天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

暫定有罪と推定有罪の論理学

12 ANGRY MEN

私:1997年の映画『12 ANGRY MEN(邦題:12人の怒れる男 評決の行方)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:1997年の映画『12 Angry Men』(日本では『12人の怒れる男 評決の行方』として知られています)は、ウィリアム・フリードキンが監督し、ジャック・レモンジョージ・C・スコット、ヒューム・クローニンなどが出演しているリメイク作品です。この映画は、1957年にシドニー・ルメットが監督し、ヘンリー・フォンダが出演した同名映画の再制作版であり、裁判の陪審員室を舞台にしています。

物語は、一人の少年が父親を殺害した罪で裁判にかけられるところから始まります。12人の陪審員が評決を下すために一室に閉じ込められますが、最初はすべての陪審員が少年を有罪とみなします。しかし、陪審員の一人が少年の無罪を主張し、証拠や証言に疑問を投げかけ始めると、それぞれの陪審員が自分の先入観や個人的な背景に基づいて意見を変えていきます。この映画は、人間の偏見、公平さ、そして正義についての深い洞察を提供しています。

ドラマの大部分が一つの部屋で展開されるという点で、この映画は舞台劇のような緊張感と集中力を持っています。俳優たちの演技、脚本、そして演出が高く評価されており、法廷ドラマの古典として知られています。

 

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 本作のオリジナルは1954年に製作されたテレビドラマだ。この物語は非常に高い評価を受け、1957年に俳優ヘンリー・フォンダの主演による映画が製作された事から世界的に知られるようになった。以後、ロシアのリメイク版や日本のオマージュ作品、その他の舞台劇やテレビドラマなど、様々な形で派生作品が生まれていく。そうした派生作品の中で、私は本作の流れや人物描写がもっとも鑑賞しやすいと感じる。

 「ほぼ全編に渡り、陪審員室というひとつの空間で物語が進行する」という構成は、本来であれば多彩かつ壮大な視聴覚体験を可能とする映画という創作文化の優位性を大きく損なうものであるはずだ。それにも関わらず、我々はこの映画への興味を失う事なく物語の行き先を凝視し、最後には十分な感動と問題提議を迎え入れる事になる。映画の構成も、人間の誤謬も、司法制度の限界も学ぶ事が出来る、実に見事な傑作だ。

 (ただし、本作の冒頭において、俳優Armin Mueller-Stahlが演じる陪審員4番が堂々と新聞紙を読んでいる光景は軽率な演出だ。アメリカの陪審は評決の公平性を保つ為、陪審中に裁判に関連する外部情報と接触する事を禁じている。例えば、2022年から始まった俳優ジョニー・デップと女優アンバー・バードの名誉棄損裁判では、陪審員SNSの"世論"に大きく影響を受けた可能性があるとして大きな問題となった。陪審が長期間に渡る場合もあるので、現実問題としては陪審員と外部世界を完全に遮断する事は出来ないが、それでも先のような「陪審員室で堂々と新聞を読む」という光景は不適切である。)

 本作の被疑者はスラム街に居住するヒスパニック系の青年。被害者はその父親。私は三元論に基づき、犯罪立証に必要となる根源的な証拠を「実物証拠(物質的な証拠:凶器や痕跡)」「実存証拠(性質的な証拠:知識や感情)」「実質証拠(関係的な証拠:証言や鑑定)」の三要素に集約している。これを踏まえて整理すると、本作の状況は以下の通りとなる。

 

実物証拠:ナイフ(被告人の所持物と考えられるもの、但し指紋なし)

実存証拠:父親からの日常的な暴力に対する憎悪、低い文化水準による倫理性の低下、悪性の交友関係による犯罪性の向上

実質証拠:犯行現場の階下に住む老人の証言(叫び声と逃げる姿)、高架線にいた女性の証言(殺害の光景)

 

 この分析を行う場合、「実存証拠」については強度が高く、それらは犯行を発現に至らしめた段階的な性質の積み重ねとして十分な考慮が可能だ。よって、この点だけ鑑みれば、犯行の蓋然性が強く認められる事になる。しかし、本作で明らかになる通り、「実物証拠」「実質証拠」は全て裏付けが不明瞭な状態となった為、この二つの事項からは犯行の蓋然性が全く認められない事になる。

 ここで、私の三元論における基本的な八類型を列挙すると、以下の通りとなる。

 

  1. 弱い実物証拠・弱い実存証拠・弱い実質証拠
  2. 弱い実物証拠・強い実存証拠・弱い実質証拠
  3. 弱い実物証拠・弱い実存証拠・強い実質証拠
  4. 強い実物証拠・弱い実存証拠・弱い実質証拠
  5. 弱い実物証拠・強い実存証拠・強い実質証拠
  6. 強い実物証拠・強い実存証拠・弱い実質証拠
  7. 強い実物証拠・弱い実存証拠・強い実質証拠
  8. 強い実物証拠・強い実存証拠・強い実質証拠

 

 本作の青年はこの類型の中で「2. 弱い実物証拠・強い実存証拠・弱い実質証拠」に該当する。私は原則的に、本類型において強度が高い事項が2つ以上存在しない限り、犯行の蓋然性は認められない(犯行の有無や真偽はさておき、全ての司法的な裁定を下す事は出来ない)と考えている。したがって、1~4番に属する被疑者は、新たな証拠が見つからない限り、社会制度の中で罪に問うべきではない。(但し、現行犯、十分な裏付けを伴う自白、不特定多数の目撃者、捏造の可能性が一切無い写像資料、不可変的かつ絶対的な証拠が存在する場合はその限りではない。)

 逆に言えば、5~8番に属する嫌疑については犯行の蓋然性を認め、公益性、重大性、危険性などの外部条件を問わず、無条件で刑罰の可能性を十分に検討するべきであると考える。ここでは現行の推定無罪とは逆の原則が働く。警察逮捕後、検察が被疑者に対して5~8番に属すると確定した段階で、被疑者は"推定有罪"となり、被告人となる。被告人本人とその代理人(弁護士・親族・支援団体等)がこの推定有罪の状態を拒否し、証拠に関する審議を求めない場合は、そのまま裁判官によって法律と判例に基づいた既定の刑罰が速やかに下される。

 被告人本人とその代理人が推定有罪への自動移行に対して審議を求める場合は公判手続きへと進み、裁判による証拠の審議を行う。(この被告人本人とその代理人による審議の申請は、現行制度に合わせて3回まで可能とすると良いだろう。)その審議の中で証拠に対する嫌疑が発生し、証拠事項の強度が低下し、被告人が1~4番へ移行した場合は、推定有罪の状態を取り下げる。この時、被告人は被疑者に戻る。

 審議を経て、証拠事項の強度が変わらない場合は、推定有罪の状態は解除に至らない。被告人本人とその代理人は、再び審議を申請する事が出来る(現行制度の控訴に相当)。それらの審議を合計三回経ても、やはり証拠事項の強度が変わらない場合は、裁判官による裁定が下される。

 審議を経て、被告人が1番以外の2~4番に属する事になった場合、その被告人は被疑者に戻り、「現時点では罪には問われないが疑わしき者(犯行の蓋然性は認められないが、社会通念を鑑みた場合においては犯行が疑われる者)」となる。言うなれば、これは「暫定有罪」の状態である。(但し、1番に移行した被告人は完全な無罪であるとされ、以後、同様の事件で裁きを受ける事は無い。)

 その後、1~4番の「暫定有罪」の被疑者に対し、同事件における新たな証拠が見つかった場合は、検察がこれを以て同事件の実物証拠、実存証拠、実質証拠のいずれかの強度の再調整を図る。その結果として再び被疑者が5~8番へ移行した場合、被疑者は自動的に「推定有罪」の状態となって被告人へと戻る。この後は、上述同様の手続きが繰り返される。(尚、審議を経て「推定有罪」から「暫定有罪」へ移行した被疑者は、いったん審議申請の回数上限を回復さえるべきである。すなわち、新たな証拠が見つかって再び推定有罪の状態となった被告人は、そこから新たに3回、証拠の審議を申請する事が出来る。)

 O.J.シンプソン事件のように、現行制度ではどれだけ疑わしい者であっても、一度でも刑事事件で無罪判決が下ればその事件に関する罪を永遠に問えない(一事不再理)。この方法はどう考えても道理が通らない。刑事手続きは一方通行型ではなく、循環型にするべきだと私は考える。

 私が構想するこの論理学的な新たな司法プログラム、暫定有罪と推定有罪に関する刑事手続きは、「悪人を天の網から決して逃さない事」と「善人を天の網から必ず逃す事」の双方に重点を置いている。「疑わしき者(2~8番)の罪を、新証拠の出現に応じて何度でも問う」事を可能とする一方で、「疑いが晴れた者(1番)に対する罪を二度と問わない」事も可能にする。

 我々の国では、現行の一事不再理憲法第39条で明確に定めている。憲法を変える事が出来ない以上、私の上述の論理学は夢物語に過ぎない。しかし、我々の世界では司法制度が形骸化をし始め、公平な正義を果たす機会が失われつつある。いずれは必ず、司法制度のアップグレードが必要になる時が到来するだろう。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

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