天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 051】朱武 

朱武 

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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朱武(しゅぶ/zhū wǔ)

 

<三元論に基づく個性判定>

18番 **強い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「戦略的思考者」** - 知識と戦略を駆使して目標を達成し、他者と協力しながら計画を実行する。

 

<概要>

朱武(しゅぶ/zhū wǔ)、定遠(現安徽省定遠県)の出身。あだ名は「神機軍師」。双刀を使いこなし、陣法(陣形戦略)に精通し、策略に長けている。腐敗した役人に追われて落草し、陳達(ちんたつ/chén dá)、楊春(ようしゅん/yáng chūn)と共に少華山で山賊集団を率いる身となった。華陰県の強奪作戦を巡って史進(ししん/shǐ jìn)と知り合いになり、後にその史進が少華山に合流。史進魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)の縁を経て、梁山泊勢力に帰順する。百八人の英傑たちが集結した大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際、彼は序列37位に定まり、「梁山泊軍事共同参議長」という戦略面を支援する肩書きに任じられた。梁山泊勢力の招安後、彼は常に盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)の軍師として活躍。主に戦略面から多大な貢献をし、最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦でも数少ない偏将の生還者となった。(偏将はこの戦いで15名しか生還を果たしていない。)戦後、朝廷から武奕郎の称号が与えられ、諸路都統領に任じられた。そしてしばらくの後、彼は官職を辞め、樊瑞(はんずい/fán ruì)と共に公孫勝(こうそんしょう/gōng sūn shèng)のもと導術修行の道へと入った。

 

<指導者としての覚悟と分別>

少華山の山賊勢力を率いる三頭領のうち、前回の記事までに陳達(ちんたつ/chén dá)、楊春(ようしゅん/yáng chūn)を取り上げた。残るひとりである朱武(しゅぶ/zhū wǔ)は純然たる武人として描かれている彼らとは少々異なる立ち位置で、「熱い覚悟と冷たい分別を併せ持つ指導者」としての姿も見受けられる。彼の序盤の見せ場は陳達が先走って行動し、史進に生捕りにされてしまった騒動の中で訪れる。楊春は何とか仲間を救い出すべく史進たちと戦うべきだと主張するが、朱武は史進の漢気を算段に入れ、むしろ進んで身を捨てた方が事態を好転出来ると判断。朱武は楊春を引き連れて史進の懐に飛び込み、「我々は命を共にすると誓った身、ゆえに陳達を処するのであれば我々も一緒にお願いする」と平伏。この行動が功を奏し、史進は彼らを許したばかりか、むしろ気に入って厚遇される程の関係となった。冷静さと情熱を使い分けられる彼の指導者の均衡の取れたスタイルが、『水滸伝』の英傑における数少ない生存者という結果を導いたと考えられる。なお、招安後に盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)と朱武(しゅぶ/zhū wǔ)の二人が指揮を取って奪取に成功した城は、西京、晋寧、汾陽、宣州、湖州、徳清県、独松関、昱嶺関、歙州。「朱武は武芸としては他の英傑に劣るが、多くの陣法を知っており、内外からの攻撃手法や敵の城の弱点分析に長けている」と評され、「副吴用(梁山泊勢力きっての軍師である呉用にも劣らない)」とも言われた。

 

<原型とメタファー>

前回の陳達(ちんたつ/chén dá)、楊春(ようしゅん/yáng chūn)の記事で触れている通り、少華山の山賊勢力における三頭領には一種のメタファー(隠喩)が適用されている。その関係性は以下の通りだ。

 

- 朱武:明王朝の開国を果たした初代皇帝、朱元璋(しゅげんしょう/zhū yuán zhāng)

- 陳達:開国大将の徐達(じょたつ/xú dá)

- 楊春:開国大将の常遇春(じょうぐうしゅん/cháng yù chūn)

 

この三名は中華世界の歴史を代表する名だたる偉人。朱武はともかくとして、陳達、楊春は序盤以降でほとんど大きな存在感を示さないので、かなり贅沢なモチーフを使ったという印象を受ける。だが、彼らの人物描写を改修して説得力や存在感を高めるという観点からすれば、これらの実在のモデルは大いに役立つものと考えられる。

 

<名前とあだ名>

朱元璋(しゅげんしょう/zhū yuán zhāng)は皇帝として即位した後、年号を「洪武」とした。これが朱武(しゅぶ/zhū wǔ)という名前の由来であると考えられる。ちなみに、朱武は朱元璋と同じく濠州出身。このあたりの相関関係も隠されている。

 

あだ名の「神機」の二字については、古いものでは『陰符経』の「爰有奇器,是生万象,八卦甲子,神機鬼藏。(神秘的な器具がこの世に存在し、それが万物の現象を生み出し、八卦や甲子のように神妙で計り知れない機巧を有する。)」という文章にその表現を確認できる。また、『三国志・魏書・賈詡伝』の『九州春秋』には「阎忠说皇甫嵩:移神器于己家,推亡漢以定祚,实神机之至决,风发之良时也。(阎忠は皇甫嵩に言った:神器を自らの家に移し、滅びかけた漢を推して王朝を安定させるのは、まさに神妙なる機略の極致であり、良い機会である。)」とある。作者の施耐庵(したいあん/shī nài ān)が活躍していた明王朝時代の文献で言うと、朱元璋の洪武十年(1377)に編纂された『先圣三皇历代帝王乐章·望瘗』に「神机不测兮造化工,珍馐醴帛兮荐火。(神機は計り知れず、造化の技工、珍馐と醴帛を火に供える。)」と記されている。

 

<少華山山賊の賞金学は三千貫>

2011年製作の中国大河娯楽ドラマ『水滸伝』や横山光輝の漫画『水滸伝』などを目にすると、少華山の山賊勢力はある種の滑稽みと否定しきれぬ凶暴さを有する典型的な悪人として描かれている。ただ、やはり先ほどの実在の人物の隠喩的な反映を鑑みると、義賊のような描かれ方をしても良いと感ずる。これも前回までの記事で触れた事であるが、彼らは「強盗(金品や女の略奪)」ではなく「起義(圧政の解放)」の為に華陰県の強襲計画を立てたとするべきかもしれない。

 

それは多少ながら強引な改修かもしれないが、施耐庵(したいあん/shī nài ān)が生きていた元末・明初の時代においては山賊勢力による起義反乱が各地で巻き起こっていたので真実味がある。また、『水滸伝』においては華陰県が彼らに対して「三千貫」という莫大な懸賞金を掛けていたが、これは単なる賊の討伐としては異常な金額だ。しかし、彼らが単なる賊ではなく義賊として華陰県の官僚たちを一掃しようと計画していたとしたら、その金額も妥当性を帯びる。よって、朱武、陳達、楊春を、物語展開に直接関わらずとも、設定的な側面において義賊化させるというのは合理的な改修方法であると考えられる。

 

尚、以前の索超(さくちょう/suǒ chāo)などの記事でも触れた通り、『水滸伝』において梁中書が賄賂用に民から巻き上げた「生辰綱」という財宝は「十万貫(十万両銀=一万両金)」の価値があった。これを現代に換算すると3000万人民元(約6億6000万円)」となる。少華山の山賊勢力の懸賞金は「三千貫(三千両銀=三百両金)」となり、現代換算で90万人民元(1800万円)と考えられる。

 

<他者の評価>

- 史進(作中):「彼らは本当に義気がある。もし私が彼を捕らえて官に引き渡して賞金を得ようとすれば、天下の好漢たちから英雄ではないと笑われるだろう。大きな虎は伏肉を食べないという古い言葉がある。」

 

- 李卓吾:「神機軍師朱武は本当に良い策を持っている。第一の策は降伏することだ。」「史進は男らしいが、朱武のような軍師は難しい。」「素晴らしい神機軍師だが、その妙計はこれだけだ。」

 

- 袁無涯:「朱武は本当に義気があり、単なる苦肉の計ではない。」「連累を恐れ、一方で同死を望む、その中で朱武の機智が際立ち、史進の情熱が感じられる。」

 

<実在の朱元璋

実在の明太祖の朱元璋(1328年10月21日—1398年6月24日)。彼の字は国瑞、元の名は朱重八、朱興宗。濠州(現安徽省鳳陽県)鐘離の出身。元王朝の恐怖統治と役人の腐敗によって社会が混乱していた時期、朱元璋は25歳で郭子興が率いる紅巾軍に参加して元王朝の抵抗を開始。至正16年(1356年)に集慶路を攻め落とし、改名して応天とし、至正24年(1364年)に呉王を称するまでに至る。徐達(じょたつ/xú dá)や常遇春(じょうぐうしゅん/cháng yù chūn)といった功臣を得て快進撃が続き、陳友諒、張士誠などの割拠勢力を滅ぼした後、呉元年(1367年)に「驱逐胡虏,恢复中华(胡虜を駆逐し、中華を回復する)」のスローガンを掲げて北伐(北方の異民族征伐)を開始。元王朝を完全に圧倒しながら、洪武元年(1368年)正月、応天府で皇帝に即位。国号を大明、年号を洪武とした。同年秋には大都を攻め落とし、これにより元王朝は崩壊。中華世界の覇者は完全に明王朝となった。その後も元王朝の残存勢力を一掃しながら、洪武4年(1371年)には夏国も滅ぼし、四川を平定。洪武10年(1377年)には雲南の平定にも成功した。

 

朱元璋の在位中、政治では中央集権制度が強化され、丞相と中書省の廃止、三司による地方権力の分掌が進められた。また厳格な治国を行い、重い法を用いて臣下を制し、汚職官僚と不法な勲貴を厳しく処罰した。軍事では衛所制度を実施。経済では移民屯田と軍屯を大規模に行い、租税を減免し、全国の土地を測量し、戸籍を調査するなどした。これらの大改革は実に鋭く的確なものばかりであり、また民心にも十分に配慮したものであったから、彼の統治下において社会生産は次第に回復した。紛れもなく、朱元璋の治世は後の明王朝の大発展の基礎を築いており、これなくして後の娯楽文化(当然『水滸伝』などの大衆文学含む)の発展も存在しなかったと断言できる。これは歴史上「洪武の治」と高く評価されている。

 

洪武31年(1398年)、朱元璋は病没した。享年71歳であった。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝、廟号は太祖。 彼の遺体は明孝陵に葬られ、太孫の朱允炆がその地位を継ぐ事となった。

 

※画像:百度百科「朱元璋」より引用

 

<正史の記録>

『明太祖実録』:

上以天纵之资,起自田里,遂成大业。当是时,元政陵夷,豪杰并起,大者窃据称尊,小者连数城邑,皆恣为残虐,糜弊生民,天下大乱极矣。上在民间,闵焉伤之,已而为众所推戴,拒之益来,乃不得已起义,即条法令、明约束,务以安辑为事,故所至抚定,民咸按堵,不十余年间,荡涤群雄,戡定祸乱,平一天下,建混一之功。虽曰天命人归,要亦神武不杀之所致也。即位之初,稽古礼文,制礼作乐,修明典章,兴举废坠。定郊祀、建学校、尊孔子、崇儒术、育贤才、注洪范、叙九畴,罢黜异端,表章经籍,正百神之号,严祭祀之典。察天文、推历数、定封建、谨法度、慎赏罚、抚四夷,海外远方诸国,皆遣子入学。南极炎徼,北逾冰壤,东西际日月之所出没,罔不率服。昧爽临朝,日晏忘餐,虚心清问,从善如流,神谋睿断,昭见万里。退朝之暇,即延接儒生,讲论经典,取古帝王嘉言善行,书置殿庑,出入省观。斥侈靡、绝游幸、却异味、罢膳乐,泊然无所好。敦行俭朴,以身为天下先。凡诏诰命令词,皆自制,淳厚简古,洞达物情。当宁戒谕臣下,动引经史,谆切恳至,听者感动。训敕子孙臣庶,具有成书,诒法万世。谨宫壸之政,严宦寺之防,杜外戚之干谒,而家法尤正。纪纲法度,彰彰明备。至于礼先代、罢献俘、存高年、兴孝弟、励农桑、蠲逋负、宥死刑、焚狱具、旌廉能、黜贪酷、摧奸暴、佑良善,宽仁爱人,专务德化。是以身致太平三十余年,民安其业,吏称其职,海内殷富,诸福之物,莫不毕至,功德文章,巍然焕然,过古远矣!传称唐虞禅夏后,殷周继然;成汤革夏,乃资亳众;武王伐商,爰赖西师;至于汉高,虽起徒步,尚借亭长,挟纵徒集所附。上不阶寸土一民,呼吸响应,以有天下,方册所载未之有也,於乎盛哉。

 

上(朱元璋)は天賦の才を持ち、田舎から起こり、大業を成した。当時、元朝の政は衰退し、豪傑が蜂起し、大小の勢力が乱を起こし、民を苦しめた。上は民間でそれを哀れみ、推戴されて義を起こし、法令を定めて秩序を明らかにし、民を安定させることを務めた。そのため、短期間で群雄を平定し、天下を統一した。即位初期には古礼を研究し、礼を作り、楽を作り、典章を修明し、郊祀を定め、学校を建て、孔子を尊び、儒術を崇め、賢才を育て、異端を罷免し、経籍を表彰し、百神の号を正し、祭祀の典を厳しくした。天文を観察し、暦数を推測し、封建を定め、法度を慎み、賞罰を慎重にし、四夷を抚え、海外の遠方の国々は皆子を遣わして学ばせた。南極から北極、東西の果てまで、全てが従った。夜明け前から朝廷に臨み、日が高くなっても食を忘れ、虚心に清問し、善を受け入れ、神謀と睿断で遠くまで見通した。朝廷を退く暇には儒生を招き、経典を講じ、古代の帝王の嘉言善行を殿廊に書き、出入りして観た。奢侈を排し、遊幸を絶ち、異味を避け、膳楽を止め、質素を行い、自ら天下の先となった。全ての詔勅命令の文は自ら作り、淳厚で簡古、物情を洞察した。臣下を戒め、経史を引用し、誠心誠意で、聴く者を感動させた。子孫と臣下を訓戒し、成書を成し、万世に法を残した。宮壸の政を慎み、宦官の防止を厳しくし、外戚の干渉を防ぎ、家法を正した。紀綱法度は明確に整備された。先代を礼し、献俘を廃し、高年を存し、孝弟を興し、農桑を奨励し、租税を免除し、死刑を宥し、狱具を焼き、廉能を旌し、贪酷を黜し、奸暴を摧き、良善を佑し、寛仁に愛人し、德化に専务した。三十余年の平和を享受し、民は業を安んじ、吏は职を称し、海内は殷富し、功德文章は巍然と輝き、古を超えて遠くまで及ぶ。唐虞が夏を禅让し、殷周がこれに続き、汤が夏を革め、西师を頼り、武王が商を伐ち、亭长を借り、上は寸土一民を得ずして天下を有し、史に前例なし。

 

《明史》:太祖以聪明神武之资,抱济世安民之志,乘时应运,豪杰景从,戡乱摧强,十五载而成帝业。崛起布衣,奄奠海宇,西汉以后所未有也。惩元政废弛,治尚严峻。而能礼致耆儒,考礼定乐,昭揭经义,尊崇正学,加恩胜国,澄清吏治,修人纪,崇凤都,正后宫名义,内治肃清,禁宦竖不得干政,五府六部官职相维,置卫屯田,兵食俱足。武定祸乱,文致太平,太祖实身兼之。至于雅尚志节,听蔡子英北归。晚岁忧民益切,尝以一岁开支河暨塘堰数万以利农桑、备旱潦。用此子孙承业二百余年,士重名义,闾阎充实。如今苗裔蒙泽,尚如东楼、白马,世承先祀,有以哉。

 

『明史』:太祖は聡明神武の資質を持ち、世を救い民を安んずる志を抱き、時運に乗じ、豪傑がこれに従い、乱を平定し、強敵を打ち破り、十五年で帝業を成し遂げた。布衣(庶民)から立ち上がり、広大な領土を支配するに至った。これは西漢以降前例のないことである。元朝の政治の廃弛を戒め、厳格な統治を行った。そして、耆儒(高齢の儒者)を礼遇し、礼を考え楽を定め、経義を顕し、正学を尊崇し、勝国(旧王朝)に恩を加え、吏治(官吏の統治)を澄清し、人倫の道を修め、都(首都)を崇め、後宮の名義を正し、内治を清潔にし、宦官が政に干渉することを禁じ、五府六部の官職を互いに維持させ、衛所制度を設けて屯田を行い、兵と食を十分にした。武力で乱を平定し、文治で太平をもたらし、太祖はこれを兼ね備えていた。さらに、志節を重んじ、蔡子英を北へ帰らせた。晩年になると民を憂える気持ちがさらに強まり、ある年には河や塘堰(ため池)を数万か所開き、農桑(農業と桑業)を利し、旱魃や洪水に備えた。このため、子孫が二百年以上にわたって業を継ぎ、士は名義を重んじ、民間も充実した。今もなお、その恩恵を受けていることは、まさにその通りである。

 

※中国語が数千年の論理学の研磨によって築き上げた、こうした事象・心理・関係の要素を濃縮した書き方が本当に興味深い。この短い文章の中にあらゆる論理要素が詰まっている。この詩文の才能は官僚の必須要素のひとつであった。こうした象徴的な文章と、具体的事例や解説を施した注釈の文章を併せる事により、中華世界のあらゆる歴史を追体験する事が出来る。

 

<補足:正義の暴走>

ここまでは朱元璋の功績を絶賛する内容であるが、彼に関する否定的な功績についても補足しておこう。当時としては尚古主義(古来の儀礼を尊ぶ思想傾向)に基づいて行われた事であるが、現代的な価値観から鑑みれば、間違いなく朱元璋の決定したひとつの政策は人道に反している。その政策というのは「殉葬」の制度だ。殉葬とは貴人が逝去した際、その貴人のもとで働いていた部下や使用人などを一緒に埋葬するという儀礼である。これは貴人が死後の世界でも豊かな生活を送る為に行われた。例えば、二千年以上前の春秋戦国時代孔子の生涯を追ってみると、早くもこのような殉葬や生贄の風習が見受けらる。孔子はこれを野蛮な制度だと批判し、その殉葬の風習を広げてしまった「桶(貴人の塚に使用人や馬などを模した人形を添える方法)」の文化も否定をしていた。このように、国家的儀礼基本的人権を超越していた時代がある。

 

殉葬は孔子の批判もあって倫理的に問題があると考える事が主流となり、漢王朝以降は基本的には行われなかった。しかし、朱元璋の在位期間中に再び殉葬制度が復活。明王朝時代には宮人生殉の陪葬制度(皇帝が逝去した際、後宮の妃や使用人たちが生きたまま埋葬される制度)が非常に盛んになってしまった。洪武31年(1398年)、朱元璋は40名の妃嬪を明孝陵に殉葬させるよう命じている。朱元璋の正義が人道を凌駕してしまった。やはり現代の我々としては「人命の上に存在する制度なし」であるから、どうしても彼の決定は残忍に感じてしまう。

 

もともと、殉葬は西域からもたらされた異民族の風習であるそうだ。学説によっては、朱元璋漢民族ではなく女真族であるとも言われる。もしかしたら、朱元璋の殉葬復活はそのような民族的なルーツにも関わっているのかもしれない。この点だけ鑑みれば、紀元前210年に逝去した始皇帝は、現代的な価値観に照らし合わせると極めて人道的だ。彼は中華世界において初めて皇帝を名乗り、中華世界の覇者として未曾有の功績を打ち立てた。彼が命じさえすれば、どれだけの規模でも殉葬を行う事が出来ただろう。しかし、彼はそれを命じなかった。こうして、彼の塚には本物の人間や動物ではなく、それを象った人形が添えられる事になったのだ。

 

※画像:百度百科「兵馬俑」より引用

 

<三元論に基づく特殊技能>

※上述の改修事項を反映する。

 

#### 神機鬼藏(心術)

**説明**: 朱武は、冷静な判断力と情熱的な意思を適切に使い分けることによって問題に対する最適解を導き出せる能力「神機鬼藏」を持っている。この心術は、彼の高い知識と洞察力に基づき、困難な状況でも冷静に最適な解決策を見つけ出す力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、朱武の精神的な力と均衡感覚に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 問題を効果的に解決するためには、高い知識と判断力が必要。

  - **関係性(中程度)**: 朱武の心術は、周囲の人々との協力を強化し、集団全体の効率を向上させる。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **戦術的判断**: 朱武は、戦闘や作戦計画において冷静な判断力と情熱を適切に使い分け、最適な戦術を導き出す。
  2. **危機管理**: 緊急時に冷静さを保ちつつ、情熱を持って行動することで、迅速かつ効果的な解決策を見つける。

 

#### 奸佞駆逐(導術)

**説明**: 朱武は、欺瞞や不正に埋没する人間に対する周囲の義憤を増幅させることで、集団の行動力や決定力を強化する能力「奸佞駆逐」を持っている。この導術は、彼の強い正義感と求心性に基づき、集団全体の士気を高める力を発揮する。(但し、この義憤の共有が暴走をすると集団の誤選択にも繋がる。)

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この導術は、道具に依存せず、朱武の精神的な力と求心性に基づく。

  - **思考性(中程度)**: 周囲の義憤を効果的に増幅させるためには、高い共感力と説得力が必要。

  - **関係性(とても濃い)**: 朱武の導術は、仲間たちとの信頼関係を強化し、集団全体の行動力を高める。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **義憤の増幅**: 朱武は、欺瞞や不正に対する仲間たちの義憤を増幅させ、集団全体の士気と行動力を高める。
  2. **不正の排除**: 朱武の導術によって、集団内の不正や欺瞞を迅速に排除し、正義を貫く。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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