天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex08】梁紅玉

梁紅玉

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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梁紅玉(りょうこうぎょく/liáng gōng/hóng yù)

<三元論に基づく個性判定>

13番 **とても強い生存欲求**、**とても弱い知的欲求**、**とても強い存在欲求** - **「感情豊かな支援者」** - 他者との感情的なつながりを大切にし、直接的な支援を行うことに喜びを感じる。

 

<概要>

水滸伝』には登場していないが、同時代の北宋末期から次の南宋時代の両宋をまたいで実在した歴史上の英傑が何名がいる。その中の三名、岳飛(がくひ/Yuè Fēi)、梁紅玉(りょうこうぎょく/liáng hóng yù)、韓世忠(かんせいちゅう/hán shì zhōng)は演劇やドラマの題材となる事が多い大人物だ。岳飛は『水滸伝』の花栄(かえい/huā róng)の原型、梁紅玉は孫二娘(そんじじょう/sūn èr niáng)の原型、韓世忠は魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)の原型であるという説もある。特に梁紅玉は女武将として国家に唯ならぬ貢献を果たした人物という点で非常に興味深い。

 

梁紅玉の生没年は不明。史書には「梁氏」と記されているのみで名前はなし。「紅玉」という名は彼女が亡くなった後、様々な野史や話本で付けられたものであり、その初登場は明代の張四維が書いた伝奇書『双烈記』である。 若い頃、彼女は妓女(歌妓:歌で金を稼ぐ芸人)という身分であったが、当時下級の役人に過ぎなかった韓世忠(かんせいちゅう/hán shì zhōng)の未来性と相性を見抜いて彼と結婚。その後、夫婦で武芸に才能を発揮して頭角を示し、建炎三年(1129年)の苗傅の反乱の鎮圧を皮切りとして数々の功績を次々と打ち立てた。建炎四年(1130年)の黄天蕩の戦いにおいては、彼女は韓世忠と共に指揮を執り、桴鼓(戦闘時に兵士の鼓舞や指揮の為に用いる太鼓)を鳴らしながら戦い抜いた。彼らは侵略してきた金軍を長江南岸で48日間も阻止する事に成功した。しかし、金軍が最終的に脱出をしてしまった為、梁紅玉は夫の韓世忠が完全制圧の機会を逃した張本人であると弾劾し、彼に厳罰を与えるよう上奏。朝廷は「なんという女傑だ」と震え上がりながらも、その公平さに感銘した。この戦いを通じ、彼女は楊国夫人の称号を授与。彼女の名声が天下に轟いた。紹興五年(1135年)、韓世忠は少保に昇進。同年の旧暦八月二十三日、韓世忠の最初の妻である秦国夫人白氏(李心伝が著した私家著作『建炎以来系年要録』では誤って秦国夫人梁氏と記載)が逝去。その白氏の死後、梁氏が韓世忠の正妻となった。

 

※『水滸伝』における最終戦争、方臘(ほうろう/fāng là)との戦いにおいて、その方臘を遂に捕まえる役目を果たしたのは魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)であった。現実では、梁紅玉の夫の韓世忠がこの功績を果たしている。

 

<生涯>

####卑賤な出自

梁紅玉の祖父と父親は共に武将の出身であったので、彼女は幼い頃から父兄に従って武術を身に付けていた。北宋徽宗宣和二年(1120年)、睦州の住民たちが方臘(ほうろう/fāng là)の武装蜂起宣言に呼応して大反乱が勃発。朝廷の悪き弊政に深い憎悪を抱いていた民衆たちが一斉に集まり、その勢力が十数万人にまで急拡大。州郡を次々に落とし、官軍は何度も討伐に失敗した。梁紅玉の祖父と父親もこの方臘討伐戦に参画したものの功績を挙げられず、惨敗の末に朝廷から責任を押し付けられ死刑に処されてしまった。これによって梁家が没落。梁紅玉は京口の官妓(歌妓)に身を落とす事になった。一方、梁紅玉はそのような没落した身分でありながらも見事な剣舞や綱渡りの技術を有すると共に、文芸面でも琴や歌舞、絵画に精通していた。その中でも彼女は強弓の取り扱いが極めて優れていた。彼女は富豪の子弟とも対等に渡り合い、社会的に蔑まれていた官妓の気配は全く感じられなかったという。

 

#### 韓世忠との出会い

韓世忠は延安府綏徳軍(現在の陝西省榆林市綏徳県)の出身で、虎のような背中と熊のような腰、一身の胆力を持ち、耿直で人助けを喜ぶ正義感と勇気を持つ英雄であった。朝廷の童貫(どうかん/tóng guàn)が軍を指揮して方臘勢力の鎮圧に成功した際、その祝賀として軍を京口に戻し、歌妓を召して酒宴を開いた。この祝宴の席で、梁紅玉は韓世忠に出会った。韓世忠は他の将領たちが歓呼し飲み交わす中で、一人国情の行く末を案じて憂鬱そうにしており、これが梁紅玉の注意を引いたという。梁紅玉の颯爽とした姿と気品もまた韓世忠の注意を引き、二人は互いに惹かれ合い、好漢と女傑が夫婦になった。

 

### 飛馬伝詔

水滸伝』では描かれなかったが、北宋は第八代皇帝の徽宗、第九代皇帝の欽宗という悪政が続く中で、女真族国家の金国の侵攻により敢えなく滅亡する。父の徽宗と長兄の欽宗が金軍に捕らえられた事件(靖康の変)を受けて、徽宗の九男である高宗とその一派は南部へ逃亡。彼らは臨安(現在の杭州)に都を定め、汴京を開封に改名し、宗沢を開封留守に任命した。こうして宋王朝が再建される事となり、その時点より北宋から南宋の時代が幕を開けた。建炎三年(1129年)、金軍は粘罕の指揮の下、彭城から泗州に進軍し、楚州に直進。高宗は浙江一帯に逃れたが、外敵の脅威によって意見がまとまらず、内乱状態に陥った。御営統制の苗傅と威州刺史の劉正彦が反乱を起こし、王淵を襲撃して殺し、宦官を捕えて殺し、高宗から皇太子へ位を譲らせ、隆祐太后に垂簾聴政(太皇后や皇后など女性に政治の主導権を与える体制)をさせた。この苗傅たちのクーデターを鎮圧するべく、隆祐太后と宰相の朱勝非が密談し、この時に城内にいた梁紅玉に協力を仰ぐ。朱勝非は彼女に「秀州にいる韓世忠のもとに急行して杭州の進軍と苗傅たちの鎮圧に協力して欲しい」と願い、その一方で苗傅には「韓世忠が事変を聞いてすぐにここに来ないのはどの勢力につくか迷っているからだが、彼の妻の説得であればすぐに我々の仲間になるだろう」とおためごかしの説得を実行。これに騙された苗傅は梁紅玉に外出の強化を与え、隆祐太后は梁紅玉を安国夫人に封じ、韓世忠を御営平寇左将軍に任命。彼女は息子を抱えて馬に乗り、一昼夜で秀州に到着。韓世忠は状況を理解し、すぐに張浚、張俊と協力して杭州へ戻り、内乱状態を引き起こした苗傅たちを瞬時に鎮圧した。高宗は心からこの功績を讃え、夫婦を直に宮門で迎えた後、韓世忠に武勝軍節度使を授け、梁紅玉を護国夫人に封じた。

 

#### 黄天蕩の戦い

1129年10月、金軍は完顔宗弼(俗称金兀術)の指揮下で江浙に攻め込んだ。高宗側は逃走する事しかできず、杭州から明州(現在の浙江寧波)に逃れ、さらに海上にまで逃れる事になった。幸いにも金軍の海軍力が弱かった為、高宗は何とか命を取り留めた。この時、金軍はすでに5ヶ月以上も孤軍で深入りをしており、江南各地で彼らを打倒しようとする漢人の反抗が勃発していた。金軍指導者の宗弼は「このままでは人民戦争の海に溺れてしまう」と考え、いったん北へ退却した。この時、韓世忠は浙西戦区司令(浙西制置使)を務めており、金軍の北撤を聞いて即座に水軍8,000人を動員。彼は鎮江で金軍を待ち構えた。金軍は数字上の軍力は自分たちに圧倒的な利がある事、そして兵法に「帰師勿遏(故郷に帰る軍隊を阻止しようとする事は危険である)」という原則がある事、そして過去に韓世忠の軍隊が金軍に惨敗している事などから、この戦いを軽視。これによって宗弼は韓世忠に戦書を送り、韓世忠はこれを受諾。こうして金軍が長江を北渡し始めた日に正面衝突の戦いを開始。韓世忠は水軍を率いて江面で拦截し、梁紅玉は矢の雨の中で自ら鼓を打って金軍の十数回の攻撃を撃退した。この結果、金軍は江を渡る事が出来ないばかりか、致命的とも言える甚大な損害を受けた。これを受けて宗弼は和平手段を探り、韓世忠に掠奪した財物を返還して名馬を贈る事を申し出たが、韓世忠はこれを断固拒絶。金軍が地理に不慣れな事もあって宋軍に追い詰められ、"黄天蕩の死港"へと追い詰められた。しかしこの時、韓世忠と梁紅玉の兵力が足りなかった為、宗弼は何とか老鹳河故道を切り開いて逃亡を続けて建康(現在の南京)の撤退を目指した。その撤退途中で金軍は猛将の岳飛による軍隊の阻撃を受け、やむなく方向転換して長江を渡ろうとしたが、そこでまた韓世忠の水軍による追撃を受けた。韓世忠の水軍は金軍の小舟を鉄鉤で攻撃して、多くの敵船を転覆させてここでも勝利を収めたので、気が大きくなってしまった。韓世忠は強引に、金軍の小舟を無風の日に再度攻撃しようとしたが、無風ゆえに水軍を思うように動かす事が出来ず、逆に金軍の火箭で焼かれてしまい、これによって多くの将兵が戦死してしまった。韓世忠は鎮江に戻らざるを得ず、金軍は包囲網を突破した。上述のような失態があったとは言え、韓世忠は絶対的に劣勢の兵力で金軍を48日間押しとどめ、金軍が南下しないようにするという戦略的な目的は達成した。これは紛れもなく功績であったが、梁紅玉は金兀朮を生け捕りに出来なかった原因が韓世忠の無策な特攻にあったとして彼を罰するように朝廷へ上奏した。

 

#### 夫唱婦随に非ず

宋王朝時代の中国は、基本的には「夫唱婦随(夫が言えば妻が従う)」という権力関係が主流だった。しかし、上述の一件では、梁紅玉がその夫の失態を知るや否や机を叩いて激怒し、朝廷に折子(報告書)を書いて夫を処罰するように直訴した。『鶴林玉露』にはこの意気地の争いについて、「夫人は世忠が『機会を逃し敵を逃がした』と奏疏(上奏文)で訴え、罰を加えるように求めた。朝廷はこの対応を巡って動揺した」と記されている。そもそも、宋の制度では妻が夫を告発すること自体が犯罪であり、たとえ夫の罪が事実であっても訴えを起こした妻が三年の刑罰を受ける事になっていたという。例えば南宋の女詩人である李清照は、第二の夫の張汝舟を訴えて勝訴しましたが、それでも監獄に入れられている。この件では梁紅玉が九日間拘束され、朋友達の助力によって釈放されたらしい。この梁紅玉の義挙は朝廷を驚かせると共に、公平さを貫く言動であると賞賛された。また朝廷は梁紅玉を「楊国夫人」に封じた。

その後、紹興六年(1136年)、韓世忠は武寧安化軍区司令に任命され、楚州(現在の江蘇淮安区)に駐留。梁紅玉は韓世忠に従い、将士たちとともに淮水を境に新城を築いて、引き続き宋王朝の領土に侵攻をしていた金軍に対抗した。楚州は戦乱の影響で荒れ果てていたが、梁紅玉は自ら芦で屋根を作るなど、韓世忠とともに兵士たちと苦楽を共にした。こうした梁紅玉と韓世忠の指導力と人望が復興の力となり、楚州は再び生気を取り戻して重要な国防拠点となった。

 

#### 『莫須有(あったかもしれない)』

紹興十年(1140年)、朝廷内には韓世忠のような「主戦派(金との徹底抗戦を貫く派閥)」と秦桧(しんかい/qín huì)の「求和派(金との和議を探る派閥)」があった。後者の秦桧は朝廷を牛耳るような立場にあった為、趙構らと結託して強行的に金国との和議(休戦協定)を結ぼうと画策し、抗金運動の要として機能を果たしていた武将たち、岳飛、韓世忠、張俊の兵権を一方的に解除した。紹興十一年(1141年)四月、韓世忠は臨安に召され、枢密使に封じられた。一方、岳飛は権力闘争に負け、「謀反の計画して実行に移そうとした」という咎で死罪が決まった。韓世忠と梁紅玉はこの朝廷の決定に強く抗議し、謀反の決定的な証拠を提示するように秦桧に迫った。しかし、秦桧はこれに対して「莫須有(証拠がある気がする)」という三文字で事を済ませ、岳飛を処刑してしまった。『水滸伝』でも描かれていた通り、功績ある武将たちが狭量な皇帝や権謀術数に長けた文官によって葬り去られる事はよくあるものだ。その後も秦桧は自分と仲間の権力を維持する為に徹底的に恐怖政治を行い、自分たちの政敵になりそうな功臣たちを排除し続けて66歳で死去した。日本の井伊直弼のように暗殺はされなかったものの、彼の死去後は「売国奴」「奸臣」という徹底的な批判がなされるようになり、現在でもその評価は覆っていない。

 

#### 晩年

韓世忠は岳飛の死刑が終わると、怒りのあまり官職を辞し、隠士のように清涼居士と名乗って臨安西部の馬螣梅園に隠居。彼は田舎で花を育てながら穏やかな晩年を過ごし、1151年に逝去した。梁紅玉の最期については主に三つの説が残っている。第一の説は、韓世忠と梁紅玉が共に隠居して、夫の後を追うように1153年に亡くなったというものである。夫婦は蘇堤の霊巌山の麓に合葬され、次期皇帝の孝宗が彼らの霊を祀るために碑と祠を建てたという。第二の説は、梁紅玉が韓世忠が隠居する前の段階で暗殺されたのではないかというものだ。これによると金国の奸細が食物に毒を盛り、梁紅玉がそれに気付かず口にしてしまった事から、痢疾が止まらずに衰弱して逝去したのだという。第三の説は、同じく韓世忠が隠居する前の段階で、彼女が戦死したというものだ。梁紅玉は韓世忠と共に楚州に駐屯し、長年金軍と戦い続けた。紹興5年の農暦8月、すなわち1135年10月に、梁紅玉は突然金軍の襲撃を受け、激しい戦闘の中で腹部に重傷を負った。彼女は「腸が流れ出るほどの重傷」を負いながらも、歯を食いしばって戦い続けたという。最後の説のみ『英烈夫人祠記』という史料の証拠が存在する。そこには「敵の矢が雨のように降り注ぎ、甲冑に集まった。梁紅玉は血が重甲を貫き、敵陣に入り十数人を斬り倒したが、力尽きて落馬し死亡した。金人は彼女の首級を争って奪い合い、五体を裂いた」と記されている。ただし、この書物は文学的な色彩を帯びているので、どこまでが真実であるかは不明だ。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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