※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①傻白甜(シャーバイティエン/shǎ bái tián)
これは妓女として後宮に属していた張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)が仲間に貶められて追放されそうになり、彼女が仁宗に泣きついて「あなたの傍にいたい」と泣きじゃくって助けを乞う場面だ。彼女の指導教官である賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán:夏竦[かしょう/xià sǒng]の愛人)もこの珍事に加担し、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の願いを受け入れて欲しいと平伏する。仁宗は張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)を抱きしめて、「どこにも行かせない」と彼女の願いを受け入れた。
そんな仁宗たちの傍らで、皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)を心の底から敬愛している宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が「啊…真的假的…(えぇ…マジかよ…)」といった顔をして唖然としている。原作を知らずにドラマを追っている大半の観客も、「啊…真的假的…(えぇ…マジかよ…)」という気分になったに違いない。
中盤から終盤まで観客にとっては最悪の存在となる、寵妃の張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)が今回から主要人物の仲間入り。一般的に物語の中における嫌われ役は横暴で無能、気まぐれで無責任な人物造形が多い。しかし、彼女の場合は「無能」にかろうじて当てはまるが、その他の要素には属さない。なぜ彼女がこれだけ観客を苛立たせるのか。それは彼女の役柄が、成熟した成人であれば誰もが敬遠する「傻白甜(シャーバイティエン/shǎ bái tián)」であること、その女性を名君として描かれている立派な男性・仁宗が寵愛してしまうこと、そしてその役柄を演じる女優の王楚然(ワンチューラン/Wáng Chǔrán)が突出したプロフェッショナルであること、それぞれが関係しているように思う。
近年スラング語として流行した中国語の「傻白甜(シャーバイティエン/shǎ bái tián)」は、傻(愚か)、白(美肌)、甜(甘い態度)が合わさった若い"ぶりっこ(あざとい女子)"を意味する言葉だ。私の限られた日本の芸能情報で例を挙げると、さとう珠緒さんや田中みな実さんが視聴者からその手の「傻白甜」だとみなされていた。私はこの両名とも「傻」ではなく、むしろ聡明であると感じるが、それだけに「白甜」の部分が対比的に強調されて(意図的にそのような演出があてがわれて)一部の人々の反感を買ったように思われる。
王楚然(ワンチューラン/Wáng Chǔrán)演じる張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)も同じで、以下のような人物造形の不均衡が観客の苛立ちを掻き立てる要因のひとつとして機能をしている。
- **容姿**: 王楚然の見た目は非常に美しいため、その無邪気さとのギャップが苛立ちを生む。成熟した美貌に相反するあまりに子供っぽい行動の組み合わせが、観客に「もっと成熟した行動を期待しているのに裏切られた」という感情を引き起こしている。
- **仕草**: この傻白甜型の人物造形は、誇張された無邪気な仕草や、他者に頼りすぎるような振る舞いを多く行う。王楚然が演じる張妼晗が仁宗に過度に甘えたり、世間知らずの行動をとると、観客に苛立ちを感じさせる。
- **言葉遣い**: 無邪気でわがままに聞こえる台詞や、他人の感情を理解しないような言い回しが、人物に対する反感を強める。
直近では、王楚然(ワンチューラン/Wáng Chǔrán)の傻白甜型の役柄として私が目にしたのは『燕雲台-The Legend of Empress-(2020)』である。この物語は北宋より少し前の時代、異民族国家の契丹を題材としたもの。物語終盤での登場であったが、そこまで構築されて来た人間関係を乱す強い存在感を見事に放っていた。
※大手SNSサービス「Wechat(微信)」のステッカー例。日本語の「カマトト女」「ぶりっこ」「あざと女子」のように皮肉や軽蔑の意図があり、あまり良い意味としては用いられない。しかし、私の経験則では社会的な肩書または財産だけはある未成熟で無能な中年男性(50~60代)が本当にこういう傻白甜を大好物としている印象がある。アホ同士の周波が合うんだろうね。どうぞどうぞ、存分に仲良くやってくれたまえ。
②補足:展開は創作だが原型の人物はいる
張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)と仁宗にまつわるラブロマンスの展開は創作であるが、大枠としての歴史的な原型は存在している。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の原型となった人物とは、"温成皇后"の張氏。仁宗の寵妃であった女性で、もともとは石州の軍事推官、贈太師開府儀同三司、清河郡王尧封の次女。幼い頃に宮廷に入り、初めは侍女として仕え、その後、清河郡君に昇進した。康定元年(1040年)の10月には才人に昇進し、慶暦元年(1041年)の12月には修媛の位に進んだ。仁宗の寵愛を得て二人の娘(安寿公主、宝和公主)を産んだが、慶暦3年(1043年)の7月までにその娘たちがたて続けに逝去。これを受け、彼女は自らの願いにより位を美人に下げた。同年の10月には再び昇進し、貴妃に封じられた。
張氏との娘だけではなく、仁宗は自分の子たちが早逝するという悲劇を何度か経験している。本ドラマの主題歌にある次の箇所は、その仁宗の悲劇を意図する詩となっている。
子皆寿短储落旁(子らは皆、寿命短くして、後継は疎かになり)
その後、温成皇后は邓国公主を出産し、皇祐6年(1054年)1月8日に逝去した。享年31歳。私は「北宋王朝の寿命感覚は現代人の1.33倍」という計算式を立てている(『水滸伝』孔亮[こうりょう/kǒng liàng]の記事参照)ので、31歳は現代人における41.23歳。死後、彼女は皇后に追冊され、「温成」という諡号が贈られた。また彼女は奉先資福禅院に葬られ、陵墓の側に廟も建てられた。さらに、年中行事として彼女を祭る知制誥の祭礼が執り行われるようになった。これらの手厚い弔いからも、最愛の妃を早くに失ってしまった仁宗の深く悲しみが伝わって来る。
③皇后が《礼記》を引用
※「臣遵旨(チェンツンツィー/chén zūn zhǐ)」は「臣(臣下である自分を呼ぶ第一人称)が旨(命令)を承りました」という意味の儀礼表現。日本語では「命令を承りました」「ご指示を賜りました」といった表現が近い。
宦官の最高責任者である任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)が皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)に対して「あのような無作法で野心のある娘を妃にすることは危険です」と諌言した。任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)は本当にそのような国難を憂いている側面もあるが、新しい勢力が後宮に入り仁宗の寵愛を得ると勢力図がかき乱されるので、自己保身のためにもこれを述べている部分もある。
状況からして任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)は曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)がこれに大いに賛同するものと予測していたが、彼女はこの諌言を聞いても冷静そのもの。彼女は間を置いてからゆっくりと《礼記》(儒教の最重要経典のひとつ)を引用して、「これは官家(仁宗)が決めることで、私たちはそれに従うべきです」と答えた。彼女が引用した《礼記》の箇所は次の通りだ。
<原文>
飲食男女,人之大欲存焉;死亡貧苦,人之大惡存焉。(『礼記・礼運』)
<訳文>
飲食や男女の情愛は、人の存在における最大の欲望であり、生老病死や貧困、苦厄は、人の存在における最大の苦しみである。
要するに、曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は仁宗の良識と美徳を信じているので、「礼記に書いてあるような人間の根源的な欲望の危険性については、あの方はとっくに分かっているわけですから、私たちが心配することはありません。」と述べたのである。
④祖先や歴史に対する敬意
この場面、さりげないが中華世界らしい祖先や歴史に対する厚い敬意が表れていて興味深い。皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が名将であった祖父から貰った大切な甲冑を仁宗に譲渡し、「私の代わりに西夏戦争の現地の誰かに着てもらいたい」と願っている。これを受けて、仁宗が曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)ではなく、別の方角へ向いて「多謝曹将軍(心より御礼を申し上げます、曹将軍)と言い、深々と拱手の礼を行っている。具体的な描写はないが、おそらくその方角に曹将軍の墓または廟があるのだろう。
⑤こだい女子の髪型:丫鬟髻(やかんき/yā huán jì)
あざと女子はどうでも良いが、こだい女子(古代女子)の髪型は現代人が見ても可愛らしく風雅な点が見受けられる。今回より本格的に登場する、仁宗の妃の苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)との娘(公主)である徽柔(きじゅう/huī róu)も、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)と同様に今後の物語展開における最重要人物。この場面は康定六年(1041年)に切り替わるので、史実(彼女は1038年生まれ)に基づけば4歳の描写だ。
宋王朝時代の"こだい男子"が礼儀として必ず帽子または簪(かんざし)で髪の毛を整えていたということは以前の記事でも書いたが、一方、こだい女子の方は必ず髪を結う習慣があった。徽柔(きじゅう/huī róu)のような幼少期の女の子、また侍女などの未婚の女子がよく用いていた髪型が「丫鬟髻(やかんき/yā huán jì)」や「双丫髻(そうやき/shuāng yā jì)」と呼ばれるもの。画像にある三つのお団子頭も、この「丫鬟髻(やかんき/yā huán jì)」の変化形だ。
「丫(ヤー/yā)」はアルファベットの「Y」によく似ているが、もちろん全くの別物。語源などの因果も特になく、偶然形状が合致しているだけ。木の枝が二股に分かれている様子を形象した漢字であると言われており、こだい女子の髪型を呼称する時以外の使われ方はほとんどない。
その他、中国ドラマ『楚喬伝 〜いばらに咲く花(原題:楚乔伝)』に登場する主人公の楚喬(そきょう/chǔ qiáo)の髪型を紹介する記事を追ってみると、"こだい女子"は次のような髪型も存在したようだ。
- 1. 丫鬟髻(やかんき):上述の通り、侍女のような簡素なスタイル。
- 2. 滾辮髪型(こんべんはつがた):髪を中央で分け、髪を巻いて後ろに結う淑女風のスタイル。
- 3. 披頭散髪(ひとうさんぱつ):髪を下ろして自然な髪の乱れを演出するスタイル。
- 4. 丸子頭(まるこあたま):現代のお団子ヘアに似た、頭の上でシンプルにまとめたスタイル。
- 5. 三七分辮子式(三七分けの編み込みスタイル):三七分けにして、左側に短い髪のカーブを残し、右側には髪留めをつけ、胸前に二本の小さな三つ編みを垂らす。
- 6. 三七分蓬松式(三七分けのふんわりスタイル):このスタイルも三七分けで、前髪がふんわりとボリュームを持たせているのが特徴的なスタイル。
- 7. 中分鼓包式(ちゅうぶんこほうしき):髪を真ん中で分け、後ろにボリュームを持たせたスタイル。
"こだい男子"の髪型は現代とは全く異なるが、"こだい女子"の方はそのまま現代の髪型に転用できる艶やかさや可愛らしさがある。宋王朝は現代に極めて近い開放的な文化を楽しめるよ愉快だ。
※画像:百度百科「丫髻」より引用。こちらは典型的な二つ団子の丫鬟髻(やかんき)の人形。先ほどの徽柔(きじゅう/huī róu)はこの団子をもうひとつ加えたスタイルとなっている。
※画像:同じく百度百科「丫髻」より引用。こちらは丫鬟髻(やかんき)にふわっとしたボリュームを持たせた、柔らかいイメージの双丫髻(そうやき/shuāng yā jì)。
尚、分かりやすさを重視して"こだい女子"というくくりを設けたが、子どもであれば男の子もこの髪型が用いられていた。またある程度の年齢に達して"Girl"から"Lady"になると、財産や地位のある家庭の令嬢は先ほどの楚喬(そきょう/chǔ qiáo)の髪型における2番目以降に移行する。その年代になっても丫鬟髻(やかんき)の結いを行っている女子は地方の者、または貧しい家庭の者が多かったらしい。
唐の杜甫の詩『負薪行』には、「夔州(今の奉節)の娘たちは、髪の半分が白髪交じりで、四十五十歳になっても夫に出会えない。さらに戦乱により嫁ぐことが叶わず、一生の恨みを抱える。土地の風習では、男は座り、女は立つ。家の出入りを女が行い、十歳ほどの子供でも薪を背負って帰る。薪を売って得たお金で生活を賄っている。老いても双鬟を結い続け、首に垂らすばかり」とある。これは"こだい女子"の髪型を通じて描かれた当時の社会情勢。当時の四川省夔州地方の女性は、長年続く戦乱のために男性が著しく減少し、その結果として四十五十歳になっても結婚できないという状況が多く見受けられたという。
また、北宋の陸游(りくゆう/lù yóu)が詠んだ詩『浣花女』には、「江头女儿双髻丫,……插髻烨烨牵牛花(江辺の娘は双髻丫を結い…髷[まげ]に牽牛花を挿している)」とある。こちらは社会の厳しさや家庭の貧しさから来るものではなく、双丫髻(そうやき/shuāng yā jì)を敢えてファッションとして楽しんでいる江南女子の気風を垣間見ることができる。
※別の場面に登場した丫鬟髻(やかんき)。左にいるのは曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)、中央の男子は養子入りにより次代皇帝の候補者(皇太子)となった宗実(そうじつ/zōng shí)、右にいる女子は徽柔(きじゅう/huī róu)。宗実の髪型も典型的な二つ団子の丫鬟髻(やかんき)だ。ちなみに本作では描かれないが、宗実は後に実際に仁宗の皇帝の座を受け継いで、第五代皇帝の英宗として即位をする。仁宗時代の功臣である韓琦(かんき/hán qí)、欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)、富弼(ふひつ/fù bì)らもそのまま活躍を続けた。
⑥感情と理性の談義:曹丹姝と宗実
勉学に集中する宗実(そうじつ/zōng shí)が曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)に深く鋭い質問を行い、これに対して曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)も深く鋭い回答を行う対談の場面。二人の落ち着いた演技が素晴らしく、また内容も実に良い。
宗実:胡先生讲诗 说诗是表达了人的 喜 怒 哀 乐 也就是情 胡先生说 孔圣人尤其重视 让弟子学诗(胡先生は詩について語り、詩は人の喜怒哀楽、つまり感情を表現しているものだと言いました。また、胡先生は孔子[孔聖人]が特に詩の重要性を重視し、弟子たちに詩を学ばせたことに言及しました。)
曹丹姝:情发于外 成诗成乐 抑扬顿挫 反复呤咏间 尤为感人(そう、感情が外に表れると、詩や音楽となります。抑揚のある調子や調子の変化、繰り返しの吟唱の中で、特に心に響くものとなります。)
宗実:还没进宫之前 王府的先生讲 上天给人的性是善的 如果能保住先天的本性 不被情所惑 就可以做圣人 君子 但是大多数人都被情所惑 丧失了原来的本性 就会作恶 情是害性的 所以情是不好的 娘娘 到底哪个是对 哪个是错呢(でも、まだ宮廷に入る前に、王府の先生がこう教えていました。「天が人に与えた本性は善である。もしその先天的な本性を保ち、感情に惑わされなければ、聖人や君子になれる。しかし、多くの人は感情に惑わされ、元の本性を失ってしまうため、悪を行うようになる。感情は本性を害するものであり、だから感情は良くないものだ」と。それでは、娘娘[皇后様]、この教えのどちらが正しくて、どちらが間違っているのでしょうか?)
曹丹姝:关于情的论辩 先奏大儒和汉儒 解得不同 娘娘并非博学鸿儒 定也不能讲透彻 不过娘娘来试试(感情についての議論は、かつて大儒と漢儒の解釈が異なっていました。娘娘[私]は学識豊かな学者ではないですから、完全に理解することは難しいかもしれませんが、それでも試しにお話ししてみましょう。
曹丹姝:你看 这申时的太阳 与午时的太阳 未时的太阳 颜色 大小 光芒都不相同 那么从此地看 与从在湖上看 在屋顶上看也不尽相同 太阳都是同一个太阳 但是我们看的时辰不同 地方不同 看到眼里的样子便也不同 那么呤咏的的诗句 写的文章便也不同 不同却不能说谁是不对的 (見てください。この申の刻の太陽と、午の刻や未の刻の太陽は、色や大きさ、光の輝きが異なります。同じ太陽ですが、ここから見るのと、湖の上から見るのと、屋根の上から見るのでは、見える姿も少しずつ違います。同じ太陽なのに、見る時間や場所が異なれば、見える姿も異なるのです。だからこそ、詩や文章に詠み込まれる内容も変わってきます。異なるからといって、誰かが間違っているとは言えないのです。)
宗実:娘娘是说 虽然从前的先生汫 情是不好的 而胡先生讲 情不一定是不好的 他们讲的不同 却都不是错的 (娘娘[皇后様]がおっしゃるのは、以前の先生は感情は良くないと言っていたけれど、胡先生は感情が必ずしも悪いものではないと言っている。彼らが言っていることは違うけれど、どちらも間違っているわけではないということですね。)
曹丹姝:性乃至纯 生而具备 譬如仁爱孝悌 而情是人与外物 性受外物所激而生的 欢喜悲伤 眷恋哀愁 我想所渭会乱性 又仍为恶的情 是滥情 没有节制 放纵喜怒 肆意妄为 伤人伤己的情 而胡先生所讲的 是由心而发 却又能止乎于适度的情
(本性は純粋で、生まれながらにして備わっているものです。たとえば、仁愛や孝悌の心のようなものです。しかし、感情というのは、人が外の事物に影響を受けた結果、本性が刺激されて生じるもので、喜びや悲しみ、恋慕や哀愁といった感情が生まれます。私が思うに、本性を乱し、悪となる感情というのは、節度を欠いた「滥情(らんじょう)」です。つまり、制御が効かず、喜怒を放縦し、勝手気ままに振る舞って、自分も他人も傷つけるような感情です。しかし、胡先生が言っているのは、心から発せられた感情でありながら、節度を守って適度に止められる感情のことです。)
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「知者过之,愚者不及(知者は過ぎて、愚者は及ばず)」。宗実の二人の先生の教えは足りず、曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は少し教え過ぎている感のある場面。ともあれ、彼女が語っていることは人間の本性に関する真理の一側面であり、これは同時に仁宗が張妼晗という女性を愛する事になった出来事の彼女なりのアンサーにもなっている。本当に上手な構成だ。
短くまとめると、宗実は「人間にとって大切なのは理性を保って感情を節制することですか、それとも感情を優先して理性を節制するべきですか?(理性と感情、どちらが大切ですか?)」という質問を行って、曹丹姝が「どちらも状況によって重要性の度合いが変わるけど、とにかく感情も理性も適度に持つことが大事だよ」と答えているということになる。
この「理性か、感情か」という議題で言うのなら、作家ドストエフスキーの『罪と罰』で、理性を追求したロージャが殺人者となり、感情を追求したスヴィドリガイロフが自殺者となった結末が非常に明確な対比構造を示している。理性を追求すれば他人を害し、感情を追求すれば自分を害する。どちらも過ぎれば破滅をするという点では同じである。先の『論語』の一節、「知者过之,愚者不及」で体現されている中庸(もっとも最適な状態)を維持する人生の在るべき姿勢、これが極めて重要なのだ。
私はこの中庸の論理学発明をさらに自分なりに更新している。以前の記事でも再三取り上げている通り、人間の本性(本能)を「生存欲求(生きたい)」「知的欲求(知りたい)」「関係欲求(繋がりたい)」に分解し、このそれぞれの欲求を制御することにより中庸の状態を保てると考えている。その状態を保つことの出来る人物が、孔子の説いた「君子」であると私は理解している。
※今回の題材として用いたのは、中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第二十集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。
作品紹介