天朗気清、画戲鑑賞

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【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 048】鄭天寿

鄭天寿

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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鄭天寿(ていてんじゅ/zhèng tiān shòu)

 

<三元論に基づく個性判定>

54番 **とても弱い生存欲求**、**強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「バランスの取れた学者」** - 知識と実践のバランスを取りながら、幅広い活動を行う。

 

<概要>

以前の記事で、清風山の山賊勢力を率いていた二人の頭領、燕順(えんじゅん/yàn shùn)と王英(おうえい/wáng yīng)を取り上げた。この勢力にはもう一人の頭領がいた。それが、この鄭天寿(ていてんじゅ/zhèng tiān shòu)である。あだ名は「白面郎君」。これは白くて端正な顔立ちを意味している。どうやら鄭天寿(ていてんじゅ/zhèng tiān shòu)は董平(とうへい/dǒng píng)や柴進(さいしん/chái jìn)らのように、梁山泊を代表する"イケメン"らしい。蘇州出身で、もともとは銀細工の職人。"九紋龍"の刺青でお馴染みの史進(ししん/shǐ jìn)同様、仕事よりも武術の修行に耽る人物であったらしく、放浪した末に清風山に落草した。その武術の腕前は確かなものであり、義理堅い気質にも定評があったが、少々繊細で神経質な一面もあったようだ。百八人の英傑たちが集結した大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際には序列74位に定まり、「歩兵将校」に任じられた。その後も戦闘の最前線で戦い、最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において、宣州で殉死。戦後、朝廷は彼を義節郎に追封した。

 

(※原作の容姿には「三つの牙に見える髭を持つ」と書かれており、鼻の下の髭と顎髭について、それぞれ鋭く短いものがあったと考えられる。上に掲載した彼の肖像像は"イケメン"のイメージを優先して生成し、現代風に髭は除去させて頂いた。2011年製作の中国大河ドラマ水滸伝』においても、彼は髭の無い美男子として描かれていた。)

 

<惜しくも活かされなかった"銀細工職人">

水滸伝』の舞台である宋王朝は、それまで隋・唐の時代に貯めていた文化発展の種が一気に開花した時代であると言える。科学技術の進化、経済の拡大、創造性の柔軟化などが相まって、かなり現代に近い感覚で高度な文化を味わう事が出来た。それまで軽視されていた技術職についても分野によっては脚光を浴びる事があり、鄭天寿(ていてんじゅ/zhèng tiān shòu)が生業としていた銀細工の工匠(職人)も世間から重宝される人材であった。

 

北宋時代、銀細工の工芸品が何に用いられるかというと、まずは「建築」の分野である。例えば、北宋の著名な建築家である李誡は、開封府廨や太廟、欽慈太后仏寺など大規模な建築を指揮した人物だ。彼が編纂した『営造法式』は建築科学技術の百科事典であり、内容が非常に豊富で貴重な建築図面も含まれおり建築学的な価値が非常に高い。この中には工事図や彩画画稿、部品図や全体図があり、銀細工を含めた美術工芸の高い水準も確認できる。官僚や資産家、将軍などの社会的地位の高い人々は、そうした見事な銀細工を用いた豪壮な邸宅を作る事が多々あった。

 

宋王朝時代の銀細工の職人は日本にも到来している。南宋の孝宗淳熙七年、日本の東大寺が戦火で破壊された事があった。日本の九条兼実の日記『玉葉』によると、日本の寿永元年(1182年)、つまり南宋の淳熙九年に再建が行われたとある。この再建に際し、日本の職人だけでは修復をしきれなかったので、当時日本に滞在していた中国の建築師である陳和卿が依頼を受けて総監督を担当。銀細工の職人を含めた宋人が日本人の職人たちと協力し、東大寺は再建に至ったという。(『東大寺造立供養記』によると「建久七年、中門石獅、堂内石脅士、同四天像、宋人字六郎等四人造之」と記されている。この「六郎」とは、明州の職人である伊行末であり、使用された石材も明州から購入されたものだった。)

 

続けて、銀細工の工芸品は「趣向品」の分野で光を放つ。この分野で有名であった銀細工の職人として、例えば呂正臣という人物がいる。北宋の李昭玘の『楽静集』によると、もともと呂正臣は儒家儒学を研究する学者)であったが、京東路莱芜の鉄器製造(銀細工含む)の職人として非常に有名になった。彼の鉄器製造は京東路の市場を一時独占し、規模の大きな企業として大いに繁盛したらしい。

 

「職人は技だけではなく心と頭も磨くべし」という精神が徹底されていた点も、宋王朝時代の非常に興味深い事象だ。何と、勉学に通じた銀細工の職人が宰相(官僚の最高位で、直接的に皇帝の国政を支援する役職)まで上り詰めたケースもある。その名は李邦彦。『宋史』によると、彼の父の李浦は銀細工師であり、彼も小さな頃から家業を手伝っていた。その一方で、彼は父の勧めで進士(科挙の高等試験に合格した官僚)と交流し、知識や感性を研磨していった。父親は息子に才能があると確信し、全面的な学業への支援を実行。こうして、李邦彦は難関を極める科挙制度を合格していき、最終的に宰相になったのだ。「職人出身の宰相とは恐れ入る!」と他人から嘲笑される事もあったが、李宰相の母親は「宰相の家から銀細工師を出したのなら恥じるべきかもしれないが、銀細工師の家から宰相を出したことは誇るべきだ」と胸を張って言った。こうして銀細工師の李浦は先見の明を持ち、息子を立派な高官に育て上げたのである。

 

水滸伝』では銀細工職人としての鄭天寿(ていてんじゅ/zhèng tiān shòu)の活躍が描かれていないので、そこが残念な点である。清風山の山賊勢力が大いに関わる祝家庄(しゅくかそう/zhù jiā zhuāng)と梁山泊勢力の大衝突の際、何らかの展開を経て銀の工芸品が必要となり、彼がその作戦に貢献したという改修があっても良いように感じられる。その他にも、武器の鋳造や装飾、その後の展開における潜入作戦時の小道具製作など、彼が銀職人として役目を果たせる場面が広くあるように感じられる。

 

※銀細工のみならず、宋王朝時代は、土木工学、航海技術、印刷、火薬、機械、織物、冶金など、あらゆる科学技術文化の深化と進化が見受けられた。

 

<三元論に基づく特殊技能>

#### 銀細工の誉れ(具術)

**説明**: 鄭天寿は、銀を用いた細工において精緻を極めた技巧を発揮する能力「銀細工の誉れ」を持っている。この具術は、彼の卓越した手先の器用さと美的感覚に基づき、銀を使った美しい工芸品を作り上げる力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(とても濃い)**: この具術は、銀とそれを加工するための道具に強く依存する。

  - **思考性(中程度)**: 精緻な細工を行うためには、高い集中力と技術が必要。

  - **関係性(薄い)**: 主に自身の工芸能力に関わるため、直接的な人間関係への影響は少ない。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **銀細工の制作**: 鄭天寿は、銀を用いて精緻な建材や装飾品を制作し、その美しさで周囲を魅了する。
  2. **特別な注文**: 鄭天寿の銀細工の技術は、特別な注文や重要な贈り物を作る際に特に重宝される。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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