天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『西遊記 1986』の興味深い中国語メモ25(最終話)

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①大団円へ:完结撒花(ワンジエサーフゥアー/wán jié sǎ huā)!

 

遂に、玄奘孫悟空猪八戒沙悟浄、白龍馬の取経の旅が幕を閉じる。オープニングシーンからビリビリユーザーの「完结撒花(ワンジエサーフゥアー/wán jié sǎ huā)!」のコメントが盛大に流れ行く。これはインターネットスラングで、字面通り「完结」は「完了する、終わる」を、「撒花」は「花を撒く」を意味する。「物語が終わった!花を撒こう!」といった具合に、小説やドラマが完結した際、達成感や祝福の気持ちを表す時に用いられる。

 

このオープニングシーンの他のコメントを追っていくと、幼少期に観た思い出を深く懐かしんだり、数ある『西遊記』の実写化の中でもこのドラマが最高だと言ったり、暖かくて明るい心に満ち溢れた作品だと評価したりと、記憶と共に孫悟空たちの旅を味わうものが多かった。また、「続編も見よう!」と促す声も少なくない。この1986年版の『西遊記』は、主要な俳優陣を据え置いた続編として、2000年に16集が製作されている。アクションRPGゲーム『黒神話:悟空』のような完全な続編ではなく、旧版で描ききれなかった原作箇所を補填する内容となっている。

 

※画像:湘南新宿ラインの電車内より撮影した大船観音像の後ろ姿。日本湘南の大船駅(鎌倉近く)より徒歩10分の場所に、『西遊記』の物語でもっとも重要な立ち回りをした神仙、観音菩薩の約25mに及ぶ巨大仏像がある。この仏像があるのは曹洞宗仏海山の大船観音寺。これだけの大規模な建造にも関わらず原型の作者は不明という不思議な文化財だ。今日、この記事を書きながら玄奘の分骨された遺骨が祀られている埼玉県の慈恩寺に向かうことにしよう。歴史に実在する唐王朝時代における仏僧、インドから経典を持ち帰るという偉業を成し遂げた玄奘の遺骨は、紆余曲折を経て埼玉県の東岩槻にある。

 

 

※画像:本話の終盤、如来の隣に登場する観音菩薩。この観音菩薩役を演じたのは女優の左大玢(ズオダービン/zuǒ dà bīn)。当時のメイクアップアーティスト、王希鐘(ワンシーゾン/wáng xī zhōng)はテストメイクで来訪した彼女を見るなり「似ている!そのまんまだよ!あなたは本当に観音菩薩そのものだ!メイクの必要もない!」と驚愕した逸話が残っている。実際、彼女は「これぞまさしく観音菩薩」のイメージを本作でとことん体現した。

 

孫悟空(スンウーコン/sūn wù kōng)

 

西方地域の管理者として下界に鎮座している如来。その如来のいる雷音寺まで、もう目と鼻の先。そこで玄奘が目にしたのは一本の樹。彼が急に平伏してその樹に向けて拝んだので、孫悟空たちが「師父、どうしたんですか」と訝しがった。弟子たちに向けて、玄奘が次のように嬉しそうに語る。

 

玄奘:这是一棵菩提树 当年佛祖释迦牟尼 为了解脱世界的苦难 放弃尼罗国王子的尊位 离别贤妻爱子 就在这棵树下 他默坐多日 冥思苦想 终于得到解脱 参悟菩提正果 成了佛神(これは一本の菩提樹なのだ。かつて、仏祖釈迦牟尼[仏陀のこと]がこの世の苦しみから解放されるために、尼羅国[ネパール]の王子としての地位を捨て、賢い妻と愛する子供に別れを告げてね。そして、この木の下で静かに座り、長い日々にわたって深く思索し、ついに悟りを開き、菩提の正果[悟りの境地]に達して、仏となったのだ。)

 

非常に有名な、仏教の始祖である仏陀の生い立ち。『西遊記』の旅の最終地点にいる如来というのは、この仏陀のことだ。仏教にも色々な宗派があるが、究極的に言えば、そのすべての最終目標は仏陀と同じように「悟りの境地に達すること」にある。そう、それは我らが猿兄貴の名前、孫悟空の「悟(悟り)」だ。

 

孫悟空の名前に含まれる「悟(ウー/wù)」は「覚悟」「理解」「悟り」を意味する。これは仏教や道教の修行に関連する深い哲学的な概念と深く結びついていて、特に仏教では先述の通り究極の目標地点だ。ちなみに、「孫(スン/sūn)」は「猿」を表すもので、「空(コン/kōng)」は仏教における「空」の概念、すなわち「無」や「虚空」を意味している。

 

総じて、「孫悟空」には「悟りを求め、最終的に無我や無限の境地に達する、偉大なお猿さん」という想いが込められているのだ。

 

③《青青菩提树(青青菩提樹)》

 

菩提樹の前で全員が静かに坐禅を組む。そして、玄奘はここまでに至るまでの記憶を振り返るのだった。このあまりに重要な場面をカットする日本DVD版の胆力に驚嘆しつつ、西方に大旅をしなくても"原典"を鑑賞できる時代の恩恵に心から感謝だ。

 

このハイライトシーンで流れている曲は《青青菩提树(青青菩提樹)》。作詞は閻肅(イェンスー/yán sù)、作曲は許鏡清(シュージンチン/xǔ jìng qīng)、歌唱は李静娴(リージンシャン/lǐ jìng xián)。低く穏やかな音調で、物語全体を包み込むような優しさを感じる。

 

《青青菩提树》

青青菩提树(青青たる菩提樹よ)

宝象庄严处(宝象荘厳の地)

经过多少岁月依然苍翠如故(幾多の歳月を経てもなお、青々と変わらぬ姿)

啊 仰参菩提树(ああ、菩提樹に仰ぎ見る)

遥望故乡路(遠く故郷への道を眺め)

几多朝朝暮暮(朝も夕もどれほどの時が過ぎ去り)

漫漫云烟无数(無数の雲煙が漂っていることか)

历经坎坷终无悔(幾多の困難を経ても悔いなし)

未教年华虚度(青春を無駄にはせぬように)

面对大千世界(この広大な世界に向き合い)

功过从何数(功績も過ちも何処から数えるのか)

愿此身化作菩提(願わくば、この身を菩提に変え)

护众生光照千古(衆生を護り、光を千古に照らさん)

青青菩提树(青青たる菩提樹よ)

宝象庄严处(宝象荘厳の地)

经过多少岁月依然苍翠如故(幾多の歳月を経てもなお、青々と変わらぬ姿)

啊 仰参菩提树(幾多の歳月を経てもなお、青々と変わらぬ姿)

遥望故乡路(遠く故郷への道を眺め)

几多朝朝暮暮(朝も夕もどれほどの時が過ぎ去り)

漫漫云烟无数(無数の雲煙が漂っていることか)

历经坎坷终无悔(幾多の困難を経ても悔いなし)

未教年华虚度(青春を無駄にはせぬように)

面对大千世界(この広大な世界に向き合い)

功过从何数(功績も過ちも何処から数えるのか)

愿此身化作菩提(願わくば、この身を菩提に変え)

护众生光照千古(衆生を護り、光を千古に照らさん)

光照千古(光を千古に照らさん)

 

 

※画像:大宮駅の位置風景。JR線大宮駅から改札口を出て東口へ向かい、東部アーバンパークラインに乗り換える。玄奘塔がある慈恩寺の最寄駅は東岩槻駅豊春駅。どちらも急行列車が止まらない駅なので、普通列車で向かう。大宮駅から東岩槻駅までは6駅、所要時間は約15分。

 

※上海の老鉄に購入してお土産で持ってきてもらった中国古典文学トランプの西遊記バージョン。西遊記の旅はひとつひとつの難(困難)が印象深く情緒と外連味に溢れた名場面となっている。

 

④无底船(底なし船)でいざ進め、如来の寺まであと少し、もう少し

 

玄奘たちは菩提樹の先にある激流の河を越え、金頂大仙に出会う。ドラマ版では順序が逆。先に金頂大仙が玄奘たちに会い、彼らをもてなしている。

 

金頂大仙は笑ってこう言った。「観音菩薩が十年前に如来の金旨を受けてな、それで観音菩薩は私に『二、三年内には東土から経を取る者がここに来るので準備しておくように』と言ったもんだが、それでまったく音沙汰がないときた!こりゃすっかり観音菩薩に騙されたと思っとったが、今年になってこうしてようやくお前たちが到着した!喜ばしいことぞ!」

 

ここで金頂大仙は小童に茶を用意させ、斎を整え、さらに唐僧とその弟子たちに香湯を焚いて沐浴をさせ、身を清めて如来に会う準備をさせた。この場面の漢詩は次の通りだ。

 

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功满行完宜沐浴,炼驯本性合天真。

千辛万苦今方息,九戒三皈始自新。

魔尽果然登佛地,灾消故得见沙门。

洗尘涤垢全无染,反本还原不坏身。

 

功を満たし行いを終えた者は沐浴し、本性を鍛え清めて天真に戻る。

千辛万苦も今や休息の時、九戒三皈を新たに始める。

魔を尽くしてようやく仏地に登り、災いが消えてこそ僧門に会える。

塵を洗い垢を拭い無染に戻り、本性に返り身を壊さず原点に戻る。

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四人が沐浴を終えると、金頂大仙は悟空が行こうと思っていた道とは違う場所を示した。金頂大仙と別れた玄奘たちが大仙の言う通りの方角を進むと、そこに幅約八、九里もある流れの激しい河に出くわした。ここは凌雲渡。橋があるにはあったが、一本の細い丸太橋だけ。悟空だけは軽々と渡ってみせたが、他の面々はどうにも渡れない。河は荒れ狂うように流れゆく。一歩でも足を踏み外せば命は助からない。

 

 

そこに一層の舟が到来する。舟には底がない。玄奘が「あれには乗れない」と不安がるが、孫悟空は底なしの舟は「好普通众啊(いたって普通のことだよ!)」と言って師匠をなだめて強引に乗せた。その舟の船頭が接引仏祖の化身であることを見抜いていたからだ。玄奘はこのまま舟が沈むんじゃないかと肝を冷やしたが、何の問題もなく舟は浮いていた。

 

船頭が舟をゆっくりと漕ぎ出した。すると、上流から水に流されてくる一体の遺体が見えた。玄奘はまたも肝を冷やしたが、孫悟空が笑って言った。「師父、心配することないぜ!あれは前世の師父(玄奘の前世は如来の二番弟子であった金蝉子で、取経の旅を何度か失敗しながら転生を繰り返していた)なんだからな!」そうこうして舟が向こうの彼岸まで着いた時、全員が脱胎換骨(生まれ変わるような変化)をした様子であった。

 

如来は取経の旅において、玄奘たちが「八十一の難」を乗り越えなければならないという枷を示していた。この河の出来事は「凌云渡脱胎八十難」。あとひとつだけ、彼らに難が残っている。だが、とにかく彼らは遂に到着したのだ。そこは雷音寺。如来観音菩薩たちが、玄奘の到着を静かに待っていた。

 

※画像:東岩槻駅から玄奘の遺骨が納められている慈恩寺までは徒歩25分程度。歩いても良いが、ここは白龍馬(タイムズカーシェア)を借りることにしよう。写真の右奥に見えるのが東岩槻駅で、カーシェアポイントは駅南口から出てすぐ右手にある。今回来て分かったが、タイムズカーシェアで慈恩寺に向かう場合は、東岩槻駅よりもひとつ隣の豊春駅の方が距離が近いので便利だ。

 

 

※白龍馬で約10分、慈恩寺に到着。玄奘塔へ繋がる参道は寺社の向かい側にある。ちなみに、今回は「さいたま市岩槻区慈恩寺139」でルートを指定したが、駐車場から玄奘塔まで10分ほど足場の悪い土道を歩くため、足の悪い方は玄奘塔まで直接車で行った方が良いかもしれない。Googleマップで「35.975460,139.711511」で検索するとピンポイントで玄奘塔まで向かうことが可能だ。「玄奘三蔵霊骨塔唐門」で検索しても良い。(なお、駐車が可能なのは慈恩寺の方のみ。玄奘塔付近の駐車は許されていない。)

 

如来:現代人への警鐘

 

霊山に到着した孫悟空たち。如来は彼らを前にして、こう言った。

 

如来:你那东土大唐 物广人稠 多欺多诈 不忠不孝 不仁不义 造下无边罪孽(お前の東土・大唐は、物が豊富で人が多いが、欺瞞や裏切りが多く、忠孝の道に背き、仁義を欠いている。無限の罪業を積み重ねている。)

 

現代の国の多くが、この如来の警告に当てはまるような気がする。玄奘はその業を収めるために、正当なる規範・良識・美徳が刻まれた経典を求めた。如来はうなずき、「珍楼での斎(食事)を振る舞った後、宝閣で持ち出す経典を選ばせるようにしなさい」と寺の二人の尊者、阿傩と伽叶に命じた。

 

だが、この二人の尊者は強欲な者で、経典を渡すには「人事(賄賂のようなもの)」が必要であると言った。悟空は頑なに賄賂を渡すことを拒んだが、その結果、彼らが得たのは文字のない白紙の経典であった。

 

 

白紙の経典を掴まされた玄奘たち。最後の最後まで彼らの旅は難続きだが、こちらはまだ最後の八十一難ではなく、単に如来のもとにいる尊者ですら腐っているという興味深い展開だ。文字の無い経典を「无印良品(無印良品や)」と呼ぶビリビリユーザーの愉快なコメントが飛んでいる。

 

 

霊山に戻って、如来に訴える孫悟空たち。如来もその尊者のやり方を認めたので、孫悟空が「なんだ、頭が腐っているんじゃないか」と如来に迫る。一方の如来は「経典はそうも軽々しく渡すものではない」と言う。玄奘が間に入って丁重にお願いをし、最終的には自分たちの紫金の鉢(食事を分け与えてもらう際に用いていた、皇帝から貰った鉢)との交換で経典を手に入れることができた。

 

遥かなる道のりを経て、八十もの命がけの試練を乗り越えて来た玄奘たちが「軽々しい」存在だろうか。これは如来の考え方が明らかにおかしい。

 

 

とにかく、遂に真の経典(五千四十八巻)を手にすることが出来た玄奘たち。如来は八大金剛を呼び、玄奘たちを東土までひとっ飛びの護送をするように命じた。ドラマ版では、ここで玄奘孫悟空猪八戒沙悟浄、白龍馬の全員が神仙への昇格を果たす。玄奘は旃檀功徳佛、孫悟空は斗戦勝佛、猪八戒は浄壇使者、沙悟浄は金身羅漢、白龍馬は八部天龍となった。また、ここで悟空の束縛に用いていた、観音菩薩の緊箍咒(きんそうじゅ/jǐn gū zhòu:金の輪っか)も消えた。悟空は晴れて自由の身となった。

 

※頭から緊箍咒(きんそうじゅ/jǐn gū zhòu)が消えて驚き、喜ぶ孫悟空。原作では全員が一度東土に戻り、その後にもう一度霊山に向かった際に神仙に封じられている。

 

慈恩寺の駐車場から玄奘塔までの道のりは一応整備されているが、参道と言えるほどの優雅さは無い。難とも言えないが、楽でもない。ここは田んぼのあぜ道を進んで行く。

※ようやく玄奘塔が見えて来た。あの塔のもとに分骨された玄奘の遺骨が眠っている。今から約千四百年前の偉人。彼の遺骨もまた壮大なる旅路を経て、この日本に到来した。

 

⑥天地そのものが不完全なんだ

 

如来玄奘たちのひとっ飛びの帰路の途中、「彼らはあと一難必要だった」と気づき、急に彼らを地上に落とした。そこは懐かしの通天河。旅の初め頃、玄奘たちはこの河を老龜(亀)に乗って渡ったことがある。亀も玄奘たちも再会を祝福。亀はかつてと同じように玄奘たちを乗せたが、「俺の来世のことを如来に聞いてくれたかい?」という質問をした際、玄奘たちがそれを忘れていたということを激怒。亀はそのまま怒って玄奘たちを放り投げて水中に潜って行ってしまった。

 

 

※画像:アクションRPGゲーム『黒神話:悟空』のトゥルーエンディングルートのアニメカットシーン。ここは河に投げ出されて経典が沈んでいく場面。このラストのアニメカットは天命人(ゲームの主人公で孫悟空の魂の後継者)が孫悟空の魂を全て宿した事により、孫悟空が体験して来た旅を「逆再生」で追体験するという描写がなされている。

 

何とか経典を水から拾い上げて乾かしたが、一部は河に流されて消失し、一部は破けて読めなくなってしまった。玄奘猪八戒から手渡された破れた書を悲しそうに手にしながら、こうつぶやいた。

 

 

玄奘:都怪我们没有看管好 佛本行经已经残缺不全了(すべて私たちのせいだ。きちんと見張っていなかったから、仏の本行経が破れてしまった…)

 

ひどく落ち込む玄奘に向かって、孫悟空はこう言った。

 

 

孫悟空:师父 不妨事 天地本不全 经文残缺也应不全之理 非人力所能为也(師父、問題ないぜ。天地そのものが完全ではないんだからさ。経文が欠けているのもまた不完全の理にかなっているんだ。これは人の力でどうにかできることではないんだよ。)

 

この世のすべてが不完全なのだという孫悟空の悟りこそが、この旅でもっとも偉大な境地にある言葉かもしれない。神仙たちにせよ、玄奘にせよ、彼らはすべて「絶対的な答え」を求めて動き続けた。しかし、孫悟空はそんな彼らをおかしく思って笑うのだ。この世に「絶対的な答え」なんてないんだよ、と。

 

 

こうして、彼らは唐に生還。玄奘孫悟空猪八戒沙悟浄、白龍馬。彼らは喜びを分かち合いながら、それぞれの生活に戻ったのだった。めでたし、めでたし。完结撒花(ワンジエサーフゥアー/wán jié sǎ huā)!

 

 

※今回の題材としたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第二十五集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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