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『警世通言(意訳:いましめものがたり)』は、明末の冯夢龍(ふう・ぼうりゅう)が編纂した白話体の短編小説集である。天啓四年(1624年)に完成し、宋・元・明の時期に書かれた話本や擬話本あわせて四十篇を収録している。一般に、これらの作品は編者による大小さまざまな加工や整理を経て成立していると考えられている。題材は現実の生活をもとにしたものもあれば、先人の筆記小説をもとにしたものもある。総じて言えば、『警世通言』の題材は主に以下の三分野に及ぶ。第一に、婚姻や恋愛と女性の運命。第二に、功名や利禄と人間社会の栄枯盛衰。第三に、奇事や冤案、怪異の世界である。これらを通じて、当時の人々の生活における多様な社会の姿が、さまざまな角度から描き出されている。
※画像:百度百科「王安石(中国北宋政治家、文学家、思想家、改革家)」より引用
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『警世通言』 第四巻
拗相公(王安石)、半山堂に飲恨す
> 歳月を得たならさらに歳月を延ばし、歓悦を得たならその時を楽しむがよい。
> 万事の成敗は天にあるのだから、何も心配で腸(はらわた)を千重に縛ることはない。
> 心は大らかに、心を狭めてはならぬ。
> 古今の興亡を語り尽くすことなどできはしない。
> 金谷園(きんこえん)の繁華はいまや目に映る塵にすぎず、淮陰(わいいん)の覇業はその鋭気も血を失った。
> 臨潼(りんとう)の会合では胆気も消え、丹陽(たんよう)の里では簫声(しょうせい)が絶えた。
> 世がめぐってか弱き草が春花に勝り、運がめぐれば精金も鈍い鉄に及ばぬことがある。
> 逍遥(しょうよう)に楽しむことこそ何より。
> 老いてからこそ、その真の味わいが別格だと知るのだ。
> 上等の衣も淡泊な食も、日々暮らすに十分。
> あくせくせず浮生を送るなら、世間的には愚にも見えるだろうが、それこそ養生というもの。
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ここで導入が済んだところで、本文に入る前に、まず唐詩の四句を掲げよう。
> 周公は流言の日々を恐れ、王莽(おうもう)は下士への謙恭を示していた。
> 仮にもあのとき彼らが早世していたならば、その一生の真偽など誰が見抜けようか?
この詩は、おおむね「人品には真と偽があるが、人は見かけで判断してはならない」ことを説いている。第一句の周公とは、姓を姫(き)、名を旦(たん)という。周の文王の少子であり、聖徳があって兄の武王を助け、商朝を滅ぼし、周家八百年の天下を開いた。武王が病に伏したとき、周公は「自分の身を代えたい」と天に誓い、その書を金匱(きんき)に納め、誰にも知られないようにした。
後に武王が崩じ、太子の成王(せいおう)が幼かったため、周公が成王を膝に抱いて諸侯に朝見したところ、兄弟の管叔(かんしゅく)・蔡叔(さいしゅく)がこれを謀反と疑い、流言を広め、成王にも疑われた。周公は相位(しょうい)を辞して東国に退き、恐れおののいた。しかしある日、大風疾雷が金匱を割き、成王が周公の「身代わりの誓い」を知った。こうして周公の忠は晴れて認められ、管叔と蔡叔は誅され、周室は再び安定した。もし流言のさなかに周公が死んでいたら、誰がその潔白を証明できただろうか。
第二句の王莽は字(あざな)を巨君といい、西漢の平帝(へいてい)の舅(しゅう)にあたる。大変な奸物(かんぶつ)で、外戚の勢いと宰相の権威を傘に、密かに漢王朝を奪う野望を抱いていた。だが人心を得るために「折節謙恭」「賢士を尊礼」し、表面上は公正を装い、功績を誇示したので、天下の郡県で彼を称える者は四十八万七千五百七十二人にものぼった。こうして民心をつかんだのち、平帝を毒殺し、太后を奉じ、自らを皇帝と称し、新(しん)という国号を建てて十八年間在位した。最終的には南陽の劉秀(りゅうしゅう)が兵を起こして漢を復興し、王莽は誅された。もし王莽が陰謀を果たす前に早死にしていれば、世間は「立派な宰相だった」と称え、悪名を残さなかったかもしれない。
昔から「日久しければ人心がわかる」「棺を蓋(おお)いて事定まる」と言われる。一時の称賛だけで人を君子と断ずることはできないし、一時の非難だけで小人と断ずることもできない。詩にあるとおり、
> 毁誉(きよ)など本来あてにならぬ。
> 是非は時がくれば自然と明らかになる。
> うかつに人の言を信じてしまうな。
> やがて分別のある者が、真相の不正を看破するだろう。
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では、先朝(せんちょう)のある宰相の話をしよう。下位にいたころは、まことに名も誉れも高かったが、大権を得るや思うままに振る舞い、誤った行いをして万人の唾(つば)を浴び、悲嘆のうちに死んだ人物である。もし名誉が絶頂の折にぐっすり寝入ったまま死んでいたなら、多くの者が惜しみ、「国家が不運だったばかりに、これほどの逸材を大用できず、その才能を発揮させぬまま終わってしまった」と伝えられたかもしれない。そうなれば今に名を残していたかもしれないが、彼が実際に死んだのは、あちこちから唾棄されるようになってからであった。いまから見れば、あの時期にあと何年か生き延びたのが不運だったと言えるかもしれない。
ではその宰相とは誰か。どの朝代か。そう遠くない、北宋の神宗(しんそう)皇帝の頃の首相、姓は王、名は安石(あんせき)、臨川(りんせん)の人である。この人は十行を同時に読み、書を万巻に及ぶほどの博覧強記。名臣の文彦博(ぶんげんはく)、欧陽修(おうようしゅう)、曾鞏(そうきゅう)、韓維(かんい)といった錚々たる人物がその才能を称えた。わずか二十歳そこそこのときに科挙に合格し、浙江の慶元府(けいげんふ)の鄞県(いんけん)の知県(ちけん)として赴任し、興利除害で有能との評判を得る。続いて揚州の佥判(けんぱん)となったときは、毎晩夜を徹して読書をし、明け方太守が堂に出る頃にはまだ洗面もせずに出勤した。太守の韓琦(かんき)が飲酒のせいかと誤解して注意したが、よく聞けば夜通し勉学していたと知って感嘆、ますます褒めそやしたという。その後、江寧府の知府に昇り、名声はさらに高まり、ついに皇帝の耳にまで達した。まさに「これまでの立派な評価が、却って後を誤らせる」こととなる。
神宗天子は「国家を立て直すには、有能な王安石の力がいる」として、彼を特別に召して翰林学士(かんりんがくし)とし、「どのような政治が良いのか」と問うた。王安石は「尭舜(ぎょうしゅん)の道」を説き、天子を大いに喜ばせる。二年も経たぬうちに首相に抜擢され、荊国公(けいこくこう)に封じられた。朝中は「ああ、皐陶(こうよう)や夔(き)が蘇り、伊尹(いいん)や周公が再来したか」と、万歳の声が上がった。ただ、李承之(りしょうし)という者だけは、王安石の「白目がち」な容貌を見て「これは邪を好む相だ。いつか天下を乱すだろう」と危ぶみ、蘇洵(そじゅん、通称老泉)は王安石の服装の垢(あか)や月に一度も洗面しないのを見て「人情をわきまえぬ人物」と『辨好論(べんこうろん)』で批判したが、当時は誰もそれを信じなかった。
王安石が首相となり、神宗との親密な信頼を得ると、その言葉は全て採用され、「新法」を次々と実施した。農田法、水利法、青苗法、均輸法、保甲法、免役法、市易法、保馬法、方田法、免行法などがそれであり、とくに小人の吕惠卿(りょけいけい)や自分の子の王雱(おうほう)を頼り、忠良を遠ざけ、直言を退けてしまう。民間は怨声を上げ、天変も相次いだが、王安石は「天変など恐るるに足らず、人の言も聞くに及ばず、祖宗の法さえ守るに足らず」と堂々言い放ち、その頑固さゆえ「拗相公(おうしょうこう)」とあだ名された。文彦博や韓琦など、かつて王安石をほめた名臣たちも今や「まさかこうなるとは」と悔やんで上表したが、安石は全く耳を傾けず、彼らは官を辞して去った。新法はますます強硬に進められ、国中は大混乱に陥った。
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そんな折、最愛の子である王雱が背中に腫れ物(できもの)を患い夭折した。王安石は悲しみ、天下の高僧を招き四十九日の大斎醮(たいさいしょう)を行い、自らも夜通し香を焚いて読経を聴いた。ちょうどその第四十九日の夜、王安石は香を捧げて仏前に拝んでいたが、急に昏倒してしまう。周囲が声をかけても目を覚まさず、ようやく五更になって意識が戻る。王安石は「なんとも不思議な夢を見た」と涙ながらに言う。
夫人の吴国夫人(ごこくふじん)が事情を尋ねると、王安石はこう語った。
「恍惚として大きな官府の門の前にいた。門は閉ざされていて、その外に、わが子の王雱が百斤近い枷(かせ)を担いで立っていた。髪は乱れ、体じゅう血まみれで、わたしを見て泣きながら、『父上が高位にありながら善事をせず、あまつさえ拗(かたくな)に青苗などの新法を行い、民を害し怨みを買っているため、ぼくは陰司(よみ)で重罪に苦しんでおります。四十九日の斎醮などでは解けるものではありません。父上は一日でも早く考えを改め、富貴に執着しないで……』と訴えたが、そこへ役人が門を開けて怒声をあげ、わたしはびっくりして目が覚めたのだ。」
夫人は「事実かそうでないかはともかく、よろしければ早めに引退して世の怨みから逃れるのが賢明かと」と勧めた。王安石も大いに動揺し、病気がちということもあって、十数回も「病気を理由に辞職したい」と上表を出す。天子も世間の批判を聞き、「もうよかろう」として王安石に宰相を辞させ、江寧府(こうねいふ)の判官として事実上の閑職に回した。宋朝には宰相を解任するとき、形ばかりの外任を与えてあとは余生を養わせるという慣例があった。王安石は「江寧は金陵(きんりょう)の古い地にあり、かつて六朝の帝王が都した名勝地。景色も人々も栄えていて、安住にはもってこいだろう」と、意気揚々と出立の準備をする。夫人は出発にあたり部屋中の装飾や宝物を数千金分も寺や道観へ寄付し、亡き息子の冥福を祈った。日を選んで朝廷を辞し、百官が見送るなか王安石は「病気ゆえ」と挨拶もそこそこに出発した。随行は、親吏で名を江居(こうきょ)という者のほか、僮僕数名だけという質素なもの。
東京(開封)から金陵へは水路もあるが、王安石は官船ではなく、身分を隠すように小さな舟で黄河を下った。いよいよ船を出そうというとき、王安石は江居らに厳命する。
「わたしは既に宰相を辞した身。途中で『何者か』と聞かれても、決して本当のことを言うな。もし地方官が歓待に来れば、何かと煩わしいからな。万一おまえたちが役得を狙って漏らしたら、必ず厳罰に処す。」
江居は「あいわかりました。ただ、万一通りすがりの連中が誹謗するのを耳にしたら、どういたしましょう?」と問う。王安石は「宰相の腹には船が通ると昔から言う。人の悪口は耳に風と受け流せ。そんなことで腹を立てるな」と言い含める。
こうして舟は二十数日かけて進み、鐘離(しょうり)の辺りへ差し掛かる。王安石はもともと痰火(たんか)の持病があり、小舟暮らしで気も滅入りがちであった。そこで「少し気晴らしに陸へ上がり、町を眺めたい」と言い、夫人や家族を水路で先に行かせ、自分は江居と僮僕二人の四人だけで上陸した。江居が「相公、荷物や乗り物が必要ですが、官の驛(えき)を頼りますか、それとも私費で賃いますか」と訊くと、王安石は「わたしはすでに一私人だ。官を煩わせることはならぬ。自費で賃人を雇おう」と言う。
そこで四人はある経紀(あっせん)人の家を訪れる。主人は「ああ、客官、馬や骡(ら)を探したり轎夫(きょうふ)を集めるのも一苦労ですよ」と嘆き、「それもこれも拗(かたくな)な王安石とかいう者が新法を敷いて民衆を追いつめたせいで、村に人がいないのです。大変に物入りですぞ」などと散々文句を並べる。王安石は聞きながら顔を伏せ、「余計な言い争いはするな」と江居に目配せする。翌朝ようやく二人の轎夫と骡一頭、驢馬(ろば)一頭を確保するが、一行は経紀人の家や町のあちこちで「王安石=拗相公は白目をした悪相の男だ」などといわれのない罵倒を耳にし、王安石は胸を傷める。
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それでもどうにか陸路を進み、途中ある村落で休もうと茶坊(さぼう)に入ると、壁に貼られた絶句が目に止まる。
> 祖宗の制度は実によくできており、百年あまり民は太平を楽しんだ。
> それを白目の頑固者が無理やり変え、人心を乱してしまった。
署名は「無名子」とある。王安石は無言で店を出て、その足で道院(どういん)に入り、お参りしようとする。すると殿の外壁に大きな黄紙が貼られ、こんな詩が書かれている。
> 五代の明君がもたらした太平の世。
> 相国たる人は、いったい何を苦しんでやたらに改革をするのか。
> 尭舜の道を法と称するなら、伊尹や周公のように君主を補佐すべきではないか。
> 忠臣を斥け、奸佞を進め、まがいものの業績を築くとは何事か。
> むしろ安楽の地で余生を送るほうが良かったではないか。
> あの洛陽天津橋で、予兆の“杜”を嘆いていた者もいた。
> ああ、乱れはじまる兆しを見抜いた賢人の嘆き通り、
> はるか先まで宋は太平を取り戻せぬだろう。
実は邵雍(しょうよう)という賢人が“安楽窝”という居を構え、洛陽の天津橋上で「杜(と)という字が増えた――これは地気が南から北へ戻り、天下が乱れる兆だ」と嘆いたという。そのとおり王安石は南人であり、まさに宋を乱す引き金となったのだ……。王安石は詩を読み、声も出ず、道院の壁から紙をはがして懐に収め、また黙って出る。
次の朝まだき、やっと轎夫や驢馬を雇い半日ほど進むと、ある村の店で昼食をとることになる。王安石は持参の丸薬や茶餅を湯で溶かして口にし、一方の従者たちは食堂に入り、用を足そうと店の外のあばらな便所へ行くと、そこの土壁にこう書かれている。
> 初めは鄞県にいる頃から誉れ高く、空名を背負って推されていた王安石。
> しかし蘇老泉(そろうせん)の『辨奸(べんかん)』はすでに彼を見抜き、
> 李丞(りちょう)も弾劾(だんがい)しようと考えていた。
> それにもかかわらず、賢者を追い払い小人を集め、威権をほしいままにし、
> 間違ったところから禍(わざわい)が始まった。
> とくに“天変・人言・祖法”の三つを軽んずると言い放ち、
> いまも千年の毒を残すほどの悪名を天下にまき散らしている。
王安石は用を足しながらこの詩を目にし、「あまりに露骨だ」と思わず自分の履を脱ぎ、詩の文字をこすって消し跡をぼやかした。もう耐えられぬ思いで皆を促し、さらに二十里ほど進む。夕刻になり、江居が「向こうの驛(やど)は広い。そこで今夜は休みましょう」と言うが、王安石は「官の驛館に泊まれば身元が露見する。民家を探せ」と拒む。
やがてある村の老翁が「どうぞお泊りを」と迎えてくれたので、王安石はしばし腰を下ろす。するとそこも壁に詩がある。
> 文章を『天成』などと称するが、学問が邪に傾けば識者には嘲られるだけ。
> 強引な理屈で刑罰を押しつけるのは正道ではなく、
> まるで魚の餌を誤って飲み込んだように、真情ではない。
> 志を遂げるための策だったのだろうが、その拗(かたくな)さは何を残すのか。
> いまわしいわが子が陰曹で枷を受けているとは、神の道理の報いか。
まさに自分の息子の惨状を連想させられ、王安石の心は締め付けられる。さらに老翁は「十年にわたる新法のせいで、この村も百数十戸が今やわずか八、九戸しかない」と嘆き、こう毒づいた。
「王安石こそ拗相公の正体。官府は上の命を笠に民を逼(せ)め、夜討ちに来るから畑も捨て逃げるしかない。ちょっとでも用がないとすぐ賄賂を求められ、産業もままならない。こんな政策、誰に得があるのか。それでもまだ王安石は朝中で高位を続けているらしいが、いっそ叩き斬ってその心肝(しんかん)を食ってやりたいほどだ!」
王安石は青ざめ「もう出よう、こんな所におれん」と、夜のうちに先を急ぎ出る。
さらに十里ほど行くと、人気のない茅屋を見つけて江居に声をかけ宿を頼む。そこに住む老女が「狭い小屋だがよければ」と案内する。夜になり、王安石が部屋に灯をともすと、また壁に詩があった。
> 生前は名を売り気炎を上げても、死してなお虚偽をかき立てるようでは子孫も惑わされる。
> 立派な言葉を残すわけでもなく、かえって飾り言葉で友を欺く。
> 野では人民が逃げ去り、家々は空き家になっているのに……
> 青苗法をはじめ、あれこれの新法が禍根となった。
> こうした実態を一度でも見ていたなら、
> 一夜にしてその髪も白くなるだろうさ。
王安石はもう言葉にならぬ絶望を覚え、思わず「これはいったい誰が書いたのか。わたしの内情まで知り抜いているではないか」と震える。夜半、ため息ばかりで眠れず、ついに髪には白いものが増えているのに気づき、自嘲するように「本当に“一夜愁えて鬢(びん)に雪”というやつだ」とこぼす。
翌朝、老女が豚と鶏に餌やりするのを見ていると、「ローローロー、拗相公が来た」「王安石が来た」と声をかけると、豚や鶏が寄ってくる。王安石が不思議に思って問うと、老女はにがにがしげに言う。
「まさかあんた、王安石を知らないのか。あれが新法を作って民を苦しめてきた張本人よ。わたしは孤婆(ひとりぼっち)で、あの新法のせいで税や役や前借りや何やらで蓄えも尽きた。何が青苗だか知りませんがね、わたしのような者は桑麻で辛うじて暮らすしかない。それだって吏胥(りしゅ)や保長(ほちょう)が来るたびに鶏や豚を差し出さなくちゃならない。いっそ畜生だと思って“王安石”や“拗相公”という名を鶏に付けているのさ。こっちは肉の味なんか知らずに鶏を煮て食べさせるばっかり。いつか死後の世界であいつが豚や鶏に生まれ変わるなら、こんどはこっちが煮て食ってやりたいわい!」
王安石は涙をこらえたまま、早々にそこを立ち去る。江居が「相公、あんな愚民にやさしい法を敷いたのに感謝もしないとは、何ともやり切れませんな。もう村で泊まるのはやめましょう」と提案し、次の宿場(しゅくば)では官の驛亭に入る。しかし、そこでもやはり壁には「富弼や韓琦、司馬光や蘇轼の諫言を聞かず、吕惠卿を頼んで国を危うくした王安石をこの手で討ち取りたい」といった詩が書かれており、老いた驛卒までも「民衆が王安石を待ち伏せして討ち取ろうとしている」と言うので、王安石は恐ろしくなって食事もそこそこに立ち去り、馬をとばして金陵へ向かった。
金陵ではすでに先に着いた夫人が待っていたが、王安石は都心に入るのも憚(はばか)られ、鐘山(しょうざん)の中腹に屋敷を構えて「半山堂(はんざんどう)」と号し、そこに隠棲した。
しかし、ここへ来るまでに目にした詩句の数々が、ひとつ残らず脳裏に焼き付いて離れない。そのうえ息子の悪夢を思い出しては精神が衰弱し、痰火の持病も悪化して食も進まない。
こうして一年ほど経つと、王安石は骨と皮ばかりになり、床についても仰向けになれず枕にもたれ座るしかないほどの重病となった。夫人が「相公、ご遺言はいかがしますか」と尋ねると、王安石は「夫婦などもともと偶然の縁、わたしが死ねばそれで終わる。ただし、残る財産はみな散じて善事をなしてくれ……」と息も絶え絶えに言う。そこへ旧友の葉涛(ようとう)が見舞いにやってきたが、王安石は床の上で手を握り、「君のように聡明な人は、できるだけ仏を信じて真理を学び、虚しい文辞を弄することに時間を費やしてはならない。わたしが文章で人に勝とうなどと思って生きてきたのが、この末路だ。死ぬ間際に悔やむほかない」と嘆く。葉涛は「いえ、相公はまだお若い……」と慰めるが、王安石は首を振る。
そしてふと、かの老妪の家で読んだ詩の「既に妻に良い言葉を残すこともなく、友にも虚言しか残さぬ」というくだりを思い出し、「ああ、わたしはなんという世を欺き続けたのだ……すべては定まっていたのだな」と言い、さらに三日後、血を吐いて絶命した。息も絶え絶えのなか「わたしは天子を裏切り、民を裏切ってきた。地獄へ堕ちて唐子方(とうしかた)に何と言い訳しよう」と呻きながら死んでいった。
ちなみに唐子方は直臣で、新法の不便を苦諫して安石に受け入れられず、そのために血を吐いて死んだ人物である。王安石と同じく吐血で死んだが、唐子方の死は名を残したのに対して、王安石は万人の怨みに包まれての最期であった。
その後も山間の民などは、豚に「拗相公」と名付けて飼う風習が残ったという。宋朝の元気は熙寧の変法以来すっかり損なわれ、結果的に靖康の変を招いてしまった――というのが後世の論だ。詩にいわく、
> 熙寧の新法に諫言が多くあれど、拗相公はそれを耳にせず。
> この一度の改革で、宋は深く元気を耗(す)くし、
> その結果、異民族が黄河を渡る大惨事を引き起こしたのだ!
しかしまた、王安石という人物の才能そのものを惜しむ詩も残る。
> なんとすぐれた聡明の介甫(かいほ)どの、
> その才能を生かして清廉に仕えれば良かったろうに。
> もし高位につかなかったなら、
> 一生を翰苑(かんえん)の学士として終えて
> 名声を汚すことなく天寿をまっとうしたであろうに……
作品紹介