※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①宴の席前に処罰を断行:余計なお世話…
こちらは前回の第二十七集の一場面で、今回の物語に引き継ぐ形となっている。司飾(衣装や髪結いを担当する女官)の李氏は腕が立つことから、仁宗の福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn)に長年仕えている人物であった。端午節の宴の前にあれこれ厳しく諌言をしたという噂を聞きつけて、彼女は仁宗の髪を結いながら、ぺちゃくちゃと義憤を交えた世間話を開始した。
「あの人たちはどうして祝日なのにあれこれとうるさく陛下に口出しするんでしょうかねぇ!?」「指三道四(他人のやることに口出しをして批判したり、あれこれ細かく指図したりすること)ですよね!」「女官の風紀が下がっているなんて有り得ません!」「陛下はあんな人たちの諌言を聞く必要はありませんよ!」…
この場面、李氏の母性が暴走して、完全なるブーメラン現象を引き起こしている。「祝日に口うるさく陛下にまくしたてている」のは李氏である。「仁宗の言動にあれこれ口出ししたり、指摘したりしている」のは李氏である。「常に慎ましくあるべき女官が噂をもとに好き勝手な世間話を始めている」という李氏が、まさに「女官の風紀が下がっている」現象を証明していまっている。重臣を「あんな人たち」呼ばわりして「聞く必要がない」という無礼な諌言を行っている張本人が、李氏である。
同じような経験をして苦い想いをした人にとってはやたらリアルな一場面だ。本当に構成が上手い。いわゆる「世話好きの年上女性/男性あるある」で、何らかの社会的な繋がりのある、しかし私的な関係は薄いはずの年上の者が、年下の者を自分の息子か何かだと感じてしまい、父性/母性の暴走によって説教じみた諌言をしてしまう。年下の者は自分の意志に基づいた選択でその言動に及んでいて、それに満足しているのに、「あんたのその言動は、あんたのためにならん!」と叱るのだ。
年下の者が「相談」をしたのならその対応に問題はないが、これはただ「報告」をした時にも起こり得る。残念ながらその説教行動は、かえってお互いの適度な社会的な距離感と信頼関係を破綻に導くことが多い。年下の者にとっては非常に「余計なお世話」なのである。(年上の言い方や話し方によっては有意義な結果になることもあるが、その場合はよほどの共感なアプローチを意識しなければならない。)
※仁宗は髪結いが終わると、少し宴の開始を延期するよう指示をした上で、司宮令にすぐ官籍名簿を持ってくるように命じた。普段は慎重に処罰の判断をする仁宗であったが、ここでは即座に先の李氏を始めとした関係者30名の追放を決定した。何より仁宗は、李氏の「諌言を使命としている重臣を辱めた=祖法に対する不敬行為」の罪を重く見たようだ。また彼の場合、「年上の女性」と「支配」という要素が重なると劉娥(りゅうが/liú é)時代を思い出す部分もあるので、余計に逆鱗に触れてしまったのだろう。
これはまた文化の違いもあると思うのだが、私自身も上海にいた頃、身内でもない年上の女性から「あなたのためを思っての過剰な説教じみたアドバイス」を受けることが多かった。そして、それらのアドバイスがほとんどプライベートに関わる内容であったので本当に辟易し、ある時は仁宗に似た判断を下したこともあった。相手に悪意がないことは十分に分かるのだが、余計にタチが悪いのである。
先ほど「仏教の百八煩悩(百八個の人間のバグ)」に関する記事を書いたが、その中で次の内容に触れた。「他人に敬意を払うことは、自分が尊ばれることにつながる」「律するべきは自分であり、他人を律するべきではない」「自分の見解に固執しすぎないことが、後悔を減らすことにつながる」。世の中の年上男子、女子諸君。肝に銘じるべし。
②讒言(ざんげん/chán yán):宮中の一言が、庶民の百言につながる
端午節の宴の開始を待つ皇族(仁宗の親族)たち。皆が神妙な顔つきをしていている。そこで、仁宗の女官の処罰について話し合っているのは、仁宗の父方の叔母である魏国大長公主(前回の記事における徽柔[きじゅう/huī róu]の逸話で名が出て来た賢母)と、後継者として仁宗の養子となった宗実(そうじつ/zōng shí)の実母だ。
魏国大長公主は「どうしてこうも処罰を急いだのでしょうか」という質問に対して、「宮中の言動は市民に大きく影響しますからね。ここに讒言(ざんげん/chán yán)があれば、十倍、百倍となって市民の言動に繋がる危険があります。宴の前にこれを正して、私たちにも警鐘を鳴らそうという配慮があるのかもしれませんね」と言った。
讒言(ざんげん/chán yán)というのは、他人をおとしいれるために、ありもしないを目上の人に告げること。これも現代日本の組織の中に溢れていて、誇張、捏造、印象操作、あの手この手を用いて信頼関係を崩し、自分の有利な関係を築こうとする小人がいる。このような小人はとても演技が上手いので、純粋で世間知らずの目上の者がコロリと騙されてしまうことも多い。世の中の年上男子、女子諸君。物事は公平かつ冷静に判断せよ。肝に銘じるべし。
※この場面、仁宗から寵愛されている身勝手な妃、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)のクローズアップシーンが面白い。「私なんか、あの女官以上に毎日好き放題に、陛下に向かってあれこれ口出ししているやんけ…」と戦々恐々としているのだ。この後、彼女は「陛下が初めて怖いと思った」と賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán)に話している。
※右に、仁宗の父(前皇帝)の兄弟である八大王(趙元俨[ちょうげんがん/yuán yǎn])が久しぶりに登場。すっかり白髪となった彼が、静かに座っている。彼は北宋王朝を舞台とする物語や文献の中で大きな存在感を示す皇族で、本ドラマでは序盤の展開(太后の劉娥に関する逸話)の中で活躍した。文献によれば、彼は何らかの精神疾患を患っていたという記録があり、本ドラマでも急にヒステリックを起こす人物として描かれた。
※李氏が後宮から追放される場面。宦官たちが彼女たちを引き立てていく。李氏が泣きながらもう一度機会を下さいと訴えるが、任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)が厳しくそれは出来ないと言った。仁宗の判断も十分に共感できるが、私の指導理論(ある失敗に対して、最初は①協力をお願いし、次に②注意を促し、最後に③警告を突き付け、それでも相手が改善しなければ④罰を与える)を踏まえると、少しやり過ぎだ。もっとも、李氏は腕の良い服飾職人なので追放されても職にあぶれることはないだろう。
③垂政殿(すいせいでん/chuí zhèng diàn)
この「女官追放」の出来事が、すぐに老練な重臣である夏竦(かしょう/xià sǒng)のもとにも伝えられた。夏竦(かしょう/xià sǒng)は元愛人の賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán)の姪と、端午節の休日を静かに過ごしている。彼は骨董品の収集家なので、おそらく彼がこの場面で目にしている書物は骨董品の目録(骨董品カタログ)か何かだ。
この場面で気になったのが、従僕の報告内にあった「蔡襄(さいじょう/cài xiāng)を始めとした重臣の皆さんが、端午節の宴の前に、わざわざ陛下を【垂政殿】に呼んだのです」というもの。垂政殿(すいせいでん/chuí zhèng diàn)?この場所は初めて目にした。これまで朝議などの政務を行う施設は垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)であると考えていたので、前回の記事でもそのように書いたように思う。調べてみると、こちらはまた別の場所であるらしい。
皇帝にとって比較的居心地の良い政務用の建物は垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)で、今回登場した垂政殿(すいせいでん/chuí zhèng diàn)は「至って事務的で淡泊な広い会議室」のような場所であるようだ。
北宋王朝時代の皇城内の「里城(内城)」には宮城(皇城)があり、その中区に皇帝が政務を執る場として、大慶殿、垂拱殿、崇政殿、皇儀殿、龍図閣、天章閣、集英殿などがあったとされている。その北区に福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn:皇帝の居住区)と後宮がある。『宋史・礼志十九』によれば、「皇帝は日常的に垂拱殿で政務を行い、文武の官吏は毎日文徳殿に集まり、宰相が一人班を指揮した」と記されている。
北宋王朝時代の垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)にまつわる歴史的な事件と言えば、既に本ドラマでも取り上げ済みの「郭皇后の廃位に伴う范仲淹たちのデモ活動」が有名だ。
仁宗が親政(太后を介さない皇帝ひとりの政治体制)を始めたばかりの頃、彼が寵愛していた尚美人と郭皇后が言い争いになって喧嘩に発展した。仁宗が彼女たちの間に入って仲裁しようとしたところ、郭皇后の手が誤って当たって首を怪我してしまった。これがきっかけとなり、それまでも嫉妬深くわがままな郭皇后に不満を抱えていた仁宗は、彼女と離婚(廃位)することを決意する。しかし、儒学思想で言えばそれは不道徳に当たるので、右司諫の范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)が率先して殿中侍御史を引き連れた文官デモ隊を結成し、垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)の門前で廃位の撤回を訴えた。結果としては、呂夷簡(りょいかん/lǚ yí jiǎn)によって范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)たちの訴えは退けられ、廃位が決まった。
④補足:垂拱殿の建築造形と平安時代の日本建築
※画像:百度百科「垂拱殿(宋代皇宫大殿名称)」より引用。
宋王朝時代の建造物に関する文献と言えば、『建炎以来朝野雑記』だ。ここには垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)を含む一連の建築物について詳細な記述がある。(ただし、これは仁宗の北朝王朝時代より後、異民族の金に侵略されて南部で王朝を建て直した南宋王朝時代の文献となる。)
これによると、垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)の建築造形は次のようなものであったらしい。「その広さは大きな郡の庁舎程度で……各殿は五間、十二架で、長さ六丈、幅八丈四尺あり、殿の南側には三間、長さ一丈五尺、幅も同様の建物がある。また、両側に二間ずつの朵殿(小殿)を備え、東西廊下は各20間、南廊は9間あり、その中央に三間六架で長さ三丈、幅四丈六尺の殿門がある。殿の背後には七間の部屋があり、寿皇(高宗)が延和殿として使用した。」
したがって、垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)は前後二つの庭を持つ廊院式の建築造形が適用されていたということになる。第一の庭には、中央に垂拱殿があり、その東西に朵殿が配置されている。東西20間の廊を進むと南廊に達し、その両端にはそれぞれ9間があり、中央に門が設けられている。朵殿や廊の詳細な寸法は不明だが、推測によれば朵殿は二間で幅28尺(約8m)、南廊は大門を中心に両側に9間(各67.5尺/約20.4m)で、南面全体の幅は181尺(約58m)になるようだ。東西廊については、20間で各7.5尺(約2.4m)と仮定した場合、廊の全長は150尺(約45m)、全体の庭の寸法は幅181尺(約58m)、奥行き150尺(約48m)となる。
第二の庭には主に七間の部屋があり、その右側に小門があり後殿に通じている。南の軒下にあるとされる三間の屋の位置は不明だが、垂拱殿の正面軒下に抱厦(屋根付きの前廊)として存在していたと考えられている。
※画像:百度百科「平安时代(日本古代的历史时代) 」より引用。もちろん平安時代の主たる建築物はすべて中国の技術や概念を導入しているが、そこに独自解釈を加えて日本独特の造形美を生み出していた。
中華世界の宋王朝時代は、日本の平安時代後期に相当する。平安時代はその後に続く室町幕府、鎌倉幕府のような硬派で質実剛健の文化性とは異なり、瀟洒で風情のある審美観が尊ばれたので、建築物にも興味深いものが数多い。大雑把な比較であるが、当時の中国と日本の宮殿設計には次のような違いが見受けられた。
<1. 設計理念と配置>
- 中国の宮殿:唐や宋の宮殿建築は、厳格な中軸線に沿って左右対称に配置され、正門から皇帝の居所までの中軸上に重要な建物を並べる「中軸線配置」が特徴。中庭や回廊で建物同士がつながり、皇帝の権威と儀礼の中心地としての役割が強調された。
- 日本の宮殿:日本の平安時代の宮殿(例えば平安京の内裏)では、中国の影響を受けつつも、四周に庭園が広がる「寝殿造」と呼ばれる独自の建築様式が発展した。建物を囲む庭園の配置が重視され、自然との調和や四季の変化を感じられる構造となっている。建物の配置は直線的ではなく、より自由でリラックスした印象が強い。
<2. 建築構造と材料>
- 中国:宮殿建築は木構造でありながらも、太い柱や梁、堅固な基礎を使用し、巨大な屋根を支える「斗栱(ときょう)」という複雑な構造が特徴。大きな屋根の反りや多層構造が特徴で、屋根瓦がよく使用された。建物のスケールが大きく、威厳を感じさせる構造であった。
- 日本:平安時代の寝殿造では、柱で建物を支え、壁がほとんどなく「板戸」や「格子戸」を使い、風通しの良い構造になっている。床は高床式で、畳や杉の板を敷く。また、屋根には檜皮(ひわだ)や茅葺きを用いることが多く、柔らかい印象を与える。これらの造形は中国のように壮大ではないが、自然素材を活かした繊細な作りが特徴的であった。
<3. 装飾と美的感覚>
- 中国:唐代以降の宮殿には華やかな色彩の装飾や彫刻、龍や鳳凰といった神話的な装飾が施され、皇帝の権威を示すために赤や金色が多用された。内部の壁には絵画や壁画が描かれることもあった。
- 日本:日本の寝殿造では、装飾が控えめで、自然の美しさを活かした簡素さが重視された。襖や障子などの仕切りに絵や模様を施し、季節感を反映した装飾が取り入れられた。また、光の取り込み方や庭との一体感も美的要素として重要視された。
<4. 宮殿の機能と役割>
- 中国:宮殿は皇帝の政治の中心地であり、権力を誇示する場でもあった。広場や階段を備えた壮大な空間を使い、儀礼や式典、群臣の拝謁などが行われた。
- 日本:平安時代の宮殿は皇族や貴族の日常生活の場としての役割が大きく、政治の機能をそこまで重視されていなかったため、より居住性や季節を感じる設計がなされていた。
⑤苗心禾VS張妼晗
仁宗の女官追放により、彼を髪結いする女官の穴埋めをしなければならない。端午節の宴が終わった後、仁宗は妃たちとこれを相談。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)がすかさず自分の腹心である苗昭儀(みょうしょうぎ/miáo zhāo)を推薦するも、これに対して苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)が自身の腹心である董秋和(とうしゅうわ/dǒng qiū hé)を推薦。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)がこれを受けて、苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)を憎々しく睨みつけた。苗心禾VS張妼晗、女官登用を巡る代理戦争が始まった。
苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)は非常に慎ましい女性で、これまでもこのような権力闘争には一切関わってこなかった。皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が少し困惑を示しながらも、さりげなく苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)の推薦をフォロー。仁宗はそれを受けて、「それなら来月、服飾の腕を競う大会を開催して、それによって私の殿に来てもらう女官を決めよう」と取り決めた。
後に曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)に問いただすと、彼女は自分の娘(徽柔[きじゅう/huī róu])を傷付けようとした張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)がどうしても許せないという心情を吐露した。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の勢力がさらに仁宗のもとに及ぶのを阻止するべく、先ほどのような行動を取ったのだという。曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)はその想いに理解を示した。
※自分の住まいである翔鸞閣(しょうらんかく/xiáng luán gé)に戻った後、賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán)に「苗の奴にいじめられた!」と泣きわめく張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)。どうしようもない女性であるが、状況的には確かに彼女の焦りも分からないではない。彼女は娘を夭折によって失ったばかりで、一方の苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)は娘の徽柔(きじゅう/huī róu)と生まれたばかりの皇子、最興来(さいこうらい/zuì xìng lái)がいる。また、この場面でも分かる通り、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の司飾の女官は「とにかく派手で豪華」のスタイルを貫いており、仁宗の堅実で倹約的な審美観とは真逆。この勝負は張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)にとって完全に分が悪かった。
⑥とんでもない長台詞:仁宗の政治姿勢を詳述する一場面
宦官の懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)と共に、仁宗は福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn)に戻った。ここで、仁宗が「今回の重臣たちの諌言について、お前はどう思った?正直に感想を述べてくれ」と言った。梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は「小人(「私」の謙遜的な呼称)には政務のことは分かりません」と前置きをしつつ、「皆が忠臣であることに間違いはありませんが、民を下に見ていることが多く、事実とは異なる認識で話をしていることもあるように感じます」と言った。仁宗は会得して笑いながら、自分の政治姿勢を語り始めた。
この場面の仁宗の台詞は、おそらく作中でも一、二を争うほどの長台詞。ドストエフスキー文学かなと思える程に延々と仁宗の独白が続く。ワンカットではないので場面ごとに区切って撮影したと思うが、演者の王凱(ワンカイ/wáng kǎi)もさすがに疲れ果てたに違いない。私も書き起こしているだけで、途中からかなりうんざりした。
とは言え、「政治家としての仁宗」の胸中を丁寧に再現した言葉としては非常に興味深い点があるので、ここにメモをする必要があると感じる。以下、その台詞の全文だ。
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仁宗:谏院的一百份劄子之中 只有二三份 是忧国 中肯 针砭时弊 又提出可行的改革之法的 忠言良药 然而 然而在真正依言而行时 亦有无数意想不到的难题 其余的 大约三十份 是为了应付差事 根本不值一看的废活 是看似忠烈耿直的空话 二十份是确实忧国忧民 但是心胸眼界有限 只见一叶 不见森林的偏颇之言 十六七份 所弹劾之恶虽实 而所提之解决方法却是 何不食肉糜的纸上谈兵 或者是 另有所图的借题发挥 便说今日的谏议 他们说天变灾祸 是后宫无用女子过多所致 若说谁说得更近事实 是他们说的 后官女子导致天变 还是梳头夫人所说的 外间大臣 多有蓄养歌姫的风流习惯 但是 我尊谏官而革梳头夫人 为的不是他们所说内容的 对或者错 而是星辰有轨道 万物有定规 而百官不论前朝后宫 亦有各自的当做与不当做 谏官做的是分内当为之事 至于所说对错 所谏可用不可用 那是两府 三司 朕的衡量判断 而梳头夫人 则做了不当做之事 乱了章法 更不要说还给朕找理由 诱惑朕 不受百官万民的约束了 任何一人再聪明再仁慈 因为有情有欲 若无任何约束 终将因情生痴 因欲生贪 甚至因仁 而放松了 规矩礼仪 常人如此是毁一人 国君如此 是祸一国 言官的意义 上管君下管臣 可风闻而奏事 万事皆可奏 怀吉你说 言官论治理河道 能比治理了 三十年河道的官员精通 论税收之弊 能比三司度支 了解得全面透彻 论治国 能比我这个 从两三岁便被太后裁培 从八岁 便听两府三司的宰执辩论 于高处看了三十年的官家 更懂得为君之道 不 不会的 丈夫多时候他们做不到 他们存在的意义 就是要让所有这做事之人 头上悬着一把剑 身周睁着无数眼 于是时刻警醒 不敢渎职 不敢懈怠 为了弹劾一百条中 正确中肯的二三条 亦要兢兢业业 不敢放纵 克制一切的情和欲 持身中正 朕亦需要天下百姓看着 两府三司乃至朕 时时刻刻 在天下人的注视之下 让他们心安
仁宗:諫院の一百通の奏折のうち、真に国を憂い、的を射て世の弊害を指摘し、実行可能な改革案を提言した忠言良薬は、わずか二、三通のみだ。しかし、それらの意見を実際に実行する段階になると、数多くの予期せぬ難題が発生する。残りは約三十通が、ただの義務を果たすための無価値な内容であり、見るに値しない空虚な言葉だ。さらに別の二十通は、確かに国と民を憂慮しているものの、視野が狭く、一葉を見て森林を見ない偏った意見なのだ。また、さらに十六、七通は、弾劾する悪事自体は確かに実際の問題だが、提示されている解決策は「何不食肉糜(※興味深い成語なので意味や背景は後述する)」のごとく実現不可能な紙上の空論であったり、別の意図をもった話題すり替えである。
今日の諫言について話すなら、彼らは天変や災厄が後宮の無用な女性の増加によるものだと言っている。では、誰の言葉がより事実に近いのか?後宮の女性が天変を引き起こすという諫官たちの意見か、それとも髪結いの女官が言うところの「外廷の大臣たちが多くの歌姫を囲う風流な習慣」のほうか。しかし、私が諫官を重んじ、髪結いの女官を戒める理由は、その言葉の内容が正しいか否かではない。星々には軌道があり、万物には定まる規則があり、そして百官も前朝や後宮を問わず、それぞれが果たすべき役割を持っているのだ。諫官がすることは彼らの職分の中で当然なすべきことだ。発言の正否やその提言が実際に採用されるかどうかは、二府や三司、そして私自身が判断すべきことである。しかし髪結いの女官は、してはならないことを行い、規則を乱し、さらには私が百官や万民の規律から外れる口実を作り、誘惑しようとした。どんなに聡明で慈悲深い人であろうとも、欲望と感情に引きずられ、規律がなければ、やがては情により愚かになり、欲によって貪欲になり、さらには仁によって規律や礼儀を緩めてしまうのだ。一般の人がそうであれば、一人の人を滅ぼし、君主がそうなれば、一国を滅ぼすだろう。
言官の存在意義は、上は君主を、下は臣下を監督し、風聞をもって事を奏することだ。万事が彼らの奏上に値する。懐吉、お前も考えてみてくれ。言官が河道の治水を語るとして、三十年間河道を治めてきた官吏よりも精通しているだろうか?税収の問題を論じるとして、三司度支(財務官庁)よりも広く深く理解しているだろうか?国を治める術を論じるとして、この私、二、三歳から太后に育てられ、八歳から二府三司の宰執たちの議論を聞き、三十年にわたり高所から国を見てきた皇帝よりも理解しているだろうか?…いや、そうではない。しかし皇帝が存在する意義とは、職務を果たす者たちの頭上に剣を懸け、周囲に無数の目を光らせ、絶えず警戒させて職務を怠らず、気を緩めないようにすることなのだ。百件のうち、真に正しく的を射た二、三件の弾劾のために、皇帝は慎重に職務を全うし、自らの感情や欲望を抑え、身を正しているのだ。そして私もまたそうした皇帝のひとりとして、天下の万民が二府三司、さらには私自身を常に見守っていることを感じて、それが民の心の平安につながると信じているのだ。
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簡単にまとめさせてもらうと、実は、ここの仁宗はただ次の事だけを言いたいのだ。「皇帝は、やっぱり、辛いわ。」
※画像:百度百科「最终幻想XV(2016年史克威尔艾尼克斯发行的动作角色扮演类游戏)」より引用。日本産RPGゲームシリーズとして有名な「ファイナルファンタジー」ブランドの第十五作目。主人公が終盤の場面で仲間に語る「やっぱつれぇわ」が名台詞(迷台詞)としてネットミーム化している。
仁宗は決して楽な立場ではなく、常に民や臣下の目を意識し、専門家たちが専門家として職務をまっとうできるよう、自制しながら王としての責務を果たし続けなければならない。やっぱり、つれぇのである。
ところで、ここの長台詞の中で登場した「何不食肉糜(ヘェーブシーロウミー/hé bù shí ròu mí)」は興味深い成語だ。意味としては「なぜ肉のおかゆを食べないのか」という内容となり、「物事の本質を理解せずに的外れな助言をする」という様子を表現する。この言葉の由来は、中国の晋の恵帝(265-316年)の逸話に由来している。
激しい飢饉が国内を駆け巡った際、民が飢えに苦しんでいることを聞いた恵帝は「なぜ奴らは肉のおかゆを食べないのか」と言った。つまり、恵帝は「豪華なものを食べずに、粗末なものを食えば生きられるじゃないか」と言ったのだ。もしこの時、恵帝の目の前に民がいたら、その民はこの暗君をぶん殴っていたに違いない。「お前たちにとって『粗末な食べ物』すらも手に入らないんだ、俺たちは!」と怒鳴りながら。
これとまったく同じ状況が、18世紀のフランスでも起きたとされている。マリー・アントワネット王妃の「食べ物がないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」という発言だ。本当に彼女がそのような発言をしたかは定かではないが、この「王妃の失言」が街中を駆け巡った結果、市民反乱に猛然と火がついて王朝が転覆し、アントワネットは公開の場で斬首されることになった。先の恵帝もまた民に寄り添わない無知蒙昧な政治をし続けた結果「八王の乱」を引き起こし、国家崩壊のきっかけを作った。そして当人は48歳で急死したが、これは毒殺ではなかったかと言われている。後に王夫之は「恵帝の愚かさは古今に並ぶものがなく、これによって国が滅びた」と評価した。
そう、やはり皇帝はすべての者を見守りながら(監視しながら)、また自分も見守られている(監視されている)という意識を常に持ち続けなければならないのだ。やっぱ、つれぇ、のである。
※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第二十八集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。
作品紹介