天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『西遊記 1986』の興味深い中国語メモ1

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「iQIYI」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

視聴率90%近くを記録した往年の中国ドラマ、1986年製作の『西遊記』。原作は『水滸伝』『三国演戯』などの突出した大衆文学が生まれた明王朝時代に作られたファンタジー物語。知人によると当時の中国の子どもたちはこのドラマに夢中になっていたようで、夏休みに放送されていた際は街中から人がすっかり消えていたという。『水滸伝』とも何かと馴染みのあるドラマゆえに、こちらも仁宗のドラマと並行して壮麗な中国語をメモしていく。

 

ちなみに、私は幼少期に自宅にあったビデオテープで東映のアニメ『西遊記』を何度か観た記憶がある。調べてみると1960年に製作されているらしく、製作陣の構成担当に漫画界の巨匠である手塚治虫が名を連ねている。西洋・東洋、現代・古代のモチーフが入り混じったミュージカル調のディズニー仕立て。如来に捕まった悟空のシーンが妙に頭の片隅に残っている。

 

①臣等不知(チェンダンプーチー/chén děng bù zhī)

 

精華を浴び続けた石から猿が誕生した直後、文字通り驚天動地の騒ぎが巻き起こる。天界では玉帝が「何があったのだ!?」と臣下に問うが、全員は何も知らないらしい。ここで、臣下の一同が声を揃えて「臣等不知(チェンダンプーチー/chén děng bù zhī:我々は何も存じ上げません)」と答えている。

 

朝廷では重要な決定がなされた際に全員が声を揃えて述べる、幾つかの儀礼的な表現がある。しかし、この場面では「私たちは何も知りません!」と自信を持って全員が述べているという珍妙な状況で、他の大河ドラマではまったくお見掛けしない。調べても出てこない成語なので、こうした使われ方はあまりしなかったのかもしれない。

 

②臣在(チェンザイ/chén zài)!遵旨(ツンツィー/zūn zhǐ)!

 

玉帝が世を見通せると「千里眼」と話を聞き通せる「順風耳」を呼びつけた場面。まず、この二人の臣下が玉座の前に「臣在(chén zài)!」と言って馳せ参ずる。日本語の時代劇感覚としては「は、ここに!」といったニュアンスだ。彼らは命令を受けると、「遵旨(zūn zhǐ)!」と答える。こちらは日本語の時代劇感覚では「御意!」と同じ意味だ。その言葉と同時に、彼らは「拱手(きょうしゅ/gǒng shǒu:右手を左手でそれを覆い隠す、目上の者に対する礼儀の仕草)」を行って場を去る。

 

※画像:こちらは仁宗が主人公の中国大河ドラマ『孤閉城~仁宗、その愛と大義(原題:清平楽)』の第三集に登場する場面。晏殊(あんしゅ/yàn shū)が静かに「遵旨(zūn zhǐ:かしこまりました)」と命令に応じている。「臣(しん/chén)」は臣下(皇帝の家臣)である自分の事を意味する。

 

この「臣在(chén zài)」→「遵旨(zūn zhǐ)」→「拱手(きょうしゅ/gǒng shǒu)」は、悠久の中華世界の歴史におけるワンセットの儀礼対応。権力や社会的地位の高い者に対して用いられる。右手を拳にしたり、胸の前ではなく顔の横に軽く掲げたりと幾つかの種類があるが、基本的なやり方は孔子の時代(紀元前の春秋戦国時代)から大きな変化は無いようだ。現代では完全に儀礼性を失っており冗談交じりに使う以外の用途は無いのだが、インターネット世界では生存。「了解!」「分かった!」という意味を示す拱手の可愛いキャラクターが沢山あり、そちらは日常的に使われている。

 

※画像:中国ドラマ『孫子兵法(中文:兵圣)』の一幕。ここでは両手を広げた状態で重ねる拱手が見受けられる。

※画像:こちらは仙人・菩提祖師の弟子と孫悟空の対話場面。孫悟空が「お前んところの師匠に学びに来たんだ」と言ったので、弟子の女性が「就是我进去拜见祖师吧(それじゃ、私が言って師父にお伺いを立ててあげましょう)」と答えながら、了解を示す拱手を行っている。

※画像:中国でほとんど全員が使ってるSNSアプリ「Wechat(微信)」の会話風景の一場面。絵文字、ステッカーなど、あらゆる場所に拱手の名残があり、ユーザーを楽しませてくれている。

 

因果関係は不明であるが、現代の日本でもサービス業においても「お腹のあたりで、右手を左手で覆う」という拱手に似た儀礼的な所作が一般的に用いられている。これは「武士が刀を抜かないという意図(右手で攻撃しないというという意図)」を示すものが変化したと説明される事が多いが、私は更に遡って、それが中国の拱手に起因して生まれた所作では無いかと考えている。

 

③来啦~(ライラ~/lái la~)

 

ライラ~と最後に間延びしたように強調する表現、これは現代でもよく使われる。何が来たのかというのは、その前に置かれる固有名詞によって変化する。自分の名前や立場を前に置けば、「帰ったよ~」「来たよ~」という意味になる。

 

上は孫悟空が不老不死の術を会得する為に山から降り、村の食堂に入った場面。お客さんは人外の妖怪を目にして一目散に逃げだしてしまっている。そこに何も知らない店主が来て、「好菜(おいしい料理)ですよ~おまちどうさま!」という意味で「来啦~」を使っている。

 

④出去(チューツー/chū qù)

 

孫悟空が「大海を隔てる花果山から来たんだ」と言うと、師匠たち全員がそれを怪しんで「出去(チューツー/chū qù)」と声を揃えて言った。これは「出て行け」という意味。

 

⑤啊(ア/a)

 

師匠から法名を貰い、生まれて初めて名前が付いた石猿。「我叫孫悟空啊~(俺はこれから孫悟空だ~)」と嬉しそうに叫ぶ場面。この末尾に付いている「啊」は現代でも広範囲に使われている大切な口語表現。日本語のニュアンスとしては「ね」が一番近いだろうか。「それはAだ」に「ね」を付けて「Aだね」とすると、少し柔らかい印象が滲み出る。「そうだろ?」の冒頭に「ね?」を置いて「ね?そうだろ?」にすると、より相手との距離感が近くなる。主な用法は以下の通りだ。

 

- 【感嘆や驚き】真漂亮啊!(Zhēn piàoliang ā!)「本当にきれいだね!」

- 【確認や疑問】你明天去吧?啊?(Nǐ míngtiān qù ba? A?)「明日行くんだよね?そうだよね?」

- 【強調や同意】太好了啊!(Tài hǎo le a!)「本当に素晴らしいね!」

- 【依頼や指示】快点儿来啊!(Kuài diǎn'er lái a!)「早く来てね!」

- 【間投詞】嗯...啊,我知道了。(En...a, wǒ zhīdào le.)「うん…ああ、わかりました。」

- 【不安や恐怖】啊!我忘了!(À! Wǒ wàng le!)「ああ!忘れてた!」

 

※Wechatのステッカー一例。マーモットさん(右下のでかねずみ)はいつも驚いたような顔をしているので、この「啊!」がよく似合う。

 

⑥水中捞月(スイゾンラオユエ/shuǐ zhōng láo yuè)

 

孫悟空が「不老長寿の術を教えて下さいよ」と師父にねだった時、師父はこう答えた。「(それは)好似(ハオシー/hǎo shì:あたかも)、水中捞月(スイゾンラオユエ/shuǐ zhōng láo yuè:水中の月をすくいあげようとするものだ。)」これは中国の成語。当然、「水中に映った月をすくい上げる」事など誰にも出来ないので、徒労や無意味な事を意味する表現となる。

 

この何気ない対話の背景には、作者である呉承恩(ごしょうおん/wú chéng ēn)の非常に凝った論理学的な遊び心があると思われる。もともと、この「水中唠月(スイゾンラオユエ/shuǐ zhōng láo yuè)」という成語は東晋の仏陀跋陀羅と法顕が訳した『摩訶僧祇律』第七巻に書かれていた逸話から生まれたもの。その逸話の内容は以下の通りだ。

 

"时猕猴主见是月影,语诸伴言:‘月今日死,落在井中,当共出之。莫令世间长夜圈冥。’共作议言,云何能出。时猕猴主言:‘我知出法,我捉树枝,汝捉我尾,展转相连,乃可出之"

(その時、猿の王が井戸に映った月の影を見て仲間たちに言った。『今日、月が死んで井戸に落ちた。我々がそれを引き上げなければ、世間は永遠に暗闇に包まれてしまうだろう。』皆でどうやって月を引き上げるか相談した。猿の王はこう言った。『私は月を引き上げる方法を知っている。私が木の枝を掴み、お前たちは私の尾を掴む。こうやって互いに連なっていけば、月を引き上げることができるだろうよ。』)

 

猿の孫悟空の軽率な考えを諭す、あるいは茶化すという意味で、これほどぴったりな成語は無いという訳である。ちなみに、このすぐ後の場面において、師父は同様の意味を示す成語として「镜里观花 欲摘不能(鏡の中の花 摘む事できず)」とも言っている。

 

⑦记下了(ジーシャラ/jì xià le)

 

調子に乗った孫悟空が術を見せびらかして破門になってしまう。師父から「これから先、二度とお前は私の弟子であると名乗るな」と厳しい最後の言葉を受けた孫悟空が「あなたの言う事を心に刻みます」という意味で、「弟子記下了」と拱手をしながら答えている。弟子(ディーズ/dì zǐ)は自分の事。「記下了(ジーシャラ/jì xià le)」は「覚えておきます」「心に刻みます」といった強い記憶の意図を示す表現だ。前回、仁宗のドラマで取り上げた「記住了(ジージュウラ/jì zhù le)と同じ意味。

 

ここで何気なく面白いのは、「お前は二度と弟子と名乗るな」と言われた直後に孫悟空が弟子を名乗っているという事だ。製作陣が意図したかどうかは不明。「おい、今、弟子と名乗るなと言ったばかりやんけ」と師父が突っ込みたくなる一場面である。

 

※今回の題材としたのは『西游记(1986年製作)』の第一集。「iQIYI」には中文字幕版が公開されている。YouTube(CCTV电视剧公式サイト)の公開リンクは以下の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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