天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

警世通言 いましめものがたり(一)俞伯牙、琴を摔(す)てて知音に謝す

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『警世通言(意訳:いましめものがたり)』は、明末の冯夢龍(ふう・ぼうりゅう)が編纂した白話体の短編小説集である。天啓四年(1624年)に完成し、宋・元・明の時期に書かれた話本や擬話本あわせて四十篇を収録している。一般に、これらの作品は編者による大小さまざまな加工や整理を経て成立していると考えられている。題材は現実の生活をもとにしたものもあれば、先人の筆記小説をもとにしたものもある。総じて言えば、『警世通言』の題材は主に以下の三分野に及ぶ。第一に、婚姻や恋愛と女性の運命。第二に、功名や利禄と人間社会の栄枯盛衰。第三に、奇事や冤案、怪異の世界である。これらを通じて、当時の人々の生活における多様な社会の姿が、さまざまな角度から描き出されている。

 

※画像:百度百科「俞伯牙(春秋战国时期琴师)」より引用

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《警世通言》 第一巻

俞伯牙、琴を摔(す)てて知音に謝す

 

>浪(むな)しく言うな、かつて鲍叔(ほうしゅく)の金を分かち合ったと。

>いったい誰が伯牙(はくが)の琴を見分けられようか。

>今の世の交友など鬼のように淡薄。

>湖海にさまよえども、ただ心を空しく懸けるばかり。

 

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 古来、友情の厚い例を論じるならば、管鮑(かんぽう)の交わりがもっとも篤(あつ)い。管とは管夷吾(かん いご)、鮑とは鮑叔牙(ほう しゅくが)を指す。二人は共に商売を営み、利益を得れば必ず均等に分け合った。ときに管夷吾が多めに取っても、鮑叔牙はそれを貪欲とは思わなかった。管夷吾が貧しいことを知っていたからである。後に管夷吾が捕らえられたときは、鮑叔牙がそれを救い出し、推挙して斉(せい)の宰相としたのである。こういう友こそ、真の相知(知己)だと言えよう。

 そもそも世に「相知」にもいくつかある。恩徳によって結ばれるのを「知己(ちき)」、腹心を照らし合うのを「知心(ちしん)」、声や気・趣味などを求め合うのを「知音(ちおん)」というが、いずれも互いを深く知ることに変わりはない。

 さて、ここで俞伯牙(ゆ はくが)についての一つの物語をお聞かせ申そう。ご覧の読者諸君――聞きたければ耳を傾けていただきたい。聞きたくなければ、ご随意に去るもよし。まさに「知音には語り、知音ならざる者には語らず」とはこのことである。

 

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<話は春秋戦国時代に遡る>

 ある公卿がおり、姓を俞(ゆ)、名を瑞(ずい)、字(あざな)を伯牙(はくが)という。楚国の郢都(えいと)の出身、今の湖広(ここう)荊州府あたりの人物だ。身体こそ楚人であるが、官星は晋国に落ち、上大夫(じょうだいふ)にまで仕えていた。あるとき晋の君主の命により、楚国へ外交使節として赴くことになった。伯牙がこの任務を受けたのは、一つには自分が大才であって君命を辱めぬ自負があったこと、もう一つには、ついでに故郷を見て回ることができるからである。まさに一石二鳥というわけだ。

 当時、陸路を通って郢都へ至り、楚王に拝謁して晋の君命を伝えると、楚王は盛大に宴を設けて非常に手厚くもてなしてくれた。郢都は伯牙にとって生まれ故郷の地ゆえ、どうしても先祖の墓に詣でたり親友に会ったりせずにはいられない。しかしながら、公務の身、いつまでも滞留はできぬと、用を済ませた後、楚王に別れを告げると、王からは黄金や錦の織物、高車(こうしゃ)と四頭立ての馬を贈られた。

 伯牙は十二年ぶりに故郷に戻って郷土の山河を堪能したいと思い、帰りはぜひ水路で船に乗り、大いに景勝を楽しみながら帰りたいと考えた。そこで楚王に「私めは馬車を駆るような道中には耐えられませぬ。舟旅にて医薬を備えたいのです」と申し立てると、王は快諾し、水師を命じて大船二隻を用意した。一隻を正船として伯牙が乗り、もう一隻を副船として従者や荷物を積ませる。いずれも艶やかに彩られ、帆には錦の帳、櫓や櫂も立派なもの。随行の群臣はみな江辺まで見送って別れを告げた。

 

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 伯牙は風流才子だけあって、絶景を求めては山水の遠近も厭(いと)わず進んで行った。帆を張って青い波を越え、重なる山々の翠(みどり)を眺め、澄んだ水の広がりを楽しむ。幾日か経って漢陽の江口へ着いたときは、ちょうど八月十五日、中秋の夜であった。

 ふと激しい風と浪が起こり、豪雨が降り注ぐ。船を進めることができず、やむなく山崖の下に停泊する。しばらくすると風は収まり、雨も上がり、ふと雲間から丸い月が顔を出した。雨上がりの月はいつにもまして明るい。伯牙は船室にひとりいて退屈を覚え、童子に香を焚かせると、「琴を弾いて気を紛らわそう」と言う。童子が香を焚き終わって琴を案上に置くと、伯牙は琴を取り出し弦を合わせ、一曲を弾き始めた。ところが曲半ばで、突然「ガサッ」と音がして弦が一本切れてしまう。伯牙ははっとして童子に問いかける。「いま船を泊めているのは、いったい何処なのだ?」

 童子は「先ほどの豪雨で仕方なく山脚の下に停泊しました。草木ばかりで人家はありません」と答える。伯牙は不審に思う。「こんな人影もない山中で、一体誰がこの琴を盗み聞くというのか。もしや仇家の刺客が潜んでいるのか、あるいは盗賊が機会を伺っているのでは」と考え、手勢を使って「崖の上を探せ、柳陰の奥か、あるいは芦苇の叢(やぶ)に潜んでいるはずだ!」と命じる。

 従者たちが崖へ上ろうとするやいなや、岸上から声が聞こえた。

 

「船中の大人。どうか疑わぬでください。小人は盗賊などではなく、樵夫(きこり)にございます。遅くまで柴を刈って帰る途中、激しい風雨に見舞われて蓑笠(さりゅう)も役に立たず、岩陰に身を寄せていただけです。そこへ大人の雅なる調べが聞こえたもので、しばし耳を留めたのです。」

 

 伯牙は大笑いし、「おいおい、山で柴を刈る者が“聞琴(きんをきく)”などと言うのか。その言葉が本当かどうかはともかく、面倒はごめんだ。放っておいてやれ。」

 ところがその男、立ち去る気配もなく、崖上から高声で続ける。

 

「大人の仰せは理に欠きますぞ。『十戸しかない村にも、忠信の士はいる』と申しますし、『家の中に君子あれば、外にも君子が訪れる』とも申します。大人が山の者に聞琴の素養などあるものかと見くびるなら、そんな夜更けの荒れ崖で琴を弾く大人はどうなるのでしょう。」

 

 伯牙はその言葉があまりに俗ならぬので、「もしや本当に琴を解する者かもしれない」と思い直す。そこで従者たちを制して騒ぎをやめさせ、舷側まで行ってにこやかに問いかける。

 

「崖上のかた、先程より琴を聴かれていたと? では、私が弾いた曲が何であったかわかりますか?」

 

 男は答える。「もし存じ上げなければ、そもそも下で耳を傾けなどしません。大人が弾かれたのは、孔仲尼(こうちゅうに)が顔回(がんかい)を追悼した際の調べでございます。歌詞には『惜しむらくは顔回の命の短さよ、人をして思うと白髪も増える。たとえ陋巷(ろうこう)にあろうとも箪(たん)と瓢(ひょう)を楽しむ心あり……』と続き、そこまでで弦が切れました。四句目の『名を万古に留む』はまだでしたが、小人めはあの一節を覚えております。」

 伯牙はこれを聞いて大いに喜び、「この者、やはりただ者ではない」と思い、すぐに従者たちに「崖上の先生を船へお招きせよ」と命じる。男が下りてくると、果たして樵夫の出で立ち――頭には蓑笠(さりゅう)をかぶり、身に蓑衣(みの)をまとい、手にはとがった担(かつぎぼう)を持ち、腰に斧を差し、足には草鞋を履いている。従者たちは官の客と思わず威圧的に接し、「おい、船室に下ったらまず老爺様に拝礼するのだ。変なことを言えばただでは済まぬぞ」とがなり立てる。

 ところが樵夫は動じず、礼儀正しく蓑笠や担、斧を舷の外に置き、芒鞋(わらじ)を脱いで泥を払ってから、改めて履き直し、ゆっくりと舱(ふなばた)の中へ入ってきた。

 灯火に照らされた上座にいる俞伯牙を前に、その樵夫は長揖(ちょうゆう)こそすれ跪(ひざまず)こうとはしない。「大人、礼を施されて恐縮です」とさらりと言う。

 伯牙は晋国の大臣であるから、本来なら目下の者に頭を下げるなど考えられない。とはいえ、いったん招いておいて叱り返すのも失礼。やむなく軽く手を挙げて「賢友よ、礼はいらぬ」と言うと、童子が下座に腰掛けを用意する。伯牙は愛想も薄く「そこに座れ」と示すにすぎない。

 樵夫も別に遠慮なく席に着くので、伯牙は密かにいささか面白くない気持ちを抱く。

 しばらく無言のまま、やおら伯牙が訊ねる。「先ほど崖の上にいたのはおまえだな?」

 樵夫は「そうです」と答える。

 伯牙は続ける。「琴を聴く以上、琴とは何かを知っていよう。ならばこれは誰が造った琴か、また弾くとどんな効(き)があるのか、わかるか?」

 ちょうどそこへ船頭が現れ、「風が好転して月明かりもあるので、出航できます」と告げる。

 伯牙は「いや、まだしばらく」と制止すると、樵夫が言った。「大人がお訊ねくださるのはありがたいが、もし拙い私の話が長引けば、順風を逃してしまいますゆえ……」

 伯牙は笑い、「貴殿が琴理を本当にわきまえておるのなら、たとえ官職を失うことになろうとも構わぬ。まして船の出発が多少遅れるくらい、問題ではない。」

 樵夫は改めて答える。「それでは僭越ながら。まず、この琴は伏羲(ふくぎ)氏が作ったと伝えられております。五星の精が梧桐の樹に落ち、鳳凰が舞い降りたとも言われる。鳳凰は竹の実しか食べず、梧桐の木にしか止まらず、醴泉(れいせん)の水しか飲まないとされます。伏羲氏は梧桐が最上の木材と知り、それを伐(き)って琴を造った。木を三つに切り分け、天地人の三才に当てた。そして流水に七十二日浸し、乾かして吉日を選び、名工の劉子奇(りゅう しき)がこれを仕上げた。

 こうして完成した琴は“瑶琴”と呼ばれ、長さは三尺六寸一分で、周天三百六十一度を象徴し、幅や厚みも節や時節や陰陽などを表している。金童頭(きんどうとう)、玉女腰(ぎょくじょよう)、仙人背(せんにんはい)、龍池(りゅうち)、鳳沼(ほうしょう)、玉轸(ぎょくしん)、金徽(きんき)などの意匠を備え、徽は十二箇所、闰月を加えて一つの中徽を置く。弦は当初五本で、五行および五音を表していた。尭舜(ぎょうしゅん)の時代には五弦の琴で「南風の詩」を歌い、天下がよく治まった。

 後に周の文王が羑里(ゆうり)に囚われた際、伯邑考(はくゆうこう)を悼(いた)んで弦を一つ足したので“文弦”といい、さらに武王が殷を討つとき、前に歌い後ろに舞って盛んな気を鼓舞しようとまた一つ弦を足し、これを“武弦”といった。こうして七弦琴となったわけだ。

 この琴には六つの忌み事、七つの弾かぬ場合、八つの絶妙がございます。六忌とは、大寒・大暑・大風・大雨・迅雷・大雪のときに弾いてはならぬこと。七不弾とは、喪中・他の楽器の奏楽中・雑事が多い時・自分の身を清めぬ時・衣冠が乱れている時・香を焚かぬ時・そして知音にあらざる人の前では弾かないこと。八絶とは総じて“清奇幽雅にして、悲壮悠長”――その極みに達すれば猛虎は吼(ほ)えず、猿は嘆き泣かず、すべてが和するという、この琴の妙なる力を指すのです。」

 伯牙はその淀みない説明に感心しながらも、「暗記した知識を並べているだけではないか」とも思い、さらに試すことにした。

 「では、こんな逸話は知っているか。孔仲尼が室内で琴を奏していたところ、外から入ってきた顔回が琴音に潜む“欲(よく)して殺(ころ)す”ような気配を感じ取り、不思議に思って尋ねたという話だ。仲尼は『ちょうど猫が鼠を捕(と)ろうとしている姿を見て、捕ってほしい、失ってほしくないと願った。その貪欲と殺意が琴音に表れてしまったのだ』と言ったとか。かくのごとく、聖人の音楽は微妙玄通なものだ。もし下官が今から琴を弾き、その心にある想いをおまえが聴き取り当てられるか?」

 樵夫は答える。「『他人に心あり、それを推し量るのが道』と『毛詩』にもございます。大人、一曲お弾きください。小人めが心を推し量りましょう。それで外れたなら、罰をお受けします。」

 そこで伯牙は切れた弦を直し、まず高山を想う心を込めて琴を弾く。樵夫はすぐに「なんと雄大なことか、大人のお心は高山にありましょう!」と喝采する。

 伯牙は黙して答えず、こんどは流水を想って琴を鳴らす。樵夫はまた「なんと壮大な流れか、大人のお志は大河の水にございましょう!」と讃える。

伯牙はその通りに言い当てられ、大いに驚き、琴を置いて立ち上がると、相手に主賓の礼を取り、「失敬、失敬! 石の中に美玉が埋もれているようなものだ。外見だけを見ていては、天下の賢士を見誤るところだった。先生のお名前は?」と尋ねる。

 樵夫は立ち上がって答える。「小人めは姓を鐘(しょう)、名を徽(き)、字(あざな)を子期(しき)と申します。」

 伯牙は手を拱(こまぬ)いて「鐘子期先生か!」と驚く。逆に子期は「大人の姓は?」と問い返し、伯牙が「俞瑞、字を伯牙、晋の朝廷に仕える者だ」と告げると、子期は「ああ、伯牙大人でしたか!」と応じる。

 伯牙は子期を客位に据え、自ら上席に並んで童子に茶を用意させる。茶を飲みながら互いに酒を酌み交わし、心を尽くして語り合う。

 

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 伯牙が改めて問う。「先生は楚国の言葉遣いをなさるが、この近くにお住まいですかな?」

 子期は「ここからそう遠くない馬安山(ばあんざん)の集賢村に住んでおります」と答える。

 伯牙は「集賢村とは、なんとも名の良い所よ。ところで先生はどうしておられる?」と尋ねると、子期は「採った柴を売り、それが暮らしの糧です」と穏やかに語る。

 伯牙は微笑んで、「先生ほどの才能なら、功名を立てて廊庙(ろうびょう)に身を置き、史書に名を残しても不思議はない。それを森山に埋もれて柴を刈り、草木とともに朽ちてしまうのは、もったいないとは思わぬか」と言う。

 子期は「実を申せば、家には年老いた両親がおり、他に頼れる兄弟もおりません。柴刈りで生計を立て、せめて両親の残された年を平穏にお支えしたいのです。三公の地位に上るとしても、私には一日たりとも親を捨てることはできません」と答える。

 伯牙は「それこそ大孝ではないか。ますます感服した」と喜ぶ。二人は杯を交わすうちに、子期は地位や富貴をまるで気にする様子もなく、伯牙はいよいよ心を寄せる。

 

「ところで先生、今いくつだ?」

「今年二十七です。」

「私より十歳ほど若いな。もし先生がよろしければ、私は先生と兄弟の契りを結びたいと思うが、どうかね?」

 

 子期は苦笑して、「大人は上国の重臣、鐘徽は貧しき山村の者。どうしてそんな崇高な縁を仰ぎ見ましょうか」と辞退しようとする。

 しかし伯牙は、「世に知り合いは多くても、真に心を通わせる者はいく人あるか。私は長らく風塵にまみれ、やっと高潔な方に巡り会えたのだ。富貴と貧賎など問題にならない」と強く言い、童子に香炉を整えさせると、その場で子期と向かい合い、丁重に礼を交わして義兄弟の契りを結んだ。年長の伯牙が兄、子期が弟である。

 そして再び暖酒を酌み、主客を改めて歓談する。まさに「気が合う友と語り合うときは、どこまでも話が尽きぬ」ものであった。

 

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 やがて月は傾き星が薄れ、東の空が白み始める。船の水手たちは皆起き出して帆や綱を準備し始めた。子期は席を立ち、「もう夜が明けましたので、私はこれにて帰ります」と別れの挨拶をする。伯牙は盃を手に取り、子期の手を握って嘆息しつつ、「賢弟よ。出会いは何と遅く、別れは何と早いことか!」と言う。子期も思わず涙を落として盃に溶かし、一気に飲み干した後、伯牙に返盃を勧める。二人は互いに去りがたく胸を痛めている。

 伯牙が言う。「愚兄はまだ物足りぬ想いだ。せめて数日いっしょに旅しないか?」

 子期は「両親がご老体で、『父母がご存命のときは遠くへ行くべからず』と申しますので……」と断る。

 伯牙は「そうか、ならば賢弟が落ち着いてから、私のいる晋陽(しんよう)へ一度来てはくれまいか?」と強く勧める。

 子期は「もし両親が許してくださらなかったら、遠方でお待たせするだけになってしまう。お約束はできかねます」と誠実に答える。

 伯牙は「なるほど。では、私のほうから来年またここに来る。時期はちょうど中秋のころを予定しよう。中旬あたりのうちに訪ねなければ、それは私が約束を破ったということだ」と言い、童子に命じて子期の住む村の名と約束の期日を日記簿に記入させる。

 子期は「それでは来年、八月中旬五六日のあたり、江辺にてお待ちいたしましょう。決して違えはいたしません」と答える。二人は惜別の涙を流し合いながら、伯牙は童子に黄金二笏(にこつ)を用意させて子期に渡し、「つまらぬものだが、これをご両親の滋養の足しにしてほしい」と手渡した。子期は辞退せず拝受し、再び礼を交わして別れた。蓑笠と担を背に、斧を腰差し、崖を上って姿を消していく。伯牙も船頭に開船を命じ、子期との出会いをしきりに思いつつ晋国へ戻っていった。

 

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 時は矢のごとく過ぎ、秋から冬へ、そしてまた春から夏へと移ろい、伯牙の胸には子期のことが日ごとに思われてならない。中秋が近づいた頃、伯牙は晋の君主に願い出て休暇をもらい、またもや水路で馬安山を目指す。八月十五日の夜にちょうど近くまで来たというので船を泊め、去年と同じあたりだと確かめる。ところが江辺を見渡しても子期の姿はない。

 「どうしたのだろう。約束に遅れる彼ではないはずだが…… そうか、船の外観が去年と違うから気付かなかったのかもしれない。ならば琴を弾いて合図としよう。知音なら必ず気づくはずだ」。

 伯牙は童子に命じて琴座を船頭に設えさせ、香を焚き、あたりは明るい月夜の下である。さっそく琴に触れると、奇妙に商弦(しょうげん)が嘆き悲しむように鳴った。伯牙は「これは……子期に何かあったに違いない。去年『両親が老いている』と言っていた。父か母の喪に服しているのかもしれぬ」と不安に駆られ、琴を収めて夜が明けるのを待った。

 

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 夜が明けるとすぐ、伯牙は童子を連れて山道を登り、途中で道に迷ったので少し腰を下ろした。そこへ白髪の老人が藤杖をついて現れたので、「集賢村へ行くにはどちらの道か」と尋ねると、老人は「ここから左に行けば上集賢村、右に行けば下集賢村。どちらも十五里ずつだ。あなたはどちらへ?」と言う。

伯牙は「そこがわからぬ。鐘子期という方の家を探しておるのだが……」と答えると、老人は急に涙をこぼして言う。「なんと! あなたはあの鐘子期をお訪ねか? だが、もう遅い。子期はすでに他界しました……」

 伯牙は天から雷に打たれたかのような衝撃を受け、崖に倒れ込み失神してしまう。老人が介抱し、童子を振り返って尋ねると、童子は「この方こそ俞伯牙様です」と耳打ちする。老人はさらに驚いて、「まあ、それは吾が子の知己だったか!」と言いながら伯牙を起こす。

 伯牙はようやく意識を取り戻し、「ああ、賢弟よ! 私は昨夜、『約束を違えたか』などと思いもしたが、まさか鬼籍に入っていようとは……なんと無情!」と涙を流して慟哭(どうこく)する。老人も拭(ぬぐ)いきれぬ涙をこぼし、互いに礼を交わす。伯牙は相手を「老丈(ろうじょう)」ではなく「老伯(ろうはく)」と呼び、「兄弟としての家族」として扱う意思を示す。

 伯牙が「子期の御遺骸はまだ家に安置してあるのか、それともすでに葬られたのか」と問うと、老人は嘆息しながら答える。

 

「実は、子期は亡くなる直前、わしら夫婦を枕元に呼んで『身の運命は天にあり、私は生きて親孝行を尽くせませんでした。せめて死後は江辺に葬ってください。来年の秋、伯牙大人がきっと訪ねてくださるはずですから』と言い残したのです。老夫もそれを聞き入れ、ここからそう遠くない江辺に新しい墓を立てました。本日は百箇日の忌日で、紙銭を焼きに行くところでした。もしやと思っていたら、こうしてお会いすることになるとは……」

 

 伯牙は「ならばぜひ、そのお墓にお伴させてください」と言い、童子に竹籠を提げさせて老人についていく。

 やがて谷を抜けると、道の脇に塚のような新しい土盛りが見える。伯牙は衣冠を整え、その新墳の前で平伏して泣き叫ぶ。

 

「賢弟よ! 生きては聡明な人、死してはまさに霊なる存在。愚兄、今このひと跪(ひとひざ)で永遠の別れを告げるしかないとは……」

 

 そのあまりの慟哭に、辺りの村民らも不思議に思って集まってくる。ところが伯牙は祭礼用の供えも何も持ち合わせていない。そこで童子に琴を用意させると、墓前の石に座って琴をかき鳴らす。見る知らぬ野次馬たちは、まるで娯楽かと拍手して散っていくのを見た伯牙は涙を拭い、老人に問う。

 

「老伯よ、あの人々は琴の調べを聞いて何を笑っていたのか?」

 

 老人は「彼らは山野の民で、音律など知りませぬ。琴を弾くのを見て遊興でもしていると思ったのでしょう」と答える。

 伯牙は嘆いて言う。「ならば老伯に、今奏でた曲の内容を口ずさんで聞いていただきたい。」

 老人が「ぜひ願います」とうなずくと、伯牙は短い曲の歌詞を声に出して詠ずる。

 

> 「思い出すは去年の春、江辺で君に会いしこと。

> 今年もまたここを訪ねれど、知音の人の姿は見えず。

> あるのはただ一丘の土、我が心を深く傷(いた)む。

> 何と悲しきかな、また悲しきかな、涙は留まらず。

> 来たりし時は楽しげなりしに、去りし今はただ愁いの雲が立ち込める。

> 子期よ子期よ、汝と我の交わりは千金の重みにも等しい。

> 世の果てまで遍歴しても、語らうべき相手はもはやいない。

> この曲はこれを最後に二度と弾くまい。

> 三尺の瑶琴、汝のためにここでその命を絶たせる。」

 

 そう言うと伯牙は短刀を取り出し、琴の弦をいっきに切り払ってしまう。さらに琴そのものを祭石の上に叩きつけ、玉の飾りは砕け、金の徽(き)は飛び散った。驚く老人が「大人、なぜ琴を砕かれたのです?」と問うと、伯牙は声を詰まらせながら答える。

 

「琴を砕いてもまだ冷ややか。子期なき今、誰に弾こうというのか。春風に顔を向ければ友は満ちるというが、本当の知音を得るのは至難のこと――もはやこの琴に指を触れる意味はないのです。」

 

 老人は「なるほど……何と痛ましい」と繰り返し嘆息する。伯牙はさらに言う。「老伯様、上集賢村にお住まいですかな?」

 老人が「はい、第八の家が我が家です。大人は何をお考えで?」と尋ねると、伯牙は「ここに黄金十镒(じゅうぎ)を用意してきました。半分を葬儀の費用に、残りの半分で祭田を買い求め、子期の墓の維持に充てたいのです。私が晋国へ戻って君主に願い出、しかるのち出仕を辞して帰郷しようと思います。そのときは老伯と老母をお迎えし、まるで自分の親のように大切にお世話したい。なにせ子期は私の弟、私は子期と同じ。どうか、どうか私を外の者だと思わないでください」と差し出した黄金を老人に捧げ、また慟哭する。老人も別れがたい思いで挨拶を交わし、やがて共に去っていった。

 

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 かくして、この物語の題は「俞伯牙、琴を摔(す)てて知音に謝す」である。後世の人は詩をもってこれを讃え、こう歌っている。

 

> 利害の交わりには利害の心しかない。

> 斯文(すぶん)の徒に、はたして知音を想う者など何人いるのか。

> もし伯牙が琴を砕かなかったなら、

> この千古の物語も語り継がれなかったであろう。

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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