天朗気清、画戲鑑賞

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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 043】孟康

孟康

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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孟康(もうこう/mèng kāng)

 

<三元論に基づく個性判定>

7番 **とても強い生存欲求**、**強い知的欲求**、**弱い存在欲求** - **「実用的発明家」** - 実生活に役立つ発明を行い、自分の知識を実際の問題解決に役立てることに興味がある。

 

<概要>

孟康(もうこう/mèng kāng)、あだ名は「玉幡竿」。あだ名の「玉」は白さ、「幡竿」は高さを意味する。つまり、肌白で高身長の人物であった。真定州の出身で、元は船大工。花石綱(皇帝の徽宗による国内外の奇岩や植物を収集する輸送事業)に用いる大船の建造を監督していており、規模を問わずに「造船と言えば孟康」と言える程に腕の良い技術者であったが、提調官(現場監督の役人)から虐げられて激昂。激しい問答の末に提調官を殺害してしまった事から逃走し、家を離れて江湖の方面へ流浪した後、飲馬川で"火眼狻猊"の鄧飛(とうひ/dèng fēi)、"鉄面孔目"の裴宣(はいせん/péi xuān)と共に山賊稼業を始めた。その後、戴宗(たいそう/dài zōng)に招かれて飲馬川の三名が梁山泊勢力に合流。百八人の英傑たちが集結した際には序列第70位に定まり、「大小軍船製造工作管理」に任じられた。招安後は造船管理を担いながら、水軍の頭領と共に歩兵として最前線で戦い抜いた。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において、烏龍嶺で敵軍の集中火砲によって殉死。この戦いでは70名もの英傑たちが殉死するのだが、熱兵器(火薬を用いた武器:物語の北宋時代は冷兵器による戦闘が主流)の犠牲となったのは彼のみ。戦後、朝廷から義節郎として追封された。

 

<「幡竿」の補足>

あだ名の「幡竿(はんかん/fān gān)」とは「長竿に垂れ下がる旗」を示し、古くは軍隊の主帥の大帳や寺院の前に掲げられた。宋の孔平仲の『珩璜新論』には、成德軍の衙署堂前に幡竿が掲げられていたと記されている。元の周伯琦の『近光集』には、上京西山に高さ数十丈の鉄幡竿が立てられていたとある。また元雑劇の『朱砂担』第三折には「鉄幡竿」というあだ名が登場しており、これが孟康(もうこう/mèng kāng)のあだ名のモチーフになったと考えられる。

 

<作戦会議に何度も名が上がるであろう人物>

原作における孟康(もうこう/mèng kāng)の登場回数はとても少ない。とは言え、「造船の孟康(もうこう/mèng kāng)」という印象はとても大きい。しかも高俅(こうきゅう/Gāo Qiú)が率いる朝廷の征伐軍の衝突では水軍頭領として陣頭指揮を取り3度の防衛戦に勝利したり、続く北征南戦の戦闘では長槍の歩兵として貢献したりと、水陸両用の武人として広く活躍をしているので、その戦力としての存在感が際立っている。実際の活躍場面を描かなくても作戦会議の時点で彼の名前をばんばん登場させる事が出来るので、その方針で改修をすれば効果的に人物の説得力を高められるだろう。

 

<原作者は『戒庵老人漫筆』を読んでいたのかも>

孟康(もうこう/mèng kāng)は宋元の史料や『大宋宣和遺事』、『宋江三十六人贊』、元雑劇の水滸戯などの早期の水滸物語には登場しない。よって、明王朝時代に制作された小説『水滸伝』の創作キャラクターであると考えられる。なお、姓に「孟」を用いた理由として、『戒庵老人漫筆』に書かれている「梁簡文云:船神名冯耳,又呼孟公、孟姥。(梁簡文はこう言っている:「船の神は冯耳という名で、また孟公、孟姥とも呼ばれているのだ。)」という文面から着想を得たとする説がある。この『戒庵老人漫筆』は李詡によって描かれた、全八巻の時事・文化の特集書籍。宋元人や明代の人物の言論や行動、詩文や書簡が保存されている他、明代の社会のゴシップなども盛り込まれている。当時の状況を知る上で欠かせない重要な資料であり、「龍生九子(龍から様々な動物たちが生まれていったという中国神話)」を真っ先に取り上げた文献のひとつでもある。飲馬川の山賊連のうち、前回の記事で取り上げた鄧飛(とうひ/dèng fēi)は"火眼狻猊"というあだ名を持ち、その狻猊(さいげい)という伝説上の獅子はまさに「龍生九子」に由来する存在。そう考えると、『水滸伝』の作者と考えられている施耐庵(したいあん/shī nài ān)は飲馬川の逸話を考えている時、ちょうどこの書籍に目を通していたのかもしれない。

※画像:百度百科「龙生九子」より引用(遺伝の法則性が実証研究によって明らかになったのは1865年[メンデルの法則]である。しかし、思考実験的な側面から鑑みると、上述の「龍生九子」はまさに遺伝的概念が反映されている。古代から東西を問わず、遺伝的概念を反映した神話や伝承がある。)

 

<水滸要塞の構造>

孟康(もうこう/mèng kāng)が勢力の拠点である梁山の防衛戦に大きく貢献できた理由は、ここが「水滸(水に囲まれた要塞)」であったからだ。物語の中において、梁山は「四方が水に囲まれた線対照的な孤島」のように描かれている。(これは山東省にある梁山の地形と異なり、もともとは一方が周囲の陸地と接していたらしく現在は黄河の度重なる氾濫と泥の堆積によってほとんどが陸地となっている。)

 

水滸伝』の梁山はとにかく「守りやすく攻めにくい」地形だ。楕円形の梁山が周囲の水泊に囲まれ、南方は唯一緩やかであるが、他の三方向は軒並み険しい。また、書中では水域の面積が大きく、北宋の巨船も航行できるほどの広さである事が示されている。よって、この梁山泊に攻め込む際には必ず水路を進まねばならず、そこに孟康(もうこう/mèng kāng)が率いる水軍に大きな利があるという事になる。

 

梁山の山頂にあるのが、英傑たちが集結する本部の「忠義堂」。これは山頂の中央に位置している。その「忠義堂」のすぐ背後には東西にそれぞれ「東辺房」と「西辺房」が二列に建っている。梁山の各頭領と親衛隊は基本的にそれぞれの駐屯地に常住している。これが北宋の都となると、武人たちは昼間に出勤し、夜に小区に帰って休むような生活スタイルとなるが、彼らは24時間、自分の持ち場を守りながら暮らしている事になる。東西辺房の外側には、「左一帯房」と「右一帯房」という南北に広がる居住区があり、これが東西辺房を包んでいる。この五つの建物が、核心区域である山頂を構成している。

 

この核心区域の背後の北側には「後勤保障区」があり、倉庫、食堂、酒蔵、印章工場、裁縫工場、屠殺場などが設置されている。他方には「兵営」がある。この山前の斜面に配置されているのは馬軍、歩軍と兵営。梁山泊軍のもうひとつの戦力、水軍については以下の山寨(砦)それぞれに配置されている。

 

山を降りると、四つの主要な山寨(砦)がある。地形の関係で南麓以外の三方向は規模の限られた関所が設けられている。(この場所から梁山に入り込む者はほとんどいないと考えられる。)砦として重要な意味を持つのは緩やかな南麓であり、ここが梁山の正門(玄関口)として機能する。南山酒店から出発し、水泊を越えて金沙灘に上陸し、正南の関所を通過すると、断金亭に到達する。この断金亭は林冲(りんちゅう/lín chōng)が元梁山泊頭領の王倫(おうりん/wáng lún)を殺害した場所であり、決起集会としての酒宴が開かれたり、朝廷から来たの招安役人を迎え入れたりと、英傑たちの逸話が豊富な場所である。この断金亭から更に進むと、三つの関所がある。それを越えれば、ようやく先の山頂の核心区域へと入れる。

 

その他の居住区や農地などがどこにあるのかは明確に描かれていないが、おそらく上述の主要施設の間に点在するように配置されていたと思われる。これは古代ギリシャにおける「丘の上の神殿」を中心とした都市設計を彷彿とさせる。ちなみに、古代ギリシャの代表的なポリス(街)であるアテナイの面積は約2650km2、人口は最盛期で3万人程度であったと言われている。諸説あるが、『水滸伝』の梁山は、水泊(湖)を含めて面接が約9000km2、人口は雑兵や一般人を合わせて5〜7万人程度がいたと推測されている。

 

<所感>

梁山泊勢力に欠かす事の出来ない専門技術者として、農民出身、土木専門家の陶宗旺(とうそうおう/táo zōng wàng)は既に記事として取り上げた。この孟康(もうこう/mèng kāng)はその技術者の二人目であり、造船と水軍軍師の才覚を有する。人物設定としては十分な際立つ要素を誇っており、大きく改修が必要な存在ではないだろう。ただ、少し気になるのが「どうして作者は"水の人"を火で殺したのか」という点になる。先述の通り、火器によって殉死した英傑は彼のみ。戦争とは言え、彼が水を通じて多くの人々を殺傷したのは事実であるから、その罪に対する禊としての結末であったのかもしれない。この話題は以前の記事でも触れたような気もするが、施耐庵(したいあん/shī nài ān)が多くの英傑たちに悲劇の結末をもたらしているのは、こうした罪と罰の関係にあるかもしれないと私は考えている。自由な気風が強く、娯楽物語が盛んに作られた明王朝時代であるとは言え、やはり『罪と罰』のロージャ形式(神を超える者は罪のある人々を殺しても罪にはならずに称賛される)の英傑たちにハッピーエンドをもたらす事は反逆的な創作であるとみなされなかった。施耐庵(したいあん/shī nài ān)はその政治的な懸念を回避する為に、罪と罰の結末を用意したのではないだろうか。宋江(そうこう/sòng jiāng)が方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において殉死した英傑たちを偲ぶ場面において、「我々は多くの人を救ったかもしれないが、それと同時に多くの人を滅ぼしたのだ」といった具合に、この罪と罰の観念に触れる描写を入れるべきかもしれない。

 

<三元論に基づく特殊技能>

#### 造船の極(心術)

**説明**: 孟康は、造船に関わる作業を最大限まで効率化する工程を脳内で構築できる能力「造船の極」を持っている。この心術は、彼の卓越した知識と技術に基づき、造船作業を迅速かつ正確に進める力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(中程度)**: この心術は、造船に必要な材料や道具に依存するが、その使用方法は孟康の精神的な力と設計能力に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 造船作業を効率化するためには、高い知識と技術、そして創造力が必要。

  - **関係性(中程度)**: 孟康の心術は、造船作業を通じて仲間たちと協力し、プロジェクトの成功を支援する。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **効率的な造船**: 孟康は、造船プロジェクトにおいて、最も効率的な工程を瞬時に構築し、作業を迅速かつ正確に進める。
  2. **資源の最適利用**: 孟康の心術は、材料や道具を最適に利用し、無駄を省いて高品質の船を作り上げる。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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