天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 037】魏定国

魏定国

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

-------------------------

水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

-------------------------

 

魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)

 

<三元論に基づく個性判定>

38番 **弱い生存欲求**、**強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「均衡型の探求者」** - 知識と実践のバランスを取りながら、幅広い活動を行う。

 

<概要>

朝廷の蔡京(さいけい/cài jīng)が勢力を拡大し続ける梁山泊集団を征伐する為に二人の名武将を征伐軍の統括に立てた。ひとりは前回紹介した水攻め戦略を専門とする「聖水将」こと単廷珪(ぜんていけい/shān tíng guī)、もうひとりはこの火攻め戦略を専門とする「神火将」の魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)である。二人とも元々は凌州の団練使として活動していた人物。二人は「水火二将」という名で知られていた武人であり、梁山泊勢力に帰順していた元将軍の関勝(かんしょう/guān shèng)と知り合いでもあった。蔡京(さいけい/cài jīng)の無策と宋江(そうこう/sòng jiāng)らの作戦が功を奏し、二人は梁山泊勢力に敗れて帰順。百八人の英傑たちが集結した際、魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)は序列第45位に定まり、黄信(こうしん/huáng xìn)、孫立(そんりつ/sūn lì)、宣賛(せんさん/xuān zàn)、郝思文(かくしぶん/hǎo sī wén)、韓滔(かんとう/hán tāo)、彭玘(ほうき/péng qǐ)、単廷珪(ぜんていけい/shān tíng guī)に続く、「騎兵小彪将兼遠距離斥候隊長」の第八員を担った。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において、彼は歙州で殉死。戦後、朝廷から義節郎に追封された。

 

<外見>

魏定国は朱紅の飾りをつけた兜をかぶり、赤い袍をまとい、熟銅の刀を手に持ち、胭脂馬に乗っていた。その旗には「神火将軍魏定国」と書かれていた。

 

<武人にとって馬の品種は重要この上なし>

歩兵はともかく、騎兵にとって馬は命を預ける武器のひとつ。現代人が自動車の性能をあれこれ批評するように、当時の宋人たちも馬のブランドや性能などに非常に敏感だった。魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)が用いていた胭脂馬もひとつのブランドで、盆地型と山地型の二つの異なる生態型が存在し、それぞれ体の構造や外観、適応性に違いがある。盆地型の馬は乗用と挽用の両方に適しており、体質は乾燥していて引き締まっている。山地型の馬は、主にモンゴル馬に似ており、体質は粗く、頭部は直額で幅が広い。この馬種の両タイプとも毛色は栗毛が主で、次いで黒毛が多い。基本的には温順で敏捷な性格で、軽快で安定した動きができ、蹄質が非常に丈夫である事から長距離の移動にも適している。「好马日行三百里(良い馬は一日に三百里を走る)」という格言に属する品種で、その持久力と耐久性に抜群の定評がある。扱いやすくてバリバリ長く動ける。軽自動車のような馬なのだ。

 

<"軍事力最弱"の宋王朝時代における馬不足問題>

中華世界の歴史において、『水滸伝』の舞台となった宋王朝時代は政治・文化・商業の水準が爆発的に高まった時期だ。一方、彼らは異民族の遼国、西夏国から常に軍事的な緊張を強いられていた。学者によっては「宋時代の軍事力は中国の歴史において最弱」と評する者もいる。一方で韓世忠(かんせいちゅう/hán shì zhōng)、梁紅玉(りょうこうぎょく/liáng gōng/hóng yù)、岳飛(がくひ/Yuè Fēi)といった歴史に名を刻む文武と仁義に通じた名武将も大勢にいるので、"最弱の軍事力"という評価は不思議な印象も受ける。実はその理由のひとつが「馬不足問題」。宋王朝の日常風景が細かく描かれている『清明上河図』にはほとんど馬が見当たらない。馬は宋人たちとって貴重品であり、良い馬を手に入れるのは至難の業であったのだ。

 

宋王朝の太祖の時代における記録によれば、華州で80貫の銅銭を使って馬を一匹購入したらしい。以前、"巨人"の索超(さくちょう/suǒ chāo)の記事で紹介した通り、宋の金銭価値は以下の通りであったと考えられる。

 

- 関係:「1貫(1000文)=1両銀」「10両銀=1両金」である。

- 価値:1両金 = 3000人民元(約66000円)、1両銀 = 1贯銅銭 = 300人民元(約6600円)、1文銅銭 = 0.3人民元(約6円)である。

 

すなわち、80貫とは8万文=80両銀=8両金であり、現代の価値に直せば「24000人民元(約53万円)」となる。一般的な兵士に支払う月給の相場が500文(150元=約3000円)程度である事を鑑みると、この馬一頭で約30人の兵士を1カ月雇えるという計算になる。その他、李覚が「国家が購入する軍馬は、一匹あたり少なくとも20貫以上」という指摘もあり、馬の価格が高騰していた様子がよく分かる。

 

仁宗の景禧三年(1036年)のより細かな記録として、「肩高が133〜148cmの馬が朝廷の軍用馬の基準である」「肩高が148cmの大型馬は38,000銭が相場である」という事項が残されている。ただし、実際の市場価格はもっと高かったらしい。康定年間(1041年)、西夏との戦争が始まると朝廷の価格調整の政策が取られ、馬の市場価格は50,000銭から20,000銭にまで引き下げられた。しかし、その20,000銭であっても十分に高価。小腹が空いても3文(約18円)の饅頭を節約の為に我慢しようとする一介の市民には手の出ない高級品であった。

 

国内産の馬だけではまかないきれないので、遼や西夏と高額で取引する事も少なくなかった。国内生産力の向上によって国庫が豊かとなり、金によって何とか解決は出来ていたが、本来であれば国内で安定した馬供給を行いたかった所であろう。(ちなみに、現代中国は軍事的設備に不可欠なCPUを米国に依存する体制と決別し、国内生産に移行した。戦争が勃発して物資の流通が途絶えたとしても、CPUに関して彼らが困る事は無い。)

 

その他、記録を辿ると現代同様、希少価値のある馬を高く売ろうとする商売根性丸出しの逸話も幾つかある。北宋中期の記録において、医者の李が馬を持つ者に価格を尋ねたところ、相手は「150貫だ(=15両金)」と答えたそうだ。熙宁五年(1072年)には、日本から渡来した僧人が開封で2匹の馬を購入した際、それぞれ10貫と9貫であり、税金を含めると20貫だったという記録がある。先ほどの価格よりは良心的であるが、言うまでもなく非常に高い。

 

北宋が遼国によって滅ぼされ、勢力図が一変。宋は南に王朝を立て直し、ここから南宋時代に入る訳だが、この先の馬の価格が更に高騰。绍兴二年(1132年)には、朝廷が広西で購入した馬の価格は「肩高が4尺7寸で45貫、4尺1寸で13貫」であったという。紹興三年には、広西での馬の価格が20貫以上に上昇し、更に銀や絹などの追加報酬も必要だった。紹興五年には、朝廷が毎年200万銭を支出して150匹の馬を購入していたという記録もある。また紹興六年には、湖南の少数民族が20匹の馬を朝廷に献上しているが、その価格は平均して1頭につき100貫だった。

 

水滸伝』では「馬泥棒」が発端となって大規模な武力衝突に発展する逸話がある。上述の社会的背景を鑑みれば、それがどれほど大きな意味を持つ犯罪行為であったのかを確認できる。馬は財産そのもの、また軍事力の指標そのもの。誰かが馬を持っているというだけでも、一般的な宋人は羨望の目を向けたのだ。

 

<原型と評価>

そのような"馬持ち"の魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)は、『水滸伝』の原型となった『大宋宣和遺事』や『宋江三十六人賛』、元雑劇などには登場していない。単廷珪(ぜんていけい/shān tíng guī)と同じく、『水滸伝』におけるオリジナルキャラクターであると考えられる。魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)に「国」が付いているので、日本語の話者として読むとそれが国家であると勘違いしてしまいそうであるが、中国のファーストネームに「国」が用いられるのはそれほど珍しい事ではない。宋王朝時代にはよく「国」が用いられていたようだ。現代の私の周りでも、上海の知人(女性)に「国」が入っている人がいる。

 

<あだ名は看板だけではない>

水攻めの専門家として紹介されている単廷珪(ぜんていけい/shān tíng guī)が原作において一切、水軍関連の戦いに関わっていないという奇妙な現象がある。しかし、火攻めの専門家である魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)の場合は、その名に恥じない戦闘の描写が存在している。火攻戦術の妙技によって敵軍が一掃される場面があるのだ。ただし、実際の宋王朝時代にはまだそれほど火攻めの技術は発達していなかった。『水滸伝』が製作された明王朝時代には「神火箭牌」というロケットランチャーのような火器があり、戦闘でも重宝されていた。これは木板で作られた発射箱に百以上の火箭を収め、発射機構が備わった兵器である。また「飛天神火毒気銃」という火器もあり、近距離では毒火を噴射し、白刃戦では刺殺する事が可能であった。歴史考証の視点ではチグハグの現象となるが、娯楽的な側面から魏定国(ぎていこく/wèi dìng guó)が未来のこれらの武器(またはその原型的な何か)を巧みに用いる描写の改修があっても良さそうである。

 

- 張恨水:「『蜀に大将なし、廖化が先锋となる』という言葉があるように、梁山軍を平定するにあたって単廷珪と魏定国のみを用いた策は下策である。単廷珪は水攻、魏定国は火攻を得意とするが、これらの戦術は天時や地利に左右され、いつでも効果を発揮できるわけではない。関勝は彼らに会うことを願い、自ら小兵を率いて挑んだが、二度の会戦で彼らを降伏させた。蔡京が「このような草寇には大軍は不要」と言ったのは誤りであり、二人に山寨の清掃を任せたのは、まるで豊年を祈るようなものであった。蔡京は才能を知っているがそれを生かせず、逆に梁山に兵を増やすことになった。単廷珪が関勝に「魏定国は勇夫である」と言ったように、彼自身も無謀であり、二人とも天時地利を理解しないまま戦った。もし単廷珪と魏定国で梁山を平定できるなら、それはすでに成し遂げられていたはずである。宋室が梁山を大きくしたのは、このような策略の失敗にある。

 

<三元論に基づく特殊技能>

#### 神火将の極(心術)

**説明**: 魏定国は、火攻戦術の構築に際して比類のない的確な分析能力を発揮する能力「神火将の極」を持っている。この心術は、彼の卓越した分析力と戦術的な知識に基づき、火攻戦において圧倒的な戦術を展開する力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、魏定国の精神的な力と分析能力に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 火攻戦の作戦を効果的に構築するためには、高い分析力と戦術的な思考が必要。

  - **関係性(中程度)**: 魏定国の心術は、火攻戦において仲間たちとの協力を強化し、成功の確率を高める。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **火攻戦の作戦構築**: 魏定国は、火攻戦において敵の動きを正確に分析し、最適な作戦を構築することで、敵を圧倒する。
  2. **戦術的指揮**: 魏定国は、火攻戦において仲間たちを効果的に指揮し、戦局を有利に進める。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

Amazon