※補足1:画像は中国動画共有プラットフォームで公開されている2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①算了算了(スァンラスァンラ/suàn le suàn le)
場面は現代へ。儒学を独自研究している建築企業勤めの端木(たんぼく/duān mù)が取引先との商談を行った。この取引先は建材と美容製品を手掛けており、文才のある端木(たんぼく/duān mù)に美容製品の宣伝記事を書いて欲しいと依頼をしている。しかし、その記事制作の指示が実際の品質を越えた誇張、捏造したものであったから、端木(たんぼく/duān mù)は「消費者を騙すような言葉は俺のポリシーに反する」としてきっぱりとこれを拒絶。取引先はさらに良い条件を提示したが、端木(たんぼく/duān mù)は「算了算了(スァンラスァンラ/suàn le suàn le:終わりだ、終わり!)」と言って、颯爽と部屋を出た。
法律は破らなくても、どこまでも曲げられる。曲げれば曲げるほど、大きな利益が手に入りやすくなる。しかし、その行為は良識と美徳に照らし合わせても、自分を納得させるに値するものだろうか?自分の信じる良識と美徳を裏切ってまで、つまり自分を裏切ってまで、その汚い利益を手にしたいだろうか?世の中には「うん、そうしたい」という小人もいれば、端木(たんぼく/duān mù)のように「いや、それは間違っている」と断ずることのできる君子もいる。
②衛国の国君、霊公との謁見:あくびと爆睡
魯国を出て衛国に入った孔子たちに、ようやく新しいチャンスが訪れた。孔子が謁見したのは、衛国の国君である霊公だ。
孔子ももう五十歳を超えていたが、この時の霊公はさらに年上の七十代。40年以上を国君として在位した老練な国君である。本ドラマでは歩き方もおぼつかない様子が描写されている。彼が孔子に「お前は兵法に詳しいか?晋国から侵略を度々受けているので、軍事力を強化したい」と聞いて、孔子は「礼学のことでしたら多少は理解しています」と答えた。
※霊公は孔子の言葉を聞きながら退屈そうにあくびをしていたが、話している間に寝てしまった。
《論語》の原文には、次の一節がある。
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《論語》「卫灵公篇(衛霊公編)」
卫灵公问陈于孔子。孔子对曰:“俎豆之事,则尝闻之矣;军旅之事,未之学也。”明日遂行。
衛霊公が孔子に陳(国)について尋ねた。孔子は答えて言った、「祭祀の礼については聞いたことがありますが、軍事については学んだことがありません」。翌日、孔子はその場を去った。
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③大夫の公叔文子との会見
衛国の大夫、王公叔(王孫賈)が孔子のもとを訪ねて来た。彼は「どうして太子(霊公の息子)に挨拶に行かないのだ?」と孔子に尋ねた。孔子は「すでに霊公に謁見をしてまいりました」と言うと、彼が呆れたように「この国に来たのなら、まず太子に挨拶をせねばならないぞ。『かまどの神より門の機嫌を取れ』と言うじゃないか」と答えた。
公叔(こうじゃく/gōng shū)がここで言ったたとえ話(かまどの神より門の機嫌を取れ)は、《論語》の八佾編に書かれた次の箇所から引用されたものと思われる。
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《論語》「八佾編」
王孙贾问道:“‘与其巴结房屋里西南角的神,宁可巴结灶君司命,’这两句话是什么意思?”孔子道:“不对;若是得罪了上天,祈祷也没用。”
王孫賈が「家の西南隅の神に取り入るより、むしろかまどの神に仕えるべきだ、というこの言葉にはどういう意味があるのか?」と聞いた。孔子はこう答えた。「意味のない言葉だ。天に背きながら祈祷する、そのような状況が成り立つはずもない。」
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つまり、王孫賈は孔子に「人々の遠くから建物すべてを守っている神(西南隅の神)よりも、実際に人々と常に接している神(かまどの神)に媚びを売るべきじゃないのか?=地位が高くても実権のない人物に媚びるくらいなら、実際に権力を握っている人物に取り入るべきじゃないのか?」という実利主義的な考えを示しているのだ。
孔子は既に霊公との対談を通じて「この国に居場所も未来もない」と感じていたので、その実利主義を全面的に否定した。「天を尊ばないまま祈ったところで、それが何の意味になる?=いくら利益があろうとも、正しい倫理や道徳を損なう行為に及んではならない」と、孔子は言った。つまり、孔子は「国君ではなく、太子に仕えることなど有り得ない」と断言した。
この「いくら利益があろうとも、正しい倫理や道徳を損なう行為に及んではならない」という孔子の信念が、先ほどの端木(たんぼく/duān mù)の行動選択とリンクしている。また、その理想と現実の往復と失敗は、これまでの孔子が魯国、斉国で演じ続けてきたことでもある。
※子貢(しこう/zǐ gòng)が非常に硬い顔で「先生啊,就是太严苛,不活泛(先生は、本当に厳しすぎて融通が利かない)」と言った。子路(しろ/zǐ lù)は「先生は君子だ、商人じゃないんだぞ」と反論したが、子貢の言うことにも一理ある。弟子たちは気が気ではなかっただろう。信念を貫くことは孔子の長所であるが、また欠点でもあった。それは彼自身が説いていたはずの中庸(不足でも過剰でもない、ちょうど良い性質)の論理学と矛盾している点だ。
④衛国を離脱、孔子が命の危険に晒される
先ほどの《論語》の原文にもあった通り、孔子たちは霊公との謁見の翌日、急いで衛国を離脱している。本ドラマでは王孫賈とのやり取りによって危険人物扱いされ監視兵が付けられてしまったので、大事になる前に急いで夜明けに衛国を出発したと描写されている。
孔子は衛国から出国することには成功したが、その逃亡の道中、兵に囲まれて「賊」として匡城(きょうじょう/kuāng chéng)に囚われてしまった。結論から言うと、この兵士たちは獄中から逃亡した陽虎(ようこ/yáng hǔ)を捜索していた斉国の者であり、孔子を陽虎(ようこ/yáng hǔ)と誤認したのだった。
ちなみに、この匡城(きょうじょう/kuāng chéng)という地域は何度か文献に登場するが、具体的にどこであったのかについては二つの説がある。河南省の新郷市長垣県の城西南にある張寨郷孔荘村付近だとする説と、同じく河南省の商丘市睢県の匡城郷匡城村だとする説だ。
この後、斉国の兵たちによって処刑寸前の窮地に陥っている孔子を救うため、子貢(しこう/zǐ gòng)が衛国に急いで戻り、ツテのある宦官の雍渠(ようきょ/yōng qú)に便宜を図って欲しいと嘆願した。ここで、子貢(しこう/zǐ gòng)は「先生を助けて頂いたら、必ず先生を南子(霊公の妃)のもとに向かわせ、あなたにも仲介の恩恵があるようにする」と約束した。
⑤雍渠(ようきょ/yōng qú)
子貢(しこう/zǐ gòng)から貰った翡翠の賄賂によって心が動いた雍渠(ようきょ/yōng qú)。本ドラマではあまり有能そうな雰囲気はない。彼に関する詳しい資料が無いので人柄や功績などは不明であるが、《後漢書・蔡邕伝》では衛国の堕落に便乗した奸臣であったと示されている。
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《後漢書・蔡邕伝》
雍渠驂乗,逝而遺軽。
雍渠が同乗する中、孔子は去り、その振る舞いに軽蔑を残した。
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「同乗」というのが何を意味するのかというと、これは孔子が改めて衛国に1ヵ月ほど滞在した後に生じた、南子(なんず/nán zǐ)に関わる出来事に関連しているものと考えられる。この出来事については次回のドラマ回で描写がある。孔子はこの時の雍渠(ようきょ/yōng qú)の様子を見て、改めて「この国はもうだめだ」と考えたようだ。
⑥天が私を滅ぼそうとするものか
今回の「陽虎と孔子が間違えられた」という展開は本ドラマの創作だが、実際、孔子は匡城(きょうじょう/kuāng chéng)付近で民衆に殺されかけたことがあった。孔子たちが陳国へ向かう途中で匡城を通りかかった時、地元の民衆に悪人と勘違いされて取り囲まれてしまったのだ。これは《史記・孔子世家》に書かれている。
弟子たちは恐怖におののいたが、孔子は非常に冷静だった。彼は琴を奏でながら、こう言ったという。
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文王既没,文不在兹乎?天之将丧斯文也,后死者不得与于斯文也;天之未丧斯文也,匡人其如予何?
周文王が亡くなった後、周代の礼楽文化は私に受け継がれている。もし天がこの文化を滅ぼそうとしているのなら、私はその文化を保持できなかっただろう。しかし、天がこの文化を滅ぼそうとしていないのであれば、匡城の人々が私に何をしようとどうにもならない。
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孔子はこの時、「临大难而不惧者,圣人之勇也(大難に臨んで恐れず、それこそ聖人の勇気である)」という言葉を語っている。この言葉から、成語の「臨危不惧(危機に臨んで恐れず)」が生まれたと言われている。
※2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』の第十七集より引用。YouTubeの参考リンクは次の通り。
作品紹介