天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『西遊記 1986』の興味深い中国語メモ2

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「iQIYI」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

トップ画像は孫悟空が仙術を身に付けてから最初に倒した妖魔の山賊集団の頭領、混世魔王の登場シーン。彼らは後に仲間になる。このあたりのプロットは『水滸伝』の本編において最初に登場する史進(ししん/shǐ jìn)と朱武(しゅぶ/zhū wǔ)らが出会う内容と非常に良く似ている。また、梁山泊勢力と戦う山賊頭領の樊瑞(はんずい/fán ruì)のあだ名は「混世魔王」だ。『水滸伝』の作者である施耐庵(したいあん/shī nài ān)は明王朝以前から原型として出来上がっていた『三国演戯』『西遊記』などの談話からプロットや人物造形を引用しているのだ。

 

①拜见(バイジェン/bài jiàn)

 

「见」は「見」。「拜见(バイジェン/bài jiàn)」は儀礼言葉であり、地位が高い人や目上の人のもとを訪問して面会する際に用いられる。同じ用途として「拜会(バイフイ/bài huì)」「拜访(バイファン/bài fǎng)」「参拜(ツァンバイ/cān bài)」といった表現も可能。「拜见(バイジェン/bài jiàn)洞主(三星洞付近を治める主=孫悟空)」は、「孫悟空様に謁見に参りました」といったニュアンスとなる。

 

②恕罪(シューツイ/shù zuì)

 

「请(お願いします)洞主(孫悟空様)恕罪(お許しください)」という意味。この「恕罪(shù zuì/シューズイ)」も中華世界の物語の中でよく見かける謝罪の言葉。これに似た表現も幾つかある。例えば、中国大河ドラマ『仁宗~その愛と大義』で、仁宗の妻である郭皇后が、皇帝から寵愛を受けている別の妃を嫉妬から激しく叱責する場面では次の表現を立て続けに行っている。

 

 

娘娘(にゃんにゃん/niáng niáng)は怒り狂っている郭皇后の事。それぞれの言い回しのニュアンスは以下の通り。これらは共通して、「どうかお許しください」という容赦を求める謝罪の表現となっている。

 

- 饶命(ラオミン/ráo mìng):「命をお救い下さい」という意味であり、実際に命乞いをする時にも用いられる。命に関わらなくても、激しい恐怖を感じるような深刻な場面において深く謝罪をする際にも用いる事が出来る。

 

- 恕罪(シューズイ/shù zuì):上述の通り、「罪をお許し下さい」という意味。自分の過ちを認める意を含みながら、目上の相手が自分を罰しないよう懇願する際に用いる。

 

- 息怒(シーヌー/xī nù):「どうか怒りをお静め下さい」という意味。これは相手が常識的で思慮深い人物であれば通じる表現だが、郭皇后のようなひどく感情的な人間に対してはかえって油を注ぐ結果になるかもしれない。

 

ここまで多数の謝罪言葉を取り上げている点からも分かる通り、中華世界では主従関係に関わる伝統的な言葉が非常に多い。これは儒学思想が主従関係(上下関係)を規範・良識・美徳の全方向において明確な「人間学の根源的なルール」として定めているからだ。そのルールを「礼儀」と言う。

 

 

③报(バオ/bào)

 

こちらも非常によく登場する古典的な儀礼表現。皇帝や将軍など、目上の者に緊急報告をする際に用いられる。この場面では誇張して「报~(バーオ/bào)」!と間延びするような発音をしている。他の歴史ドラマではだいたい短い早口で「报(バオ/bào)!」と大声を出している。

 

 

※この後、天界の玉帝の軍師である太白金星(たいはくきんせい/tài bái jīn xīng)が孫悟空に官職を与える際、「今、大王にあなたの事をお伝えして来ますから(少しお待ちください)」という台詞を述べている。ここで「伝える」「報告する」という意味で「通报(通報)」が用いられている。現代日本語で「通報」は主に警察への通知を示す意味となるが、中国語ではより広範囲の報告行為を意味する。

 

④大人(ダーレン/dà rén)

 

天界にて弼馬温(ひつばおん/bì mǎ wēn:馬の管理責任者)の役職を与えられた孫悟空が、自分の役職を理解せずに好き勝手に業務を行っている一場面。ここでは馬を駆りに来た天界の武人をすっころばせて遊んでいる。従僕たちが慌てて「大人 大人 摔着了!(あぁ、旦那様、旦那様が、転んでしまった!)」と駆け寄っている。

 

ここで用いられている「大人(ダーレン/dà rén)」も注目しておくべき歴史言葉だろう。現代では日本同様に「大人」は「成人男性/女性」を意味する中華世界の歴史上では「目上の者」「肩書が高い者」に対する尊称として用いられる事があった。よって上述の通り、日本の時代劇感覚では「旦那様」の表現が最も近い。

 

⑤过来(グォライ/guò lái)

 

これはジェスチャーと日本語との共通漢字で、中国語を知らなくてもだいたいの意味が察せられる。この「过来(guò lái)」が単独で用いられる場合、大半の意味は「こっちに来てくれ」というニュアンスになる。そして例の「二度重ね」の法則の通り、中国語は一語だと語調が強くなる事が多いので、この場面の孫悟空のように「过来 过来 过来」と三回軽やかに重ねて言っている。

 

もちろん「过来 过来(ちょっとこっちに来てくれ)」の復唱でも問題ないが、せっかちな孫悟空の気質や「今すぐに教えて欲しい」という文脈などから、ここではやはり3回がしっくり来る。日本語に訳すると「ちょっとちょっと、こっちこっち」といったニュアンスだ。

 

その他、中国語で「过来」は複数の状況で用いられる。例えば、「经过这么多年的努力,他终于挺过来了。(Jīngguò zhème duō nián de nǔlì, tā zhōngyú tǐng guòlái le.:こんなに多くの年を努力して、彼はついに乗り越えることができた。)」 といった具合に、「困難や苦境を乗り越える」という意味で用いられる事もある。また、「我现在明白过来了。(Wǒ xiànzài míngbái guòlái le.:今、理解できました。)といった具合に、「理解」を示す意味として用いられる事もある。あるいは、「他终于想过来了。(Tā zhōngyú xiǎng guòlái le.:彼はついに理解した。)」といった具合の「完了」を意図する使い方も可能だ。

 

⑥天界の半月は地上の半年

 

中華世界における天界は地上と時間が進み方が異なる。自分の事を軽く見ていた天界人たちを蹴散らして、地上の三星洞に戻った孫悟空孫悟空が天界に滞在したのは半月だけであったが、地上の孫悟空の仲間たちは半年も彼の帰りを待ちわびていた。こうした中華世界の天界における独特な時間の概念は、この概念を反映した日本の古典ファンタジー物語『竹取物語』『浦島太郎』等でも確認する事が出来る。

 

地上に戻った仲間たちは「大王・孫悟空」の帰還に歓喜しながら、彼を天と同じぐらい聖なる存在として崇め、「齐天大圣(チーティエンダーシェン/qí tiān dà shèng:斉天大聖)」と呼んだ。ここに、「齐天大圣・孫悟空」が誕生した。

 

私はこの中国語の簡体(古典漢字を簡略化した近代の中国漢字)である「圣(シェン/shèng)」の字がどうしてもしっくり来ない。どうしても日本漢字としては似た形象の「怪」がイメージとして浮かんでしまい、どうも聖=Hollyの感覚と合致しないのです。クリスマスシーズンなども街中に「圣」が沢山登場するのだが、何やら怪しげな印象を覚えてしまう。

 

実際、つくりに注目してみても、この二つの文字はまったく印象が異なる。「聖」は「耳」「口」「王」により構成されている。文字通り、「耳で民と天の声を聞き、口により太平を施す王」が意図された形象で、そこに「聖なるもの」の意図が付与されている。一方、「又」は「繰り返す」、土は「大地」を意味しており、何やら争いや失敗が繰り返されるようなイメージがある。

 

より厳密に言えば、「又」は「手」を示す形象であったそうで、この「手」によって「土(大地・民)」を支えるという意図を表しているとも考えられる。それであれば何とか納得できなくもないが、やはり「聖」の方が日本人としてはしっくり来る。(古典的な繁体を今も用いている華南地区や台湾などは「聖」を用いる事が多い。)

 

慣れればどうという事は無い微細な感覚であるが、どうしても日本漢字は繁体との共通項が多い為、「圣」「聖」のように現代中国の簡体の意味と形象が合わないと感じる時があるのだ。

 

※今回題材として用いたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第二集。YouTubeにはCCTV公式チャンネルで字幕の無いバージョンが公開されている。リンク先は以下の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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