天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

固執せず、迎合せず、人の道あるのみ

The United States of Leland

私:2003年のアメリカ映画『The United States of Leland (邦題:16歳の合衆国)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:2003年のアメリカ映画『The United States of Leland』(邦題:16歳の合衆国)は、マシュー・ライアン・ホージによって書かれ、監督されたドラマ映画です。この映画は、若い少年レランド・フィッツジェラルドライアン・ゴズリングが演じる)の人生と彼が犯した衝撃的な犯罪に焦点を当てています。

 

物語は、レランドが自閉症の少年を殺害した後、少年院に送られることから始まります。彼の犯罪の動機と彼が周囲の人々に与える影響が、映画を通じて探求されます。レランドの教師であり作家のアルバートフィッツジェラルドドン・チードル)は、レランドとの関係を通して彼の新しい本の主題として使用しようとします。

 

映画は、レランドの家族、恋人、および他の関係者との複雑な関係を描き出しながら、彼の行動の影響を深く掘り下げます。『The United States of Leland』は、人間の行動の動機、罪と救済、そして人間性の暗い側面についての考察を提供します。

 

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 本作で人の心を持たない父親アルバートを演じている俳優ケヴィン・スペイシーは「粘着質で高い知性を持つ不気味な男」を演じる第一人者だ。『セブン』『ユージュア・ルサスペクト』『ハウス・オブ・ザ・カード』など、彼の存在無く作品が成立出来ないものが幾つもある。一方、我々の多くは既に彼その圧倒的な演技の才能を自ら裏切った糞野郎であると知っている。

 彼は映画の世界で権力を持ち始めてから、若い、時には幼い男性俳優に性的暴行をする事がもっぱらの趣味となった。この性的暴行疑惑が持ち上がった2017年以降、彼はしばらく銀幕から完全に姿を消して裁判に尽力。2023年に主要な裁判で無罪判決が出たので早速復帰作が決まっているらしいが、被害者の告発が続いている事から暴行の疑いが晴れたとは言えない。日本でもジョニーだか何だか(もう名前も忘れた)、この地獄行きの糞野郎に似た犯罪者がいたが、とにかく顔を見るだけで吐き気を催す。

 面白い事に、本作で「人の心を持たない冷徹な作家、そして主人公の父親」という役柄を演じるスペイシーが、未来の自分の姿を予言するような台詞を述べ立てている。

 

"I recall when our lives were unusual and electric. When we burned with something close to fire. But now we sway to a different rhythm. Lives lived without meaning or even directed hope.(私は自分達の暮らしが途方もなく刺激的だった頃を思い出す。我々は炎のように燃えていた。しかし今、我々は異なるリズムに身を委ねている。それは意味も希望もなく生きる人生だ。)"

 

"Look, I'm aware that I have made mistakes in my life, Mr. Madison. (なぁ、私は自分の人生において過ちを犯した事を十分理解しているんだよ、マディソンさん。)」

 

 そしてまた面白い事に、本作にはスペイシー演じる作家アルバートに憧れを持つ少年刑務所の教師マディソン(俳優ドン・チードル)が、現実のケヴィン・スペイシーを擁護するような台詞を述べている。

 

"So what? You don't judge a writer by his life. You judge him by his work.(だから何だよ?君は彼の生き方によって彼の作品を評価するべきじゃない。君は彼の作品によって彼の生き方を評価するべきだ。)"

 

 「作品と作家は分けて考えるべきだ」というこの見解は、私にも一部理解出来る。例えば、作家ドストエフスキーは率直に言えばロクでもない人間であったが、私はドストエフスキーの作品が論理学の最高峰に位置していると確信して、ドストエフスキーを論理学の師と仰いでいる。人間に内在する技能・倫理・方法の柱に圧倒的な影響を与えた作品は、その作品の描き手がいかに人の道を外れていても、その作品も作者も尊敬してしまうものだ。坊主の袈裟が素晴らしければ、坊主が以下に生臭野郎でも許せてしまうのである。『罪と罰』のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが「人々に革命を起こせるクリエイターは神を超える権利を持つ!」とでも言いそうな心理状態だ。

 『罪と罰』と言えば、本作はごくわずかに(本当にどことなくであるが)、ロージャ(ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフの愛称)の殺人事件の構図と似た部分がある。ロージャは生活や社会の混沌から信念と妄想の渦を巻き起こし、「人間の中には社会改善の為に殺人を犯しても罪の意識を感じない超人がいる」という理論をもとに、社会悪として身近にいた闇金業者の女性アリョーナを斧で叩き殺した。本作のリーランド・P・フィッツジェラルドもまた、両親や恋人の問題から異常な共感性と絶望を得て、「このまま生きていても希望がない人間は殺してあげた方が良い」という理論を生み出し、障害を患っている恋人の弟を刺し殺した。どちらも当然、私の三元論に基づく人間の三大原則「規範」「良識」「美徳」の普遍的概念に反する行為であり、完全に間違っている。しかし、彼らはそれを一時的に善いものであると考えた。

 「規範」「良識」「美徳」はそれぞれ人間の本能である「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたい)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたい)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」を適正に節制する機能を果たしている。規範の適用は主に政治が、良識の獲得は主に教育が、美徳の醸成は主に文化が、それぞれを担当する。

 したがって、政治が歪むと規範が、教育が歪むと良識が、文化が歪むと美徳が、それぞれ壊れやすくなる。もっと大雑把に言えば、社会が歪むと本能が暴走しやすくなる。歪んだ政治・教育・文化を立て直すべき時が来ている。

 

"子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比。(孔子先生は言った。「崇高な人間は天下において、固執せず、迎合せず、ただ人の在るべき道に準じて生きるものだ。」)"

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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