天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex09】理发师陶德(スウィーニー・トッド)

理髪師陶徳

 ※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報はImdb及び米国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:『水滸伝』に登場する英傑の夫婦、「張青(ちょうせい/zhāng qīng)」と「孫二娘(そんじじょう/sūn èr niáng)」を掘り下げるに当たり、本作を先に取り上げる。

 

<概要>

映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師(原題:Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street)』は2008年に公開されたティム・バートン監督によるミュージカル映画。主演はジョニー・デップが演じるスウィーニー・トッドで、彼は復讐に燃える理髪師の役を担っている。物語はスウィーニー・トッドがロンドンに戻り、理髪店を再開する場面から幕を開ける。彼はかつての無実の罪で投獄された過去を持ち、彼を陥れた判事ターピン(俳優アラン・リックマン:今は亡き『ハリー・ポッター』シリーズのスネイプ教授役で有名)の復讐を決意していた。そのターピンはトッドの妻を奪い取り、彼の人生を破壊した張本人である。トッドは、パン屋を営むミセス・ラヴェット(女優ヘレナ・ボナム=カーター:バートン監督の元パートナーで『ハリー・ポッター』シリーズのベアトリクス役で有名)と手を組み、復讐計画を実行する。トッドの理髪店で殺害された被害者たちの遺体は、ミセス・ラヴェットの肉パイの具材として使われ、店が繁盛していく。しかし、トッドの復讐心がエスカレートし、やがて彼の行動は制御不能に陥っていく。

 

※この殺人鬼トッドは18世紀に実在した複数の英国の凶悪犯を融合して作ったのではないかという説もあるようだが、基本的には小説から生まれた完全な架空の人物だとされている。

 

<製作>

この映画は英国の原作小説ではなく、スティーブン・ソンドハイム作曲の同名ミュージカルをベースとして製作された。バートン監督でお馴染みのコミカルながらダークなビジュアルスタイルと、物語を区切らないシームレスなミュージカル劇が巧みに組み合わさってる。カニバリズム(食人文化)という現代の倫理観が激しく禁忌として取り扱う要素が含まれているが、ホラーやサスペンス要素が重た過ぎずに機能しており、どことなくコミカルでさえある。ジョニー・デップはこの役でゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞。その独特な世界観と音楽が多くの観客に支持され、批評家からも高く評価された。大手映画レビューサイトのRotten tomatoでは86%の高評価帯を記録している。

 

※豆知識:この映画に登場する演者の中で、ジョニー・デップは唯一のアメリカ人である。その他の演者は全員がイギリス人。

 

<原型>

スウィーニー・トッドは、1846–1847年に連載されたペニー・ドレッドフル『真珠の首飾り』で初登場した架空のキャラクターだ。物語のプロットは「英国ロンドンのフリート街186番地、セント・ダンスタン教会の隣で理髪師を営むトッドがお客を殺し、その遺体を地下通路を通じて共犯者のミセス・ラヴェットに渡し、彼女がその肉をパイにして店で売り捌く」というものである。このプロットは適度に毒々しく狂気的であると同時にメロドラマも上手に絡み合う上質な娯楽性を有していた為、大きな人気を博して派生作品が次々に登場していった。

 

※画像:Google Earthより引用(現在のセント・ダンスタン教会とフリート街186番地)

 

<明確な目的意識>

トッドとミセス・ラヴェットが続けた殺人行為そのものはどう考えても規範(やって良い事・やってはいけない事の境界線を定義する国家運営の3本の柱のひとつ)に反する凶悪犯罪であるが、良識(知って伝えるべき事・忘れて伝えてはいけない事の境界線〜)と美徳(人間関係の中で取るべき態度・取ってはならない態度の境界線〜)には理解を示せる点がある。その構造が、彼らにアンチヒーローの要素を与えていると考えられる。そこで描かれた良識と美徳とは、次のような内容であると考えられる。

 

### 「天や法が悪魔を裁かないのであれば、自分が裁くべきだ」

映画版のトッドの主要な動機は復讐だ。彼はかつてベンジャミン・バーカーという名前の理髪師であったが、無実の罪で投獄され、妻ルーシーを判事ターピンに奪われている。彼が服役後にロンドンに戻ったとき、ターピンに対する復讐心が彼の行動の原動力となる。彼はこの悪事を決して忘れてはならない(良識)、そして悪事を働いた人間を決して見過ごしてはならない(美徳)と考えて、殺人は社会の法により裁かれる(規範)を乗り越える決意をする。その結果、彼はミセス・ラヴェットと共謀して殺害を続けるが、彼の殺害対象はターピン判事の取り巻きで、同じように大小の悪事を行なっている者であり、罪のない一般人では無い。

 

端的に言えば、彼には彼なりの「殺害を犯す明確な目的・意義・根拠」があるのだ。そこには『罪と罰』の主人公ロージャが体現した超人理論(神が死んで虫ケラのような人間が堂々と世間に蔓延るようになった時代には、強い意志の力を持った善良な人が神の代わりに裁きを下す事が許されるという考え方)や、『水滸伝』の梁山泊勢力の原動力となる「替天行道(天の代わりに悪を正すという考え方)」との共通項が見受けられる。一方、『八仙飯店之人肉饅頭(1993)』は実話を基にした香港のホラー映画で、殺人・人肉販売というプロットは本作と同じであるが、犯人たちが目的を持たない猟奇的かつ利己的な殺人鬼であるという点で完全に印象が異なってくる。残念なのは、『水滸伝』に登場する張青(ちょうせい/zhāng qīng)と孫二娘(そんじじょう/sūn èr niáng)が、状況だけ見れば、後者の猟奇的かつ利己的な殺人鬼に過ぎない描かれ方がなされているという事だ。

 

<天と地はどちらも腐る>

宋王朝時代や現代日本のように、「物質と技術に恵まれるも教育と文化が堕落した社会」では「良識と美徳を失い、規範の遵守に没頭する利己的な虫ケラ人間」が登場しやすい。この規範というのは国家の法だけではなく、自らの欲望も意味している。現代風に言えば「ハラスメント体質で常に周囲の者に心身の危害を与える、思いやりも教養もない自己中心的な人間」だ。この精神病のパンデミックは天(統治者・体制側)だけに起こる訳ではなく、地(大衆・被体制側)にも蔓延する。そうした虫ケラ人間と常に接していると、「本当にこいつらは饅頭の肉にでもなった方がよっぽど世間の為になるのではないか」という考えが頭に浮かんでくる。もちろんそれは妄想の中でのみ発生する考えであり、ロージャやトッドのように実行はしない。彼らは小説の中でそれを実行し、現代人が抱える鬱憤を浄化してくれる。ドストエフスキーは至高の論理学を有する文豪としてロージャを単純なアンチヒーローとしては描かず、罪に呼応する罰の描写を徹底的に構築した。一方、『水滸伝』の場合は娯楽作品としてそこまで複雑で高度な精神的構造は必要ないと考えられ、張青(ちょうせと孫二娘にはトッド方式の適度な良識と美徳を与えれば良いと考えられる。

 

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Sweeney Todd: They all deserve to die. Tell you why, Mrs. Lovett, tell you why! Because in all of the whole human race, Mrs. Lovett, there are two kinds of men and only two. There's the one staying put in his proper place and one with his foot in the other one's face. Look at me, Mrs Lovett! Look at you! No, we all deserve to die... Even you, Mrs Lovett, even I! Because the lives of the wicked should be made brief. For the rest of us death will be a relief. We all deserve to die... And I'll never see Johanna, no I'll never hug my girl to me... FINISHED!

 

(彼らは皆死ぬべきだ。理由を教えてやる、ミセス・ラヴェット!理由を教えてやる!なぜなら、この世の人間は二種類しかいないからだ、ミセス・ラヴェット!自分の場所に留まる者と、他人の顔を踏みつける者の二種類だ。私を見て、ミセス・ラヴェット!あなたを見て!私たちは皆死ぬべきだ…あなたも、ミセス・ラヴェット、私も!なぜなら、邪悪な者たちの命は短くあるべきだからだ!他の我々にとっては、死は救いとなる。私たちは皆死ぬべきだ… そして私はもうジョアンナに会うことはない!いや、もう娘を抱きしめることはない… すべて終わりなんだよ!)

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※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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