天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『西遊記 1986』の興味深い中国語メモ20

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①唉(アァイ/āi)

日本DVD版でカットされている冒頭の場面。ここは朱紫国。国王が病に伏せっており、重臣たちも成す術がなく困り果てていた。ここで家臣が「唉 陛下的病不但没治好还又重了(はぁ、陛下の病は治らないどころか、さらに悪化してしまったではないか)」と話している。

 

この「唉(アァイ/āi)」は現代でも日常的によく耳にする簡単表現だ。発音記号はāi(アイ)になるのだが、この通りに発音されるケースはほとんど無い。適切なカタカナ発音にすると「アァイ…」といった具合で、ため息をつきながらそのついでにアとイを吐き出すといった発声になる。日本語で言うと「はぁ…」「あぁ…」がもっとも近く、ニュアンスとしては「やれやれ…」「まったく…」といった性質を持つ。

 

※大手SNS「Wechat(微信)」のステッカー例。ハムちゃんも猫ちゃんもため息をついて残念がっている様子が確認できる。

 

以前取り上げた、日常的な感嘆表現としては「哎呀(アイヤー/āiyā)」もある。「唉(アァイ/āi)」と「哎呀(アイヤー/āiyā)」は意味合いが近い感嘆表現だが、ニュアンスや使い方には違いがある。

 

  1. **「唉(āi)」**

- **主なニュアンス**: 失望、嘆き、ため息、不満

- **使用場面**: 重く、ネガティブな印象。何かがうまくいかず、落胆や失意、諦めを感じた場面でよく使われる。

- **例**:

「唉,我真没想到会这样。」(ああ、本当にこうなるとは思わなかった。)

「唉,事情怎么变得这么复杂了?」(はあ、どうして事態がこんなに複雑になったんだ?)

 

  1. **「哎呀(āiyā)」**

- **主なニュアンス**: 驚き、軽い驚嘆、焦り、時には軽い叱責

- **使用場面**: 文脈によって重さと明るさが変わり、軽く愉快なトーンでも用いることができる。ある突発的な出来事や話などに驚いたり、困ったりして、軽い焦りや驚き、場合によっては相手や出来事を批判したい場面でよく使われる。

- **例**:

 「哎呀,我忘了带钥匙!」(あっ、鍵を忘れちゃった!)

 「哎呀,真是不可思议!」(えぇっ、マジで不思議!)

 

※画像:百度百科「JOJO的奇妙冒险(荒木飞吕彦创作的漫画)」より引用。左から四番目の学ランを着た男が第三部主人公の空条承太郎

 

若干話が横道に逸れるが、日本の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を代表する有名な登場人物の口癖に「やれやれだぜ」というものがある。これは第三部の主人公である空条承太郎が繰り返し口にしていたものだ。この「やれやれだぜ」は、意味としてはこの「唉(アァイ/āi)…」を当てはめることができるが、彼の独特の味わいある個性、そして冷静さと適応力(「面倒だが仕方ない、俺がなんとか解決してやる」の意)を表現しきれない。

 

百度で調べてみると、「やれやれだぜ」は中国語で「哎呀呀(おいおい)」「哎呀真是的(本当にもう)」、「傷腦筋(脳が傷つくぜ=面倒なこった)」、「真是夠了(いい加減にしろ)」といったニュアンスで解釈されているようだ。字面のインパクトを重視すれば「傷腦筋…」が良さそうだが、キャラクター性や絵柄との親和性を考えると「真是夠了」あたりが最も適切のように感じる。その他、別の候補としては「没办法(メイバンファー/méi bànfǎ:仕方ねぇ)」「真是麻烦(ツェンシーマーファン/zhēn shì máfan:本当に面倒だぜ)」も悪くないと思う。

 

②補足:誒(エイッorエーイ/ēi)

「唉(アァイ/āi)…」と字面が似ている「誒(エイッorエーイ/ēi:中国の簡体では「诶」)」も日常的な感嘆表現だ。私の個人的な印象ではあまり上海(華南)では聞かない気がする。北京や天津(華北)でよく聞く気がするのだが、そこまで地域性はないかもしれない。おそらく全国的に使われている表現だと思われる。

 

上のSNSステッカーの猫ちゃんの使い方、「誒…(エィッ…?)」はあまり一般的な使われ方ではないかもしれない。これは「哎呀(アイヤッorアイヤー/āiyā)」の一歩手前の小さな驚きを示し、日本語としては「はっ…?」「えっ…?」という意味になると思われる。よく使われるのは下の女優さんのステッカーのように「唉?!(エーイ/ēi)」と大胆に相手に押し付けるように発音するやり方で、その意図は呼びかけや注意喚起などになる。日本語としては「はぁ?!」「ねぇ!」といった具合になるだろう。

 

使い方の例文としては、次のようなものがある。

 

 「诶,你看!(エーイ、ニーカン!)」→ねえ、見てよ!

 「诶,我在这里!(エイッ、ウォーザイツァーリ!)」→おいっ、こっち!

 「诶,是这样啊。(エェイ、シーチェヤンア)」→あぁ、そうなんだ。

 

発音記号は「ēi」だが、上のように文脈によってイントネーションや発音方法が微妙に変化する。このあたりの言語感覚はネイティブの領域だ。

 

※先ほどの会話の次の場面で登場する「哎哎(アイアイッ/āi āi)」も感嘆表現の一種で、こちらはかなりオールマイティーな言葉。誒(エイ)の持つ「呼びかけ」「注意喚起」、哎呀(アイヤ)の持つ「驚き」「困惑」、唉(アイ)の持つ「批判」「叱責」、そのすべてをイントネーションや文脈に応じて表現することができる。この場面では「呼びかけ」の意図が含められ、「哎哎 你们看 那边又来了个太医(おいおい、見ろよ、あそこにまた太医[医師]が来たぜ)」と話している。

 

③嘴脸(ツイリャン/zuǐ liǎn)

以前、女ばかりの西梁女国で玄奘たちが幽閉状態になってしまった時、猪八戒が的外れな発言を繰り返して、玄奘孫悟空から交互に「住嘴(ツゥーツイ/zhù zuǐ:黙れ)!」と言われてしまったことがあった。この嘴(くちばし)は拒絶や罵倒の表現によく含まれる単語で、今回は玄奘が「嘴脸(ツイリャン/zuǐ liǎn)」と叱っている。日本語としては何が適切だろう。脸(リャン/liǎn)が「面構え」「顔」の意味なので、「嘴脸(ツイリャン/zuǐ liǎn)」は「間抜け面」「馬鹿げた態度」といった訳し方が妥当だろうか。

 

 「你收起那副嘴脸来!」(そのアホみたいな態度をやめろよ!)

 「别摆出那副嘴脸,收起来!」(そんなバカみたいな顔するな、やめろ!)

 

したがって「收起嘴脸来(shōu qǐ zuǐ liǎn lái)」は、「その間抜け面を引っ込めなさい」、もっと簡単に言うと「馬鹿なことをするのはやめなさい」という意味になる。この場面、猪八戒が市場で楽しくなってしまい「その商品見せてよ」と商人に聞いただけなのだが、相手が精妖であることに驚いた町民たちがてんやわんやで逃げ出して大混乱になってしまったので、玄奘がこれを叱っているのだ。猪八戒にしてみれば何とも理不尽だが笑える場面である。愛するべきキャラクター、猪八戒

 

この後、玄奘はひとり急いで国王のもとに通行証をもらう手続きのために謁見へ向かうことになる。一方の孫悟空たちは朱紫国の市場に張り出されていた黄色い命令書(皇帝直々の職名資料:必ず皇帝を象徴する黄色い紙や布が用いられる)を通じて、「国王の病気を治した者には国の土地半分を褒章として贈る」という政策が出されていることを知る。

 

ドラマ版の設定としては、国王の病というは一種の精神病。その原因は三年前、皇后の金聖宮娘娘が精妖の賽太歳にさらわれてしまったことに端を発していた。ただし、金聖宮娘娘は神仙が急遽届けた棘の衣によって守られており、賽太歳は彼女に触ることが出来ずにいた。

 

※データ容量の関係でことごとく重要な場面を削除している日本DVD版で、こちらもカットされてしまった場面。さらわれた金聖宮娘娘を不憫に思った神仙の紫陽真人が、彼女に賽太歳から身を守るための棘の衣(霞衣)を譲渡している。

 

④補足:榜子(バンズ/bǎng zǐ)

孫悟空が市場に貼り出されていた榜子の内容に興味を持ち、榜子を操作して猪八戒のもとに飛ばす場面。町民が「哎 榜子怎么飞了(あれぇ 榜子がどうして飛んでいっちまうんだ)」と驚きの声を上げている。哎(アイッ/āi)は先述の通り、感嘆表現だ。この場面では「哎呀(アイヤッ/āiyā)」にしても良い。

 

この場面における「榜子(バンズ/bǎng zǐ)」は「国王の勅命資料」という意味合いで使われている。「榜」はもともと船で用いる木片を意味し、転じて「掲示する」「表示する」という意味を持つようになった。日本語ではあまり馴染みが無いが、僅かに「標榜(ひょうぼう:主張や事実を示すこと)」という言葉が見受けられる。

 

榜子(バンズ/bǎng zǐ)は時代や文脈によって異なる意味があるので、必ず国王の勅命資料を意図する訳ではない。主には「1. 奏事(皇帝への提議や報告)に用いる文体」「2. 名刺や名帖」「3. 告示や公告」「4. 模範や手本」「5. 船夫や舟人」という五つの意味がある。具体的なそれぞれの意味合いは次の通りだ。

 

<奏事に用いる文体>

これすなわち「奏折(そうせつ)」とも言う。宋王朝時代の孔平仲による『孔氏談苑』に「謯幎梗状(特定の形式に則った奏文の一種)を榜子と呼ぶ」とあり、「唐王朝時代の人々が奏事を行う際、表や状に当たらないものを榜子と呼び、また『録子』とも称し、今では『札子』と言われる」と書かれている。『宋史 職官志二』には、「翰林学士院では、すべての奏事に榜子を用い、三省・枢密院に関白する際には諮報(しほう)を用いる。」とある。つまり、宋王朝時代の榜子(札子)は、非公式な性質を帯びた(奏表・奏状ではない)臣下から皇帝への報告書、提案書のとして用いられたことになる。

 

<名刺>

榜子は現代で言う所の「名刺」のような資料としても呼称されたようだ。宋王朝時代の『張協状元』第三十五出には、「状元様、万福を!どうかお怒りを鎮めてください。私は榜子(名刺)を持って参賀しておりません」と書かれている。清王朝の俞樾は『茶香室続抄』で「紹興初年、百官が互いに会う際には榜子を用い、役職と名前を直接書いた。今では手本式になっている」と記されている。

 

<告示、告知>

これが今回の孫悟空たちが目にした「榜子」だ。宋王朝時代の景定四年(1263年)に黎靖德が編纂した『朱子語類』の巻127には、「当時、人々は骨肉が離散し、道沿いに榜子を貼って告示をしていた」とある。ここでは社会の動乱によって骨肉(家族)が離散状態になってしまい、道沿いに家族の行方を求める貼り紙(榜子)がずらりと並んでいた悲惨な光景が描かれている。

 

<模範、手本>

明王朝時代の王衡の『郁輪袍』第七折には、「このため、維摩居士が王維に、儒童菩薩が裴迪に変化し、故意に会おうとして会わないという態度を取り、一世を傲視し、千古を凌駕し、世の人々に榜子(手本)を示した」とある。

 

<船頭、船夫>

宋王朝時代の梅堯臣による『望芒砀山』という詩に、「舟を出して古い岸に跳び上がり、林の外に修岡(高い山)を見た。振り返って(あの山は何だと)榜子(船夫)に聞いたところ、前方の峰は芒砀山ということであった。」とある。また、清王朝時代の周亮工の『将发剑津病甚扶掖登舟枕上成诗』という詩の一部に、「江風が薬の炉に吹き、榜子(船夫)が医者を急かした」とある。

 

※別の場面では「这可是当今皇上的榜文呐(これは今の国王様の榜文ですぞ)!」といった具合に、「榜文(バンウェン/bǎng wén)」という表現がなされている。

 

※中国で大人気を博したファンタジー時代劇『琅琊榜(ろうやぼう)~麒麟の才子、風雲起こす~』における第四十九集の一場面。主要登場人物である靖王を演ずる王凱(ワンカイ/wáng kǎi)は、『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』で仁宗役を演じている名優だ。琅琊榜は架空の琅琊国にある英傑序列の制度であり、ここでの「榜」は「リスト」「表」といった意味合い(琅琊榜=英傑リスト)となる。

 

⑤孫長老(スンチャンラオ/sūn zhǎng lǎo:中文では「孙长老」)

孫悟空はかつて修行した際に神通力を用いた医術も学んだので、これを試してみたくなって国王の治療を申し出た。家臣たちは特別な医術を持つという自信満々の孫悟空に藁をもすがる想いで重宝し、彼を「孫長老」と呼んで、すぐに国王の前まで連れ立った。先に通行手形の件で国王と話していた玄奘は、この出来事については寝耳に水。玄奘がまた慌てて「この"孫長老"は貧僧(仏僧である自分を謙遜して表する第一人称)の徒弟なのです。彼に病魔を癒す力はありません。」と説明している。

 

ここの台詞回しは簡潔ながら巧妙だ。普通に話すことを想定すれば、「この者は孫悟空と言いまして、私の徒弟です(此人名叫孙悟空,是貧僧的徒弟)」といった具合になるだろう。ただ、この説明的な話し方では玄奘の苛立ちや批判的な気持ちを十分に表すことができない。そこで「孫悟空」を「孫長老」に変えれば孫悟空の暴走ぶりや展開の外連味が生じて、玄奘のちょっとした内面の怒りも表現することが出来る。こうした論理学的な表現手法は非常に細かであるが、言語を伴う芸術作品が名作に至る要素のひとつである。

 

尚、このような暴走展開でありがちな大失敗の王道プロットに反して、"孫長老"は本当に国王の精神病を治療する。しかも、"孫長老"の段階的な治療ぶりは実に合理的で、現代医学の本質も突いた方法となっている。まず、長老が猪八戒沙悟浄に協力してもらいながら、必要以上の物資と時間を投じ、大黄や巴豆、鍋の底の灰、そして龍馬の尿で霊薬を作った。この霊薬にはもちろん効能があるが、これを簡単に作ってしまえばその効能が薄まってしまう。というのは、結局のところ、病というのは「薬が治すもの」ではなく、「薬を飲んだ本人の力が治すもの」だからである。この仰々しい長老の薬の調合は国の太医たちや国王を信じ込ませるのに十分なピグマリオン効果を発揮し、薬の効能を高めることに成功した。

 

「病は気から」という言葉は冗談ではない。精神と身体の健康は相互作用があり、自我の苦痛や不安は身体的な健康を阻害し、不具合を停滞させることに間接的に影響を与えている。どのような効き目のある漢方や化学薬剤でも、当人が「治したい」「信じよう」という気持ちがなければ、十分な自己治癒力が得られず、病気を退治することが出来ないのだ。孫長老はこの人体のメカニズムを極めてよく理解しているのである。

 

この霊薬によって国王の表面的な苦痛は見事に取り除かれたのだが、孫長老はここで治療を止めなかった。身体の表面上の苦痛、倦怠感や頭痛といった症状は「危険信号(シグナル)」であり、その警報装置を止めたからと言って完全な健康を取り戻したという訳ではない。警報装置が鳴るには、根本的な何らかの理由があるのだ。ここで孫長老は国王の警報装置を一時的に止めただけという「半治療」の状態であることを十分に理解しているので、これに続いて「本当は何を悩んでいんだい?」という根治に向けた診察を続けた。しかも、それを宴会の席でとても自然に行ったものだから、国王も何のわだかまりもなく素直に事情を吐露することができた。

 

結果、孫長老はこの診察を経て、国王が「双鳥失群症」を患っていることを明らかにする。これは雌雄の二羽の鳥が何らかの理由によって離れ離れになり、お互いを強く思い合うことで起きる精神病であり、根治のためには連れ去られた皇后を奪還することが必要だ。こうして孫悟空たちは、妖魔の賽太歳の成敗と金聖宮娘娘の奪還作戦に挑むことになった。

 

現代の西洋医学は「警報装置」を止めるだけのものが多い。本来、人体の病魔の根治に至るには警報だけではなく、人体全体の装置(身体・精神・社会的環境)を包括的に診なければならない。現代の西洋医学の体系はこうした包括的な視点を持つことが困難であり、そこに問題と限界がある。急性的な症状については確かに西洋医学のような局所的な人体の捉え方でも有用な時が多いが、慢性的な症状については包括的な視点を持つ東洋医学が有用であると私は考える。特に現代病である精神疾患は、孫長老のような広い目と広い技が必要だ。

 

玄奘の心配をよそに、「神医上殿啦(シェンイシャンディエンラ/shén yī shàng diàn la)~」という大声の通知と共に彼に登場する孫悟空猪八戒。どこから引っ張って来たのか、医者の衣装を着こなしてそれっぽい雰囲気を醸し出し楽しんでいる。当人が意図したものではないかもしれないが、後ろにいる宮廷の従僕の「胡散臭い奴らだな…(这些人真可疑啊…)」といった感の怪訝な表情がとても良い。ちなみに、『水滸伝』ではこの"神医"というあだ名を持つ英傑、安道全(あんどうぜん/ān dào quán)が登場する。私の『水滸伝』再執筆の構想では、この安道全(あんどうぜん/ān dào quán)が"孫長老"のような広い東洋的な医学の目と技を、その弟子の王定六(おうていろく/wáng dìng liù)が現代的な狭い西洋的な医学の目と技を、それぞれ持っているものと捉えている。

 

⑥有来有去(ヨウライヨウチュー/yǒu lái yǒu qù)

人間に変装した孫悟空が、賽太歳の部下である小妖魔に接触孫悟空は小妖魔から情報を引き出した後、彼の動きを定字法で止めて、彼が腰に掲げていた「榜子」を読んだ。ちょうど折よくここに「名刺としての榜子」が出て来たので、榜子のイメージを理解をする上でありがたい描写だ。

 

きの榜子の表面に書かれているのは小妖魔の名前である「有来有去(ヨウライヨウチュー/yǒu lái yǒu qù)」。意味としては「来るときもあり、去るときもある」となり、日本語としては「神出鬼没」が近いだろう。

 

裏面には、彼の肩書や特徴が記されている。「心腹小校一名互短身材扢挞臉無须長川悬掛無牌即假」。この意味は「(賽太歳の)腹心である小官一名、背が低く、顔が曲がっていて、髭がなく、長く川のような胴体であり、牌(榜子)を掲げていなければ偽物である」となる。孫悟空はこの榜子を盗んで、小妖魔の有来有去に変身して賽太歳の拠点に潜入。その後、孫悟空は金聖宮娘娘の侍女である春嬌に変身し、賽太歳の宝貝である紫金鈴(鈴の形をした大砲)を盗み、賽太歳を徹底的に懲らしめることに成功。こうして金聖宮娘娘も無事に国王のもとへ生還することができた。

 

蓋を開けてみれば、実は悪さをしていた賽太歳は観音菩薩の乗り物(坐骑)である獅子(金毛吼)であったことが判明。金毛吼は童子が寝ている間に鎖を髪切って下界に降りてしまったという。真是夠了…(やれやれだぜ…)

 

※今回の題材としたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第二十集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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