※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。
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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)
<三元論に基づく個性判定>
8番 **とても強い生存欲求**、**強い知的欲求**、**とても弱い存在欲求** - **「独創的専門家」** - 他者からの影響を受けずに自分のペースで独自の専門分野を探求する。
<概要>
蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)、あだ名は「聖手書生」。済州の出身。書道の達人で、飛び抜けた贋作能力を持つ人物。特に、当時とても有名であった書家、蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡京の四つの字体を完璧に真似て書く事が出来た。日本語としては「賞状(しょうじょう)を書く人=書道家の蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)」という発音の語呂合わせで覚えやすい。梁山泊勢力との関わりは、その後者の蔡京(さいけい/cài jīng)の字体を巡る騒動が発端。腐敗役人たちは宋江(そうこう/sòng jiāng)を江州で捕らえ、東京(とうけい/Dōngjīng)の奸臣である蔡京(さいけい/cài jīng)に「どのような刑罰を下すべきか」という書簡を送る事となった。これを受け、梁山泊勢力の呉用(ごよう/wú yòng)が策を講じ、この蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)と刻印の名手である金大堅(きんだいけん/jīn dà jiān)を急いで招き、蔡京(さいけい/cài jīng)の文章を偽造し、これを本物と入れ替える事で宋江を救出する計画を立てた。もともと呉用(ごよう/wú yòng)と蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)が知り合いであった事、また彼らが世の不正を良く思っていなかった事から、「死心塌地(死の覚悟を持って絶対に決心を変えない精神)」で家族と共に梁山泊に合流した。百八人の英傑たちが集結した大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際、蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)は序列第46位に定まり、「文章制作軍隊派遣管理」に任命された。招安後の南征北伐でも主に文章面の後方支援を担当していたが、時に前線での活躍して武功を立てている。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦の直前、例の朝廷の蔡京(さいけい/cài jīng)が彼を登用するとして、ここで共同体から離脱。最終的にはその蔡太師府で門館先生として仕える事になった。
<武人・軍師としての大活躍>
彼は書道家というばりばりの文化人であるが、実は槍棒剣刀の一通りの武芸の基本も身につけていたという文武両道の人。招安後の遼国、田虎、王慶の攻略戦では常に隊伍に加わっていた。特に彼の武人としての見せ場が訪れるのは王慶(おうけい/wáng qìng)の攻略戦。敵将の季三思と倪慑が宛州を奇襲した結果、梁山泊側は完全に分断され、守将として残されたのが宣賛(せんさん/xuān zàn)、郝思文(かくしぶん/hǎo sī wén)、蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)の三名のみ。その他は老若一万人、及び文官の陳観、侯蒙、羅戬だけという状況に陥ってしまう。ここで蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)がこれ以上ない胆力で陣頭指揮を取り、空城計(敢えて堂々と陣を構えて敵を陣地内に招き入れる事により、敵側が「何か罠があるのではないか」と警戒するよう仕向ける計略」を見事に展開。これによって敵軍が混乱した隙に乗じて宣賛(せんさん/xuān zàn)と郝思文(かくしぶん/hǎo sī wén)の少数部隊が一気に反撃に転じ、撃退に成功した。これは「谈笑却敌(笑いながら敵を退ける)」という蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)のこれ以上ない武功となった。
<原型と評価>
彼は宋元の史料には見当たらず、『大宋宣和遺事』『宋江三十六人讃』及び元雑劇の水滸劇などの早期の水滸物語や文学にも登場しない。元雑曲『萧淑蘭情寄菩薩蛮』には萧让の名前が出て来るが、その萧让と今回の萧让はほとんど無関係である。よって、彼は施耐庵(したいあん/shī nài ān)の小説『水滸伝』の創作キャラクターであると考えられる。
- **袁無涯**:「聖手書生(蕭讓)と玉臂匠(金大堅)は共に技芸において卓越している」と評価している。萧让は博学であり、さまざまな知識を持っている。」
- **李卓吾**:「石碑は宋江と萧让らが偽造したもので、萧让が書き、金大堅が刻み、公孫勝がそれを掘り出して皆を騙すために埋めた。」
<李卓吾の評価はどういう意味か?>
李卓吾は蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)に対して否定的な評価をしている。というのは、彼は公孫勝(こうそんしょう/gōng sūn shèng)の欺瞞の計略を否定しているからだ。小説『水滸伝』では、百八人の英傑たちが集結した際に「石碑(天降石碑)」が発見されており、そこに何と全ての英傑たちの名前とそれに対応する魔星が記されていたとされている。英傑たちは「この運命は最初から決まっていたのか」と感激して改めて天意と自分たちの使命を認識するのだが、李卓吾はそれが「公孫勝(こうそんしょう/gōng sūn shèng)らが団結を促す為の策略として石碑を偽造したのだ」と捉えているのである。
原作において、この石碑が「公孫勝らの偽造」であるとは一言も述べていないが、後世の読者の多くはこの李卓吾の認識が正しいとして読み解くようになった。2011年製作の中国大河娯楽ドラマ『水滸伝』においても同様の描写がなされている。
<考察:天人や仙人の予言>
『水滸伝』には同時代に書かれた歴史小説『封神演義』『西遊記』などから見ても分かる通り、道教の気配が色濃く反映された娯楽物語だ。よって、そこには(物語の真実味を壊さない程度の絶妙な接点で)修行を積んだ高僧(仙人)や天通の力を持つ高人(天人)が数多く登場する。「天降石碑」はこの天人や仙人のいずれかの人物が作った神秘的な事物であると考える事も、当然問題はない。
実際、『水滸伝』に登場する仙人や天人たちは、英傑たちの運命を予言するような言葉をはっきりと述べている。
- **住持真人(仙人)**「洪太尉が知らないのは、この殿堂にはかつて祖老天師洞玄真人が法符を伝え、ここに三十六天罡星と七十二地煞星、合わせて百八の魔君を封印したからです。石碑には龍章鳳篆の天符が刻まれており、この石碑がこれらを封じ込めています。もし彼らが解放されれば、必ず下界の生霊を悩ませるでしょう。」 — 第二回「王教頭私走延安府 九紋龍大闘史家村」
- **智真長老(仙人)**:「この者(魯智深)を剃度させなさい。彼は天星に応じた者で、心地が剛直である。現在は凶悪に見えるが、やがて清浄な境地に至り、その功徳は凡人を凌ぐだろう。」 — 第四回「趙員外重修文殊院 魯智深大闘五台山」
-**羅真人(仙人)**:「私はこの者(李逵)が上界の天殺星の数に属することを知っています。下界の生霊が多くの罪を犯したため、彼はその罰として殺戮を行うために下界に送られたのです。私は天意に逆らうことはできません。少し彼を鍛えただけです。」 — 第五十三回「戴宗智取公孫勝 李逵斧劈羅真人」
- **九天玄女(天人)**:「玉帝は、星主の魔心が断たれておらず、道行が未完成のため、暫く下界に罰せられましたが、間もなく紫府に戻るでしょう。もし将来、彼が酆都に罪を犯したら、私も救うことはできません。この三巻の天書をよく観察し、天機星(呉用の事)と共に見ることができます。」 — 第四十二回「還道村受三卷天書 宋公明遇九天玄女」
- **晁天王の顕霊(天人:晁盖の英霊):「兄弟よ、陽気が逼迫しているため、俺はそちらに近づけない。だから今、お前(宋江)にこれだけを急いで告げる:お前には百日以内に血光の災いがあり、江南の地霊星(安道全の事)だけがそれを治す事が出来る。一刻も早く兵を引き戻すのが上策なのだ。」 — 第六十五回「托塔天王梦中显 圣浪里白条水上报冤」
<補足:仁宗(じんそう/rén zōng)の飛白体>
当時の書道文化に関連し、北宋王朝の第四代・仁宗(じんそう/rén zōng)が得意とした「飛白体」という書体について補足をしておく。
北朝の王愔は『古今文字志目』において36種類の古書を挙げ、その最後の一つが「飛白書」であるとしている。唐王朝時代の書家である韋続も『五十六種書』の中で「飛白書」を挙げていることから、飛白書は特別な書法体であることが分かる。
※画像:百度百科「飞白书」より引用
『辞海』における「飛白書」の説明は次の通りだ。「飛白とは東漢の霊帝の時代に工匠が門の修飾に白粉を塗ろうとし、その際に刷毛を使った事から蔡邕が閃いた特別な書法だ。」筆画の中に細かく白が露出しており、枯れた筆で書いたような外見を持っている。一方、『詞源』の説明は少し異なっている。「飛白とは漢字の書体の一つであり、筆画に白が露出していて、枯れた筆で書かれたように見えるものだ。」いずれにせよ、これは北宋王朝より前の漢・魏の宮殿の題字に広く用いられていたとされている。
飛白書は東漢時代に現れ、魏晋南北朝時代に発展し、唐宋時代に全盛を迎え、明清時代には衰退し「絶滅」した。これが飛白書の歴史の流れとなる。清代の陸紹曾が編纂した『飛白録』には、漢から清にかけて102人の飛白書の作家が収録されており、蔡邕、王羲之、王献之といった名家が名を連ねている。しかし、飛白書を真に大成させたのは北宋王朝の太宗と仁宗であったと言われている。
北宋王朝では、飛白書が篆書、隷書、楷書、草書などの主要な書体と同等の地位を獲得していた為、芸術的にも実務上でもこの書体が尊ばれた。仁宗が大臣に贈る書もほとんど飛白書であった。よって、小説『水滸伝』の舞台となる時代の重要な書は飛白書が用いられていたと考える事が出来、もしかすると蕭讓(しょうじょう/xiāo ràng)が偽造した蔡京(さいけい/cài jīng)の書もそれに該当していたかもしれない。
ところが、小説『水滸伝』の作者である施耐庵(したいあん/shī nài ān)が活躍した明王朝時代になると、この飛白書は一気に存在感を失ってしまった。これは「審美の変化」ではないかと識者が語っている。飛白書は「絲絲露白」であり空白が多く、インパクトに欠ける。当時の人々はより墨気に満ちた強い行草を求めるようになったというのがひとつの説である。
確かに、近年の世界中の大手企業もいつの間にか「極太ゴシック大好き人間」になっているらしいので、何となく識者が言わんとしている事が分かる。我々にとって馴染みのある様々な企業ロゴが、クラシカルで瀟洒な明朝体から、ところてんが爆発したようなカクカクのゴシック体に変更されてしまった。(つい先日、20年振りに刷新された日本の新札の数字もすべて極太系のゴシック体だ。)個人的にはあまりに無骨で退屈な字体に感じるが、これはインターネット時代における視認性の高さを優先した事による、必然的な「審美の変化」なのかもしれない。
<三元論に基づく特殊技能>
#### 聖手書生(具術)
**説明**: 蕭讓は、筆を用いてあらゆる書体の字をほとんど完璧に模倣する能力「聖手書生」を持っている。この具術は、彼の卓越した筆遣いと深い書道の知識に基づき、あらゆる文書を精巧に再現する力を発揮する。
- **効果**:
- **道具性(とても濃い)**: この具術は、筆と紙といった道具に強く依存する。
- **思考性(中程度)**: 効果的に模倣を行うためには、書道に関する高い知識と技術が必要。
- **関係性(中程度)**: 蕭讓の具術は、文書の信頼性や精度を高め、集団内外での信頼を築くのに寄与する。
#### 具体的な使用例:
- **文書の模倣**: 蕭讓は、様々な書体の文書を精巧に模倣し、必要な文書を作成する。
- **書道の技術**: 蕭讓の高い書道技術が、集団内外での交渉や文書の作成において大いに役立つ。
※画像:DALL-E
作品紹介