天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『水滸伝』舞台の宋王朝の朝廷言葉など19:『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』

※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①五更(ウーゲン/wǔ gèng)

西夏宋王朝で戦争が起きようとしている。抗戦するべきか、融和するべきか。仁宗はその選択に迫られ、福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn)でひとり深夜まで机の上で熟考を重ねていた。いつの間にかそのまま寝てしまい、ハッと気が付いた時は五更の時。これは夜間帯を表現する当時の時間単位。(以前の記事でも十二支を用いて十二の時間帯に区分する宋王朝の時間単位を取り上げたが、これはまた別の定義となる。)

 

五更(ウーゲン/wǔ gèng)の「更(gèng)」は小さな鼓を意味する。夜間の時刻を、「更(gèng)」の鼓を打つことにより周囲に知らせる方式が用いられるようになった。この経緯から、単純に「五鼓」とも呼ばれた。詳しい区分は次の通りだ。

 

- 黄昏 一更(一鼓) 19~21時

- 人定 二更(二鼓) 21~23時

- 夜半 三更(三鼓) 23~01時

- 鶏鳴 四更(四鼓) 01~03時

- 平旦 五更(五鼓) 03~05時

 

早朝に目が覚めて、ある決意を胸に垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)へ向かう仁宗。一方、垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)では抗戦か融和かを巡り、重臣たちが強い討論を重ねていた。

 

張宰相は融和政策を優先するべきだと考えており、西夏の指導者である李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)に爵位を与えれば一定の和平状態を保てるのではないかと言う。しかし、保守的な考えを嫌う情熱的な官僚の蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)が次のように断じる。

 

蘇舜欽:给我朝下国书上人 改名 嵬名曩霄 以青天子自居 自土上帝号 世祖始文本武兴法建礼仁孝!张相 想让官家下昏削什么 去什么 已经被弃之若敝履的 国姓爵位吗!(我々の王朝に国書を送ったその不届き者は、嵬名曩霄という名に改名し、青天子を自称して、世祖始文本武兴法建礼仁孝などと自国領土の上帝の称号を名乗ったのです!張宰相、奴は官家[仁宗]に対し、何を削り取ってやろうか、何を取り去ってやろうかとばかり考えています!奴が欲しいのは国そのもので、すでに使い古されて捨てられた宋の国姓や爵位ではありません!)

 

ちなみに、日本DVD版の字幕では李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が「(宋王朝の真似をして)礼と孝の法を自国に採用したと言います!」といった内容の翻訳を当てていたが、これは原語では言っていないと思われる。おそらく、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が自称した皇帝の名称「世祖始文本武兴法建礼仁孝」の後半部である「法建礼仁孝」を誤って訳してしまったのだろう。ただし、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が宋王朝の法律や官僚制度などの政治システムをほとんど完璧にトレースし、"コピー国家"として勢力を伸長させたという点は事実である。

 

②放肆(ファンスー/fàng sì)!

その後もあまりに過激な言葉や批判が飛び交うので、温和な張宰相もついにブチ切れムードに。「放肆(ファンスー/fàng sì)!」と怒鳴っている。これは「規則や礼儀を無視して、勝手な振る舞いをする」 という意味を持つ熟語表現で、ニュアンスとしては「無礼者め!」「勝手なことを!」「なんと図々しい!」といった具合になる。

 

しかし、蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)たちはまったくひるまず、「本当の『放肆』は西にいる!あの夷狄(いてき/yí dí:異民族の蔑称)の奴らに、二十五年間、宋は礼儀を尽くし過ぎた!」と反論。完全に議論の収拾がつかない状態だ。

 

③仁宗が朝堂に入り決断を語る:「親征」

抗戦と融和、それぞれの考えが大衝突して完全な分断状態となってしまった重臣たち。そこに仁宗が垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)に到着して、次のように重臣たちに質問をした。

 

 

仁宗:朕少年时 诸位鸿儒为朕讲经 论治囯之道 讲到 孟子曾劝谏梁惠王道 天下百姓无不盼 能有不嗜杀不好战的君子 若真有这样的仁君 万民归心 天下大统 诸位 俱都是孔孟门生 有不少儒家大家 此时朕倒是想问问 亚圣说的那句活 说得到底对还是不对 若是不对 诸位在劝谏朕 为政要宽仁之时 为何常提 若是对 那么朕 不愿贝烽烟起 白骨堆 不愿轻起战端 却为何未能使得 党项族人归心 反是养了豺狼(私が若い頃、様々な学者が私に経典を講義し、国家を治める道を論じてくれた。その際、孟子が梁の恵王に進言した話を聞いた。孟子は、『天下の民は誰しも、殺戮を好まず、戦を欲しない君子を待ち望んでいる。もし本当にそのような仁君がいるならば、万人の心がひとつとなり、天下は統一されるだろう』と言ったと。諸君たちは皆、孔子孟子の教えを受けた学者であり、儒家の大家も少なくない。今この時、私はふと思い立って、あの孟子の言葉が本当に正しいのか諸君に尋ねたくなった。私が西夏との戦争を欲しないということが正しくないのなら、なぜ君たちは、普段私に政治を行う際に寛仁であれと進言し続けるのか。逆に、もし私が西夏との戦争を欲しないということが正しいのなら、私はこのまま戦乱の火種を起こしたくないし、無意味に白骨が積み上がることを望むわけもないのだが、どうして党項族[西夏の民族]の人々の心を得ることができず、かえって彼らを豺狼[山犬や狼:転じて残酷で欲深い者を意味する]のような存在に育ててしまったのか。)

 

戦争を起こさずに平和を保とうと努力し続ける君主こそが「万民归心 天下大统(万民の心がひとつとなり、天下を統べる)」名君であると教わり、これを実践し続けて来た仁宗。しかし、今はその寛容な態度が重臣たちの批判の的になっている。仁宗は「孔子孟子の教えが間違っているのか、私が間違っているのか」と聞いているのだ。

 

 

この仁宗に問いかけに、蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)が答える。

 

蘇舜欽:微臣以为 亚圣自没有说错 天下的百姓 当然想要安居乐业 不起战火 他们喜欢不爱杀人的君王 但是说到底 他们需要的 是可以保护他们的君王 他们只会归附于 能让嗜杀者惧怕 并臣服的君王 而绝不会归附于 对嗜杀者退让的君王(私の考えでは、孟子[亞聖/亚圣]は決して間違ってはいません。天下の百姓は当然、安居楽業を望み、戦火が起こらないことを願っています。彼らは、殺戮を好まない君主を好むでしょう。しかし、結局のところ、彼らが必要としているのは、彼らを守れる君主です。彼らが帰順するのは、残虐な者たちに恐れを抱かせ、彼らを従わせることができる君主であり、決して、残虐な者たちに対して譲歩する君主には帰順しないのです。)

 

蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)はこう言いたいのだ。「譲る」と「護る」には違いがあると。君主や政治家は安寧を求めてただひたすらに周囲に妥協するのではなく、真の和平と発展を求めて戦わねばならない時もあるのだと。仁宗はこれに大きく相槌を打った。おそらく、彼は最初からこのような意見が来ることを予想していたのである。そして、仁宗は次のように続けた。

 

 

仁宗:苏卿解得好 翰林院即刻拟诏 调动禁军 讨伐逆贼 朕 要御骂亲征(蘇卿[蘇舜欽]の説明は見事だ。翰林院はすぐに詔書を草案せよ。禁軍を動員し、逆賊を討伐する。私は自ら戦場に立ち、敵を打ち負かす覚悟だ。)

 

騒然とする一同。抗戦を訴えていた蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)韓琦(かんき/hán qí)と韓琦(かんき/hán qí)が顔を見合わせて唖然とし、一瞬言葉を失った。西夏との戦争は彼らの望むべきものであったが、まさか軍に皇帝が直々に同行する「亲征(親征)」の決断が下されるとは思いも寄らなかったのだ。

 

 

先ほどまで言い争っていた重臣たちが、今度はひとつにまとまった。彼らは今回の戦争において仁宗を危険に晒す意味まではないと考えていたので、全員がそれぞれの根拠を用いて「親征」の取り下げを諌言した。張宰相も、以前取り上げた朝廷言葉である「請陛下三思(チンビーシャーサンスー/qǐng bì xià sān sī:陛下、どうかよくお考え直しください)」と述べた。

 

④親征の決意と挫折

 

仁宗が親征を決断した根拠を示す。親征は宋王朝における軍事活動の不具合を改善する唯一の手段であると彼は語る。

 

確かに、「親征」には非常に多くの優位点が存在する。第一に、軍の士気が格段に向上する。皇帝自らが前線にいる事による影響力は凄まじく、これによって兵士たちは普段の何倍もの力を発揮することができる。

 

そして第二に、これが極めて宋王朝では重要なのだが、軍の決定速度が爆発的に改善し、戦況に応じた臨機応変の対応ができるようになる。宋王朝は「文重武軽」の徹底した政治システムで、軍の決定権は全て朝廷の文官たちが掌握をしている。これは唐王朝時代の問題を改善した結果の産物。唐王朝時代は地方の軍部に大きな決定権を持たせ、それによって軍事大国となったが、最終的にはその軍部が力を持ちすぎて国家の崩壊につながった。

 

このため、宋王朝では通常の有事においては地方で軍が戦っていても現場の決定権が極めて限られており、重要な決定は常に朝廷(中央政府)に軍事行動の是非を問わなければならない。これでは現場で何か緊急事態が起きてもすぐに兵士たちが対応が出来ず、早馬で報告の往復がなされている間に戦況がまた変わってしまう。これは震災によって原子力発電所が今まさにメルトダウンを起こしかけている状況で、命を賭けて戦っている現場の職員たちが「炉心棒を冷やしても宜しいでしょうか?」と政府にお伺いを立てるようなもの。当然、そのような歪曲的な決定機構では緊急事態を制することなどできやしない。

 

実際、これは私が上海にいた頃もよく目にしていた「分割統治」に関するビジネス問題であった。上海が一気に経済成長を遂げた段階で多くの日系企業が現地に参入したが、多くの企業が現場の人々(支店)にほとんど裁量権を与えず、常に本社の稟議(りんぎ:従業員が起案した提議について、承認をもらうために複数人の役職者に回覧と合意を取り付ける作業)を要求した。しかし、上海のビジネス世界のスピードや性質は日本とは全く異なるものであったので、このような中央集権型の企業は現場で問題が起こると常に対応が後手に回った。そして、多くの場合、この手の「日本式」を貫いた企業はチャイナドリームに失敗した。

 

※画像:百度百科「优衣库(日本服装品牌)」より引用。ここは上海・浦西地区の中心街、南京西路沿いにある旗艦店(フラッグシップショップ)だ。最近の様子は分からないが、私がこのあたりを歩いていた頃はいつでも客でにぎわっていたことを思い出す。

 

一方、上海で大成功を遂げた日系企業、たとえばファーストリテイリクング社(ファッションブランド「ユニクロ」を展開する日系企業)などは、分割統治、すなわち現地に多くの裁量権を与える機動性の極めて高い組織を構築したと言われている。これは一種の親征のようなものであり、現地に皇帝のような決定権を持つ人材がいるので責任と決定の所在が非常に明確かつ身近であり、それだけに現地組織が自由自在に動きやすい。中央集権型か、分割統治型か。どちらが正しいという訳ではないが、中国進出においては主に後者の企業が成功に至った印象が強い。

 

これも中庸(バランス)が大切であろう。中央集権型は起動性を失うが、安定性を確保できる。分割統治型は安定性を失うが、機動性を確保できる。状況に応じてこのスイッチの切り替えが出来る組織が、荒々しい社会の波を制する覇者となり得る。

 

 

さて、仁宗は「親征を行うかどうか」ではなく、「親征の詔書をどう書くか」について、重臣たちに議論を要求した。その議論の時間は「蝋燭二本分」であった。仁宗の決意は揺るぎないものであったが、晏殊(あんしゅ/yàn shū)の強い諌言によって挫折をした。晏殊(あんしゅ/yàn shū)は仁宗に世継ぎが無いこと、しかも皇太子も立てていない現状を指摘し、もし仁宗の身に何かあれば国難に陥るという点を強烈に指摘したのである。

 

仁宗は暗い顔をして、その意見に従って親征の決定を取りやめた。そして、仁宗は立て続けに従兄の第13子 宗実を養子に迎え、これを皇太子とすると言い、そのまま朝堂をひとりで出て行ってしまった。蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)は晏殊(あんしゅ/yàn shū)のことを"八方美人で意気地なし"と心の中で揶揄していたので、晏殊(あんしゅ/yàn shū)がそのように強固な姿勢で意見を奏上したことに心から感服した。

 

しかし、晏殊(あんしゅ/yàn shū)の気持ちは複雑であった。実母の件にせよ、皇后の件にせよ、今回の親征の件にせよ、仁宗が皇帝ではなく人間であろうとしたとき、晏殊(あんしゅ/yàn shū)は常にこれを止める役回りを徹底していた。国家の為を想ってこその行動であるが、仁宗には心から申し訳ないという罪悪感があった。

 

⑤求仁得仁(チューレンダーレン/qiú rén dé rén)

 

西夏戦争の件で、皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)も何かと思い悩んでいた。仁宗との関係にも距離がある。こうした時、いつも心の底から自分を敬服して苦境を癒そうと努力してくれるのが、宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)。張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)は彼女の囲碁勝負の相手をした後、彼女に慰めの言葉を掛けた。

 

その言葉が、「娘娘求仁得仁」。「娘娘(ニャンニャン/niáng niáng)」は何度か取り上げている通り、皇后の尊称。「求仁得仁(チューレンダーレン/qiú rén dé rén)」は、字面通り「仁(思いやり)を求めれば、仁を得られる」という意味になる。日本DVD版では「求める者は与えられる」という、なんともキリスト教風味の翻訳が当てられていたが、これは儒学的な表現ではないのでニュアンスが全く異なる。

 

「求める者は与えられる」は「神に求めれば、神から恩恵を得る」といった形而上学的な意味合いが強い。一方、「仁を求めれば、仁を得る」の意図は、「自分が理想とする徳や目標を追求すれば、それが最終的に実現する」という内容であり、神や天意との因果はない。あくまでも「道を究めようと努力を続ける者は、その道を必ず究められるだろう」といった求道者の在り方を示す、人間目線の論理である。

 

⑥補足:論語・述而

※画像:百度百科「冉求(中国春秋时期历史人物)」より引用。冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú)の姿絵。

 

「求仁得仁」の出典は『論語・述而』だ。原文は以下の通りとなる。

 

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冉有(问子贡)说:“老师会帮助卫国的国君吗?”子贡说:“嗯,我去问他。”于是就进去问孔子:“伯夷、叔齐是什么样的人呢?”(孔子)说:“古代的贤人。”(子贡又)问:“他们有怨恨吗?”(孔子)说:“他们求仁而得到了仁,为什么又怨恨呢?”(子贡)出来(对冉有)说:“老师不会帮助卫君。”

 

孔子の弟子である冉有が、兄弟子の子貢にこう尋ねた:「先生は衛国の(暗君)である君主を助けるのでしょうか?」子貢は「うん、私が聞いてみるよ」と言って、中に入り孔子に尋ねた:「伯夷と叔斉とはどのような人でしょうか?」孔子は「それは古代の賢人だね」と答えた。続けて子貢が「彼らは怨みを抱いたことがあるでしょうか?」と聞くと、孔子は「彼らは仁を求めて仁を得たのだから、何を怨むことがあるだろうか」と答えた。子貢は外に出て、冉有に「どうやら先生は衛国の君主を助けないおつもりだ」と伝えた。

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この会話内容は補足が必要だ。孔丘先生(孔子)は弟子たちを引き連れながら、自身の論理学を国家運営に採用してくれる君主を探していた。ここで孔子一行が向かったのが衛国。この国の君主は暗君(愚かで無責任な君主)であったが、彼に上手く取り入れば安定した地位と俸禄が得られる状況にあった。ここで、弟子の冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú)が兄弟子の子貢に対して、「先生は衛国でどう立ち回るつもりなんだろうか、俺たちはここで官職を得られるんだろうか」と質問をした。

 

子貢(しこう/zǐ gòng)は「先生に聞いてみる」と言って、孔子のもとに向かった。子貢は直接の質問ではなく、晏殊(あんしゅ/yàn shū)のように少し回りくどい表現で次の質問を行った。「伯夷(はくい/bó yí)と叔斉(しゅくせい/shū qí)を、先生はどう考えますか?」

 

この二名は古代の商王朝の時代で壮絶な最期を遂げた兄弟だ。彼らはもともと孤竹君(こちくくん/gū zhú jūn)の息子。二人ともあまりに真っすぐな人間で、武王が商王朝を打倒して周王朝を建国した時、武王の仁義忠孝の無さに義憤を覚えて「周王朝のものは一切口にしない」と決意。名家に生まれた有能な彼らはどこでも要職に就くことが出来たが、敢えて首陽山に隠棲し、日々野菜を食べて生活した。しかし、彼らはその野菜すらも周王朝の土で生まれたものだと考え、自分たちの信念に基づいてそれを食べることすらも止めて、最終的に餓死をするという選択に及んだ。

 

子貢(しこう/zǐ gòng)は孔丘先生が何と答えるか想像した。もし「二人は融通が利かない真っすぐ過ぎる人物だった」とでも言えば、それは人生においては信義よりも生活を優先するべき時があるという意味であり、今の先生も衛国の暗君に汲み入る選択をするかもしれなかった。しかし、逆に先生が「二人は偉人だ」と言うのなら、それはどのような時であっても信義を曲げてはならず、それを曲げないからこそ道を究められるという意味を持ち、今の先生が暗君から離れる選択をするかもしれなかった。

 

結果は、後者であった。子貢(しこう/zǐ gòng)が「二人はあんな結末になって、恨みや悔いがひとつもなかったんでしょうか?」と聞くと、孔丘先生は「彼らは仁を求めて、仁を得たのだよ。それに対して、どのような恨みや悔いがあるというのだい。」と答えた。このような訳で、子貢(しこう/zǐ gòng)は「なるほど、先生の信義は揺るがないんだ」と考え、冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú)のもとに戻って「先生はこの国を離れるつもりだ」と言ったのだ。

 

※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第十九集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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