天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 049】陳達 

陳達

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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陳達(ちんたつ/chén dá)

 

<三元論に基づく個性判定>

43番 **弱い生存欲求**、**弱い知的欲求**、**弱い存在欲求** - **「穏やかな生存者」** - 穏やかでシンプルな生活を送り、他者との関わりを最小限にする。

 

<概要>

陳達(ちんたつ/chén dá)、彼は鄴城の出身、あだ名は「跳涧虎」。点鋼槍の使い手。この「点鋼槍」は中国古代の十大名槍に数えれる有名な槍であり、その名は「百鍛錬した精鋼であっても一刺しで貫通する」という性能に由来する。特に「突き」の殺傷力が非常に高い事から戦場での効果も高い。その名武器を扱いながらも陳達(ちんたつ/chén dá)と点鋼槍の印象が薄い原因は、盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)、花栄(かえい/huā róng)、李応(りおう/lǐ yìng)といった梁山泊勢力の筆頭格たちが同じ武器を用いているからだ。

 

彼は役人に追われる身となって華州の少華山に行き着き、楊春(ようしゅん/yáng chūn)、朱武(しゅぶ/zhū wǔ)と共に落草。この三名は少華山で五百から七百の小喽啰(部下)を率いる山賊集団を形成。山賊として勢力を拡大している中で財源不足に陥り、朱武(しゅぶ/zhū wǔ)が下山して「人民豊かで、金糧が多い」という華陰県の襲撃計画を提案。しかし、その華陰県の道中にある史家庄を通過した際、この村の長の道楽息子、武芸のみに優れた史進(ししん/shǐ jìn)と衝突。この騒動に端を発し、最終的には史進(ししん/shǐ jìn)もまた少華山の勢力に合流。その後、史進(ししん/shǐ jìn)と知己のある魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)を通じて梁山泊勢力に加わった。百八人の英傑たちが集結した大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際、彼は序列第72位に定まり、「騎兵小彪将兼遠距離斥候隊長」に任じられた。続く梁山泊勢力の南征北戦では仲間と連携して敵将打破や拠点防衛など堅固な働きぶりを示した。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において、昱嶺関で殉死。戦後、朝廷から義節郎に追封された。

 

<原型とメタファー>

彼は『大宋宣和遺事』、『宋江三十六人讃』、元雑劇の水滸劇など、初期の水滸伝の物語や文学には陳達の人物は見当たらないので、『水滸伝』小説のオリジナルキャラクターであると考えられる。ただし、明初の小説『残唐五代史演義』には、晋王李克用の部将に「跳涧虎」というあだ名を持つ「樊達」という武人が登場している。作者の施耐庵(したいあん/shī nài ān)は陳達(ちんたつ/chén dá)について、名前のモチーフをその「樊達」に見出した可能性が高い。

 

また、「少華山」の朱武(しゅぶ/zhū wǔ)、陳達(ちんたつ/chén dá)、楊春(ようしゅん/yáng chūn)という三頭領が、明確な原型ではないものの、一種のメタファー(隠喩)として実在の人物を想定しているとする説もある。その関係性は以下の通りだ。

 

- 朱武:明王朝の開国を果たした初代皇帝、朱元璋(しゅげんしょう/zhū yuán zhāng)

- 陳達:開国大将の徐達(じょたつ/xú dá)

- 楊春:開国大将の常遇春(じょうぐうしゅん/cháng yù chūn)

 

確かに名前と関係性からすると、そこに何らかの因果があると考える事が出来る。ただ、陳達と楊春は戦場で連携して活躍をしており、彼らが何となく貢献を果たしている事が分かるものの、個別の活躍ぶりには焦点が当たっていない。登場回数も少なく、人となりが描かれる画面もほとんど無い。その『水滸伝』における彼らの限られた存在感から鑑みると、少々贅沢な感も否めない意外な偉人たちだ。もしこの関係性を受け入れるのであれば、陳達(ちんたつ/chén dá)たちをもっと戦場で活躍させるか、より大きな存在感を示す事のできる事象・心理・関係の改修が必要であるように思う。

 

- **画家の戴敦邦**:「提神縦虎越雲間,霸守華陰義満天。身欤杭城還昱嶺,常懷兄弟暢樽前。(勇ましい虎のように雲間を駆け抜け、華陰を守るその姿は義の心に満ちている。杭城に身を置き、昱嶺に戻る。常に兄弟を思い、共に杯を酌み交わす。)」

 

- **画家の牛牧野**:「力健声雄,直情径行。戒驕戒躁,功果自成。(力強く声も雄々しい、正直で率直な行動。驕らず焦らず、成果を自然に成し遂げる。)」

 

<実在の徐達>

水滸伝』が書かれた明王朝、この新しい国を切り開いた朱元璋を支えた最たる功臣は誰かと言えば、この徐達である。そして、実は「中秋節に月餅を食べる」という中国市民にとってはあまりにお馴染みの風習も、歴史を遡ると彼らに行き着くのだ。戦功だけではなく、その優れた忠義のあり方、慎ましくも鋭い思考性などを示す人格的な逸話も多く残っている。朱元璋にとってはほとんど親友のような間柄であったが、彼は臣下としての立場を決して忘れなかった。

 

徐達(じょたつ/xú dá:1332年-1385年4月7日)、字は天德。濠州鐘離県(現在の安徽省鳳陽県北東)出身、もともとは農民。性格は剛毅、面貌は清癯(すっきりとした顔つき)、身長は魁偉(がっしりとした体つき)であった。北方の異民族から侵略を受け続けた南宋の滅亡後、モンゴル民族の元王朝が中華世界の覇者となったが、この元王朝の末期は残酷な統治体制による民の迫害が続いていた。中原の広大な地域の民はこの残酷な王朝に耐えかねて反乱を起こし、朱元璋もまた各地の反乱勢力を結集して蜂起を準備した。至正13年(1353年)、徐達はこの朱元璋の起義軍に参加。以後、徐達は朱元璋と共に河州新塘、三汊河、陽泉、達魯花赤の営寨、徐官倉寨を次々と攻略していった。

 

※至正27年(1367年)、徐達が率いる軍が平江の「張士誠(ちょうしせい/zhāng shì chéng)の反乱勢力」の征伐に成功している。張士誠の反乱軍も元々は元王朝に対する起義であったが、のちに元王朝に帰順。これにより、朱元璋たちと正面衝突をする事になった。この張士誠の起義軍の初期に参加していた軍師のひとりが、『水滸伝』の作者である施耐庵(したいあん/shī nài ān)だ。以前の記事にも書いた通り、元役人の施耐庵は張士誠の志に深く感銘を受けて起義軍に参加したのだが、後に張士誠の堕落に失望して組織を離脱した。

 

朱元璋たちの反乱軍は順調に戦局を進めていたが、元王朝の官兵の厳しい取り締まりにより、なかなか情報を伝達させる事が出来なかった。そこで軍師の劉伯温は一計を案じ、洪武元年(1368年)の八月十五夜に蜂起する旨の紙片を月餅の中に隠し、各地の反乱軍に送るように命じた。この起義の日が来ると、「月餅の暗号」が見事に功を奏して各地の義軍が一斉に蜂起。この一斉攻撃によって戦局が凄まじい勢いで進み、遂に朱元璋、徐達、常遇春らの軍が元大都を攻め落とした。この後、朱元璋は徐達らと話し合って、「起義の成功を記念して、中秋節に全将士と民衆に月餅を配って勝利を祝い合おうじゃないか!」と取り決めた。これ以来、中華世界では中秋節に月餅を食べる習慣が広まって、それが現在にも引き継がれている。

 

その後も不安定な政局の中で徐達は武人、文人の両面で朱元璋を支える功臣であり続けた。毎回凱旋帰還するときも、決して自慢せず、単車で帰宅し、儒者を招いて談笑することが常であった。冷静で忍耐強く、中書省丞相の胡惟庸が

私怨と妬みから彼を陰謀に掛けようとした時も一切事を荒げなかった。胡惟庸の事件が発覚しても朱元璋に特別な奏状をせず、政局の安定を優先した。また徐達が元上都で元順帝を包囲した際、故意に抜け道を作って順帝を逃がしたという逸話も、彼の冷静な思考性を体現する逸話であろう。常遇春は彼がどうして敵の皇帝を逃したのかと大いに不満を持ったが、徐達はこう説明した。「彼は夷狄(異民族)で敵だが、長く帝位にあった人物だ。捕らえた場合、主上朱元璋)はどう処置すれば良い?土地を割いて彼に封じる(与える)のか、あるいは彼を殺して満足するのか。どちらも適切ではない。よって、ここでは逃がすのが最善だ」。常遇春はその説明にどうしても納得できなかったが、朱元璋は徐達の判断を受け入れた。

 

朱元璋が徐達がまだ邸宅を持っていない事を気にして、自分の旧邸を貰ってくれないかと頼んだ事があったが、徐達は不遜であると固くこれを拒否した。朱元璋と飲み合って酔い、思わず朱元璋の邸宅で寝てしまった時は、起きてから叩頭(地面に頭を繰り返し付けて平伏する謝罪や敬意の礼儀の所作)して屋敷を去った。とにかく慎み深い人物であった。『智囊全集』ではこの逸話について「中山(徐達)が三度叩頭し、主の信任を一層強固にしたことは、ただの恪謹(礼儀正しい態度)ではなく、大いなる主張があった」と評している。

 

朱元璋と徐達の有名な逸話としては、もうひとつ、「中国将棋」のものがある。朱元璋はよく徐達を招いて将棋を指した。徐達は朱元璋よりずっと棋力が高かったものの、君主に勝つ罪を絶対に犯さず、毎回意図的に負けていた。このことを知った朱元璋は、ある時、徐達に「気にせず全力を尽くしてくれ」と命じ、結果、徐達は勝利した。しかし、彼はただ勝利するだけではなく、勝利した際に棋子で「万歳」の形を残してみせた。朱元璋は彼の才覚に感嘆して、その心意気に大いに喜び、徐達に莫愁湖を与えた。この逸話に由来して、後にこの地にある楼閣が「勝棋楼」と呼ばれるようになった。

 

洪武18年(1385年)、徐達は南京で病没した。朱元璋は深く悲しみ、彼を中山王に追封して「武寧」の諡号を与えた。朱元璋は徐達について「平素言葉は少なく、考えが精緻な人物で、まるで万里の長城のように揺るぎなく立派な人物であった」と評した。

 

※画像:百度百科「勝棋楼」より引用/勝棋楼の楼閣内に設置されている朱元璋と徐達の将棋勝負のモニュメント

 

<所感>

陳達(ちんたつ/chén dá)の原型の一端が上述の徐達(じょたつ/xú dá)であるのなら、陳達はよりアイコニックな人物として描かなければならない。とは言え、『水滸伝』の原作はあくまでも「史進(ししん/shǐ jìn)に恐れをなした山賊の三頭領のひとり」に過ぎず、その展開自体は物語の骨子に関わっているので容易に改修する事は出来ない。この矛盾を解決する為には、多少強引ではあるけれど、少華山の山賊一派が「強奪」ではなく「起義(正義の為の行動)」を目的として華陰県の襲撃を計画したという流れを適用するべきであろう。華陰県の民から「腐敗した役人たちから残酷な圧政を受けている、助けてくれ」という相談が来た事から、朱武(しゅぶ/zhū wǔ)、陳達(ちんたつ/chén dá)、楊春(ようしゅん/yáng chūn)が腰を上げたという展開を取れば、彼らに一定の善良さとカリスマ性が生まれるはずだ。

 

<三元論に基づく特殊技能>

※上述の改修事項を反映する。

 

#### 万里長城(導術)

**説明**: 陳達は、深慮に基づく冷静な言葉が課題の解決や意思の増幅を促す能力「万里長城」を持っている。この導術は、彼の冷静な思考と判断力に基づき、仲間たちに安心感と決意を与える力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この導術は、道具に依存せず、陳達の精神的な力と冷静な判断に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 効果的な進言を行うためには、高い思考力と問題解決能力が必要。

  - **関係性(とても濃い)**: 陳達の導術は、周囲の人々との信頼関係を強化し、協力と信頼を促進する。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **課題解決の支援**: 陳達は、仲間たちが直面する課題や問題に対して冷静なアドバイスを行い、効果的な解決策を提示する。
  2. **意思の増幅**: 陳達の冷静で深慮ある言葉が、仲間たちの意思を強化し、彼らの決意と行動力を高める。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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