天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 072】侯健 

侯健

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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侯健(こうけん/hóu jiàn)

 

<三元論に基づく個性判定>

39番 **弱い生存欲求**、**強い知的欲求**、**弱い存在欲求** - **「内省的な学究者」** - 自分のペースで研究を行い、他者との関わりを最小限にする。

 

<概要>

侯健(こうけん/hóu jiàn)は物語の中で、前回取り上げた薛永(せつえい/xuē yǒng)以上に登場機会が少ない。ただ、存在感はある。それは彼の技能に関連している。彼は「裁縫職人」なのだ。戦闘時に命よりも重い軍旗(旗帜/qí zhì)を始めとして、梁山泊勢力における服飾関連の仕事を統括していた人物だ。

 

彼のあだ名は「通臂猿(猿臂を持つ者)」。猿のように身を屈める癖があって、黒く痩せて軽快な体つきをしていた事からそう名付けられた。今風に言えば猫背。おそらくこれは布に目を近づける作業を毎日繰り返している裁縫職人の癖である。出身は洪都。徹底的な職人気質ではあったが、北宋王朝の民らしく趣味として武芸に興じるのも好きであり、特に槍や棒を振るう演舞に憧れていた。その折、槍の演舞の大道芸で日銭を稼いでいた薛永(せつえい/xuē yǒng)と出会い、一時的に彼に槍の扱い方を学んでいた事がある。その後、宋江(そうこう/sòng jiāng)の事件に関わる事となり、薛永(せつえい/xuē yǒng)、穆弘(ぼくこう/mù hóng)、穆春(ぼくしゅん/mù chūn)、李俊(りしゅん/lǐ jùn)たちと共に宋江救出作戦を実行。これを機に梁山泊勢力に合流。百八人の英傑たちが集結した大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際は序列第71位に定まり、「一切旗衣服製造管理」に任じられた。招安後、転々とする梁山泊勢力の面々と共に各戦地へと赴き、服飾や軍装備を中心とした活動に従事。しかし、方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦が行われた際、杭州城外において移送船が沈没。泳げない彼は混乱の中で溺死してしまった。この船には他の英傑である段景住(だんけいじゅう/duàn jǐng zhù)も居合わせており、彼もまたここで命を落としている。戦後、朝廷は彼を義節郎の称号に追封した。

 

北宋時代の人々は泳げたか?>

侯健(こうけん/hóu jiàn)と段景住(だんけいじゅう/duàn jǐng zhù)は泳げなかった。だから、悲劇の結末を辿った。梁山泊勢力には李俊(りしゅん/lǐ jùn)や阮三兄弟のように泳ぎの天才と言える英傑もいるが、一般的な生活をしている限りにおいて、北宋時代の人々にとって水泳技術はそれほど身近なものではなかったと思われる。

 

ちなみに、2019年の世界水泳可能者の統計調査においても、中国はアジア参加国の中ではワーストとなる約25%を記録。4人に3人は泳げない。実際、私の周囲にいる上海人も泳ぎが得意でない者が多い。ちょっとしたお笑い話では(当人にとっては最悪の惨事であろうが)、子供も足が付く浅いプールで転んでパニック状態となり溺れかけたという武勇伝を持つ知人もいる。そう言えば、私が上海遊泳館(上海体育館近くの大規模な競泳プール施設)に泳ぎにいった時、地元の学生から「あなたみたいに泳げる人はここで初めて見た」と言われた。その時、彼と一緒にクロールで20往復(500m)ほど泳いだら、その様子を見ていた男性から「君らは水泳の選手なのか」と質問された。もちろんまったくそのような事は無い。中国では足をつけずに長く泳げる人が珍しいようだった。

 

北宋時代も同じような状況であったと思われるが、もちろん職業者によっては水泳技術に精通していた者もいる。その筆頭格はもちろん「漁師」であるが、その他にも競技や演舞としての水泳文化が盛んに行われていたので、その関係者は泳ぎが非常に巧みであったと考えられる。当時の娯楽的な水泳文化としては、水秋千(水上ブランコ)、赛龙舟(ドラゴンボートレース)、弄潮(サーフィン)、水球、水战表演(水上戦闘演技)等が存在した。

 

<裁縫職人と眼精疲労

服飾文化も鮮やかな発展を迎えていた北宋王朝。巷では現代社会同様、日常生活から儀式用に至るまで、様々な衣装の手作業が行われていた。特に「オーダーメイド」に応じられる腕の立つ裁縫職人はとても重宝され、非常に時間を掛けて細かな芸術的装飾を行う事もあった。しかし、当時の明かりは当然ながら電気ではなく蝋燭の灯火。暗がりでは目を布に近づけて延々と針仕事をするので、眼精疲労も大きく視力を低下させる事も多かった。侯健(こうけん/hóu jiàn)の視力については特に言及は無いが、梁山泊での広範な服飾管理は目に負担を掛ける場面も多かったはずだ。

 

裁縫職人にとって目と手は生命線。どちらも細かい縫い目や複雑な模様を正確に作り上げる為に不可能な道具である。その為、職人達は視力を保つ為の様々な工夫を凝らしていた。彼らは視力を保護する治療法として漢方薬や針灸などの伝統的な医療を日常に取り込んでいた。また、目に良いとされる食材や薬草を取り入れた食事も重要とされた。これらの北宋予防医学は現代人が想像する以上に体系化されており、当時の医療水準は非常に高いものであったと言える。(現代の西洋医学ほど局所的かつ瞬時に効果を成すものではないが、正しい方法を取り入れていれば持続的かつ広範囲に健康を増進する効果を得られた。)

 

そこで、あまり大々的なものではないが、侯健(こうけん/hóu jiàn)の存在感を更に増やす事象の改修事項を考察する事が出来ると感じる。例えば、実在の岳飛(がくひ/Yuè Fēi)を原型とした、梁山泊勢力の突出した射手(弓の使い手)の花栄(かえい/huā róng)。彼が岳飛(がくひ/Yuè Fēi)と同じように戦場の砂埃や太陽光を浴びすぎて、一時的に目が霞むようになってしまったとしよう。この時は後に梁山泊勢力に加入する天才医師の安道全(あんどうぜん/ān dào quán)がまだいないと仮定して、宋江たちは何とか花栄のその症状を治そうと必死になった。ここで「裁縫職人なら目の治療法をよく知っているのではないか?」という話になり、侯健(こうけん/hóu jiàn)に白羽の矢が当てられ、眼精疲労によく効く漢方薬や食事法を彼から学ぶ事になった。この時の漢方薬や食事法が「侯健眼精保護術」として梁山泊に根付き、英傑たちの目をしっかりと守る事となった。このような展開は、英傑たちの結びつきや侯健の専門性に説得力を与える、効果的な改修になると思われる。

 

ちょうど侯健(こうけん/hóu jiàn)に「健康」の「健」の文字が入っている事もあって、名前との奇妙な整合性を図る事も出来るだろう。

 

<是敌是友(敵か、友か)>

中国の成語に「斬将奪旗」という表現がある。これは中華世界の歴史上の戦争における戦勝の定義をまとめたもので、その意味は「将軍を斬り、軍旗を奪う」となる。悠久の中華世界を通じて「軍旗」とは「軍」そのものであり、引いては「国」そのもの。その旗を奪ったら、自軍が勝ち、自国が勝つ事を意味し、その逆も然りであった。軍旗を守り抜く事は、仲間と国を守るのと同義であり、それゆえに軍旗を支える兵士たちは命を投げ打って必死に旗を支え続けた。誰かが倒れても、周囲にいる兵士たちがすぐに駆け寄って旗を支えた。

 

その軍旗ほどではないが、軍服も自軍と自国を証明する象徴的な道具だった。当たり前だが、数万規模の組織同士が衝突をする時、そのひとりひとりの顔を知っているはずもない。どれだけ有名な猛将であっても、その顔を見分ける事の出来る人物など数える程しかいない。そうした中では、お互いが帰属する勢力を認識する為には視覚に頼る必要がある。よって、当時の中華世界の武人たちは、主に軍旗と軍服を頼りに「是敌是友(敵か、友か)」を見分けていた。

 

そこでひとつ気になるのが、「同志討ち」の状況である。あまりに激しい混戦となった場合、命を掛けた真剣勝負の場において一瞬の選択が運命を分ける中、軍旗と軍服を瞬時に見分ける事は難しいものであったに違いない。またそれが日中であればまだ識別も付くが、悪天候や夜間戦闘であればもう訳が分からなくなるような気がしてならない。ドラマ、小説、漫画といった物語では常に規律正しく敵味方が分かれているが、現代スポーツのような律儀な衝突が行われていたとは到底思えないのである。「敵だと思っていたら仲間を斬ってしまった」「味方だと思っていた敵から斬られてしまった」という状況は頻繁に発生していたものと思われる。(確か、日本の戦国時代においても「敵と味方を間違えられちゃたまらん」と言って、心配性の武士が数本の旗を自分にくくりつけていたという逸話があった気がする。)

 

だからこそ、一目で敵と味方を区別できる装飾や意匠を工夫する事はとても重要であったと思われる。あまり注目されない分野ではあるが、裁縫職人は兵士の命の一端を預かっていたと考えられるのではないだろうか。それだけに、やはり侯健(こうけん/hóu jiàn)の役回りは大変な意義を有している。「替天行道(たいてんこうどう/tì tiān xíng dào:天の代わりに世を正す)」という志を込めた頑強な軍旗、梁山泊勢力と一目で理解できる丈夫な軍服、これを創り出す事で梁山泊勢力の躍進に大きな貢献を果たしたのだ。

 

さて、その「同志討ち」は「無曲(意図しないもの)」であるが、一方では「有曲(意図するもの)」もある。戦略として軍旗や軍服を偽装して、敵地に味方として潜入し、内部を撹乱させる方法がある。実際、侯健(こうけん/hóu jiàn)は祝家庄(しゅくかそう/zhù jiā zhuāng)との衝突において、この作戦に携わった描写がある。

 

史実では韓信(かんしん/hán xìn:秦王朝末期の劉邦の家臣、梁山泊英傑のひとり「韓滔」の原型ではないかと言われる名将)の逸話として有名な「背水の陣」がこの有曲の同志討ち戦略に類する行為に及んでいる。韓信(かんしん/hán xìn)の部隊は急拵えで規模は三万。これに対する敵の趙軍の規模は十万。この圧倒的に不利な状況において、用兵の天才である韓信(かんしん/hán xìn)は敢えて河を背後とする退路の無い場所に陣を取った。趙軍はこの定石から外れた陣取りを知って、「あまりに不利になって気がおかしくなったのか」と爆笑。これはもうすぐにも勝てると余裕も余裕、趙軍が意気揚々と主力部隊が「背水の陣」に突撃したのだが、その陣形によって命懸けとなっていた韓信(かんしん/hán xìn)の漢軍の兵士たちが信じられない程の猛攻ぶりを示し、結果は趙軍側の大敗北。実はこの時、韓信(かんしん/hán xìn)はこの背水の陣の戦いで勝利する事を予見しており、別の斥候部隊を趙軍の大営に配置して、趙軍の軍旗を漢軍の軍旗に取り替える作戦を講じていた。敗北を喫した趙軍の主力部隊の残党は、急いで大営まで退却して巻き返しを図ろうとしたが、大営の近くまで行くと全ての軍旗が漢軍のものに替わっている事に気がついた。「漢軍に占拠されたのか!我々は負けたのだ!」と勘違いをした趙軍の主力部隊はこれによって四散して逃亡。こうして、韓信(かんしん/hán xìn)は歴史的な大勝利を収めるに至った。

 

このあたりの軍旗に関する史実の戦略とその結果も、いずれかの梁山泊の戦いに反映しても良い気がする。

 

<三元論に基づく特殊技能>

※上述の考察事項を反映する。

 

#### 是敌是友(具術)

**説明**: 侯健は、精緻な裁縫技術と意匠性を通じて、敵と味方を瞬時かつ正確に区別できる軍旗と軍服を作る能力「是敌是友」を持っている。この具術は、彼の卓越した裁縫技術とデザインセンスに基づき、戦場での混乱を防ぎ、軍の効率を高める力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(とても濃い)**: この具術は、裁縫道具と素材に強く依存する。

  - **思考性(中程度)**: 効果的に区別できる軍旗や軍服を作るためには、高い技術とデザインセンスが必要。

  - **関係性(中程度)**: 侯健の具術は、軍の効率と調和を高め、戦場での混乱を防ぐ。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **軍旗と軍服の制作**: 侯健は、精緻な裁縫技術を駆使して、戦場で瞬時に敵と味方を区別できる軍旗や軍服を作り出す。
  2. **戦場の効率向上**: 侯健の軍旗と軍服が、戦場での混乱を防ぎ、軍の効率と調和を高める。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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