※補足1:画像は中国動画共有プラットフォームで公開されている2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①孔子の後悔
成長した孔子の息子、孔鯉(こうり/kǒng lǐ)彼が衛国に急いで駆けつけて、長い年月を経て父子の再会が果たされた。孔鯉(こうり/kǒng lǐ)はすっかり大人になっていたが、諸国の旅を続けていた孔子は彼が成長する様子を目にしたことはなかった。その孔鯉(こうり/kǒng lǐ)から、彼の母、孔鯉(こうり/kǒng lǐ)の母親である幵官(けんかん/jiān guān)氏の逝去が報告された。
《論語》などの文献には、国づくり、人づくりに及ぶ孔子の姿が書かれていても、家庭づくりに及ぶ姿はほとんど見受けられない。人間が持つ時間、労力、才能などの資源は限られている。大事を成すには私事を疎かにしなければならず、私事を成すには事を疎かにしなければならない。この大事と私事の中庸(過剰でも不足でもない、もっとも適切な状態)を取るのは非常に難しい。
文献には書かれなかったが、ひとりの人間としての孔子は妻や子に対する後悔が存分にあっただろう。本ドラマでは、孔子が妻の死を聞いた後、「我杞悔为人父,杞悔为人夫啊(私は父として悔い、夫として悔いるのだ。)」と言って涙を流した。これは創作であるが、実際もその通りの反応をしたと私は思う。
②宰我(さいが/zǎi wǒ)の言葉が響く
孔子の弟子、宰我(さいが/zǎi wǒ)は飄々として達観したところのある人物だ。そして常に懐疑的で、理想的な孔子の論理学を尊びながらも、そのままの状態では現実世界で通用しないということを胸中で理解している。
そのような彼が、そろそろ自分たちの旅にも終わりが近づいていることを察知していた。孔子一行が雪原を進んで道に迷った際、彼はこうつぶやいた。
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咱们哪儿都没到 还在原来的地方 咱们就这么不断地重复过去 重复自己
俺たちはどこにも行ってもいないんだ。まだ元の場所にいる。ただ過去を繰り返し、自分自身を繰り返しているだけなんだ。
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ニーチェの永劫回帰とでも言うだろうか。事実、人間は「変わる」かもしれないが、「進んでいる」とは言えないかもしれない。道具と論理がどれだけ変化しても、結局は同じ所に戻って来るのだ。宰我(さいが/zǎi wǒ)の俯瞰的な感性は、この世も人も、流転をし続けるだけだと告げている。
いや、そんなことはないと言う者もいるだろう。ヘーゲルの弁証法のように、人はただ右左に揺れ動いているだけではなく、ぐるぐると左右に揺れながらも徐々に、らせん状に上昇していると考える者もいる。諦観するか、希望を持つか。孔子は後者の立場を取り、「この世も人も、適切な論理学(規範・良識・美徳)があれば高みに進めるはずだ」と考えていただろう。
③学堂:孔子が自身の論理学を「儒学(儒家思想)」に更新した理由
放浪の旅の最終地点、衛国での滞在をもう少しだけ続ける孔子一行。ここに、斉国と魯国との戦争の報が入って来た。騒然となる弟子たちを鎮めながら、孔子は学堂を開いた。ここで語られたのは孔子の論理学を示す「儒学」の「儒」の定義であった。
孔子が構築した論理学は、後の中華世界において「儒学」と呼ばれ、2500年以上に渡って国家運営プログラムのスタンダードとなった。その影響は東アジア全域に波及し、現代日本の良識や美徳の中にも根付いている。しかし、孔子が研究していたのは古代周王朝の「礼学」であったはずだ。なぜ、孔子は自身の論理学を「礼学」と呼ばず、「儒学」と呼んだのか。それには次の理由がある。
《周礼·天官》に「四曰儒,以道得民(儒とは道をもって民を得る者である)」と書かれているように、孔子が活躍する以前から、中華世界には「儒」という概念があった。この「儒」は「人(学者や道徳の士)」と「需(必要)」が組み合わさった字であり、「道を備えた者」を意図していた。
《扬子·法言》は「通天地人曰儒(天道と人道をつなぐ者を儒と呼ぶ)」とあり、《汉书·司马相如传》の颜师による注釈には「凡有道术者皆称儒(道と術を持つ者はすべて儒と呼ばれる)」とある。このように、「儒」は天と地、人間社会の道理を理解し、会通する者(それを導く者)という高い精神性を持った論理学者を示した。
このような論理学者=君子を育むことが、孔子の論理学の目指すところであった。これにより、孔子は自らの論理学を「儒学(儒家思想)」と呼んだのである。
④稷曲の戦い(しょくきょくのたたかい)
周敬王36年、紀元前484年、魯国と斉国の大規模な武力衝突が起きた。これが「稷曲の戦い(しょくきょくのたたかい)」である。この戦いは前年に魯国が斉国の南境を犯したことに対する報復として始まりを告げた。
この戦争における大まかな経過は次の通りだ。
<戦いの経過>
- 場所:稷曲(現在の山東省曲阜南郊)。
- 戦闘開始:
- 斉軍が稷曲から進攻し、魯軍と交戦。
- 魯国の季孫氏の部隊が溝を越え、斉軍を攻撃し激しい戦いを繰り広げた。
- 戦況の変化:
- 魯軍の右師(右翼)の指揮官、孟孺子の部隊が戦意を欠いて退却した。
- 結果:孟孺子の部隊の撤退が著しい影響を与え、斉軍が勝利を収めた。
「儒」の名前を持つ孟孺子は残念ながら功績を残せなかったが、この戦いには孔子の弟子である冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú:「子有」とも呼ばれる)と樊遅(はんち/fán chí:「子遅」とも呼ばれる)が指揮官として登用をされており、彼らが目立つ活躍ぶりを示したのだ。ここに至るまでも、子貢、子路らが諸国で登用されて着実に実績を積んでいたので、魯国の哀公らは「孔子の弟子たちは実用性のある優れた人材が揃っている、孔子を呼び戻すべきではないか」と言う機運を一気に高めることになった。
こうして、孔子一行がいよいよ魯国へ帰る土壌が整った。孔子がこの世を去るまで、残った年月は6年である。孔子が人生最後の仕事へと向かう。
⑤鬼鬼祟祟(グイグイチョンチョン/guǐ guǐ chóng chóng)だと思った
梅燕(ばいえん/méi yàn)が実際に端木(たんぼく/duān mù)が関わっている慈善事業の現場に同行した。彼は農村部の学校建設や物資支援を展開し、子どもたちが安全な環境で高度な教育を受けられる環境整備に邁進していた。
梅燕(ばいえん/méi yàn)が「あなたは鬼鬼祟祟(グイグイチョンチョン/guǐ guǐ chóng chóng)の人だと思ったけど、全然そうじゃなかった。ごめん。」と謝った。端木(たんぼく/duān mù)は照れ笑いをしながら、「そんな大げさなことはしていない。俺は俺にできることをしているだけだ。孔子基金会を通じた大勢の人の尽力があってこそ、この活動を行えているんだ。」と返事をした。
「鬼鬼祟祟(グイグイチョンチョン/guǐ guǐ chóng chóng)」という成語は、「行動がこそこそとしていて、正々堂々としていない胡散臭く怪しい様子」を意味している。「祟」という字が迷信的には「鬼や怪物が人に害をなす」ということを示しているので、「秘密裏に行動したり、不審な動きをする人や事柄」を描写する際に使われる。(ちなみに、この成語は清王朝時代の作家・曹雪芹による小説《紅楼夢》の第三十一回に由来する。)
※画像:百度百科「中国孔子基金会(全国性文化学术基金组织)」より引用。端木(たんぼく/duān mù)が語った「孔子基金会」は実在する文化・学術基金組織だ。1984年に民政部に登録され、中央政府と山東省の共同管理体制で運営されている。「引领儒学传承发展,深耕民族精神家园(儒学の継承と発展を導き、民族精神の故郷を深く耕す)」を理念として、「学術研究」「普及と応用」「交流と協力」「多様な伝播」という五大活動体系を推進している。
⑥再び響く、宰我(さいが/zǎi wǒ)の言葉
宰我(さいが/zǎi wǒ)がまだ幼い弟子の子貞にこう言った。
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宰我:你看 咱们大师兄子路 现在是蒲邑宰 子贡呢 深受鲁君还有季氏的器重 时常被任为鲁国的特使 抛头露面 行走于各国诸侯之间 冉求和樊迟就更不用说了 他们现在都是鲁国的大功臣 而且也是先生颇为倚重的弟子 就连年纪轻轻的子羔都成了卫国的士师 你说我不出去闯闯 还不被大家看扁了…子贞 你现在已经长大了 是个男人了 你应该明白 天下没有不散的筵席 不管是你的先生 同门 朋友 还是父母 兄弟 总有一天他们都会离开你的 生死难料 世事无常 最后只能和你自己在一起 在这个世界上 你只能依靠你自己 只能让你自己陪伴自己 而你的亲人 师长 同门 朋友 只是你生命旅程中所必然经历的过程 但是他们会长久的地存在于你的记忆里 你对他们的回忆 思念 乃至埋怨 憎恨 都将成为你人生中最宝贵的经验 和激励你继续前行的动力…好了 别哭了 我相信你会照顾好自己的 我相信你很快就能长成一个 顶天立地的男子汉的
見てごらん、私たちの長兄の子路は、今では蒲邑の宰(役人)だ。子貢はどうだい?魯の君主や季氏から厚く信頼されて、しょっちゅう魯国の特使として、各国の諸侯の間を行き来している。冉求(ぜんきゅう)や樊遲(はんち)については言うまでもない、今では魯国の大功臣で、先生(孔子)からも特に信頼されている弟子だ。それに、まだ年若い子羔(しこう)でさえ、衛国の士師(司法官)になったんだ。こんな状況で、俺が外に出て自分を試さなかったら、みんなから見くびられてしまうじゃないか…
子貞、お前ももう大人だ、一人の男になったんだ。分かるだろう?天下に永遠の宴会はないんだよ。先生も、同門の仲間も、友人も、両親や兄弟でさえ、いつかはお前の元を離れてしまうんだ。生きるか死ぬか分からない、世の中は無常だ。最後には、お前はただ一人、自分自身と共に生きていくしかないんだ。この世界で頼れるのは自分だけ、お前を支えられるのもお前自身だけだ。
お前の家族、師匠、仲間、友人は、お前の人生という旅の中で必ず通る過程に過ぎない。けれども、彼らはお前の記憶の中に長く存在し続ける。彼らへの思い出や、恋しさ、時には恨みや憎しみさえも、人生で最も貴重な経験となり、お前が前に進むための力となるんだ。
…さあ、もう泣くな。お前ならきっと自分をしっかりと支えていけると、俺は信じている。お前はすぐに、天地を支えるような立派な男に成長するさ。
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※講義中に居眠りをしたり、礼学を批判的に捉えたりして孔子と衝突することもあったが、弟子の中でも突出した弁舌の才能と改革気概に飛んでいた宰我(さいが/zǎi wǒ)。彼は魯国へ帰還する孔子一行に別れを告げ、ひとり斉国へと歩みを進めた。史実によれば、彼は斉国で臨淄(りんし/lín zī)の大夫となり、儒学者の先生、また政治家として大活躍をしたという。後世、彼は「孔門十哲」のひとりとして数えられ、中華世界の論理学発展に大きな貢献を果たした人物であると高く評価されている。
※今回の題材は2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』の第三十一集、第三十二集。
作品紹介