天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

八股文はアヘンのようだ

Gran Turismo

私:2023年の映画『Gran Turismo(邦題:グランツーリスモ)』を簡単に紹介してくれる?

 

ChatGPT:2023年の映画『グランツーリスモ』は、ニール・ブロムカンプが監督したアメリカの伝記スポーツドラマで、人気のビデオゲームシリーズ「グランツーリスモ」にインスパイアされています。この映画は、イギリスのティーンエイジャーでゲーマーのジャン・マーデンボローの実話を基にしており、彼がプロのレーシングドライバーになる夢を追いかける過程を描いています。

物語の中心は、日産モータースポーツ部門がグランツーリスモの熟練プレイヤーを本物のレースドライバーに変えるために設立したGTアカデミーです。ゲームで顕著な才能を持つジャンはこのアカデミーに入り、最終的に日産とのプロライセンスと契約を獲得します。映画は、彼がプロレーシングの世界で成功を収める過程と、ル・マン24時間レースなどの重要なレースへの参加、そして重大な事故など様々な挑戦を乗り越える様子を描いています。

グランツーリスモ』は、伝統的なスポーツ映画とは異なり、ゲームから実際のレースへの移行をテーマにしている点が特徴です。熱いレースシーン、サウンドデザイン、映像美で高く評価され、モータースポーツの緊張感とスリルを効果的に捉えています。この映画は、困難に立ち向かい、夢を追い求めるテーマを強調し、スポーツドラマジャンルに新鮮で魅力的な一面を提供しています。

主演のアーチー・マデクウェはジャン・マーデンボローを演じ、デヴィッド・ハーバー、オーランド・ブルーム、ダレン・バーネットなどが共演しています。この映画は、物語性だけでなく、レーシングの世界の描写でも際立っており、モータースポーツ愛好家だけでなく一般の観客にも魅力的な映画体験を提供しています​​​​。

 

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  『第9地区』『チャッピー』『エリジウム』といった荒廃と混沌が入り混じった近未来SF作品を描いて来たニール・ブロムカンプ監督。本作は大いに脚色がなされているものの一応は実話を基盤とした現実的な物語となる。特に現実に近い登場人物はダニー・ムーア。モデルとなった人物は、日産プレイステーションGTアカデミーを創設した英国実業家のダレン・コックス。彼を演じているのは『パイレーツ・オブ・カリビアン』のウィル・ターナー役や『ロード・オブ・ザ・リングス』のレゴラス役で知られる俳優オーランド・ブルームだ。それなりに爽快な作品で、反応的な演出としてはまずまず見応えがある。ただ、人間模様の描き方に関しては凡庸かもしれない。

 この作品の展開において興味深いと感じる命題は「知識と経験の蓄積が崇高な技術を生み出すのかどうか」という点にあると私は感じる。あらゆる人間の文化活動は主に「身体的技術」「概念的知識」「関係的経験」という三要素によって構成されていると私は考える。つまり、体が覚える技術と、頭で覚える知識と、人の中で覚える経験が、その文化活動の品質に直結するのだ。今回の場合、主人公のジャンは「ゲームでしかレースを経験した事のない若者」であり、その彼が本物のレースに参加して勝利を勝ち取る。すなわち、彼は運転に関する知識と経験を延々と積み重ねた後に、突如として身体的な技術としての才能も開花したという事になる。

 他の文化活動に置き換えてみると、「楽譜と教本を一生懸命に研究していた音楽家が実際の楽器を手にしてすぐに最高の演奏家になる」「六法全書判例を丸暗記していた法律家が実際の法廷に立った途端に最強の弁護士になる」といった具合だが、これはやはり一般論として鑑みると不可能であると感じる。知識と経験をどれだけ積み重ねても、それが至高の技術家を生む訳ではない。また技術と経験をどれだけ住み重ねても、それが至高の知識家を生む訳ではない。技術と知識と経験は、全てそれを相関的な積み重ねていかなければ、上質な文化活動者は生まれないと思われる。語学で例えるのなら、教科書で学んだ表現(知識)を実際に発音して(技術)相手がどう反応するか(経験)という繰り返しを行いながら、その活動品質の向上に及ぶのである。どれかが欠ければ、円滑な向上を果たせない。

 この話は教育の本質にも関わっている。日本の義務教育は特に知識と経験に激しく偏り、実用的な技術性を完全に喪失している。九年間もの歳月を経て、日常的な外国語も話せない、確定申告のやり方も分からない、最低限の自炊も出来ない……といった具合に、明らかに生きる為に必要な技術性が欠如している。高等教育以降についても特定の技術力を向上させる手段は限られており、ほとんどの場合は知識と経験に特化した教育が遂行されている。知識と経験だけで高い学歴を得て、資産と人脈を持つ者が国家運営者として君臨した結果、この国では統治者が狂ったような失言と愚行を繰り返すのである。彼らには具体性(技術)というものが無いので、夢の中でしか統治の方法を考えられない。

 中国の明時代においても、教育体制の基軸である「科挙」では多くの形骸化現象が取り沙汰されていた。特に問題視されていたのは、科挙の一部門として重要視されていた「八股文」である。八股文とは、四書五経から出題された章句の意味を八段構成で論じるという試験である。これは徹底した尚古主義で、試験者はとにかく四書五経という知識を頭の中に詰め込む必要がある。しかしその知識はその時代の社会や実際の生活とは明らかに乖離しており、技術の点においても経験の点においても、何の役にも立たない。中国の関連文献を紐解いてみると、「八股の害は、アヘンや足縛りのように、人々に深い害を与える」という記述が見受けられる。

 また、明時代末期の思想家・顧炎武は次のように断じている。

 

"八股文の出題範囲は毎回の科挙で変わるが、五尺の子供でも十篇を暗記してさえいれば名誉を得られるという仕組みになっている。この暗記が出来ない者は、白髪になるまで機会に恵まれない。年配の士人は有用な年月を試験場で無駄にしてしまう。覚えの良い若い者はすぐに成功するが、彼らはその性急な成功によって天下国家の事を軽く見るようになり、国家を良くしよう、国家に尽くそうとは思わなくなる。だからこの科挙制度は、天下の人材を壊し、士が士である事、そして官が官である事、兵が兵である事、将が将である事を拒絶する。結果として国が疲弊し、賊や侵略者に利用され、外敵に打ちのめされるのだ。"

 

 国民に公平に開かれた立身出世の門はあるべきだが、その内容については技術、知識、経験の三要素の均衡を保った、未来に繋がるものにしなければならない。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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