※補足1:画像は中国動画共有プラットフォームで公開されている2010年の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①陽虎(ようこ/yáng hǔ)が孔青年に絡む、孔青年は天を示す
ここも創作的な場面であるが、本ドラマを象徴する重要な場面でもある。李孫氏の邸宅の管家(執事)として威張り散らしている陽虎(ようこ/yáng hǔ)が、父親の埋葬地を探すために目立つ場所で座っている孔丘(こうきゅう/kǒng qiū:孔子)に絡んだ。孔青年から「礼に適った弔いを母にしてあげたいのです」と言うと、陽虎(ようこ/yáng hǔ)は激怒して「この世の中のどこに礼がある?それはお前の頭より大切なものか!?」と言って、剣を相手の首元に突き付けた。
「礼はどこにある?」という質問に対する答えとして、孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)は静かに胸に手を当てた後、その胸から話した手をスッと天に掲げてみせた。天意に従って行動するべきであるという孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)の考えがよく表れている。
とは言え、どちらかと言えばその後の孔子は地と人に根差した論理学を展開した人物だ。古代ギリシャで言えばアリストテレスのタイプである。天を仰いだ論理学を展開したのは、孔子よりも少し先に名を馳せていた老子(李耳)の方であろう。こちらは古代ギリシャで言うプラトンのタイプである。前者の論理学は後に儒学となり、後者の論理学は後に道教となった。
②河广(古代の歌)
陽虎(ようこ/yáng hǔ)と孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)が対峙している傍らで、勢いよく誰かの馬車が駆け抜けていった。その車を運転していた老人が気持ちよさそうに民間の詩を吟じていた。彼が吟じていたのは、後に《詩経》に収録されることとなる次の作品である。
<原文>
《卫风·河广》
谁谓河广 一苇杭之。谁谓宋远 跂予望之。
谁谓河广 曾不容刀。谁谓宋远 曾不崇朝。
<意訳>
《衛風・河広》
誰が言った、黄河が広いと?一本の葦の筏でも渡れるのに。
誰が言った、宋が遠いと?つま先立ちすれば見えるのに。
誰が言った、黄河が広いと?小さな船さえも通せないほど狭いのに。
誰が言った、宋が遠いと?朝のうちに着けるほど近いのに。
人から見れば、この世界は広くて遠い。しかし、天から眺めれば、この世界は狭くて近い。
陽虎(ようこ/yáng hǔ)は興が削がれ、さっと振り返って馬に飛び乗った。その馬が苛々と暴れている。孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)は「大丈夫だよ」と馬の頬を撫で、馬の手綱を手にとってしばらく先導をした。
③腹違いの兄の孟皮(もうひ/mèng pí)埋葬地を見つけてくれた
孟皮(もうひ/mèng pí)が乳母の老女から何とか話を聞きだして、どうやら防山に父親の埋葬地があることを把握した。彼は急いで腹違いの弟の孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)にこれを知らせた。こうして、孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)の母親は父親の隣に埋葬されることになった。これが彼にとって最後の親孝行となった。
※この場面で、墓石には「叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)と刻まれている。これが孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)と孟皮(もうひ/mèng pí)、二人の父親だ。
<叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)>
※画像:百度百科「梁公林(山东省曲阜城的景点)」より引用。山東省の曲阜にある景勝地「梁公林」には、先ほどの場面で描かれた孔子の両親、父親の叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)と母親の顔徵在(がんちょうざい/yán zhēng zài)の墓がある。
叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē:紀元前622年—紀元前549年)は宋国栗邑(現在の河南省商丘市夏邑県劉店集郷王公楼村)の出身で、春秋時代の魯国の陬邑(魯国の地方)で大夫として活躍した。宋国の君主の子孫で、孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)の父に当たるとされる。その人品は際立っていたそうで、博学多才で、文武に優れていた。魯国の名将である狄虒弥や孟氏の家臣である秦堇父とともに「魯国の三虎将」とも称されている。
彼にまつわる有名な逸話が、前回にも話として登場した「力举城门(力で城門を支える)」だ。紀元前563年、晋国の荀罃、荀偃、士匄が諸侯連合軍を率いて逼陽(古代の都市)を攻めた際、4月9日に敵軍の罠にはめられて城門が降ろされ、軍隊が分断されそうになった。そこに叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)が割って入り、城門をひとりで支えて部隊が撤退するまでの時間を稼いだ。孟献子はこれを称賛し、「まさに『詩経』にある『虎のように力強い者』だ」と称賛した。
個人生活の面では、叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)は正妻の施氏との間に9人の娘がいたが、息子はいなかったらしい。側室が息子を産んだが、足の病気があって後継者にはなれなかった。この息子が、本ドラマ内の孟皮(もうひ/mèng pí)である。叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)は後継者を産むため、魯国の顔氏に結婚を申し込んだ。顔氏には三人の娘がいたが、長女と次女は父親から受けた話に難色を示した。というのは、叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)の家柄や功績は大したものであったが、既に年老いていたし、性格にせっかちな部分があったからだ。父親の前に進み出たのは三女の顔徵在(がんちょうざい/yán zhēng zài)。彼女が「父上のご判断に従います。これ以上聞くことはありません」と答えたことから、顔徵在(がんちょうざい/yán zhēng zài)が叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)に嫁ぐこととなった。
その後、叔梁纥(しゅくりょうこつ/shū liáng gē)は孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)が3歳の時に逝去した。
④補足:《孔子家语》
※画像:百度百科「孔子家语(古书籍)」より引用。春秋戦国時代に編纂されたとされる古書で、孔子の生い立ちにまつわる事項が収録されている。
孔子が母親を埋葬する話については、《孔子家語》の第十巻・『公西赤問』(三、四)に次のように記録されている。
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孔子の母が亡くなった後、彼女を父親と一緒に合葬するかどうかについて考えた。孔子は言った。「古代では合葬しなかった。それは、先に亡くなった者が再び目の前に現れるのに耐えられないという理由からである。『詩経』には『死んだら同じ墓に埋める』とある。周公以降から、合葬が行われるようになったのだ。衛国では合葬の際、遺体同士を離して埋葬し、空間を持たせるという方法を取っている。だが魯国では合葬する際、遺体を一緒に埋葬する。それは美しい習慣だ。私は魯国の習慣に従う。」このように言い、母親を父親と共に防(防山)に合葬した。
孔子はさらに言った。「私は聞いたことがある。古代の墓は土を高く盛らずに埋葬するものだ。今の私は、東西南北から来る人々に知られないわけにはいかないだろう。だから、両親の墓を高くする必要がある。」孔子は既に17歳であり、教えを広め始めていた。士大夫たちは孔子を軽んじることはできなかったので、彼の言葉は説得力を持っていた。
孔子は言った。「私は、堂のように盛られた墓、街のように盛られた墓、覆屋のように倒れた屋根の形をした墓、そして斧の形をした墓を見たことがある。私はこの中で斧の形が良いと思う。斧の形をした墓とは、地面が盛り上がり、頂上が平らではなく、斧の刃のように脊が残されているものだ。」そして、その高さを四尺にした。
孔子はまず家に戻り、門人たちはその後に続いた。しかし雨が降り続け、墓が崩れたため、修復することになった。孔子は門人たちに「なぜ遅れたのか」と尋ねた。門人は「防の墓が崩れました」と答えたが、孔子は返答しなかった。門人が3度言った後、孔子は涙を流しながら言った。「古代には墓を修復しなかったと聞いている。」孔子は心を痛め、古い儀礼に従おうとしたが、思い通りにいかなかったのだ。門人たちは墓を修復し終えたが、孔子は何も言わず、ただ涙を流した。
そして喪が明け、二十五カ月目の祥祭を行ったが、その後も孔子は琴を弾いても声が出なかった。十日後に禫祭を終え、ようやく音楽を再び始めることができた。
孔子の母が亡くなり、殓を行った後、陽虎が弔問に来た。陽虎は私的に孔子に言った。「今、季氏が国内の士を大いにもてなす準備をしていることを聞いたか?」孔子は答えた。「丘(私)は聞いていない。もし聞いていれば、喪に服していても参加したいと思う。」陽虎はさらに言った。「季氏が士をもてなしているが、君は呼ばれていないのだ。」陽虎は去った。曾参が孔子に尋ねた。「先生、彼の言葉の意味は何ですか?」孔子は答えた。「私は喪に服しているが、彼の言葉に応じたのは、それが間違いではないことを示すためだ。」
孔子の母の死後、陽虎がわざと季氏の宴の話題を持ち出し、孔子を侮辱しようとしたが、孔子は冷静に対処した。その後も陽虎は孔子に猪の腿を贈るなど、再び接触を試みたが、孔子は避け続けた。後に陽虎が孔子を再び仕官させようと説得したが、孔子は表面的には従う振りを見せたものの、実際には深い恨みを抱き続けていた。
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ドラマ版の孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)はまだ普通の青年として描かれているが、この書に基づけば、父母を弔った17歳の時点で、既に「古代の礼学に通じた博学の青年」という評価がなされていたようで、教えを広める役割も担っていた。陽虎(ようこ/yáng hǔ)がこの若い才能者を危険視し、侮辱をしてみたり、味方に引き込もうとしたり画策している様子も確認できる。この陽虎(ようこ/yáng hǔ)に関する逸話のプロットは、後のドラマ版の展開でも確認できる。
※ドラマ版では現代の梅燕(ばいえん/méi yàn)のナレーションで、唐王朝時代の《括地志》の引用によって、この防山のお墓に関する説明が行われている。
⑤魯国ではますます李孫氏らがやりたい放題に
魯国で過半数の軍隊を掌握する李孫氏(李一族)が戦で勝ち取った敵国の褒賞をほとんど独占。これを"お友達"の叔孫氏(叔一族)と分け合って、ますます隆盛を極めている。彼らは昭公(国王)から戦勝の宴に呼ばれても、自分たちの飲み会を優先して出席を断る始末だ。こうして魯国では権力が大きく偏り、政治が歪み始めていた。
⑥孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)は若い頃にあらゆる仕事をした
「吾十有五にして学に志す」という有名な孔子本人の言葉には二つの意味がある。孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)が十五歳にして学問を本格的に始めたということ、そして十五歳以前は学問をそれほど重視していなかったということだ。母親を失った後、孔子はあらゆる仕事をして日銭を稼いで暮らしていたそうだ。だが、たとえば上の場面のように葬儀の鳴り役(葬儀の音楽を奏でたり、涙を流す演技をしたりする役)のアルバイトをしながらも、彼は技能を真剣に学び取る姿勢を貫いていたとされる。
※後に孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)の弟子のひとりとなる子路(しろ/zǐ lù:字は「仲由」)との出会いが描かれた場面。母子家庭で母親を失くし、路頭に迷っていた彼の境遇に共感して孔子が自分の家に引き取った。
※子路は拾った竹簡の価値が分からずに薪として燃やしていた。唖然としながら、孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)は彼に「字を教えてあげるよ」と言った。子路が「どうして字なんか覚える必要あるんだ」と聞く。それに対して、孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)は「君が字を習えば」「就不会糟蹋这么好的东西了(こんな素晴らしいものを無駄にすることはなくなるよ)」と答えた。日本語版では「字を習えば、物の価値が分かるようになる」と訳されている。
※馬飼いの仕事をしながら、バラバラになった竹簡を読みつつ詠唱する孔丘(こうきゅう/kǒng qiū)。この場面で彼が詠唱していたのは次の古代の詩だ。
《诗经·小雅》
伐木丁丁,鸟鸣嘤嘤。出自幽谷,迁于乔木。嘤其鸣矣,求其友声。
相彼鸟矣,犹求友声。矧伊人矣,不求友生?神之听之,终和且平。
伐木许许,酾酒有藇!既有肥羜,以速诸父。宁适不来,微我弗顾。
於粲洒扫,陈馈八簋。既有肥牡,以速诸舅。宁适不来,微我有咎。
伐木于阪,酾酒有衍。笾豆有践,兄弟无远。民之失德,乾餱以愆。
有酒湑我,无酒酤我。坎坎鼓我,蹲蹲舞我。迨我暇矣,饮此湑矣。
伐木の音が咚咚と響き、鳥たちが嘤嘤と鳴いている。鳥は深い谷から飛び立ち、立派な木の上に移り住む。小鳥がなぜ鳴くのか?それは知音(親しい友)を求めているからだ。よく見れば、その鳥でさえも仲間の声を求めている。ましてや私たち人間が、友情を重んじないはずがあろうか。天の神々よ、どうか聞いてください、私に和楽と平安をお与えください。
斧が呼呼と響き、酒が清らかに注がれる。肥えた子羊が用意され、叔父や伯父を招いて情を交わそう。たとえ彼らが来なくても、私の誠意が足りないということにはならない。家を清掃し、八つの料理を並べた。肥えた牡羊の肉が用意され、舅たちを招こう。たとえ彼らが来なくても、私に過失があるということにはならない。
伐木は山の斜面で行われ、酒は清らかに注がれる。笾や豆には珍しい料理が並び、兄弟たちと遠く隔たることなく語り合おう。人々は既に徳を失い、干し餅ひとつで不平を言う。有る酒は清らかに私に注がれ、無ければ早く買って私を楽しませてくれ。鼓の音が咚咚と響き、舞は軽やかに私を喜ばせる。私が暇になったら、必ずまたこの清らかな酒を飲み干そう。
※今回の題材としたのは2010年の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』の第二集。YouTubeのリンクは次の通り。
作品紹介