天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『水滸伝』舞台の宋王朝の朝廷言葉など13:『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』

※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①墨敕鱼符(モーチーユーフー/mò chì yú fú)

 

後の物語展開において非常に重要な役割を担う宦官(かんがん/huàn guān:宮廷内の使用人、後宮の妃との密通を避ける為に虚勢された男子)、梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)が初めて登場する場面。彼はまだ少年。先輩の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が宦官の少年たちに内東門の管理に関する規則を教えている。

 

ここで張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が前で掲げてみせたのが、「墨敕鱼符(モーチーユーフー/mò chì yú fú)」という魚の形状をした銅製の符(札)。まず、「墨勅」とは皇帝が自ら書いた命令を意味し、宮廷の印を通さずに直接下される命令を示す。『宋書・王昙首伝』に「既に墨勅もなく、幡棨も欠いているなら、上旨を唱えるにしても、ただの呼びかけと変わりない」という記述がある通り、かなり強力な効力を持っている事が伺える。そして「魚符」とは、隋唐時代に朝廷が発行した符信のこと。木や銅を用いて作られた魚の形が二つの分けられ、その裏面には「同」などの文字が凹凸(オウトツ)の線対称に彫られている。これは非常に精巧に作られており、全てがぴったり合わなければ符合したとは言えない。

 

宋王朝時代は夜に宮門を開ける際、この「墨敕鱼符(モーチーユーフー/mò chì yú fú)」が必要であった。皇帝の安全や皇宮内の家族、妃たちの安全を守る為、この宮門の警護は鉄壁の管理がなされていた。「墨勅魚符」を持たずして宮門を開けようとする者、あるいは「墨勅魚符」の確認が取れていないのに門を開けてしまった者がいるとすれば、その対象者は死罪を含めた極めて重い刑罰を受けなければならない。(この規則が本ドラマ最終局面に大きく関わる一要素となる。)

 

宋王朝司馬光は『論夜開宮門状』で「陛下が深い慈悲を持っていたとしても、宮門の禁令は厳重に守られるべきです。法律に従えば、夜に宮殿や城門を開けるには、必ず墨勅魚符が必要です」と述べている。このように宮門の管理は非常に厳重なものであった。

 

②「元亨利貞」の避諱(いひ)騒動

 

宦官の最高責任者である任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)が登場。彼はこのドラマの中で横柄さと厳格さを併せ持つ宦官として描かれている。彼は宦官の少年たちに「墨敕鱼符(モーチーユーフー/mò chì yú fú)」の規則について復唱するように指示したが、少年たちは一度聞いただけではすぐには覚えられずしどろもどろに答えるしかなかった。

 

任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)は非常に不機嫌になって「お前たちの夕餉(夕食)は抜く」と言い、別の少年を当てた。その少年は聡明で、他の子とは違って完璧に規則を暗唱した。任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)はそれを聞き終わった後、興味を示して「你叫社么名字(お前の名前は何だ?)」と聞いた。少年は梁元享(りょうげんこう/liáng yuán xiǎng)だと答えた。」これが後の梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)である。梁少年が名前を言った所までは良かったが、彼が聡明過ぎてこの直後に大変な失敗をする事となる。

 

 

彼は「元享利贞的元享(元享利貞の享です)」という説明を添えてしまった。これは例えば「徐福」という人物が「徐福です、福は幸福の福です」と言うような具合だ。「元享利貞」というのは宋王朝時代に科挙を目指していた、あるいは一定の教育を受けた者であれば絶対に知っている成語。特に『易経』には何度も登場をしている。これは吉祥を意味する卦辞(かじ:易の六十四卦の内容について説明した言葉)。名前の説明としては非常に分かりやすく、しかも教養がある事も示せる効果的なものであった。ところが、これが大問題となってしまう。これは「避諱(ひき/bì huì)」であったのだ。

 

「避諱(ひき/bì huì)」は、既に以前の記事でも何度か登場している中華世界の仕組み。皇帝に関連する単語は最も尊いものである為、それを用いてはならないという規則である。仁宗の本名は趙祯(ちょうてい/zhào zhēn)。この「祯(zhēn)」は「貞(zhēn)」と同じ発音、似た字面である為、会話や文章で用いる事は避けなければならない。だが、梁少年はこれを堂々と自己紹介で破ってしまった事となる。

 

張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)の顔が青く引きつり、驚いたように口を開いた。すると次の瞬間、任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)が猛烈に立ち上がって梁少年を殴打し、激昂。宮中で避諱(ひき/bì huì)を忘れるなど少年であっても言語道断だという事で死罪に相当すると怒鳴る。張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が慌てて間に入り、「今は妃の苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)が出産を控える為に凶事を避けねばなりません」と任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)を説得。こうして張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)の助けによって梁少年は死罪を免れ、ひとまず倉庫に幽閉される事となった。

 

※梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は歴史に実在する宦官であり、この後に実際に起こった大きな事件に関わる人物となる。ただし、この少年時代の避諱(ひき/bì huì)の騒動は史実にはなく、小説作者の"ミラノLady"の創作だ。ちなみに、この梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)は仁宗が第一集で韓琦(かんき/hán qí)と出会った小さな料理店の次男であった事が後に明らかとなるが、このあたりの人間関係もまた創作だ。物語とよく絡み、人物に感情移入が出来る要素として機能しているので、とても巧みな創作である。

 

③「鳴いて死ぬ方が、黙って生きるよりも良い」

 

懐妊した苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)の品(階級)の昇格を巡って、皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)と仁宗が口論に発展。しかし、よくよく考えてみると皇后の意見も正しかったと分かった仁宗は、彼女の居である坤寧殿(こんねいでん/kūn níng diàn)を訪ね、謝罪がてら腹を割って話す事にした。烏に餌を蒔いていた曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)の姿を遠くから確認した仁宗は、范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)の詩である《灵乌赋》を唱えながら彼女に歩み寄った。

 

この范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)の作品、《灵乌赋》の全文は以下の通りだ。

 

《灵乌赋》

梅君圣俞作是赋,曾不我鄙,而寄以为好。因勉而和之,庶几感物之意同归而殊涂矣。“灵乌灵乌,尔之为禽兮,何不高翔而远翥?何为号呼于人兮,告吉凶而逢怒?方将折尔翅而烹尔躯,徒悔焉而亡路。”彼哑哑兮如诉,请臆对而心谕:“我有生兮,累阴阳之含育;我有质兮,处天地之覆露。长慈母之危巢,托主人之佳树。斤不我伐,弹不我仆。母之鞠兮孔艰,主之仁兮则安。度春风兮,既成我以羽翰;眷庭柯兮,欲去君而盘桓。思报之意,厥声或异。警于未形,恐于未炽。知我者谓吉之先,不知我者谓凶之类。故告之则反灾于身,不告之者则稔祸于人。主恩或忘,我怀靡臧。虽死而告,为凶之防。亦由桑妖于庭,惧而修德,俾王之兴;雉怪于鼎,惧而修德,俾王之盛。天听甚逊,人言曷病。彼希声之凤皇,亦见讥于楚狂;彼不世之麒麟,亦见伤于鲁人。凤岂以讥而不灵,麟岂以伤而不仁?故割而可卷,孰为神兵;焚而可变,孰为英琼。宁鸣而死,不默而生。胡不学太仓之鼠兮,何必仁为,丰食而肥。仓苟竭兮,吾将安归?又不学荒城之狐兮,何必义为,深穴而威。城苟圮兮,吾将畴依?宁骥子之困于驰骛兮,驽骀泰于刍养。宁鹓鹐之饥于云霄兮,鸱鸢饫乎草莽。君不见仲尼之云兮,予欲无言。累累四方,曾不得而已焉。又不见孟轲之志兮,养其浩然。皇皇三月,曾何敢以休焉。此小者优优,而大者乾乾。我乌也勤于母兮自天,爱于主兮自天;人有言兮是然,人无言兮是然。

 

《霊烏賦》

梅君聖俞がこの賦を作り、私を卑しめることなく、友好的なものとして贈ってくれました。そこで励まされ、応じてこれを和しました。感ずるものが同じくして、異なる道に至ることを願いながら。

 

「霊烏よ、霊烏よ、お前は鳥でありながら、なぜ高く飛翔して遠くへ羽ばたかないのか?なぜ人に向かって鳴き、吉凶を告げて怒りを招くのか?その結果、お前の翼を折られ、身を煮られることになろう。悔いても無駄で、逃れる道はないのだ。」烏は、ああ、ああとまるで訴えるかのように鳴き、心中を明かしました。

 

「我が生命は、陰陽の力を受けて育まれたものです。我が存在は、天地の恩恵に包まれています。慈愛深い母の危険な巣で育ち、優しい主人の美しい木に身を託しています。斧は私を伐らず、弓は私を撃たない。母が私を育てるには多くの困難があり、主人の仁愛によって私は安らいでいます。春風が私を通り、羽が成長しました。庭の枝を眺め、主人を去ることをためらいながら思案しています。報恩の意を持ちつつも、その声は時に異なります形のないものに警戒し、まだ盛んでないものを恐れます。私を理解する者は、吉兆の先駆けだと言い、理解しない者は、凶事の象徴だと言います。だから、告げれば災いを招き、告げなければ人に災いをもたらすのです。主人の恩を忘れられても、私は心に悩みを抱えます。たとえ死んでも、凶事を防ぐために知らせるのです。昔、桑の木が庭に怪異をもたらした時、人々は恐れ、徳を修めました。それが王の興隆をもたらしました。また、雉が鼎の中に怪異をもたらした時も、人々は恐れて徳を修め、それが王の盛りをもたらしました。天は慎重に聞き入れ、人々の言葉は病ではありません。あの声高な鳳凰でさえ、楚の狂者に批判されましたし、不世出の麒麟でさえ、魯の人々に傷つけられました。しかし、鳳凰は批判されたからといって霊性を失うことはなく、麒麟も傷つけられたからといって仁愛を失うことはありません。だから、切り裂かれても丸められるなら、誰が神兵と呼ばれるでしょうか。焼かれても変えられるなら、誰が英琼(英玉)と称されるでしょうか。鳴いて死ぬほうが、黙って生きるよりも良いのです。なぜ、太倉の鼠のように学ばないのか。仁を重んじることなく、豊かな食べ物を得て肥え太ることを目指すべきです。もし倉が尽きれば、私はどこに帰るのでしょうか?また、荒れた城の狐のように学ばないのか。義を重んじることなく、深い穴に隠れて威を保つべきです。もし城が崩れたら、私は誰に頼れば良いのでしょうか?私は疾走する名馬が困難に遭うほうを選びます、鈍い馬が青草を食べて安泰に過ごすことを喜びません。私は、雲の彼方で飢えた鳳凰を選びます、草むらで満腹の鷲を喜びません。君は、仲尼(孔子)がかつて言った言葉を聞いたことがありませんか?『私はもう言葉を発したくない』と。累々と広がる四方の世界で、どこでもこの願いが成し遂げられることはありませんでした。また、孟子の志を見たことはありませんか?彼はその浩然たる気を養いました。煌々とした三月の間、彼は何一つ休息を恐れることはありませんでした。小さなものは悠々としており、大きなものは艱難を経験します。我が烏は、母に勤勉であり、天からの愛に感謝しています。主人に対しても、天からの恩恵を忘れません。人々が口に出そうと出さなかろうと、我が意は同じなのです。」

 

この中で特に印象深い表現として当時から引用されていたのが、「宁鸣而死,不默而生(鳴いて死ぬほうが、黙って生きるよりも良い)」という、なんとも勇猛で清廉な范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)らしい言葉だ。これは古代ローマの政治家キケロが口にした「正しい戦いよりも不正な平和を望む」という言葉の真逆であると言えるだろう。

 

④傘(蓋)のちょっとした歴史

 

この場面、二人は共に宦官。左が梁全一(ろうぜんいつ/liáng quán yī)、右が張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)。おそらく二人は同期。物語の中では特に右の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)の立ち回りの印象が強いが、左の梁全一(ろうぜんいつ/liáng quán yī)も後半部で見せ場がある。

 

それはさて、このドラマは小道具もかなり作り込まれていて、ただ感心する。ここで注目したいのは「傘」だ。シンプルでありながら、とてもしなやかで美しい造形に見える。中華世界の傘の歴史と変容にはなかなか興味深い所があるので、以下にその知識をメモしておこう。

 

<歴史>

傘の起源に関する伝承として、西晋時代の崔豹が著した『古今注・舆服』に書かれている次の逸話がある。「華蓋(傘のような形をした吉祥の雲)は黄帝が作ったもので、蚩尤(しゆう)と涿鹿(たくろく)の野で戦った際、その五色の雲が皇帝の上に留まり、金の枝や玉の葉が現れた。この姿が華蓋の象徴となったのである。」この伝承を基として、傘はしばらく貴人たちだけが用いる事の出来る道具として用いられていた。秦王朝以前はかなりの貴重品であったらしく、『孔子家語・致思』には「孔子将行,雨,无盖。(孔子が旅に出ようとした時、雨が降ったが、傘がなかった。)」という逸話も記されている。この「盖(ふた/gài)」というのが、当時の傘の呼び方だ。

 

ちなみに、弟子が孔子に「子夏が持っているようですから、借りたらどうですか?」と提案したのだが、孔子は弟子の子夏がケチで貸してくれないかもしれないと心配し、それならいっそ最初からお願いするのはよそうという結論に達したそうだ。人情が香る逸話である。

 

その後、歴代の王朝では、傘の材質や色、大きさなどに厳しい規定が設けられた。それらは官職の大小や身分の上下によって区別されていた。例えば『周礼・春官』では、王や王后の車には「羽蓋」が使われ、美しい鳥の羽で飾られた傘が車の上にかけられていたとある。漢王朝時代には、二千石以上の「三公九卿」のみが「皂蓋(黒い傘)」を使用することができた。南北朝時代には、帝王や貴族が外出時に「羅傘」を使用する規定が生まれ、皇帝が使う羅傘は黄色とされたので、「黄羅傘」とも呼ばれた。隋王朝時代には、「紫蓋」は皇帝と三司以上の官僚専用で、三品以上の官僚は「青蓋」を使用した。また高位の官僚は最大8本の傘を持つことができ、低い階級の者は1本だけしか持てなかった。

 

そして、仁宗の宋王朝時代。ここでは天子の傘は赤と黄色で、臣僚の傘は青色(青涼傘)と決まっていた。真宗(仁宗のひとつ前の皇帝)の治世になると、民間では紙製の傘が普及し始めていたが、布製の傘は一定の身分が無ければ所持・使用してはならないとされた。また、真宗は1012年に青涼傘に関する規制を強め、「親王だけが使用を許可し、他の官僚や宦官の使用はすべて禁止する」とした。先ほどの場面で宦官の二人が青い傘を用いていないのは、前代でそのような決定があったからであろう。(時代考証がとてもしっかりしている。)

 

<紙傘、ビジネスチャンス>

このように傘が高級品だとすれば、民間人はどのように雨をしのいでいたのか。彼らが用いていたのは蓑(みの)や笠などであった。『詩経・小雅』の『無羊』の詩には「尔牧来思,何蓑何笠。(あなたが牧畜に出かけるとき、どんな蓑や笠を持っているのだろうか)」とあり、秦王朝時代より前の人々が牧畜の際、雨を防ぐ為に蓑と笠を使っていた事が分かる。これは唐王朝宋王朝時代も同様。唐代の詩人柳宗元の詩『江雪』には「孤舟蓑笠翁,独钓寒江雪。(孤舟に蓑笠の翁、独り寒江の雪に釣る)」とあり、これは柳宗元が永州に流され、雪の日に蓑を着て笠をかぶった漁師が川辺で釣りをしている光景を描写したもの。宋代の大文豪である蘇軾(そしょく/sū shì)も、詩『漁父』で「自庇一身青蒻笠,相随到处绿蓑衣。(自ら一身を庇う青蒻笠、共に行くは緑の蓑衣)」と記している。ここでは笠の素材には竹以外にも、蒲草で編んだものもあった事が分かる。

 

唐王朝時代、そして宋王朝時代、紙傘の製造は民間の新興手工業となって、そこには大きなビジネスチャンスがあった。宋王朝時代の陶穀が著した『清異録』には、南唐時代に周則という貧しい人物が傘作りを生業とし、後に大富豪になったと記されている。これについて、南唐の李煜が彼にどのように成功したのか尋ねたところ、周則は「かつて、傘を1日に2本作って売り、それでなんとか生計を立てていました。当時は雨続きで、傘がよく売れ、生活が徐々に改善されたのです」と答えたという。

 

「紙傘」と聞けばすぐに壊れてしまうのではないかという疑問も生まれるが、この傘の製造に使われる紙は普通の紙ではなく「油紙」という防水性のある厚紙であった。当時の傘の名称に「油蓋」や「油傘」という別称があるが、それはこの油紙が素材として使用された事に起因している。宋王朝時代の詩人、陳師道は詩『馬上口占呈立之』の中で、「转就邻家借油盖,始知公是最闲人。(隣家に借りに行き、ようやく油蓋を手に入れた。その時、彼が非常に余裕のある生活をしていることを知った。)」と詠んでいる。

 

※画像:百度百科「东京梦华录(宋代孟元老所作笔记体散记文)」より引用。この《東京夢華録》は、宋王朝の孟元老が靖康2年(1127年)に制作した随筆体の散文記録。北宋の首都であった東京(開封府)の都市風俗や人情を追想して記録したもの。この中の「娶婦」の編に、「一把青凉伞儿,皆两人同行!(一把の青涼傘、二人で一緒に歩く)」という浪漫ある描写がなされている。いわゆる「相合傘(あいあい傘)」の風習が、約900年前から存在したという訳だ。

 

⑤徽柔(きじゅう/huī róu)

 

苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)の出産を前にして、仁宗が嬉しそうに自分の子どもの名前を考えた。その名も徽柔(きじゅう/huī róu)。晏殊(あんしゅ/yàn shū)がすぐにその名前の引用元を悟り、「徽者 善也 柔者 仁也。(徳の高い者は善く、心穏やかな者には仁がある)…《尚书·无逸》からの引用ですね。」と言う。複雑な出自の仁宗は幼少時代にこのような気持ちになった事が一度も無かった。だから、彼は自分の子どもには両親の愛情をたっぷり注いであげたい、それによって善良で温かな気持ちを持って生きて欲しいと願ったのだった。

 

⑥創作か?

※画像:百度百科「无逸(《尚书》中的篇章)」より引用。反転箇所の中に、「徽柔」という文字がある。

 

この徽柔(きじゅう/huī róu)も実在の人物。仁宗の娘である。ただし、本名については明らかになっておらず、徽柔(きじゅう/huī róu)という名前は創作だ。また、名前の由来だと説明のあった「徽者 善也 柔者 仁也」という文章であるが、もしかするとこちらも創作かもしれない。《尚书·无逸》の原文を確認してみたが、これに該当する箇所が見当たらなかった。その代わりに、徽柔(きじゅう/huī róu)という二文字については登場をしている。該当箇所は次の通り。

 

周公曰:“呜呼!厥亦惟我周太王、王季,克自抑畏。文王卑服,即康功田功。【徽柔懿恭(=徳が高く、穏やかで慈悲深い)】,怀保小民,惠鲜鳏寡。自朝至于日中,昃,弗遑暇食,用咸和万民。文王弗敢盘于游田,以庶邦惟正之供。文王受命惟中身,厥享国五十年。”

 

周公は言いました:「ああ!まさに我が周の太王と王季は、自らを抑え、慎み深く行動していた。文王は謙虚に身を低くし、勤勉に農業を営んだ。彼は徳高く、穏やかで、慈悲深く、小民(庶民)を心から守り、寡婦や孤児をも思いやった。朝から昼、そして夕方に至るまで、食事をする暇もないほど働き、民衆すべての調和を保った。文王は遊びや狩りをすることを慎み、国の正しい統治のために尽くした。文王が天命を受けたのは壮年の時であり、その後50年間、国を治めたのだ。」

 

※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第13集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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