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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex013】施耐庵(作者)

施耐庵(作者)

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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施耐庵(したいあん/shī nài ān)

 

<幕開け>

「清流が囲み、荻港がさざめき、砂鳥が低く飛び、漁舟が緩やかに歌い、葦が茂る地。ここはまさに水滸伝の雰囲気の世界に満ちており、訪れる人々はまるで梁山泊に辿り着いたかのような気分になる。」——これは上海にほど近い江蘇省塩城市大豊にある「施耐庵記念館」の景観について語った文章である。当地はかつて花家垛(かけあづち/huā jiā duǒ)とも呼ばれた。ここは文人施耐庵(したいあん/shī nài ān)が小説『水滸伝』の執筆をした場所だと言われている。

 

施耐庵(約1296年 - 約1370年)、本名は施耳(しじ/shī ěr)、字は肇瑞、号は子安。「耐庵」は別号、いわゆる筆名。出身は先の江蘇省興化(現在の塩城市大豊白驹鎮)。本籍は蘇州で、後に淮安に移住。あるいは本籍は淮安で、杭州に住み、後に淮安に帰郷したという説もある。元王朝の末期から明王朝の初期に活躍した文学者である。幼い頃から聡明で勉学に励み、元王朝時代の延祐元年(1314年)に秀才、泰定元年(1324年)に挙人、至順二年(1331年)に進士となった。

 

<秀才、挙人、進士>

科挙制度(中華世界で約1300年間にわたって続けられた官僚登用試験制度)は隋唐時代に始まり、明清時代に完全に整備された。明王朝時代の科挙制度には段階があった。現代社会に強引に当てはめるとすれば、大学合格者=童生、大学院合格者(修士)=秀才、大学院合格者(博士)=挙人、国家公務員試験合格者=進士といった具合に進んでいく必要があった。進士の倍率は3000倍に至る事もあり、それどころか秀才に進むのにも相当に豊かな生活環境と知的才能が必要であった。

 

(※ちなみに、私は学生時代に歴史教師から「中国の科挙制度を受ける為には男子が去勢する必要があった」「それは後宮にいる妃たちを妊娠させない為であった」「試験会場には取り除いた睾丸を入れた入れ物を試験票として監督に差し出す必要があった」と教わった。私の通っていた学校はそれなりに知名度のある進学校だったのだが、あまりに許し難い無知蒙昧な教育水準ではないか。科挙という試験に臨む人々は現代人同様に一般の人間であり、当然ながら去勢をする理由は何一つ無い。一方、宦官[かんがん/huàn guān]は、皇帝の妃たちが住まう後宮で身の回りの世話をする男性の使用人であり、そちらは妃たちと内通しない為に去勢手術が施された。例えば、『水滸伝』の奸臣である童貫[どうかん/tóng guàn]は、その宦官という身分から軍人に転身して出世した人物だ。まったく、あの教師の頭には脳ではなく睾丸でも詰まっていたのか。情けなし。)

 

「童生」になる為には、「県試」「府試」という二つの試験を突破する必要があった。県試は一つの県で行われ、一般的に県知事が主催し、教育部門が監督する。もしカンニングや賄賂などの不正が発覚した場合、連座制(連帯責任性)が適用され、その試験における受験者全員が失格処分を受ける事もあった。県試の次は府試となり、これは県試に合格した受験者のみが参加できる。府試は一般的に知府(市長)が主催した。この合格者が「童生」という肩書きを獲得したが、この時点ではまだ一諸生に過ぎない。

 

続けて勉学に励んだ者が「院試」に進む。院試は一般的に各府や州の学院で行われ、合格すれば「秀才」と呼ばれるようになる。「秀才」は国家の文人(学者、公務員)としての社会的な肩書きを得ると共に、一定の社会保障(衣食の保証、税金の免除、官吏に対する礼の省略等)を受ける事が出来た。この「秀才」の段階で平民から脱して「士」という階級に進んだと判断される。人脈があれば、県庁で師範などの上位職を得る事も可能であった。仮に人脈がなくても教師として働く事が出来たので、やる気さえあれば十分な生計を立てる事が出来た。(おそらく『水滸伝』の軍師として存在感を示した呉用[ごよう/wú yòng]はこの「秀才」に該当する。)

 

「院試」の次は「郷試」に進む。郷試は三年に一度行われ、今日の公務員試験の地方試験に相当する。この試験官は地方官ではなく、皇帝が直接任命する。この「郷試」に合格すると、「秀才」から「挙人」に肩書きが変わる。合格者は全国で1000人程度。この「挙人」になると、本格的な官職に就く資格が得られる。やはりここでも人脈が物を言う事が多く、宮廷に知人がいれば、直接県令に大抜擢される事もあった。一般的には県丞や主簿といった役職に就けた。人脈や運が悪くても、県の教育部長や同等の役職を得られた。この「挙人」まで上り詰めればエリート官僚の一員として一定の権力を振るえたし、ある程度の豊かな社会保障も得る事が出来たのだ。

 

「郷試」の次は「会試」に進む。試験官は皇帝が任命する高官であり、大学士や尚書といった最たる学者らが担当する。挙人がこれに合格すると、翌年に都の京城で行われる会試に参加する事が出来る。ここには1000人以上の挙人が集結し、最終的に200〜300人が合格する。彼らは「貢士」と呼ばれるが、この時点では特別な社会的階級は得られていない。「貢士」はいよいよ最終試験となる「殿試に参加する権利を得た人物」を意味する。

 

この「殿試」は皇帝が直接主催し、文武百官が監督する。「殿試」は合格の是非は問われない。ここでは順位が決定する。また、この試験を終えた段階で「貢士」の全員が「進士」となる。順位の上位三名はそれぞれ一甲進士と呼ばれ、別名として「状元」「榜眼」「探花」とも評される。彼らは特に朝廷で重宝される人財となる。その後、四位から数十位は二甲進士、数十位から数百位は三甲進士と評される。

 

一甲の前三名は直接「翰林院(かんりんいん/hàn lín yuàn:詔書の起草を主な担務として国政に大きな影響を与える皇帝直属の官僚機関)」に入る事が出来る。二甲、三甲の進士は再考により優秀者のみが翰林院に入る事が出来る。翰林院に残れなかった進士であっても、最低でも県令に外派された。

 

時代にもよるが、70〜80歳でも童生として生涯をまっとうする者もいたぐらいなので、この段階的な科挙制度がいかに高い壁を有していたかがよく分かる。一方の施耐庵は36歳にして進士まで到達しているので、超絶的なエリート官僚であると解釈出来る。普通であれば、ここまでの出世をすれば社会的な地位としては憂いはない。だが、彼は自分の高い地位に胡座をかかなかった。

 

<義侠の人>

施耐庵は銭塘県の尹(長官)を務めたが、腐敗した役人たちが引き起こしていた貧しい人々の冤罪事件に義憤を覚え、これを正そうと訴えを起こす。これが原因で県官と激しく衝突した。(これはまさに『水滸伝』で描かれる物語展開のひとつである。)この騒動が大きなものとなり、最終的に彼は官職を辞して帰郷した。こうして、彼のエリート官僚の生活は3年で終幕したのだった。

 

その後の彼の経緯を記す文献が限られているので真偽が定かではない部分があるが、僅かな記録や民間の伝承等によれば、彼はしばらく張士誠(ちょうしせい/zhāng shì chéng)の軍師として活躍したようだ。この張士誠(ちょうしせい/zhāng shì chéng)という人物は、腐敗した元王朝に対抗する農民の起義軍を指揮した人物。もともと施耐庵は同郷人として彼を知っていたようだ。張士誠が元王朝に対して挙兵し、平江(蘇州)で呉王を称した際、施耐庵は反乱軍に対して知的な側面から多大な貢献を果たしたという。

 

だが、ミイラ取りがミイラに。張士誠(ちょうしせい/zhāng shì chéng)は蘇州を掌握するや否や、贅沢にふけって忠言を受け入れなくなった。施耐庵はこれに激しく失望し、親しくしていた魯渊、劉亮、陳基らと共に反乱軍から離脱した。施耐庵が魯渊と劉亮に別れを告げる際、『新水令秋江送別』という曲を作った。この詩には彼の複雑な感情が記されていた。

 

その後、張士誠が死亡し、更に元王朝が滅ぶと、施耐庵は隠士(理念を持った世捨て人:体制側から離脱して、卓越した才能と知識を有し、思想・創作・研究の自由を追求する隠居者)として各地の放浪旅に繰り出した。彼は山東や河南などを訪れ、山東郓城の教諭である劉善本と親しくなった。そして、江陰の徐氏家に住み込み、その塾師となった。それからしばらくしてから故郷の白驹に戻り、明王朝による反乱軍残党の捜索網に掛からないよう気を配りながら、本格的な隠居生活に入った。

 

ここから、いよいよ彼は『水滸伝』を執筆開始。また、彼は弟子の羅貫中(らかんちゅう/luó guàn zhōng)と共に『三国志演義』や『三遂平妖伝』などの説話も執筆した。彼の詩や曲も巧みで、残された作品は少ないものの、『秋江送別』の他に顧逖への詩や劉亮に贈った詩が伝わっている。『水滸伝』完成後(※)、明の洪武三年(1370年)、施耐庵は淮安で病死した。享年75歳であった。

 

※説によっては、『水滸伝』は彼の存命中には完成せず、弟子の羅貫中(らかんちゅう/luó guàn zhōng)が最終的に完成に導いたとする考えもある。

 

<種から実へ>

彼が反乱軍に貢献していた頃、将軍の卞元亨(べんげんりょう/biàn yuán hēng)と非常に親しかったと言われている。この友人と腐敗した社会や今後の展望について真剣に話し合っている間に、彼の頭の中で創作の種が生まれていったように感じられる。そして、反乱軍の指導者、張士誠(ちょうしせい/zhāng shì chéng)が自ら破滅していった様子を目の当たりにして、そこから離脱した時、この苦く悩ましい実体験を創作世界の中で表現しようと決心したのだ。『水滸伝』は時代を4世紀ほど遡り、北宋時代の腐敗した封建社会を舞台として、英傑たちによる反乱の発生、発展、そして失敗の全過程を描いた。封建支配階級の残虐さと腐敗、起義軍の団結と成功、そしてその限界、それらの様相は紛れもなく施耐庵が実際に見聞きした光景が反映されているように感じられる。

 

※画像:DALL-E

※補足:文献に基づく考察によっては、施耐庵が進士になった年代に矛盾が生じるらしい。窦応元は、施耐庵が進士となったのは元王朝科挙試験ではなく、張士誠による封爵(王が諸侯に領地と官爵を授ける行為)によるものでだったと考えている。元の至正14年(1354年)、張士誠が高郵で政権を樹立した際、大周という国号を掲げ、才能のある読書人を進士に封じている。この中に施耐庵が含まれていた可能性があるそうだ。

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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