天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 087】丁得孫

丁得孫

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

-------------------------

水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

-------------------------

 

丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)

 

<三元論に基づく個性判定>

11番 **とても強い生存欲求**、**弱い知的欲求**、**弱い存在欲求** - **「実用的実行者」** - 実際の行動に重きを置き、実用的な解決策を見つけることに集中する。

 

<概要>

丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)、変な設定の人(※後述参照)。詳しい生い立ちは不明。飛叉(漁業用の魚叉から進化したフォーク形状に似た槍)の使い手で、あだ名は「中箭虎」。顔や全身に傷跡があるという人物。元々は東昌府の将軍、特異性の高い飛石技術を有する張清(ちょうせい/zhāng qīng)の直属の部下として、龔旺(きょうおう/gōng wàng)と共に副将を担っていた。つまり、彼はれっきとした朝廷側の武人であった。梁山泊勢力の盧俊義(ろしゅんぎ/lú jùn yì)陣営はその東昌府を攻略しようとしたが、張清(ちょうせい/zhāng qīng)と丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)の部隊が強く敗北。後に宋江(そうこう/sòng jiāng)の陣営が加わって東昌府と衝突した際、丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)は生捕りにされて梁山泊へ降伏。これをもって、張清(ちょうせい/zhāng qīng)と共に梁山泊勢力の一員となった。百八人の英傑たちが集結した大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際には序列第79位に定まり、「歩兵将校」に任命された。(この役職も疑問が残る。猛将・張清の副将であったのなら元官軍の多い騎馬軍に属するのが適当と思われるが、彼は元山賊の面々が集まっている歩軍に配属された。同じく副将の龔旺も同様。また彼らは歩軍でも「歩兵隊長」より一位下の「歩兵将校」の任命となる。)その後もおそらくは前線ので活躍。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において、突然蛇に噛まれて死亡した。戦後、朝廷は彼を「義節郎」に追封した。

 

<創作・現実世界では非常に稀有な結末>

いよいよ『水滸伝』の物語も終盤を迎えて、各場面で劇的な展開が繰り広げられる中で、丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)もそこに登場をする。しかし、彼は何の活躍もしていない。「ついでに言うと」といった具合の体で、彼と蛇の出来事が展開されるのである。その原文(120回本・第118回)は以下の通りだ。

 

-------------------------

庞万春死命撞透重围,得脱性命。正走之间,不提防汤隆伏在路边,被他一钩镰枪拖倒马脚,活捉了解来。众将已都在山路里赶杀南兵,至天明,都赴寨里来。卢先锋已先到中军坐下,随即下令,点本部将佐时,丁得孙在山路草中,被毒蛇咬了脚,毒气入腹而死。

 

庞万春(方臘軍側の敵将)は必死に重囲を突破し、命を取り留めた。しかし逃げている最中、路傍に伏せていた湯隆に気付かず、钩镰枪で馬の脚を引っ掛けられ、馬から引き倒されて捕らえられた。そのまま将軍たちはすでに山道で南兵を追撃し、天明までに全員が寨に戻ってきた。盧先锋はすでに中軍に座しており、すぐに本部の将校を点呼するよう命じた。その際、丁得孫が山道の草の中で毒蛇に咬まれ、毒が体内に回って死んだことが報告された。

-------------------------

 

戦いが終わって拠点で戦況報告を聞いている時、その中のひとつとして、「丁得孫が毒蛇に噛まれて死んじゃいました」という報告が持ち上がったのである。彼の最期の登場はたったこれだけ。せめて官軍時代の元上官であった張清(ちょうせい/zhāng qīng)や元同僚の龔旺(きょうおう/gōng wàng)が嘆く場面でもあれば救われるが、特にこれといった描写はない。

 

「毒蛇に噛まれて死亡」という事象は、現実世界ではそれほど珍しいものではなく、2019年の時点で世界ではコブラマムシなどの毒によって1日約200人の犠牲者が発生しているという。ただ、中国の悠久の歴史を通じてみても政治家や武将が毒蛇に噛まれて絶命したという記述は皆無。真剣に探してみても一人も見つからなかったので、架空・現実を通じてみても、中華世界の王朝史の中で毒蛇に噛まれて死んだ有名人は丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)ただ一人かもしれない。なんと言う珍しい結末だろう。

 

世界に視線を広げてみても同じ結末を辿った者は非常に限定されている。歴史上で言えば古代エジプトクレオパトラが毒蛇に噛まれて絶命したとされているが、これは彼女が自ら行った事なので状況は異なる。大胆な設定の多い漫画の世界を探してみても、日本の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第5部で敵のメローネという人物が主人公の特殊能力によって物から変化した毒蛇に舌を噛まれて死ぬという描写があるぐらいだ。

 

ギリシャ神話では吟遊詩人のオルフェウスがエウリュディケと結婚をするものの、その妻エウリュディケが毒蛇に噛まれて死に、冥府に旅立ってしまうという物語がある。この夫のオルフェウスはどうしても諦めきれず、妻を連れ戻しに冥府まで向かって冥王ハデスに「妻を返して欲しい」と直談判。ハデスは彼の真実の愛に深く感動して特別にこれを許可するが、「但し冥府から出るまでに絶対に後ろを振り返ってはならないぞ」という不穏な禁忌を言い残す。夫のオルフェウスは後ろに妻のエウリュディケを従えて冥府の出口直前まで辿り着くが、ふと本当に後ろに愛する妻がいるのか不安になってしまい、思わず後ろを振り返ってしまう。これによって妻のエウリュディケが一気に冥府に引き戻されてしまい、夫のオルフェウスはどうしようもなく絶望しながら冥府を後にした。これが彼らにとって永遠の別れになってしまった。(先ほどの漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部のラストに、このプロットが引用されている。また、毒蛇は登場しないが、そのオルフェウスがエウリュディケのギリシャ神話によく似たプロットが日本神話における『イザナキとイザナミの黄泉の国』に見受けられる。物理的距離を有する古代神話同士が似る不可思議な現象は、高度生命体が地球人を生み出したのではないかというパンスデルミア説の状況証拠として用いられる事もある。)

 

このような具合に古今東西を駆け抜けてみたが、やはり「毒蛇によって死亡」という有名人は非常に限られていると思われる。丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)の場合はしかも、それが物語展開に何一つ大きな絡みがないという点でも不可解である。

 

<傷もあだ名も変>

「身体も顔も傷だらけ」という設定に対する説明は一切なし。これが官軍として活躍する中で付いたものなのか、あるいはもともとは賊であってそれが付いたのか、それも分からない。あだ名、「中箭虎」も変。これは虎に矢が突き刺さった状態を示す表現だ。これは彼の傷だらけの様子を示したものかもしれないが、そうした戦いの傷は名誉なものであるから、「矢が突き刺さった虎」などという嘲笑的なあだ名になるのはおかしい。仮に彼が自分でそう言い始めたとしても、なぜそのような自嘲気味なあだ名にしたのかもよく分からない。王英(おうえい/wáng yīng)のように愛嬌のある人物が「王矮虎(短足の虎)」というあだ名を面白がって表現するのは理解できるが、丁得孫にはそうした明るい性格描写はひとつも無い。

 

<改修事項:「あばた顔」から設定を見直す>

作者の施耐庵(したいあん/shī nài ān)の思惑は定かでは無いが、私なりに何とか丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)と同僚の龔旺(きょうおう/gōng wàng)の変な人物造形の設定群に整合性と説得力を与える事が出来るかもしれない。「中箭虎」の「中」が「痘痕顔(あばた顔)」を意図しているという説がある。しかも「矢が突き刺さった虎」とあるので、身体中にも同じような痘痕があったものと想像する事も出来る。これが何を意味するのかというと、彼がかつて天然痘患者であった事を示している可能性を考慮できる。

 

天然痘天然痘ウイルスにより発症する死の疫病。感染発症後の致死率は20〜50%。最古の記録としては紀元前1100年代にエジプト王朝のラムセス5世が天然痘の感染により死亡した事が明らかになっている。人類はこの空気感染による疫病菌と長く戦い続け、1980年になってようやく根絶の宣言を行った。(これは人類がウイルス性感染症に完全勝利した唯一の成功例である。)日本の場合は奈良時代平城京パンデミックが発生。国政中枢の藤原四兄弟天然痘に感染して全員死亡をするという大事件が起きている。民間のみならず、東山天皇徳川家光などの貴人たちも感染。この死の病から逃れた日本の武将として有名なのは伊達政宗。彼は幼少時代に天然痘に感染したが生還。ただ、その代わりに右目を失明して、いわゆる「独眼竜」となった。

 

天然痘は感染後の治療方法は見つかっていないが、確実に予防できるワクチンの開発によって3000年に渡る防疫戦争に終止符が打たれた。このワクチン、すなわち「種痘」は19世紀のイギリス人医学者エドワード・ジェンナーによって確立された技術とされる。ただし、中華世界では民間の医療現場で既に同様の方法で予防が出来る事が知られており、その予防策が各地で講じられていた。彼らは「天然痘の生還者が二度と天然痘に掛かる事が無い」という事実から、弱毒化したウイルスを打てば対抗力が生まれる(免疫が生まれる)という事を医学的に把握していたのである。

 

この中華世界における「人痘接種術」の発明と天然痘天花病毒)の予防について補足をしておこう。晋代の著名な薬学者である葛洪は『肘後備急方』で「(この天花病毒は)病が蔓延し、顔や身体に疱瘡が発生し、重症の場合は多くが死亡する」と解説している。また葛洪は、この病気が東漢光武帝建武年間(西暦23〜26年)に始まったと記録している。これが中国で最も古い天然痘感染の記録となる。その後、9世紀頃には西洋で天然痘パンデミックが発生し、ゲルマン系の軍が感染した兵士を全員殺害するだとか、インドで迷信を用いて儀式的な治療を試みるだとか、色々な治療方法が試されたものの効果はなし。

 

一方の中国ではその時点で既に医学技術が非常に高度な水準に達していた事から、上述の通り種痘(ワクチン)の開発に着手していた模様。清王朝の医師である朱純嘏は『痘疹定論』において、宋王朝時代の真宗(西暦998〜1022年)や仁宗(西暦1023-1063年)の時代、四川の峨眉山の医者が種痘を行い、宰相の王旦の子供である王素の種痘に成功していると紹介している。つまり、『水滸伝』の舞台において既に予防的な医学の開発が進んでいた可能性が高い。

 

水滸伝』の作者、施耐庵(したいあん/shī nài ān)が活動していた明王朝時代には天然痘を始めとした伝染性疾病に対する認識がかなり深まっており、また痘疹の治療経験が豊富になった事で、人痘接種術(ワクチン予防)がほとんど体系化されている。清王朝の医学者である俞茂鲲は『痘科金鏡賦集解』において、「種痘法は明の隆慶年間(西暦1567〜1572年)に始まり、宁国府太平県の行政者によって全国に広まった」と示している。乾隆帝の時代の医学者である張琰も『種痘新書』において、「数代にわたり種痘技術が継承されている」と記録している。

 

丁得孫(ていとくそん/dīng dé sūn)はその予防医学を受ける事は出来なかったが、幸運にも命を取り留めたものとすれば良い。彼は伊達政宗と同じように身体に痘痕を残すと共に右目を失明した。これが「矢の刺さった虎」というあだ名の由来となった、と想定する事で辻褄が合うように思われる。そして、これは彼の奇妙な末路にも関係する伏線とする。

 

<毒蛇は天界が差し向けたもの:現代社会の生物兵器禁忌メタファーに>

丁得孫の天然痘感染を治療した医師が誰だかは不明であるが(それとなく、安道全の師という設定を加えても良いかもしれない)、とにかくその医師が丁得孫の体から剥がれ落ちたかさぶたを研究の為に保存していたものとしよう。天然痘ウイルスがどこまで生存するかは明確ではないが、現実世界においては1950年にオランダ人学者が行った研究で、封筒内に入れた天然痘患者のかさぶたに付着しているウイルスが13年に渡って生存した事実が確認されている。医師は別の病によって倒れて他界してしまい、丁得孫のかさぶたが入った包みも忘れ去られてしまった。しかし、遺品整理の際に丁得孫のもとにそれらが全て返却される事になり、彼はその時に医師から研究用にそれを取っておくと話していた事を思い出した。瞬間的に、彼はこう思い付いたのである。「いざという時は、これを使って敵軍を破滅させる事が出来るのではないか」と。いわゆる「非人道的な生物兵器」としての転用を思い付いたのである。

 

天然痘患者は気味悪がられてまともな仕事に就けなかったが、張清(ちょうせい/zhāng qīng)が彼を拾ってくれて官軍に着く事が出来た。彼は常に例の霊物兵器を身につけていて、いつかどうしようもない戦争状態に陥った時には、この禁じられた奥の手を使おうと考えていた。そして、その時がやってきた。梁山泊勢力にとって最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦争は熾烈を極めた。彼は行軍の道中、いよいよこれを使おうと決意した。しかし、それを察知した天界の九天玄女らが、人の道を外れる生物兵器の使用を許さず、すぐさま地上に毒蛇を送り込んだ。こうして、丁得孫は懐に忍ばせていた包みを使う事なく猛毒により死亡した。

 

彼は決して冥府(天然痘ウイルス)を振り返ってはならなかったのだが、それを振り返ってしまったから冥府に引き摺り込まれてしまったという訳だ。

 

この事情を知っていたのは、幼馴染で親友だった龔旺(きょうおう/gōng wàng)のみ。(丁得孫が張清の部隊に所属できたのは、もともとこの龔旺が張清の部隊にいて推薦をしたから、という改修も必要であると考える。)龔旺(きょうおう/gōng wàng)は丁得孫の死亡を知って急いで現地に向かい、彼の亡骸から天然痘ウイルスの入った包みを回収し、これが二度と使われる事が無いように燃やして処分をした。

 

<三元論に基づく特殊技能>

#### 天花毒心(心術)

**説明**: 丁得孫は、生死を彷徨う重病から生還したことにより、生死の恐怖を超越した強靭な精神力を発揮する能力「天花毒心」を持っている。この心術は、彼の深い精神的な強さと経験に基づき、困難な状況でも冷静かつ果敢に行動する力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、丁得孫の精神的な力と経験に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 効果的に強靭な精神力を発揮するためには、高い自己認識と内省が必要。

  - **関係性(中程度)**: 丁得孫の心術は、仲間たちに安心感を与え、困難な状況でも冷静かつ果敢に行動する力を高める。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **困難な状況への対応**: 丁得孫は、生死の恐怖を超越した強靭な精神力を発揮し、困難な状況でも冷静に対処する。
  2. **仲間への影響**: 丁得孫の強靭な精神力が、仲間たちに安心感を与え、彼らを鼓舞する。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

Amazon