天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『恕の人 -孔子伝-』の興味深い論理学メモ5

※補足1:画像は中国動画共有プラットフォームで公開されている2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①磬(チン/qìng):それは礼学に基づく古代楽器

 

修理したての磬(チン/qìng)を演奏してしまい、赤ちゃんの孔鯉(こうり/kǒng lǐ)を起こしてしまった孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)青年。妻と世話に来ていた実家の張さんから「静かにしてよ」と言われ、彼はごめんごめんと謝罪した。この磬(チン/qìng)は現代中国語においてまったく用いられることのない漢字で、歴史の学術的な話題の中でしか取り扱われない。日本語読みでは「げい」と表現する。古代の中華世界における「吊り下げ式の鉄琴」のような打楽器で、儀礼の際に用いられる礼器であった。

 

※画像:百度百科「磬(古代乐器)」より引用。「磬(チン/qìng)」には「玉磬、鉄磬、銅磬、編磬、笙磬、頌磬、歌磬、特磬」など多くの種類があった。各種類の磬は、概ね1枚から16枚の石片や鉄片で構成され、石片や鉄片の長さや厚みの違いによって異なる音律を奏でることが出来た。

 

唐王朝、宋王朝の時代にはより柔軟かつ多彩に音楽を奏でられる楽器が登場しているが、磬(チン/qìng)は礼器として清王朝の時代まで継続して、帝王や上層階級の支配者による宮殿での宴や宗廟祭祀、朝貢の儀式での楽隊演奏に用いられた。鍵に用いられた素材は(漢字のつくりに含まれている通り)もともとは「石」であったが、後に「玉」や「銅製」のものへと進化している。

 

伝説では「黄帝が伶倫に磬を作らせた」と言われており、曲尺型の独特な形は中華世界における拱手の礼(手を組んで深々とお辞儀をする儀礼方式)を象徴していると言われる。1978年、湖北省随県の擂鼓墩で考古学者が楚国由来の古墓(曾侯乙墓)の発掘に成功し、ここで120を超える古代楽器(鐘、編磬、琴、瑟、簫、鼓など)を得たことをきっかけに研究が進んだ。この研究のお蔭で、今は2400年以上前の磬(チン/qìng)の音色を再現できている。

 

②宮廷音楽家、師襄(しじょう/shī xiāng)の音色を耳にする

 

孔丘青年がたまたま耳にした、信じられないほど美しい音色の演奏。帳簿の仕事を終えた後、上司であり妻の父親である亓官(きかん/qí guān)に「あれは誰でしょうか」と聞くと、「それはきっと師襄(しじょう/shī xiāng)先生だろうね」と答えてくれた。(ドラマ内の台詞では「师襄子」と表現されている。これは後の「孔子」「老子」などの表現でも分かる通り、当時の「子」は「先生」を意味する尊重であった。)

 

これは実在したと言われている人物であり、実際に孔子が琴を学んだ師として文献に残っている。先ほどの磬(チン/qìng)の演奏家としても極めて優れた演奏技能を持っていた為、「磬襄」とも称された。魯国の宮廷音楽官であったという説が有力だが、一説には隣の衛国の音楽官だったのではないかという考えもある。

 

師襄先生が登場する文献は《史記》《韓詩外伝》《孔子家悟》などだ。《孔子家悟》の原文箇所は次の通りである。

 

《孔子家语》:孔子学琴于师襄子,襄子曰:“吾虽以击磬为官,然能于琴。今子琴己习,可以益矣。”孔子曰:“丘未得其数也。”有间,曰:“己习其数,可以益矣。”孔子曰:“丘未得其志也。”有间,曰:“己习其志,可以益矣。”孔子曰:“丘未得其为人也。”有间,孔子有所谬然思焉,有所睾然高望而远眺。曰:“丘迨得其为人矣。近黮而黑,颀然长,旷如望羊,奄有四方,非文王其孰能为此?”师襄子避席叶拱而对曰:“君子圣人也,其传曰《文王操》。”

 

『孔子家語』より:孔子は師襄子に琴を学びました。師襄子が言いました。「私は磬を叩くことを生業としているが、琴にも通じている。今、お前さんは琴の技をすでに習得したのだから、次に進んでもよいだろう。」孔子は答えました。「私はまだその“数”(理法)を得ていません。」しばらくして師襄子が再び言いました。「お前さんはすでにその理法を習得したので、次に進んでも良いだろう。」しかし孔子は言いました。「私はまだその“志”(意志)を得ていません。」

さらに時間が経って、師襄子が再び「今度こそ十分だ。お前さんはすでにその意志を習得したので、次に進んでも良いだろう。」と言いましたが、孔子はまたも言いました。「私はまだその人間性を得ていません。」さらに時が経ち、孔子は深く考え込み、高く遠くを見つめて言いました。「私はその人間性をようやく理解しました。近くでは暗く黒々として、高く長い姿で、広々と視野を広げ、四方を覆い尽くす。文王でなければ誰がこれを成し遂げられましょうか?」

すると師襄子は席を避け、両手を組んで敬意を表しながら答えました。「お前さんは君子にして聖人だよ。まさに『文王操』にある通りだ。」

 

③孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)との話し合い

 

師襄(しじょう/shī xiāng)はとても気難しい一本気の人で、孔丘青年が弟子にして欲しいと尋ねても家から出て来てすら貰えなかった。孔丘青年が落胆して歩いていると、大司空の孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)と遭遇。孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)は孔丘青年の礼学の知見に深く感銘を受けている政府中枢の人物で、自分の二人の息子を孔丘のもとで学ばせている。

 

彼らは歩きながら話をし合った。この場面に登場する言葉は《論語》の泰伯篇に書かれているものだ。

 

孔子说:“只是恭敬而不以礼来指导,就会徒劳无功;只是谨慎而不以礼来指导,就会畏缩拘谨;只是勇猛而不以礼来指导,就会闹出乱子;只是直率而不以礼来指导,就会说话尖刻。君子如果厚待自己的亲属,老百姓当中就会兴起仁的风气;君子如果不遗弃老朋友,老百姓就不会对人冷漠无情了。”

 

孔子は言った。「ただ恭敬であるだけで礼によって導かれなければ、無駄に終わってしまう。慎重であっても礼によって導かれなければ、萎縮してしまう。勇猛であっても礼によって導かれなければ、混乱を招く。率直であっても礼によって導かれなければ、言葉が鋭くなってしまう。君子が親族を厚く遇すれば、民衆の間に仁愛の風潮が生まれる。君子が古い友人を見捨てなければ、民衆も人に冷淡でなくなるのだ。」

 

前半部分は礼(礼儀)に関すること、後半部分は仁(思いやり)に関すること。ドラマの場面で語られていたのは前半部分で、「いくら心が正直であろうとも、その言い方には気を付けねばならない」という話になる。「心直口快(正直で口が悪い)」という状態を避けることで、人と人の信頼関係が生まれるというわけだ。口だけが滑らかで心が無い人間は論外だが、心が滑らかなのに口が尖った人間もまた困ったものである。

 

④現代:端木(たんぼく/duān mù)が文化財取り壊しを悔しがる

 

現代に場面転換。梅燕(ばいえん/méi yàn)が端木(たんぼく/duān mù)から教えてもらった、街にある孔子由来の文化財を訪ねようとしたが、そこには何の彩もない大きな交差点と建設中のビルがあるだけだった。梅燕(ばいえん/méi yàn)からの報告を聞いて、端木(たんぼく/duān mù)が同僚に尋ねてみると、同僚は「あれは工事の邪魔だから取り壊されたぞ、その一部だけは移転した」と教えてくれた。端木(たんぼく/duān mù)は「この街で唯一の明王朝の文化財が取り壊されたのか…太可惜了(なんてもったいないことを)…」とため息をついている。

 

「太可惜了(タイクーシーラ/tài kěxī le)」は「本当に残念だ」や「もったいない」という意味の日常表現で、端木(たんぼく/duān mù)は儒学の価値観や関連する文化財がどんどん消えていく現代社会をとても残念がっている。だが、そもそも端木(たんぼく/duān mù)よりも前の近代史において、中華世界は辛亥革命(王朝制から民主制)と文化大革命(民主制から共産制)により国家運営プログラムを完全に別の論理学に入れ替えている。この時点で古き良き中華世界の文化と学術が倉庫、あるいはゴミ箱行きになってしまったので、端木(たんぼく/duān mù)のいる2010年頃の経済発展が「太可惜了」の直接的な原因ではない。

 

とは言え、古い論理学プログラムの中にも使える部品が無数に残っている。論理学者や文化人がこれらを"発掘"して現代に活かせば、そこに新しい道と旅が生まれよう。

 

⑤十五年後:いよいよ孔丘先生(孔子)の展開へ

 

孔丘青年の物語から、孔丘先生の物語へ。この時点で、孔丘先生は田楽(家畜管理人)の仕事をしながら、礼学の教師としても活動している。家庭円満で、息子の孔鯉(こうり/kǒng lǐ)も父親の教えを受けながらまっすぐ成長している。(この場面から、孔子を演ずる俳優が趙文瑄[ちょうぶんせん/zhào wén xuān]に変わる。以後の孔子は晩年まですべて彼が演じきる。)

 

上の場面で運動をしている人物が、孔丘先生の早期の弟子であり、本ドラマでは幼少期から先生と一緒に生活している様子が描かれていた子路(しろ/zǐ lù)。彼は他の顔回(がんかい/yán huí)や子貢(しこう/zǐ gòng)ような思慮深さ、慎み深さはないのだが、孔丘先生に対する忠義の心は極めて大きい。またどの弟子たちよりも実直である。

 

 

孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)が自らの死を悟り、二人の息子、兄の仲孫何忌(ちゅうそんかひ/zhòng sūn hé jì)と弟の仲孫閲(ちゅうそんえつ/zhòng sūn yuè)を呼び出した。父はこの二人の息子に大切な物を託した。

 

 

箱を開けると、中にあったのは黒い饅頭のようなもの。「なんだこれは?」「なんか臭いぞ」と兄弟が訝しがる。父の孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)は静かに昔話を語り始めた。

 

かつて、孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)は楚国に呼ばれた際、鄭国(ていこく)で歓待を受けることになった。孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)のいる魯国は古代の周王朝時代の名残りが色濃く残る場所であり、他国からは儀礼の専門家が大勢いるものと思われていた。しかし、当時の孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)は要職に就いていたにも関わらず、この儀礼の知識がまったく無かった。このために鄭国では大恥をかき、楚国でも古代の礼儀について何の知識も語れず、実践もできなかった。後に、楚公(国王)は彼に「馬糞の塊」を献上した。

 

父が息子たちに言う。「国として大切なのは強くて戦争に勝つことではない。国としての拠り所は別にある。国には確かな礼の知識と品格がなければならないのだ。」そして、また父は息子たちに孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)に学ぶべしと念押しした。「今は庶民となっているが、あれは貴人の末裔で、祖先は『一命而偻,再命而伛,三命而俯』の美談を持っている君臣だったのだ。孔丘は必ず世に名を成す人になるだろう。」

 

「一命而偻,再命而伛,三命而俯」というのは、「一度命じて倒れ、再び命じて憂い、三度命じて伏せる」という意味の詩だ。孔丘先生の先祖に当たる正考父が、高い役職に就くごとにますます謙虚になっていったという逸話を象徴する美談となる。日本語の慣用句で言うなれば、「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」というやつだ。

 

この詩の出典は《左传·昭公七年》の《古诗源》中に収録されている。原文は次の通りだ。

 

一命而偻,再命而伛,三命而俯。循墙而走,亦莫余敢侮。饘於是,鬻於是,以餬余口。

一度命じられると腰を曲げ、再び命じられると背を丸め、三度命じられると頭を垂れる。壁沿いに歩けば、誰も私を侮る者はいない。このようにして粥を食べ、わずかなものを売って生計を立てている。

 

⑥「孝」とは何か?

 

兄の仲孫何忌(ちゅうそんかひ/zhòng sūn hé jì)と弟の仲孫閲(ちゅうそんえつ/zhòng sūn yuè)が孔丘先生のもとへ出向き、「孝(目上の者を慕い、尊敬する心)」について質問をした。孔丘先生は「生,事之以礼;死,葬之以礼,祭之以礼。」という言葉を用いて、この孝行に関する説明をした。これは《論語》の为政編などに書かれている古代の諺。《論語》の原文では、この会話は孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)と樊遅(はんち/fán chí)の対話として描かれている。

 

孟懿子问孝。子曰:“无违。” 樊迟御,子告之曰:“孟孙问孝于我,我对曰,‘无违。’” 樊迟曰:“何谓也?”子曰:“生,事之以礼;死,葬之以礼,祭之以礼。”

 

孟僖子(もうきし/mèng xī zǐ)が孔子に孝について尋ねました。孔子は「親に対して無違であること(親に逆らわないこと、礼を貫くこと)です」と答えました。孔子の弟子である樊遅(はんち/fán chí)が車を御していた時、孔子は彼に言いました。「孟孫が私に孝について尋ねたので、『親に逆らわないことです』と答えました。」樊遅(はんち/fán chí)が「それはどういう意味でしょうか?」と尋ねると、孔子は「親が生きている間は礼をもって仕え、亡くなったら礼をもって葬り、礼をもって祭ることだ」と答えました。

 

どうしても《論語》のような最小限の論理学部品で構築された書では言葉の論考の幅が広がるので曲解もされやすい。この「無違」に込められた孔丘先生の基本概念は、「親に一切逆らうな」「子は常に親に従え」という表面的なものではなく、「目上の者に敬意を示すべし」「目上の者もその敬意を受けるに相応しい存在であるべし」という意図があるものと思われる。

 

 

場面が現代に転換し、梅燕(ばいえん/méi yàn)が儒学の授業を行っているという珍しい学校へ取材に向かった。この授業では、元王朝時代に郭居(かくきょ/guō jū)によって書かれた《二十四孝》が取り上げられていた。これは二十四人の親孝行者の物語がまとめられた作品であり、感銘を受けるものもあれば、あまりに過激かつ過剰なものもある。たとえば、生活に苦しむある家庭で、老いた父母を生かすことを優先し、自らの子供を殺めて埋めるという悲惨な話がある。現代人からしてみれば、これは孝行者ではなく単なるサイコパスだ。

 

実際、この《二十四孝》は物語の衝撃性から非常によく知られた儒学の教本であるが、その一方で早い段階から批判がなされてきた。近代作家の魯迅は「いくつかの話は何とか無理をすればその孝行を真似することもできるが、命の危険があるものや、人を非常に不快にさせるものもある」と評価している。儒学という論理学プログラムの中核にある「中庸(過剰でも不足でもない最も適切な状態)」とはかけ離れた物語であると言える。これこそが、孔子の論理学プログラムに対する曲解現象のひとつだ。

 

この「孝」の論理学は、後の中華世界で辛亥革命や文化大革命などが起きた原因のひとつでもある。革命時、人々は「2500年に渡って国家運営プログラムとして導入され続けて来た儒学は、権力者(目上の者)がどれだけ狂っていても、それに対して無条件に隷属しなければならないという誤った義務を追求した学問であり、これによって市民が常に搾取の対象とされ続けて来た」と捉えて、儒学という論理学を燃やし尽くす手段を講じた。この考えは一理はあるが、一理しかない。

 

孔子の儒学は目上・目下を問わず、あらゆる人々に制御棒を与えるプログラムであり、目下の者だけに隷属を強要するような内容にはなっていない。目上の者に対しては、「権力を持つ物は君子(才能・良識・美徳を有する中庸の者)であれ」と徹底して説いている。その上で、「その君子のもとに集う人々は、君子に対して忠義と敬愛の心を持って自らの使命を果たすよう心がけて、自らも君子を目指せ」と言っている。明確な上下関係が示されているという点では現代的な感性とは異なるかもしれないが、その上下関係がもっとも適切に機能する状態を理想として描いているという点で、儒学は比類のない論理学となっている。

 

※今回の題材としたのは2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』の第五集。YouTubeの参考リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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