天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『西遊記 1986』の興味深い中国語メモ5

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

トップ画像は玄奘が山中で虎を目にして驚愕する場面。以前の『水滸伝』のどこかの記事でも書いたが、虎は当時の中国における極めて危険な猛獣。実際に多数の人害が起きていた。とは言え、何となくドラマではのどかな描写で、玄奘の驚き方も妙に優しげ。この後で虎を弓で対峙してくれる百姓の劉白欽が登場すると、『水滸伝』で素手で虎を倒した英傑の武松(ぶしょう/wǔ sōng)や、同じく『水滸伝』の林冲(りんちゅう/lín chōng)、花栄(かえい/huā róng)らを連想するビリビリコメントが流れて面白い。

 

※虎の対峙後、百姓の劉が「我叫劉伯欽(俺は劉伯欽って言うんだ)」と玄奘に語る場面。日本DVD版はこのあたりの場面が全てカットされ、五台山で孫悟空と出会う場面まで飛んでいる。

 

①壮士(ズァンシー/zhuàng shì)

 

玄奘:壮士回去吧(勇猛な方、気を付けてお帰り下さい。)

劉白欽:请多保重(お身体にお気をつけて。)

 

玄奘が百姓の劉にお別れを言い、それに対して劉が答えている場面だ。「壮士(ズァンシー/zhuàng shì)」は勇敢、勇猛な人に向けて用いる表現。日本語としてこれに相当する言葉としては「勇士」「勇者」などが挙げられるが、会話の中で用いるのは何となく不自然だ。日本語にはその人物の肯定的な性質を代名詞的なあだ名に封じる習慣があまり無いように感じる。一方、否定的な性質をあだ名とする事は現代でも結構多い。例えば、情緒が不安定な女性は「メンヘラ女」、幼稚な成人男性は「チー牛」などと揶揄される。

 

②师父(シーフ/shī fù)

 

师父(シーフ/shī fù)を日本語に訳するとしたら、「師匠」「お師匠」「お師匠さん」あたりがもっとも近いかと思われる。現代の日本語にも一応、そのまま「師父」として表現が残っているが、一般的にはあまり使われない古語的・文語的な表現かもしれない。私は作家ドストエフスキーを表現する際、「私の師父である作家ドストエフスキー云々」といった具合でよく用いている。

 

歴史を追うと、「師父」は「師傅」とも呼ばれ、もともと「太師」「太傅」「少師」「少傅」などの官職の総称であった。これらの職位が太子(皇帝の息子)に教育を施す役割を担っていた事から教育に携わる先生を広く示すようになった。「一日為師、終身為父(一日でも師であれば、一生の父のように敬うべし)」という成語も生まれた。この表現は唐王朝以後に大きく普及し、仏教の出家者に対する敬称としても用いられるようになった。という訳で、孫悟空が「師父、師父、師父!」と玄奘の事を呼んでいるのである。

 

尚、仏教においては、この師父は男性にのみ用いるもの。仏教は男性の出家者を「和尚」と呼び、その敬称として「師父」を用いる。一方、女性の出家者は「尼僧」と呼び、その敬称として用いるのは「師太」である。仏教以外であれば、文化的な場面における教育者は、男女問わず「師父」を用いる事が出来る。

 

※こちらは少し先の場面、玄奘孫悟空が合流して泊めさせて貰う家を訪ねた所。ここでは老人が玄奘の事を「和尚」と呼んでいる。ちなみに、『水滸伝』で仏教徒に改宗する魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)のあだ名は「花和尚」だ。「花」は彼の体に彫られている見事な入れ墨を示している。

 

③唵、嘛、呢、叭、咪、吽

 

空から降って来た五台山のてっぺんに掲げられている封印の幕。これによって孫悟空は力を抑えられ、逃げ出す事が出来なかった。ここに書かれている唵、嘛、呢、叭、咪、吽という六文字は、「六字真言」という仏教の概念。簡素な六文字の中に深遠な仏理が込められている。それぞれの意味は以下の通りだ。

 

唵(アン/ǎn):傲慢を消し去る

嘛(マ/ma):嫉妬を消し去る

呢(ナ/ne):貪欲を消し去る

叭(バー/bā):愚かさを消し去る

咪(ミー/mī):吝嗇(けち)を消し去る

吽(ホン/hōng):瞋恨(怒り)を消し去る

 

④行者(シンツェ/xíng zhě)

 

あだ名がまだ無いという孫悟空に対して、玄奘が「孫行者」というあだ名を付けてあげる場面。孫悟空は「好好好!(良いね良いね良いね!)就叫孫行者吧!(そんならあだ名は孫行者だな!)」と非常に嬉しがっている。『水滸伝』で「行者」というあだ名を持っているのは武松(ぶしょう/wǔ sōng)。ビリビリユーザーが「武松:何人叫我?(武松:誰だ、俺の名を呼ぶのは?)」などの"武松コメント"を連発するのが愉快だ。

 

この「行者(シンツェ/xíng zhě)」というのは、修行者・修道者: 仏教や道教などの宗教において、修行をしている人を示す肩書。「行」は「修行」や「実践」を意味し、「者」は人を意図している。この場面では玄奘から帽子を貰った孫悟空が行者のような出で立ちになった事からあだ名が付けられた。『水滸伝』の武松(ぶしょう/wǔ sōng)も、変装の為に行者の衣装をまとった事からそのあだ名となった。

 

⑤住手(ジヴーショウ/zhù shǒu)

 

玄奘たちが一夜を過ごした家に押し入ろうとした凶悪な山賊たち。もちろん、こんな小童は孫悟空の相手ではない。孫悟空が軽々と賊を殺していき、最後にこの男だけが残された。男は観念して命乞いをし、玄奘が「許してあげなさい」と悟空に言うのだが、悟空はこれを聞かずにひょいと放り投げてしまう。結局、この男も打ちどころが悪く死んでしまった。

 

以前の仁宗(じんそう/rén zōng)のドラマの方で「饶命(ラオミン/ráo mìng)」について取り上げた。これは「お助け下さい、命だけは取らないでください」という許しを請う表現。「爷爷(イエイエ/yéye)」は「父方の祖父」を意味するが、文脈によっては「おじいさん」「旦那様」などの用途としても用いる事が出来る。ここでは「旦那様」の日本語訳が適切だ。

 

続く「住手( ráo mìng zhù shǒu)」は「手を止めて」「攻撃を止めて」といった意図で用いられる、こちらも許しを請う表現。これを踏まえて日本語の時代劇感覚で言語を組み直すと、「旦那様、どうか命だけはお助け下さい!お許し下さい!」となる。日本DVD版の字幕ではシンプルに「お助けを!」とだけ記されている。

 

⑥考察:どちらが正しい考え方か?

 

先ほど山賊を成敗した騒動について、玄奘が「なぜ許しを乞う者まで殺してしまったんだ」と孫悟空に説教をする。孫悟空はそれに反論した。この言い争いによって一時的に孫悟空玄奘のもとを離れてしまう。彼らの会話は次のようなものであった。

 

玄奘:我佛门以慈悲为怀 你纵有手段 把他们退去便了 怎么 怎么不分青红皂白一概打死呢(我々仏教の者は、慈悲を胸に抱いているのだ。お前には方法が幾らでもあるのだから、彼らを退ければそれで十分だっただろうに。どうして、どうして善悪の区別もせずに、全員を殺してしまったのです?)

孫悟空:什么 我不分青红皂白 反正恶人不除 就会祸害好人(何だって?俺が善悪の区別をつけないだと?悪人を除かなければ、善人に害を及ぼすだろうが!)」

彼らの対話は現代の法倫理や刑罰の在り方に対する明確な命題にも繋がる。

 

ここに凶悪犯がいるとする。彼らの中には牢獄の中であっても税金によって生かされ、出所後に同じような悪事に手を染める者もいる。となれば、「このような凶悪犯は一生刑務所にぶち込んでおくべきだ」「さっさと死刑に処するべきだ」と考える孫悟空タイプの者も当然いる。しかし、そうした考えを否定し、「凶悪犯にもやむを得ぬ事情があったから慈悲を与えるべきだ」「人間は適切な環境と教育さえあれば誰でも更生出来るのだ」と考える玄奘タイプの者もいる。

 

悪人を懲らしめるべきか。悪人を救うべきか。どちらが正しいのか。答えは、どちらも正しい。ケースバイケースである。

 

※ちなみに、ビリビリコメントには「孫悟空兄さんの言う通りだ!」という孫悟空派の意見が多く流れていた。

 

⑦青红皂白(チンホンザオバイ/qīng hóng zào bái)

 

先ほどの議論中に登場した言葉、青红皂白(チンホンザオバイ/qīng hóng zào bái)。これは現代でも成句としてよく用いられる表現だ。それぞれの漢字の意味は次の通りである。

 

青(qīng):青色

红(hóng):赤色

皂(zào):黒色(※古語:現在は「黑」を用いる)

白(bái):白色

 

青、赤、黒、白といった具合の色の違い、すなわち「物事の違いや状況の細かい区別」を理解し、適切に判断するという様子を示す。一般的には孫悟空たちの会話にあった通り、「不分青红皂白(善悪の区別をしない)」というように、分別の無い言動に対して批判的な文脈で使われる事が多い。

 

⑧万死不辞(ワンシーブーチー/wà sǐ bù cí)

 

過去の罪で追放状態にあった海底の龍王の甥。彼は偶然通りかかった玄奘といざこざとなり白馬を飲み込んでしまう。その後、観世音菩薩の導きによって彼は許され、玄奘の白馬として取経の旅に同行するように命じる。彼は「追放され行く当てのない身であった自分が活躍出来る機会を頂けるのであれば、その命令を固く守って使命を果たします」と言って、白馬に変身をした。

 

この「命令を固く守って使命を果たす」という宣誓的な表現として用いられたのが「万死不辞(ワンシーブーチー/wàn sǐ bù cí)」。この成語は「何度死ぬことになっても、決して辞退しない」という意味であり、非常に強い覚悟や忠誠心を表現している。

 

⑨別念了(ビエニェンラ/bié niàn le)

 

玄奘と言い争いになって海底の竜宮に向かい、馴染みの龍王と楽しく酒を酌み交わしていた孫悟空。しかし、龍王から徳の高い話を聞いて、弟子として玄奘に忠義を誓うべきだと考えて地上に戻ってくれた。そんな誠実で純粋な孫悟空に対して、観世音菩薩は「またどうせ悪さをする」と懸念。そこで玄奘に緊箍咒(きんそうじゅ/jǐn gū zhòu)を渡して、その法具の機能を発動させる経を教える。この緊箍咒(きんそうじゅ/jǐn gū zhòu)というのが、孫悟空の容姿イメージを代表する金の輪っか。玄奘が経を唱えると、彼の頭に乗っている箍(たが)が縮まって、孫悟空が苦しみのあまりにのたうち回るという道具だ。

 

師父の玄奘に忠誠を誓い直そうと戻って来た途端にこの輪をはめさせられて、特に何もしていないのに頭を締め付けられる孫悟空。「別念了(ビエニェンラ/bié niàn le)!」と七転八倒する。これは「もうやめてくれ!」「勘弁してくれ!」という意味。(文脈によっては「気にしないでくれ」「考えないでくれ」といった表現でも用いる事が出来る。)その孫悟空が苦しむ様子を見下しながら、玄奘が「もう私に逆らわないな?」と凄む。孫悟空が何度も平伏しながら、「师父 我不敢了 不敢了」と哀れな声で繰り返す。「敢」は「勇敢」を意図するので、「不敢了」は「そのような勇気はありません」「もうしません」「もう怖くてしません」の意味となる。

 

 

いやぁ、ひどくない?玄奘はん、あんたさっきまで慈悲の大切さを説いていたやんけ…暴力で相手を服従させるなんて何事ぞ。

 

とまぁ、『西遊記』はよく考えてみると、観世音菩薩を始めとした神仏や玄奘などの"聖人"たちの言動に突っ込みどころが多数ある。これは社会的地位のある人物や宗教者の堕落を目の当たりにしていた、呉承恩(ごしょうおん/Wú Chéng'ēn)の意図的なアンチテーゼなのだと私は思う。

 

このドラマを観ていた上海の知人は「子どもの頃、玄奘があまりにひどい上司に思えて、玄奘が出てくる度にくたばってしまえと思っていた」と当時の感想を笑いながら教えてくれた。確かに孫悟空に感情移入をして物語を見つめると、玄奘のあまりの軽率さや理不尽さに苛立ちを覚える場面も多い。だが、きっとそうした不完全さも『西遊記』の魅力なのだ。

 

※今回題材として用いたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第五集。YouTube公式の公開リンクは以下の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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