天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『西遊記 1986』の興味深い中国語メモ7

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①ここが天竺じゃない事は確かですね

 

孫悟空の受け答えはいつも軽やかだ。観音禅院をしばし離れ、玄奘と山道を進んでいる時の会話が次の通りである。

 

玄奘:悟空 前面是什么地方(悟空、この先はどこでしょうか?)

孫悟空:呵 管它什么地方 师父 离西天还远着呢(へっ、どこだろうと関係ないさ、お師匠さん。西天まではまだまだ遠いんだからな。)

 

ビリビリコメントも「その通りだ!」と称賛している。深く考えてみると、このさりげない会話には一種の教訓的な内容が含まれている。我々人間は目の前で起きる些末な事象に思い悩む事が多いが、それは本当に思い悩む価値のあるものなのか。真の到着地点を見据えて、より大きな目と心を持って、力強く突き進むべきなのだ。

 

<関連する成語>

  1. 目光如炬(mù guāng rú jù)

- 意味:目の光が炬火(たいまつ)のように遠くまで届くという意味で、物事を深く見通す力や広い視野を持っていることを表す。

- 解釈:些細なことに囚われず、大きな目標や遠い未来を見据えて進む姿勢を象徴する。

- 出典:『南史・檀道済伝』に由来。東晋-南朝宋の大将、檀道済が捕らえられた際の怒りに満ちた「目光如炬」の場面から生まれた言葉。

 

  1. 高瞻远瞩(gāo zhān yuǎn zhǔ)

- 意味:高いところから遠くを見渡すという意味で、広い視野と長期的な視点を持って物事を判断することを表す。

- 解釈:目の前の小さな問題に囚われるのではなく、長期的な目標を見据え、全体を見渡す大きな視野が重要だという教訓。

- 出典:漢代の王充による著作『論衡(ろんこう)』の「別通篇」にある一節に由来。“夫闭户塞意,不高瞻览者,死人之徒也哉。(戸を閉ざし、意志を塞ぎ、高い視点で物事を見ようとしない者は、まるで死者のようなものである。)”

 

  1. 心无旁骛(xīn wú páng wù)

- 意味:心が他のことにそらされず、一つのことに集中していることを示す。

- 解釈:目の前の小さなことに惑わされず、真の目標に向かって進む心構えを示す。

- 出典:冰心《谈信纸信封》の一節に由来。“有不少人像我一样,在写信的时候,喜欢在一张白纸,或者只带着道道的纸上,不受拘束地,心无旁骛地抒写下去的。(多くの人が私と同じように、手紙を書くときには、白紙や、ただ線が引かれているだけの紙の上に、拘束されることなく、心を乱されることなく、思いのままに書き綴るのを好んでいるのだ。) "

 

  1. 志存高远(zhì cún gāo yuǎn)

- 意味:高く遠い理想を抱いているという意味で、目標が高く、視野が広い事を示す。

- 解釈:目先の困難に捉われず、大きな目標に向かって力強く進む姿勢を意味する。

- 出典:三国·诸葛亮《勉侄书》に由来。"夫志当存高远,慕先贤,绝情欲,弃凝滞,使庶几之志,揭然有所存,恻然有所感。忍屈伸,去细碎,广咨问,除嫌吝;虽有淹留,何损美趣,何患于不济。(志は高く遠くに持つべきであり、先賢に倣い、情欲を絶ち、滞りを捨てるべきだ。そうすれば、庶幾の志が高らかに立ち、感動する心が生まれる。屈伸を忍び、些細なことを捨て、広く意見を求め、嫌いなことやケチな心を除くべきだ。たとえ滞留することがあっても、美しい志趣に何の損もなく、達成しないことを何も恐れる必要はない。)"

 

<補足:「志存高远」に関連する逸話>

志存高远(志存高遠)に関連する有名な出来事として、次のような逸話が取り上げられる事がある。

 

  1. 戦国時代の蘇秦

蘇秦は洛陽出身で、合従連衡の策略を学び、秦王に十数通の提案書を提出しましたが、全く役に立たなかった。彼は見向きもされず、全財産を使い果たし、悲惨な帰郷を余儀なくされた。彼は「妻は私を夫として見なさず、兄嫁は食事の支度をせず、両親は私に言葉をかけない」と嘆き、「これはすべて秦の罪だ」と考えた。彼はそれからというもの、再起を果たすべく一心に書物を読みふけった。太公の『陰符』を苦学し、眠くなった時は自分の太ももを錐で刺して眠気を覚ましたという。これが成語「懸梁刺股」の「刺股」の由来となる。そして遂に、彼は秦以外の六国の君主を説得に成功。辞令の妙技を発揮して六国(斉、楚、燕、趙、魏、韓)を連合させ、秦国に大打撃を与えた。最終的に彼は六国の相(宰相)の印を受け取る事が出来た。

 

  1. 明王朝の李時珍

明王朝時代、李時珍は、父が彼に八股文を学び科挙で役人になることを望んでいたにもかかわらず、それを捨てて医学書『神農本草』に専心した。彼はこの書物の中で、多くの薬草が詳細に記録されていないことを発見。これを補完するため、詳細な医書を編纂することを決意した。こうして彼はすべての薬草について慎重に調査を行い、30年以上の歳月をかけて『本草綱目』という偉大な書物を完成させた。

 

②休得胡言(シウダフーヤン/xiū dé hú yán)

 

玄奘:悟空。

孫悟空:師父。

玄奘:休得胡言。

 

「休得(xiū dé)」は「〜するのはやめなさい」という禁止の表現。「胡言(hú yán)」は「でたらめな話」「根拠のない事」を意味する。すなわち、「デタラメを言うのはやめなさい」や「いい加減なことを言うのはやめなさい」といった言葉になる。ただ、この直前の場面で孫悟空は至ってまっとうな事(おい、見た目で人を判断するなよ!)を言っているので、果たしてそれが「デタラメ」と言えるのかは疑問である。

 

胡言の「胡」は中国語の歴史の中で何かと存在感を放つ表現だ。「胡椒」「胡麻」「胡弓」「胡瓜(キュウリ)」など、様々な物品に名称が残っている。この「胡」には「外国人」「異民族」の意味がある。中原(中華世界の中心地域)の外側、北方・西方・南方から到来した文化や事物にこの名前が付けられた。「胡言」が「デタラメな話」になったのは、「彼らの言葉が聞き取れない=よく分からない事を言っている」という状況から生まれたのかもしれない。

 

③了不起(リャンプーチー/le bù qǐ)

 

彼は人間に変身している時の猪剛鬣(後の猪八戒)。彼は成り行きから高老荘の娘・翠蘭を危機から救い出して英雄となり、その娘と婚姻する事になった。この場面は礼服をして結婚式に臨む直前の一場面だが、またここで地主が派遣した手下たちが襲撃して来たので、彼がそれに対抗して相手を一網打尽にしている。登場時はかなりの好漢(こうかん/hǎo hàn)であり、町民たちからも「了不起!(素晴らしい!)」と称賛されている。

 

猪八戒と言えば性急で軽率な人物造形が頭に浮かぶが、彼の出来事を掘り下げてみると「傑」と「粗」の二面性があるようだ。彼はかつて天宮の天河を統括していた天蓬元帥。しかし、宴席で酒に酔った際、嫦娥仙女にすっかり心を奪われて、思わず彼女に迫ってしまう。玉帝がこの無礼行為に激怒して2000回の杖刑に処し(人間の場合は50回以上打たれると命の危険が生じる)、地上に突き落とされた。その際に豚の胎内に入った事から、彼は法術と武術を持ちながら、豚の妖怪となってしまった。天蓬元帥としての威光(傑)とあまりに軽率な行動(粗)が交じり合っている。

 

次の地上での出来事も、婚姻までは逞しい英傑ぶりを発揮している。しかし、豚の妖怪である事が知られてしまった後、娘を強引に幽閉する強硬手段に出るという軽率さを発揮しており、ここに二面性が確認できる。この二面性のスイッチを切り替えるきっかけとなったのは、どちらも「女性」だ。

 

中華世界では古より「女禍(男性、特に皇帝が女性に入れ込んでしまう事により生じる禍)」を警戒している。古代では殷の妲己(だっき/dá jǐ)や周の褒姒(ほうじ/bāo sì)が有名。春秋戦国時代の孔丘先生が向かった衛国の霊公(王)の夫人である南子(なんし/nán zǐ)もそうした毒婦の一人。(『論語』)その他、楊貴妃則天武后のような例もある。猪八戒の失態もまた、こうした女禍の教訓がそれとなく反映されているものと思われる。

 

※天宮にいた頃の猪八戒天蓬元帥)。

 

※豚の妖怪に戻った猪八戒。ちなみに、日本語の「猪(イノシシ)」は豚とは別種の動物であるが、中国語では「猪」が「豚」の意味を示す。日本語のイノシシは、中国語で「野猪」となる。

 

アクションRPGゲーム『黒神話:孫悟空』、『西遊記』から五百年後の世界で再登場する猪八戒。動物要素の強いデザインにシフトされている。

 

④尽管放心(ジンガンファンシン/jǐn guǎn fàng xīn)

 

猪八戒は「妖怪と知られてしまったか。しかし、君を愛しているのだ。また逢いに来るからな。」と言っていったん去った。娘は猪八戒によって幽閉状態になってしまったが、ここで重要な点は直接的な暴力に訴えていないという事である。娘の気持ちが変わるまで待つという姿勢で、幽閉の件さえなければ紳士的だ。(この紳士的な賊の恋愛模様は、『水滸伝』の周通(しゅうつう/zhōu tōng)のエピソードプロットと非常によく似ている。)

 

ここにも、ひとつの教訓的な側面がある。それは高老家の面々が娘を救った気持ちの良い英雄である猪八戒を、ただ妖怪であるというだけで悪しざまに扱うようになった事だ。彼が妖怪だからと言って何か悪さをした訳ではない。ただ「出自が悪かった」というだけの話である。しかも彼らは猪八戒を嫌うだけではなく、「あいつを何とか成敗してくれ」と玄奘たちに頼み込んだ。このような仕打ちは恩知らずも甚だしく、よく考えるとやるせない。

 

これは人種差別、宗教差別、部落差別などにも通じる深い人間の排他的な性質を示唆しているように感じる。冒頭で孫悟空が述べていた「为何以貌取人(人を見た目で判断するなよ)」という言葉がここにも生きてくるのだ。

 

そうとは知らず、とにかく猪八戒を悪と決めつけて退治の役目を担った孫悟空玄奘が「本当に大丈夫か」と心配そうに聞くと、孫悟空が「尽管放心(jǐn guǎn fàng xīn)」と答えている。「尽管(jǐn guǎn)」は遠慮せずに、どうぞ」という意、「放心(fàng xīn)」は「安心する、心配しない」という意。総じて、「どうぞご安心を!」「心配せずお任せあれ!」といったニュアンスとなる。

 

⑤呆子(ダイズ/dāi zǐ)

 

猪八戒はもともと観世音菩薩から玄奘の弟子となり旅に同行するように言われていた妖怪であった。これが判明して、孫悟空猪八戒が和解。仲良く高家に戻って玄奘と合流をした。この場面では、「旅が失敗に終わったらまたここに戻りますよ」と言う猪八戒に対して、孫悟空が「このどアホ、デタラメな事を言うな!」と叱っている。

 

「別胡説」の「胡説(フーショウ/hú shuō)」は、先ほど取り上げた「胡言」の別の言い回し。「別(ビエ/bié)」には「やめろ」の意味がある。「呆子(dāi zi)」は、中国語で「愚か者」「ばか」「間抜け」という意味で、もちろん軽蔑的な表現ではあるが、文脈によっては親しみを込めて使われる事もある。この場面でも孫悟空は強い侮辱を示しているのではなく、軽い冗談、からかいの意図で、猪八戒を「呆子(dāi zi)」と呼んでいる。孫悟空にそう言われ、もう翠蘭に逢えないのかとシュンと落ち込む猪八戒の演技が可愛い。

 

※今回の題材は中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第七集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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