※補足1:宋代及びその他の中華世界の生活・文化・社会に関する知見は百度百科、中国の関連文献、現地の知人の聞き取り等により調査をしている。
※補足2:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。
※補足3:原本は基本的に施耐庵(したいあん/shī nài ān)の『水滸伝(120回本)』の原文を用いている。
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『水滸伝』:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集し、天の替わりに世を正す道を歩み始め、劇的な結末へと向かっていく。
『機胡録(水滸伝+α)』:日本の2024年初春より制作企画を開始した、『水滸伝』の120回本を基盤とした論理学と娯楽性が融合した歴史物語。機械(人工知能などの先端科学)と共に胡人(外国人である日本人)が、自身の三元論を始めとした論理学的な分解・分析・分類手段を通じて、創作と研究を兼ねた活動として『水滸伝』の事象・心理・関係を再構築する。
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『水滸伝』の前書き部分。次はこうある。一気に直訳から始める。
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(中文)
诗曰:
纷纷五代乱离间,一旦云开复见天。草木百年新雨露,车书万里旧江山。
寻常巷陌陈罗绮,几处楼台奏管弦。人乐太平无事日,莺花无限日高眠。
话说这八句诗,乃是故宋神宗天子朝中一个名儒,姓邵讳尧夫,道号康节先生所作。为叹五代残唐,天下干戈不息。那时朝属梁,暮属晋,正谓是:“朱李石刘郭,梁唐晋汉周,都来十五帝,播乱五十秋。”后来感的天道循环,向甲马营中生下太祖武德皇帝来。这朝圣人出世,红光满天,异香经宿不散,乃是上界霹雳大仙下降。英雄勇猛,智量宽洪,自古帝王都不及这朝天子。一条杆棒等身齐,打四百座军州都姓赵。那天子扫清寰宇,荡静中原,国号大宋,建都汴梁。九朝八帝班头,四百年开基帝主。因此上,邵尧夫先生赞道:“一旦云开复见天。”正如教百姓再见天日之面一般。
那时西岳华山有个陈抟处士,是个道高有德之人,能辨风云气色。一日骑驴下山,向那华阴道中正行之间,听得路上客人传说:如今东京柴世宗让位与赵检点登基。那陈抟先生听得,心中欢喜,以手加额,在驴背上大笑,攧下驴来。人问其故。那先生道:“天下从此定矣!正应上合天心,下合地理,中合人和。”
自庚申年间,受禅开基即位,在位一十七年,天下太平,传位与御弟太宗。太宗皇帝在位二十二年,传位与真宗皇帝。真宗又传位与仁宗。
这仁宗皇帝,乃是上界赤脚大仙,降生之时,昼夜啼哭不止,朝廷出给黄榜,召人医治。感动天庭,差遣太白金星下界,化作一老叟,前来揭了黄榜,自言能止太子啼哭。看榜官员引至殿下,朝见真宗。天子圣旨,教进内苑看视太子。那老叟直至宫中,抱着太子,耳边低低说了八个字,太子便不啼哭。那老叟不言姓名,只见化一阵清风而去。耳边道八个甚字?道是:“文有文曲,武有武曲”。端的是玉帝差遣紫微宫中两座星辰下来,辅佐这朝天子。文曲星乃是南衙开封府主龙图阁大学士包拯,武曲星乃是征西夏国大元帅狄青。这两个贤臣,出来辅佐这朝皇帝在位四十二年,改了九个年号。自天圣元年癸亥登基,至天圣九年,那时天下太平,五谷丰登,万民乐业,路不拾遗,户不夜闭。这九年谓之一登。自明道元年至皇祐三年,这九年亦是丰富,谓之二登。自皇祐四年至嘉祐二年,这九年田禾大熟,谓之三登。一连三九二十七年,号为“三登之世”,那时百姓受了些快乐。谁道乐极悲生,嘉祐三年春间天下瘟疫盛行,自江南直至两京,无一处人民不染此症。天下各州各府,雪片也似申奏将来。
且说东京城里城外军民死亡大半,开封府主包待制亲将惠民和济局方,自出俸资合药,救治万民;那里医治得住,瘟疫越盛。文武百官商议,都向待漏院中聚会,伺候早朝奏闻天子,专要祈祷,禳谢瘟疫。不因此事,如何教三十六员天罡下临凡世,七十二座地煞降在人间,哄动宋国乾坤,闹遍赵家社稷!
(日文)
詩曰:
紛紛たる五代の乱離の間、一旦雲が開けて再び天を見る。
草木は百年、新たな雨露を受け、車書は万里、旧き江山を巡る。
巷の並びには普段通り絹織物が並び、幾つかの楼台からは管弦の音が響く。
人々は太平の無事の日々を楽しみ、鶯や花の間で日が高くなるまで眠る。
この八句の詩は、宋代の天子(皇帝)の神宗が世を治めていた時代に名高い儒者であった邵尧夫(しょうようふ)先生、道号は康節先生が作ったものである。この詩は、五代の間、残唐における天下の戦乱が絶えなかったことを嘆いたものだ。当時、中原の王朝は梁国に属し、暮れには晋に属した。この時代のことを指して、「朱李石劉郭、梁唐晋漢周、十五の帝が現れ、五十の秋を乱した」と言われる。後に天道の循環を感じた者が、甲馬の営中で太祖武徳皇帝を生み出した。この王朝の聖人が世に現れた時、紅光が天に満ち、異香が一晩中漂い消えることはなかった。それは上界の霹靂大仙が降りてきたのである。この聖人は英雄であり、勇猛で、智恵も広大であった。かつての帝王たちは、この王朝の天子には及ばなかった。彼の棒は体と同じくらい長く、四百の軍州を打ち負かし、すべて趙姓に改めさせた。その天子は寰宇を掃き清め、中原を平定し、国号を大宋とし、都を汴梁に建てた。九朝八帝の頭を飾り、四百年にわたって基盤を築いた帝主である。それゆえ、邵尧夫先生は「一旦雲開けて再び天を見る」と賛美し、まるで百姓が再び日の光を見るようだと述べた。
その頃、西岳華山に陳抟という隠士がいた。彼は道高く、徳もあり、風雲の気色を識別することができた。ある日、彼はロバに乗って山を下り、華陰道を進んでいると、道中で客人たちがこう言っているのを聞いた。「今、東京の柴世宗が位を譲り、趙検点が即位した」と。陳抟先生はこれを聞いて心中で喜び、手を額に当て、ロバの背で大笑いし、ロバから転げ落ちた。人々がその理由を尋ねると、先生は「天下はこれで安定するだろう!まさに天心と合致し、地理と合致し、人和と合致する」と言った。
庚申年から禅譲して基を開き、即位して十七年、天下は太平となり、位を御弟の太宗に譲った。太宗皇帝は二十二年間在位し、真宗皇帝に位を譲った。真宗はまた仁宗皇帝に位を譲った。
この仁宗皇帝は上界の赤脚大仙であり、彼が降生した時、昼夜問わず泣き止まなかった。朝廷は布告を出し、医者を召し出したが、天庭を感動させ、太白金星が下界に降り、老叟に姿を変え、黄榜を掲げて太子の啼哭を止めることを名乗り出た。官員たちは彼を殿下に引き合わせ、真宗に朝見させた。天子は聖旨を出し、内苑に進んで太子を診察するよう命じた。老叟は宮中に入り、太子を抱き、耳元で低く八つの字を囁いたところ、太子は泣き止んだ。老叟は名前を言わず、ただ一陣の清風に変じて去って行った。耳元で囁いた八つの字とは何か?それは「文には文曲、武には武曲」と言うものであった。確かに玉帝は紫微宮の二つの星を下界に送り、この王朝の天子を助けさせたのである。文曲星は南衙開封府主龍図閣大学士の包拯(ほうじょう:「包青天」とも呼ばれる非常に有名な功臣)であり、武曲星は西夏国を征伐した大元帥の狄青(さいじょう:西夏戦争で怒涛の武勲を上げた将軍)であった。この二人の賢臣が出て、この朝の天子を助け、四十二年の在位の間、九つの年号を改めた。天聖元年癸亥の登基から天聖九年に至り、その時天下は太平で、五穀豊穣、万民は安定した生活を送り、路上に落とした物は拾われず、戸も夜には閉ざされなかった。この九年を「一登」と称する。明道元年から皇祐三年に至るまで、この九年も豊かであり、「二登」と称する。皇祐四年から嘉祐二年に至るまで、この九年は田畑が大いに熟し、「三登」と称された。一連の三九二十七年を「三登の世」と号し、その時代、百姓は幸せを享受した。誰が言うだろう、楽が極まれば悲しみが生まれると。嘉祐三年の春には天下に疫病が流行し、江南から二京に至るまで、一つの場所もこの症にかからない所はなかった。天下の各州各府から、雪片のように申奏が送られた。
さて、東京城の内外では軍民の半数以上が死亡し、開封府主包待制は自ら俸給を出して薬を調合し、万民を救おうとしたが、病を治すことはできず、疫病はますます広がった。文武百官が議論し、待漏院に集まり、早朝に天子に奏上し、疫病を祈祷で鎮めようとした。この事がなければ、三十六の天罡星が人間界に降臨し、七十二の地煞星が人間に現れ、宋国の天地を動かし、趙家の社稷をかき乱すことにはならなかったのである!
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このあたりの時代背景や皇帝、官僚たちの動向を知らない者にとっては、完全に珍紛漢紛の意味不明な文章になっているに違いない。簡単にまとめると、ここでは次の支流をゆっくりと流し、本流(仁宗の治世におけるパンデミック事件)に繋げている。
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①「北宋王朝の幕開けを語る」
『水滸伝』に関連する北宋王朝の皇帝は、第4代の仁宗(じんそう/rén zōng)と第8代の徽宗(きそう/huī zōng)。彼らの中間に、神宗という皇帝がおり、この皇帝は財政悪化と官僚腐敗が進んでいた政治に大きな改革のメスを入れ、北宋王朝の延命措置を行った。施耐庵(したいあん/shī nài ān)はこの時代に活躍した邵尧夫(邵雍:北宋を代表する学者のひとり)の詩を取り上げて、当時、北宋王朝の波乱の幕開けに関する歴史を提示した。
②「第4代の仁宗の偉大さを語る」
『開封府〜北宋を包む青い天〜』『孤城閉〜仁宗、その愛と大義』など、中国の様々な小説、文学などで主要人物として描かれれる仁宗の登場。『水滸伝』はプロローグ部分のみ彼が登場する。仁宗は複雑な生い立ちながら、早くも壊れかけていた北宋王朝を立て直した名君として知られる人物。この時代には包拯(ほうじょう/bāo zhěng)、范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)、韓琦(かんき/hán qí)、富弼(ふひつ/fù bì)といった良識と才能に満ちた官僚たちも大活躍をしており、文化や経済の大発展も見受けられた。
③「嘉祐三年のパンデミック事件を語る」
仁宗治世の嘉祐三年(1056年9月—1063年)に疫病が蔓延したというパンデミック事件について説明が加わる。実際、北宋王朝は時代全体を通じて各地でこのようなパンデミックが発生していた。そのウイルスが現代医学で言う所の何であったのかは判断しきれない。ペスト、天然痘、インフルエンザウイルスあたりが候補に上がる。仁宗の政権では医学的な防疫政策や生活支援が展開され多くの災民たちが救われていたが、それでも疫病の被害を完全に食い止めることは難しかった。施耐庵(したいあん/shī nài ān)は「こうした疫病によって、運命に導かれた英傑たちが北宋にドラマを巻き起こすことになった」と語っている。
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この流れの骨子を崩さずに、前回の私の再構成の流れを継続すると、このような具合での改修を行えると思われる。
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(前回のあらすじ:施耐庵が世を正す起義軍に参加したが指導者の堕落に失望して離脱。隠居先の徐家の書庫で見知らぬ古い書物を見つけた。)
その日からしばらく、私は徐家の子息に向けた講義やちょっとした雑務に奔走しなければならなかったので、その古い書はしばらく机の上に放置されていた。そして、ようやくほっと一息付いて、ひとつ中身に目を通してみるかと何頁かをめくってみた瞬間、私はただ激しい衝撃と共にその内容に惹き込まれてしまった。そこには呉用(ごよう/wú yòng)という秀才(科挙合格者)が参加した今から三百年ほど前の宋朝の時代に集結した「梁山泊」という起義軍の出来事が詳細に描かれていた。私自身が起義軍で経験した出来事とも重なって、そこに書かれている人々の想いが私に乗り移ったかのように思えた。
私はこの書の中に書かれていた梁山泊の塞主(司令官)、宋江(そうこう/sòng jiāng)という人物を始めとした幾人かの名前を手近にあった半紙に書き殴って袖内にしまい込むと、一目散にここからほど近い◯◯◯◯の家に向かった。(徐太公にもこの書の出所などを聞いてみたが、ただ先人がそこに押し込んでいたものだろう、自分は何も知らない、と言う事であった。)
※◯◯◯◯←誰だっけ、施耐庵(したいあん/shī nài ān)と仲が良かったもう一人の文化人がいたはず。後に調べる。もう一人の『水滸伝』の執筆者では無いかと言われている羅貫中(らかんちゅう/luó guàn zhōng)にしても良いかもしれない。
◯◯◯◯は文化と経済が大発展を遂げた宋代の歴史に詳しい私の知人である。彼は今の私たちの生活の基盤を築いた宋代の古物や古書を細々しく収集しては、私に得々としてその知識を披露していた。今こそ、この男の力が必要な時はない。彼は幸いにも自室にいて私を歓迎した。そして私が例の書を手渡すと、私と同じぐらい興奮して「宋江(そうこう/sòng jiāng)の乱の記録じゃありませんか!こんな貴重なものが残存していたなんて!」と大声で口にした。彼の話によれば、この事件は知る人ぞ知る宋代の起義であり、その当時の出来事と顛末を取りまとめた民間の談話劇も少なからず存在しているという事であった。そして、彼は宋江の乱を説明する為の前知識として、宋に関する歴史を追う必要があると言って、手始めに次の詩を披露してくれた。
"纷纷五代乱离间,一旦云开复见天。草木百年新雨露,车书万里旧江山。
寻常巷陌陈罗绮,几处楼台奏管弦。人乐太平无事日,莺花无限日高眠。
(紛紛たる五代の乱離の間、一旦雲が開けて再び天を見る。草木は百年、新たな雨露を受け、車書は万里、旧き江山を巡る。巷の並びには普段通り絹織物が並び、幾つかの楼台からは管弦の音が響く。人々は太平の無事の日々を楽しみ、鶯や花の間で日が高くなるまで眠る。)"
この八句の詩は、宋代の天子(皇帝)である神宗が世を治めていた時代、名高い儒者であった邵尧夫(しょうようふ/shào yáo fū)先生が作ったものであるという。戦乱の世がやっと終わり、太平を喜ぶ"大宋"の時代が幕開けたという感動を歌った内容だ。
◯◯◯◯:もちろん君も実体験者として私よりも分かりきっている事だろうがね。我々の世界は内憂に疲れ果て、外患により消耗された時、そこから分裂の時代が幕を開ける。それが英傑たちによって統合される。その繰り返しなのだ。隋が滅びてから唐が建国されるまでの社会の動き、その唐が滅びてから宋が建国されるまでの社会の動き、そしてその宋が滅びてから元、そして我々の明が建国されるまでの社会の動きというのは、実によく似た点があってね。まずは隋が壊れた時、「都来十五帝,播乱五十秋(十五の帝が現れ、五十の秋を乱した)」という言葉もある通り、中原(中華世界の中心地域)は魏晋南北の混乱が巻き起こった。そこに天道の循環を感じた者たちがようやく力を合わせ、甲馬の営中で唐の太祖の武徳皇帝を生み出した。「この聖人が世に現れた時、紅光が天に満ち、異香が一晩中漂い消える事はなかった。それは上界の霹靂大仙が降りてきたのだ。」とある。その唐もまた破滅し、五代十国の混乱が巻き起こったが、後周からまた新たに赵匡胤(ちょうきょうきん/zhào kuāng yìn)という聖人が生まれ出た。この聖人は英雄であり、勇猛で、智恵も広大なものだった。「かつての帝王たちは、この王朝の天子には及ばなかった」と評価する者だっているぐらいだ。かの天子は赵一族に栄光をもたらし、寰宇(かんう:この世)の塵を掃き清め、中原を平定し、国号を大宋とし、都を汴梁(べんりょう/biàn liáng)に建てた。この都は後の開封(かいふう/kāi fēng)だな。九朝八帝の頭を飾り、その後の四百年に渡る大宋文化の礎を築いた「光」さ。邵尧夫先生が「云开复见天(雲が開いて再び天を見る)」と賛美した意味がよく分かるだろう?それはまるで雨続きで疲弊しきっていた百姓が再び日の光を見るようなものさ。道教の逸話によるとな、こんな話もあるらしい。その頃、西岳華山に陳摶(ちんたん/chén tuán)という隠士がいてな。彼は道教に通じていて、徳も高く、風雲の気色からこの世の運命を識別する事が出来たそうだ。その彼がロバに乗って山を下り、華陰道を進んでいると、道中で客人たちがこう言っているのを聞いた。「今、東京(とうけい/Dōngjīng:開封)の柴世宗が位を譲り、赵匡胤が即位した」と。後周の柴家が趙家に権力を移譲して、これをもって大宋が建国に至ったという訳さ。陳摶(ちんたん/chén tuán)先生はこの速報を聞いて心中で歓喜し、手を額に当て、ロバの背で大笑いをした。あまりにその大笑いが度を過ぎていたものだから、何でもロバから転げ落ちて周囲の人たちを驚かせたらしい。野次馬たちが集まってきて「何をそんなに大笑いしているんだい」と尋ねると、先生は「天下はこれで安定するだろう!まさに天心と合致し、地理と合致し、人和と合致する!」と絶叫したそうだ。この庚申年の禅譲から、赵匡胤は太祖として立派に十七年間の政治を成し遂げ、その後に御弟の太宗に皇帝の座を譲った。その太宗皇帝は二十二年間在位し、ここでも国としての地盤を固めて、真宗皇帝に位を譲った。ここから文化と経済の発展に対して制度や倫理の整備が追いつかなくなり始め、太平ではあったが、内部の権力闘争や外交の安全保障の問題が噴出し始める。その段階で次の皇帝になったのが仁宗(じんそう/rén zōng)だ。この仁宗(じんそう/rén zōng)はまさに唐太宗や宋太宗と同じぐらい傑出した名君として国の正す役目を負った。複雑な生い立ちでありながら、我慢強く権力と制度を整え続けて、民に清楽をもたらした。ただ、それだけの名君でも国の根幹に根ざしていた膿や荒れ狂う自然災害のすべてを取り除く事は出来なかった。その災厄の種が社会の中に居残った結果、第八代の皇帝である徽宗(きそう/huī zōng)の時代が破滅の一途を辿る事になったのだ……
私が黙っている限り、彼はどこまでも話し続けてくれるようであった。だがその彼の長舌のお陰で、私は改めて宋朝の時代についての認識を深めると共に、「宋江(そうこう/sòng jiāng)の乱」と呼ばれる起義に繋がる確実な歴史上の知識と感覚を得る事が出来た。
この一件をきっかけとして、私と彼は書の読み解きを開始した。それらは当初こそ個人としての興味を満たすだけの行動であったが、次第に、私たちは「彼らの物語が社会や人間というものを捉え直す上でも非常に重要なものではないか」という考えを持つようになり、ひとりでも多くの大衆にも読み解ける書物として描き直し始めた。こうして、私たちは長年に渡る宋代の旅を始める事になったのである。
私たちは遂にこの作品を校了した後、その名前を『水滸伝(すいこでん/shuǐ hǔ yún)』とする事とした。〜〜〜〜(ここに物語の極めて簡単な説明と、「読者諸賢には好漢(こうかん/hǎo hàn)たちの傑出した魂をかつ目して見届けてもらいたい」といった締めの言葉を挿入。)
※「这仁宗皇帝,乃是上界赤脚大仙〜」からの段落については、引首(前書き)ではなく本編へ移行する。
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※画像:百度百科「赵匡胤」より引用
作品紹介