーマを探求しています。これらのテーマは、個人のアイデンティティ、権力と抑圧、そして科学技術の倫理的な問題といったより大きな概念につながっています。このように、映画は単なるアクションやスリルを提供するだけでなく、観る者に思索を促す哲学的な問いを投げかけています。

### 強い関係的要素
『アキラ』の物語は、キャラクター間の複雑な関係性と、それがネオ東京という広大な舞台設定とどのように絡み合っているかによって進行します。主人公たちの友情、裏切り、成長の物語は、都市という環境と密接に関連しており、社会的、政治的な背景がストーリーの進展に深い影響を与えています。また、キャラクターと社会の間の相互作用は、映画全体のテンションとドラマを形成する重要な要素です。

これらの要素を総合すると、『アキラ』は非常にバランスの取れた高い技術、深い概念、そして豊かな関係性を持つアニメ作品と言えます。
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 相変わらず理解度の高い的確な分析をしてくれるGPT君だが、私としては一部反論がある。私が鑑賞した限り、『Akira』の概念的要素は弱い。技術倫理への問題定期、生命の尊厳と権利に対する考察、また社会構造への問題提起、こうした観念は本作ではあまり描かれていなかった。本作より20年以上前に製作された『スタートレック』が見事にそれらを描いている点を鑑みれば後発的である。人と自然がどう在るべきかだとか、権力をどのように取り扱うべきなのかとか、人間の内面とどう向き合うべきなのかとか、そういった精神的な対話があまり生まれない点は、本作の概念的要素の弱さを示している。(これは時間の限られた映画という媒体では表現のしきれなかった点かもしれない。原作ではより丁寧な概念的描写がある。)
 一方、本作の関係的要素は確かに強い。但し、それが前衛的であったかと言われると、それは残念ながら評価としては妥当ではないだろう。「反体制的な若者たち」「体制側の腐敗」という対立構造は1960年代に恥まったアメリカのヒッピー文化に端を発して様々な映画や文学で描かれていた題材だ。「超能力との対峙」も、むしろ当時は使い古されたと言えるぐらいの主題である。それぞれの試みはアニメ分野としては斬新であったが、SF分野としては前衛的であったとは言えない。
 だが何よりも、本作は技巧的要素について"オーパーツ"と言えるほどの圧倒的な前衛性を発揮している。この点は誰もが否定をし得ない所だ。「倒壊するビルの破片をつなぎ合わせるとビルが元に戻るぐらいの精緻なデッサン」「映画的なカメラワークを意図した構図の工夫」「近未来世界の気配を増幅させる民族音楽手法」「プレレコ(先に音声を録音して、その音声に基づいて映像を作る方法)に合わせた人の表情の描き込み」など、アニメ製作の技巧水準を何段階も引き上げる驚愕の取り組みが行われている。色彩に関する技巧についても「作画に用いた色彩設定327色のうち50種を本作のために新たに開発した」という徹底ぶりだ。
 この色彩設定について、大友監督は「遊園地のように、遠くで見るとカラフルで、近くで見るとくすんでいる」という状態を目指すよう現場に指示をしたのだという。これもまた非常に興味深い技巧だ。というのは、平坦な場所にいる人間の目を通して見る世界は、基本的にはこれと逆だからだ。
 例えばある人物が遠くの山を見る場合、大気とそこに含まれる水蒸気の関係で光の粒子が乱れるので、山全体はぼんやりと輪郭のない青っぽい景色になる。山に近づくにつれて光の乱れが少なくなるので、今度は山の色や輪郭がはっきりと見えるようになる。よって、物理的には「遠くで見るとくすんでいて、近くで見るとカラフルだ」というのが、普通の色彩感覚なのだ。
 美術を学んでいる者は「空気遠近法」としてこの技巧を知っているだろう。これは色を用いて遠近感や奥行きを表現する技巧であり、近いものほど濃くはっきりとしていて、遠いものほど薄くぼんやりとしている状態を再現する。この空気遠近法を意図的に用いた代表的な古典画家はレオナルド・ダ・ヴィンチ。例えば彼の代表作である『モナリザ』はモナリザがくっきりと濃く、後ろの森がぼんやりと薄くなるように、その色彩や色調が意図的に調整されている。
 だが、遠近を用いる必要がないぐらい密集した世界を再現する際は──つまり、SFで表現される超科学的で密集状態の近未来都市を再現する際は、確かに大友監督の理論が正しいという事になる。ある者が上海の外灘の散歩道からタケノコのように天空へ延びる浦東の近未来地区を見るとすれば、そこには躍動的で鮮烈な色彩と色調が広がっていると感じるだろう。ところが、実際に浦東地区に足を運んでみると、どのビルも道もどことなく制止的で鈍重な色彩と色調だと感じる。
 私の三元論は、空間に存在する事物の形状を媒体上に再現する為に必要な究極的な三要素を「大小」「動静」「遠近」に集約している。そこで色彩について考えてみると、基本的には「大きなもの」「動くもの」「遠くのもの」ほど色を薄くぼんやりと、「小さなもの」「静かなもの」「近くのもの」ほど色を薄く濃くはっきりと表現するべきではないかと考える。今回の大友監督の事例のように再現をしたい世界の性質によっては、むしろそれを全て逆転させた方が効果的に機能する事もあるかもしれないが、それは例外だ。
 「国家的な政策」の形状もまたこの原理に通じる所がある。「大規模で」「革新的で」「国際的なもの」ほど薄く取り扱い(優先順位を下げ)、「小規模で」「保守的で」「国内的なもの」ほど薄く取り扱う(優先順を上げる)べきである。もし、約1300兆の借金を抱えている国が、民が必要とする政策を後回しにし、民に実利と将来性をもたらさない花火のような政策を優先するとしたら、その絵画はあまりに醜いものになるに違いない。

 

"中止だ中止!"

 

※画像:DALL-E
※補足:「中止だ中止」という言葉は、本作『Akira』の映像内に登場する壁の落書き。東京オリンピックの競技会場建設現場付近の壁に「東京オリンピック開催迄あと147日」という看板が掲げられており、その壁に白地のスプレーで「中止だ中止」という殴り書きがなされている。「国内の生活・文化・経済が完全に破綻しているのに東京オリンピックを強行しようとする政府に対して、民が憤怒している」という関係性を示す描写である。
※補足:本記事では今の日本にオリンピックと万博といった強引な国際行事が必要ないという論考を行ったが、オリンピックと万博そのものが国際平和と文化興隆にもたらす効果は非常に大きいという点は強調しておきたい。毎年同じ国で開催するか、あるいは"参勤交代"のように国力の均衡を図ってGDPランキング上位3カ国の輪番で行ったら良い。現時点のGDPランキングはアメリカ、中国、ドイツなので、彼らが順番にオリンピックと万博を開催すれば良いのだ。そのGDPランキングに基づく輪番制が実現されるのなら、日本は助かった。ちょうど先日、4位に転落したばかりだ。