※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①可愛い徽柔(きじゅう/huī róu)と梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)
張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の陰湿な嫌がらせ(仁宗から司馬光への下賜品の椀をわざと割って届けさせた騒動)を受けながら、仁宗たちの明哲な判断により救われた宦官の梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)。彼は書院で事務を行っていたが、その才能と良識が買われ、仁宗の居住する福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn)付きの身分となった。
同じく張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)から陰湿な嫌がらせ(夜半の祈りが巫術[呪い]行為であると指摘された事件)を受けたが、梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)の証言によって助かった仁宗と苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)の娘である徽柔(きじゅう/huī róu)は、その朗らかで奔放な性格ゆえに宦官の梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)に友達のように接するようになった。
上の場面では、徽柔(きじゅう/huī róu)が「お父さん(仁宗)から魏国大長公主(仁宗の叔母)の功績を調べなさいって言われたの」と梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)に気軽に世間話をしている。梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は「魏国大長公主は官家[仁宗]の姑母[父方の姉妹]で、国の模範となるような方ですね、様々な立派な逸話があるので書いてまとめるのは大変ですね」と応じた。徽柔(きじゅう/huī róu)はそれに対して、「いや、少しだけの文字で書けたよ!」と自慢した。
梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は驚いて、「怀吉愚笨(懐吉[私]は愚かなのでどうしてそれだけの功績を少しの言葉でまとめられるのか分かりません、とても興味があります、教えてくれませんか」と言った。文面だけ読むと少し皮肉っぽく聞こえるが、素直で向学心のある梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は本当にこれを知りたがった。徽柔(きじゅう/huī róu)はこう答えた。
徽柔:こう書いたの!「魏国大長公主好 甚好 非常好(魏国大長公主ってすごい、とってもすごい、ほんっとにすごい)」!あはは!
この会話自体の面白さに加えて、今後の徽柔(きじゅう/huī róu)と梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)の親しい関係構築の未来が暗示されている構成が"甚好 非常好"だ。それに加えて、ここでは梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)が用いた第一人称も非常に興味深い。彼は、ここで自分の名前「懐吉」を「臣(私)」の代わりに使っている。
一般的に、宮中の重臣、宦官、女官たちが皇帝及び皇族の者と話す際は「臣」「臣○○(名前)」「愚臣」「小人」「僕」といった、へりくだった第一人称を用いる。だが、これらはかなりかしこまった表現であるため、相手が子どもである場合には仰々しく聞こえることもある。
梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は徽柔(きじゅう/huī róu)とそれなりに年齢が近しく、また彼女がまだ幼いことから、あえてそれらの息苦しい第一人称を避けて「懐吉はですね、愚かなのでよく分かりません」といった具合に名前のみを用いている。このあたりの第一人称の変化はネイティブであれば自然と湧き出る表現なのかもしれないが、外国人が理解する上ではとってはちょっとした意識と知識が必要となる。
現代中国語における「私」は、ほとんどすべて「我(ウォー/wǒ)」に置き換えられている。そのために日本ほど第一人称に多彩な変化はないが、それでも文脈や関係性によっては「我」以外の表現が用いられることもある。「小弟/小妹(弟はですね/妹はですね)」「老妈/老爸(お母さんとしては/お父さんとしては)」「老子(俺様としては)」「本官(本職としては)」といった具合に、自然とその第一人称が変動するのだ。
中華世界の歴史を舞台とした物語を描き込む際は、こうした人間関係における人称の変化にも注目したい所だ。
※画像:百度百科「药屋少女的呢喃(TOHO animation STUDIO和OLM改编的电视动画作品)」より引用。『薬屋のひとりごと』は2023年に製作された漫画原作の日本産アニメーション作品で、中華風の時代劇(社会背景としては唐~宋あたり、建築造形などは清あたりの気配が強い印象)として大きな人気を博している。個人的には登場人物の人称が立場や文脈でほとんど変化しない点が気になったが、あくまでも「中華風」のアニメなので違和感はない。
②三冗(サンロン/sān rǒng)には意味と歴史があるが、改革はやむなしか
仁宗、晏殊(あんしゅ/yàn shū)、呂夷簡(りょいかん/lǚ yí jiǎn)の三名による重要な政策協議の一場面。ここで話し合われている議題は「三冗(サンロン/sān rǒng)」を改革するべきか、否かというもの。「冗」は「余る」「過剰な」という意味があり、三冗(サンロン/sān rǒng)とは「冗官(多すぎる役人)」「冗兵(多すぎる兵隊)」「冗僧(多すぎる僧侶)」を意図する。
仁宗は宝元年間(1038-1040年)に提出された「三冗」に関する奏状を引き合いに出し、「国の生産と貿易が爆発的に向上したが、一方で人員の数が三倍以上に肥大化していて、彼らを維持するために国庫が圧迫されている。これを今すぐに改善するべきではないか。」と二人に建議を持ちかけた。現代日本人としても、無尽蔵に税金を食いつぶしている役人連中を目の当たりにしているから、仁宗の提案はかなり共感を覚えるところだ。しかし、呂夷簡(りょいかん/lǚ yí jiǎn)は真っ向から否定しないまでも、老練な政治家の経験として「改革には注意をするべきだ」という意見を示した。
唐王朝時代、朝廷が適切に褒賞や役職を分配しなかったことから、朝廷以外の勢力が増大し、それが度重なる謀反・反乱へと繋がった。その教訓があるので、宋王朝では勢力を個別に拡大しそうな者たちに適当な職と俸給を当てがって、朝廷が彼らを上手に囲い込む(飼いならす)方向へ移行した。これは『西遊記』で強大な孫悟空の力を持て余した天宮が、彼に適当な職(馬飼い)を当てがった状況によく似た構図だ。したがって、歴史的に見れば冗官はただ余っているのではなく、謀反を軽減する効果もあるということである。
冗兵にしても、これは災害地で生きる糧を失った流民を武人として雇用した結果として生じたものだ。歴史的には民の救済政策、今風に言えばセーフティーネットという訳である。彼らにあてがわれている僅かな俸給は一種の福祉として機能をしており、「余っているから削らねばならない」という机上の空論を振りかざせば、かえって国家の混乱を招く危険がある。冗僧も同様で、貧困層の駆け込み先のである仏教や道教の維持費用を削減すれば、その分のひずみが民の生活を毒することになる。
※数年前よりずっと老け込んだ宰相の呂夷簡(りょいかん/lǚ yí jiǎn)。専横や癒着による不正行為が大批判された時期もあったが、この場面では身体もすっかり弱っており、若い頃の誠実さ、正直さを取り戻しているように見える。
しかし、調査によって「三冗」の国家負担が許容できない範囲であり、このままでは国家が先細りしてしまう状況であることから、仁宗は「病気を根治できぬとも、劇薬によって何とかある程度の改善をしなければならない」と決意した。というのも、戦争状態にある西夏と同盟的な関係にある北方の遼国(りょうこく/liáo guó)を宋に引き寄せる為に、増幣による更なる国庫負担が必要だったからだ。
このあたりの情勢も現代日本が共感する点が多くある。日本は公務員の過剰人員(特に国会議員、天下り官僚など)に伴う経済の停滞や国庫負担の増大、年金を中心とした福祉政策の先細り、果てしなく増え続ける政府の借金(2024年8月時点で1300兆円超)など、国内の経済的な循環が完全に破綻状態にあるにも関わらず、国際的な平和的・中立的・優位的な立場を守る為に関係各国へ大量のお金を支払い続けている。そうして経済が破綻している部分を補填するために、国が更なる民の血の提供(増税)をあの手この手で行っている。
このような不健全な経済状態がまかり通るわけもなく、いつかは劇薬に手を付けねばならないはずだが、現時点ではそれを行うことの出来る有能かつ責任感のある指導者も組織も存在しない。仮にそれに着手できる人間がいたとしても、既存の権力者たちが保身のために袋叩きをして上手く推進することはできないだろう。実際、以前の記事でも述べた所であるが、仁宗がここで決断した大改革も、残念ながら後に頓挫せざる得ない状況となってしまう。
③皇城司(こうじょうし/huáng chéng sī)
張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)は敬愛と同情の念を抱き、あらゆる側面から皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)を守ろうとしている。曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は彼に感謝と信頼を寄せつつも、それが過剰にならないよう言葉を掛けた。張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)はひどく恐縮と反省をしながら、「私は皇城司としてやるべきことをやっているだけです」と釈明し、謝罪した。
この場面で初めて、この時点における張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)の役職が言葉として登場した。彼の役職は「皇城司(こうじょうし/huáng chéng sī)」。旧称は「武徳司」で、次の明王朝時代の錦衣衛と職務が同じ。東京(開封)の左承天門内に位置し、特務機関として宮中の警護や情報収集を担う組織(役職)である。もっと端的に言えば、現代のCIA(アメリカ)やMI6(イギリス)のような機関の者というわけだ。当然、その活動範囲は皇族と政治の公私にまたがる深く広いものとなる。
本ドラマでは「従順な宮中の使用人」としての性質が押し出されている宦官(女禍を避ける去勢措置が施された宮中の男性官吏)であるが、歴史的には政治のかく乱や国家転覆の騒ぎを起こせるほどの大きな権力を持っていた時期も多い。仁宗の北宋王朝時代には権力が程よく抑えられていたが、それでも張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)のような役職に就く宦官は政治世界にも皇族や重臣たちにも大きな影響を与えることが出来た。
付け加えれば、この時点で既に張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)は精鋭部隊を動かせる立場にあったものと思われる。皇城司は三衙(中央の軍事機関)には属さず、皇帝直属の特務機関として探事司や冰井務などの下部機関を持っており、武官や内侍がその実務を担っていた。そのように動員できる部下は数千人規模であった。「皇帝直属の攻性の諜報機関」という点では、SF作品『攻殻機動隊』に登場する「公安9課」を彷彿とさせる。
このような訳で、もし皇城司の高位に付いている張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)に何らか野心や悪意があれば、政治をかき乱すことも可能であった。そして今後の物語展開において、実際はその通りになるのである。(彼に悪意はなかったのだが、結果としては大騒動を引き起こすことになるのだ。)
こうした背景ゆえに、皇城司という組織は重臣たちから批判や改善要求がなされることも多かった。たとえば、本ドラマで梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)の下賜品破損事件の際、明哲な判断を下した描写がなされた重臣の司馬光(しばこう/sī mǎ guāng)は、現実世界において「皇城司の活動について、その権限の乱用が国家の秩序を著しく乱している」と奏上している。
※画像:百度百科「攻壳机动队(日本、英国1995年押井守执导的科幻动画电影)」より引用。漫画原作のアニメーション映画化がなされてから、国内外に多大な影響を与えることになったSF作品シリーズ。近未来世界の政府内における権力闘争と技術革新に伴う倫理観の相克が交わり、独特かつ鮮烈な世界観を形成している。物語の主人公は「日本政府の首相直属の諜報機関:公安9課」に所属する草薙素子という課員だ。公安9課の組織的な立ち位置は皇城司に似ている。
④崔白(さいはく/cuī bái):北宋の宮崎駿
徽柔(きじゅう/huī róu)に鳥の書画を勉強させるべく、見本となる書画を数点選ぶように言いつけられた梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)。彼は指示を越えて、自分の判断で崔白(さいはく/cuī bái)の白鷺(しろさぎ)の作品を取り入れた。曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が「どうして崔白の絵を入れたの?」と聞くと、梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は出過ぎた真似をしたことを謝罪しつつ、「崔白は動物の観察により細かな所作をすべて理解した上でこれを描いているので、まるで活きているように見えます」といった理由を述べた。
絵の名手は動植物の外面だけではなく、その内面の構造も把握している。レオナルド・ダ・ヴィンチや宮崎駿がそうだ。彼らは動物や人間を描く際に骨格や筋肉の構造も意識している。それは絵の事物の中にエンジンとしての論理学(物理法則)を自然と適用している状態であり、それは絵の中の事物の"魂(ゴースト)"と言い換えても良いだろう。彼らは最終的な出力の際には自分なりの誇張や解釈を入れるが、基本的にはその"魂"を軸とした描かれ方を行っている。
※画像:百度百科「崔白(中国北宋画家) 」より引用。これが彼の書いた白鷺(しろさぎ)作品の一枚。崔白は濠梁(現在の安徽省鳳陽)出身で、北宋屈指の画家。花鳥画を得意とし、生き生きとした写実的な表現に優れていた。ちなみに、この巨匠の観察能力や描画能力が極めて精緻かつ丁寧であったにも関わらず、当人の性格は非常に疎放(自由気ままで楽天的な性質)であったと言われている。
⑤平甫(へいほ/píng fǔ):張茂則の別の呼び名
先ほどの「人称の変化」に関連する、興味深い一場面。曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)を「平甫(へいほ/píng fǔ)」と呼んでいる。これも初めて登場した呼び方だ。「平甫」は張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)の字(あざな)。中華世界での成人男性は、本名とは別の字(あざな)を持つのが一般的であった。本名をそのまま呼称として用いるのは無礼に当たるので、この字(あざな)や役職などの人称を用いることにより敬意と親しみを表現した。
よって、私が現在並行して書いている『恕の人~孔子伝~』について、私は孔子の本名である孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)をよく用いているが、当時の人称感覚としては不敬に当たってしまうかもしれない。伝統的な観念に従えば、私は孔子の字(あざな)である仲尼(ちゅうじ/zhòng ní)を文章に用いるべきである。ただ、学術的には「孔子」という名前が一般的に認識されているので、「孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)」を用いた方が理解をしやすいという判断をした。(それでも、現時点では出来る限り「孔丘青年」という人称を適用している。)ドラマ展開として彼が青年時代を過ぎ、先生として活動するようになった段階で、次は「孔丘先生」という表現を用いる予定でいる。
⑥美髭公(びぜんこう/měi zī gōng):関羽みたいな髭の持ち主
端午節の楽しい祝日がやってきた。しかし、例年とは違って仁宗から「お菓子」ではなく「宿題」を言いつけられてしまった徽柔(きじゅう/huī róu)。彼女は親戚の子どもたちと遊ぶ前に「欧陽学士(欧陽修)の春帖子詞」を三回書き写さなければならない。これを真面目にやっていたら遊ぶ時間がどんどんなくなってしまうので、彼女は梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)に緊急依頼を実行。彼女は梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)に「あなたって私の字を真似て書けるでしょ?お願い、手伝って!」と懇願した。
梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)はすっかり困惑しながらも、徽柔(きじゅう/huī róu)の押しの強さに押し切られて協力することになった。
一方、徽柔(きじゅう/huī róu)に「宿題」を与えて祝日を台無しにしかけた当人の仁宗も、危うく重臣たちからの「宿題」によって祝日が台無しにされかけていた。夏竦(かしょう/xià sǒng)の贈賄や不貞行為に関する奏上がなされたため、蔡襄(さいじょう/cài xiāng)らがわざわざ垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)に仁宗を呼び諌言を行ったのだ。
蔡襄(さいじょう/cài xiāng)は《礼記》の「大学」より「家が治められないのに、どうして国が治められますか?」と激情しながら諌言を実行。彼らは夏竦(かしょう/xià sǒng)のような不貞行為に関する問題や後宮の女官たちの風紀が乱れている点を改善しなければならないと訴えた。一方、仁宗は何も返事をせずに、ただ若干の半笑いでぼんやりと蔡襄(さいじょう/cài xiāng)の見事な髭を見つめていた。
蔡襄(さいじょう/cài xiāng)たちが仁宗から何の反応もないので少したじろいで、「何か変なことを申し上げましたか?」と質問。仁宗がはっと我に返って、こう言った。「いや、急に興味が出て来てな。そなたの髭はとても見事で周囲から美髭公(三国時代の関羽の愛称)とも呼ばれているそうだが、その手入れは大変であろうな。夜寝る時は服の中にその髭をしまうのか?それとも、服の外に出しているのか?」。蔡襄(さいじょう/cài xiāng)たちは唖然としていたが、仁宗はひょうひょうとして答えを待っていた。
要するに、ここまで政務において難しい調停役を務めて来た仁宗には、この程度の諌言にいちいち驚かない胆力と知性があるのである。訴えを聞いて直情型に動くのではなく、一方の声を聞けば他方の声を聞くべきだという公平な政治姿勢を貫いており、重臣たちが幾ら猛り狂っていても基本的には冷静さを失わない。この協議の席も仁宗は軽く彼らをあしらいながら、「その件については詳しく調べておいて、また後ほど協議しよう」ということで早々に解散した。
だが、後ほど、仁宗は女官たちがあらゆる噂話を好き勝手に議論し合っている状態を把握。仁宗が人徳ある名君であるために、それに女官たちが甘えているのだ。仁宗は"美髭公"たちの意見にも一理あるなと感じ、女官の名簿を届けるよう宦官に言いつけるのだった。こうして仁宗は三冗(サンロン/sān rǒng)だけではなく、「冗女」も整理する必要に迫られた。仁宗の「宿題」は依然として山積みである。
※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第二十七集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。
作品紹介