天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 075】童猛

 

童猛

※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。

※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。

※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

 

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水滸伝水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。

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童猛(どうもう/tóng měng)

 

<三元論に基づく個性判定>

28番 **強い生存欲求**、**弱い知的欲求**、**とても弱い存在欲求** - **「孤高型の実行者」** - 他者との関わりを避けながら、自分の意思に基づいて行動する。

 

<概要>

童猛(どうもう/tóng měng)は童威(どうい/tóng wēi)の弟。前回までの記事でも触れている通り、二人は双子であるような気配がある。あだ名は「翻江蜃」。もともとは浔陽江で、兄と李俊(りしゅん/lǐ jùn)と共に私塩(朝廷の管理を逃れた闇塩)の事業を展開していた。罪人となった宋江(そうこう/sòng jiāng)がこの地に来た事をきっかけに知己を得て、後に李俊(りしゅん/lǐ jùn)らと共に宋江を冤罪死刑から救う作戦に協力。これを経て梁山泊勢力の一因となり、大聚義(だいしゅうぎ/dà jù yì)の際には序列第69位に定まり、「梁山泊山寨水軍隊長」に任じれられた。招安後、兄と共に李俊(りしゅん/lǐ jùn)の副将な立ち位置で、水軍頭領のひとりとして活躍。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦を生き残り、蘇州まで凱旋。ここで李俊(りしゅん/lǐ jùn)が仮病を使って梁山泊の共同体から離脱。童猛(どうもう/tóng měng)と童威(どうい/tóng wēi)のふたりも彼に従って、船の建造を開始。彼らは新天地を目指して太倉港から船で外国へ出て、最終的には暹羅国(現在のタイ付近)の建国という偉業を成し遂げるに至った。

 

<李俊、童兄弟が出会った経緯に改修の余地あり>

前回の童威(どうい/tóng wēi)の記事でも触れた通り、彼は兄と共に李俊(りしゅん/lǐ jùn)を慕って私塩の事業を展開していた人物だ。では、なぜ私塩を手がける事になったのか。彼らの出会いについては原作では描かれていない。私塩は当時の宋王朝時代における政治の腐敗と深く関わる事もあり、そこに大々的ではないにせよ、若干の事象や関係性の改修の余地があるものと思われる。(※「私塩」に関する内容は前回の童威の記事参照。)改修事項としては「生活物資に関連する税金と腐敗役人の大衝突」の騒動を適用する事が有効かもしれない。

 

そこで私の頭に浮かぶのは、日本の江戸時代に起きた大塩平八郎の乱である。「塩」は当人の名前に偶然入っているのみであり、彼らの騒動の発端は「塩」と同じく生活必需品であった「米」にある。政府による米の管理政策を巡って民の不満が大爆発し、起義軍と幕府軍が激しく武力衝突をする事になった。大塩平八郎陽明学王陽明が改革した儒学)の学者であったので、このあたりの起義の方法は中国の歴史を参考にした部分もあるかもしれない。

 

大塩平八郎の乱

大塩平八郎(1793〜1837年)、字は子起。江戸時代後期の陽明学儒者。後に明治維新を起こす志士たちからも尊敬を集める事になる義侠の人で、「民権の開祖」とも評される。彼は幼少期に両親を失い、祖父に育てられた。幼少期から学問を好み、13歳頃から奉行所での活動を開始。この時分から北宋王朝の范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)のごとき実直かつ清廉な人間で、汚職と不正を次々に弾劾していた。当然、腐敗した同僚たちは彼のような融通の利かない正直者を嫌ったが、上司の東町奉行・高井実徳が彼を重宝したので大きな内紛は起きなかったという。

 

彼は20歳の頃から自らの傲慢さや社会の不道理に疑問を覚え、中国の儒学の研究を開始。その過程で明王朝儒者・呂新吾が著した『呻吟語』と出会い、これを通じて初めて新しい儒学である「陽明学」を把握。この「陽明学」は「知行合一(良識と行動を一致させる事)」を主軸に置いた論理学であり、大塩平八郎はこれを更に自分の中で醸成して「儒学を社会改革に活かす道」を模索し始めた。

 

彼は公務の合間に講学を行うようになり、名声が高まるにつれて弟子が増加。これを受けて32歳の頃、彼は自宅で学塾「洗心洞」を開設し、入学盟誓八条を制定した上で、「空論の排除」と「実事求是(すべての思考を現実的な出来事に基づいて行うと共に、すべての行動を愚弟的な思考に基づいて行う事)」を徹底する教えをおこなった。

 

この時、洗心洞の弟子には武士階級出身者の他に、大阪近郊の農家出身者も多く含まれていた。大塩平八郎は農民に対して自然な情熱を持ち、近郊の農村を頻繁に訪れた。彼は自然災害に直面し、封建的な貢租(税金)に苦しみながらも専心して耕作を続ける農民の姿に心から敬服し、無限の同情を寄せていたという。この大塩の農民に対する愛情は、私の師父であるドストエフスキーを彷彿とさせる。

 

「女織男耕淳朴深,城中妖俗未相侵。若加文教溯三代,不可使知岂聖心。(農民は非常に素朴で、都市の悪風俗に影響されていない。もし彼らに教育を施せば、聖人のような心境になることができるに違いない。)」そのように記した大塩平八郎は、農民への愛情が高まる程、幕府と経済の深刻な問題が気になり始めた。このまま過重な封建的貢租が続けば農民が疲弊し、農田が荒廃してしまう。また、大政商と特権商人が農村経済を商品化して暴利を貪るせいで、農村にある自然経済を破壊する事にも繋がってしまう。よって、彼は貪官汚吏(蓄財や利欲を貪る腐敗役人)と、それに加担している官商(資本家)の批判を展開した。

 

「立身升进丸,大包金百两、中包金五十两、小包金十两」、これも大塩の言葉だ。丸とは薬の事。役人として出世する為には大金が必要なのだという、官場の堕落を風刺した言葉になる。このような考えの下で、彼は上司の高井実徳が辞職した際、自らも官職から離脱。大塩は人道に反して暴利を欲しいままにする豪商を「民贼」「游民」と罵り、また官吏(公務員)を「一丘之貉("同じ穴のむじな"の意:中国『晋書』に由来する利欲に群がる人間たちを示す)と断じた。彼は彼らが農民の苦しみをひとつも理解せずに、「奢侈に専事し、乱舞、茶湯、俳諧、蹴鞠に耽り、住宅を装飾し、奇物珍宝を収集し、妻を飾り、商売をすべて店員に任せている」と言った。

 

こうした中で、甚大な自然災害が相次ぐ。天明の飢饉(1781-1788)に続いて、日本近代史において最大級の大飢饉である「天保の飢饉」が発生。更に天保元年(1830年)7月には京都大地震が発生し、9月には淀川が洪水を起こして氾濫。淀川は翌年、天保二年(1831年)3月にも大水被害が発生。これらが次々に悪循環を引き起こし、天保三年(1832年)には各地で農作物の不作が発生。天保四年(1833年)には全国で大飢饉が発生するようになり、出羽の大洪水、奥羽の水災、関東の暴風雨などの自然災害も続発。これを受けて米価が途方もない規模で高騰した。

 

大塩がいた大阪では前年(1832年)から市内に捨て子が増加し、下層市民の困窮が深刻化。同年8月には兵庫で米店の打ち壊しが発生し、9月には播磨で一万人の農民が救済策を講じない幕府に対して蜂起。この武装蜂起は加東、美嚢、印南、加古、多可(以上播磨)、水上(丹波)の76村に波及。大阪町奉行は直ちに鎮圧に向かったが、町民の幕府に対する根強い政治不信の想いが強く、ただならぬ緊張と不安が町を覆う日々が続いた。

 

この年の7月から、大阪の東西奉行所が協力して困難に対処し、米商の買い占めを禁止。市場を整頓し、酒造を制限し、貧民を調査し、裕福な市民の義捐を奨励するなど、様々な対策が実行された。しかし、天保五年(1834年)には状況が好転しないばかりか、むしろ悪化。市内の蓄糧は日々減少し、米価が上昇し、貨幣が減価し、質屋が倒産し、下層市民は極度の貧困に陥った。米は大阪に運ばれず、その途中の兵庫などで高価で買い取られてしまった。

 

天保七年(1836年)4月以降、再び豪雨による自然被害が続発。5月には淀川が氾濫し、大阪市内の西国橋や他の橋が洪水で流され、摂津、河内、和泉などの堤防が瓦解した。7月から8月には全国的な大水害が発生し、気温も低かった為に当年の不作が確定。これをもってますます米価が暴騰。貧しい人々は米を買う事も出来なくなり、食糧に関連する商売人たちの多くが廃業。彼らの中には仕事が無い為、妻や娘が路上売春をして日銭を稼がなければ生き残れない状態に陥った者も少なくなかった。

 

大塩平八郎は幕府に救済を訴えていたが、的確な回答や政策は得られないまま時間が過ぎた。そこで彼は全ての蔵書を売り払って620両の黄金を得て、一万戸の貧しい人々にこれを分け与えた。それは一戸当たり金一朱(当時の価格で白米二升弱を購入できるお金)であった。貧しい人々は奉行所が何の効果もない支援策を続けている事を恨み、それに対して身を削って自分たちを助けてくれる大塩に深く感謝をした。だが、奉行所は何と「大塩の救済のやり方は幕府の規定に反している」として非難し、違法行為として裁きを下そうとした。この一件は民の義憤を爆発させるには十分な起爆剤だった。

 

天保八年(1837年)、大塩平八郎は起義による奉行所の打倒を決意。町奉行所の与力と洗心洞の学生たちは大塩の指導の下、秘密裏に大砲や弾薬を製造し、起義の準備を進めた。そして大塩は自ら檄文を草し、学生を通じて近郊の農民に配布し、彼らの支持を得ようとした。その檄文の内容は次の通りだ。

 

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大塩平八郎の檄文(決起文)>

四海困窮、天禄永終;小人治国、災害並至;此蓋往聖之深誡于後世人君人臣者也。(天下の人々が困窮し、天からの恩恵が永遠に絶えてしまった。徳のない小人物が国家を治め、災害が次々と発生している。これは古の聖人たちが後世の君主や臣下に向けた深い教訓である。)そしてまた、東照神君徳川家康諡号)はこう言っている。「寛恤鰥寡孤独、是為仁政之本(やもめ、未亡人、孤児、独居老人に対して寛大な心で慈悲深く救済することが、仁政[仁愛に基づく政治]の根本である)」と。しかし、この二百数十年の太平の世において、上に立つ者たちは日に日に驕逸し、穷奢極侈(贅沢の限りを尽く)している。達官要人の間では賄賂が公行され、贈り物が交わされる。道徳や仁義を顧みず、内室の裙帯の縁によって奔走し、重任を担うことになる。これにより、一人一家の私肥を求め、百姓に重金を課している。長年にわたり、百姓は年貢と諸役を支払うのが極めて難しくなり、今やこのような搾取によって民用が枯渇している。このような状況は、幕府から各藩に至るまで風習となり、四海が困窮し、人々が怨嗟している。天皇は足利家以来、隠居のように、久しく賞罰の権限を失っている。下民の怨みは訴えることができず、相次いで乱を成すようになった。民の怨みは天に充満し、毎年地震、火災、山崩れ、水害などが発生し、五穀が実らず、飢餓が続いている。これは皆、天が我々に対して深い誡めを与えているものである。しかし、上に立つ者たちはなお多くが察知せず、小人奸邪の徒が続いて政事を掌り、日々金米を搾取することを考え、天下を悩恨している。我々草野の寒士は、庶民の疾苦を鑑み、悲憤を抑えるも、自らの力で天武を成し、孔孟の徳(中国古代の春秋戦国時代孔子孟子が訴えた美徳=儒学の根本的な精神)を備えることはできない。ただ徒に蛰居するのみである。しかし近年、米価が一再上昇し、大阪府尹および諸官吏は万物一体の仁を顧みず、恣意的に行動し、米粮を江戸に運び、天皇の所在地である京都には与えない。さらに、米五升または一斗を購う者には、貢米を動用したと妄加して逮捕している。昔、葛伯という諸侯が民人の食を奪い、民人の子を殺したことがあったが、今と比べると、天に背くことに少しも変わりはない。今の国内、我々人民は皆徳川家の統治下にあり、本来差別はないはずだが、このように扱われるのは、府尹らの不仁によるものである。さらに、府尹らは繰り返し告諭を発し、大阪城中の遊手好闲の輩に対しては、むしろ優渥に扱う。これは府尹らが進升するために奔走し、道徳仁義を顧みず、このような背理の事が生じたのである。近年、大阪の富商は三都(江戸、大阪、京都)各大名に借款を与え、多額の利息と禄米を得て、その生活はかつてないほど豪奢である。彼らは商人でありながら、大名の門下の司库家臣に進んだ。彼らは田地や新垦土地を有し、豊かに暮らしているが、天災天罰を見ても自らを省みず、平民の乞食には無関心である。彼ら自身は山珍海味を享受し、妻妾に囲まれ、大名家臣を青楼酒肆に誘い、飲宴し、一掷千金している。民生が困難な時期に、彼らは依然として錦衣玉食し、娼妓と遊び、以前と変わらない。この情景は、まさに纣王の長夜の宴と同じである。しかし、当地政務を掌る府尹および諸官吏は、彼らと相互に勾結し、堂島で米価の行情を計議し、下民を顧みない。これらは、禄を盗む贼であり、天道聖心に違反している。我々は草野に蛰居し、汤武の勢もなく、孔孟の德もないが、事ここに至っては、忍無くして、天下の力を己に任せ、滅族の祸患を冒して立ち上がるしかない。今、有志の士を集め、民を害する官吏を誅戮し、長年にわたる大阪の富商も誅戮する。この富商が蓄えた金銀财货および米粮は、すべて百姓に分け与える。凡摄、河、泉、播の各地の无田の人や、有田でありながら父母妻子を养うのに不足する者は、来て領取せよ。これをもって、古賢の橋鹿台の財米を分け与える意を效して、今日の飢饉に苦しむ百姓を救う。四郷から集まる人々の中で才能がある者は、起用され、軍伍に参加し、共に征伐せよ。我々が帥を挙げて罪を問うことは、乱民の騷擾とは異なる。年貢諸役を減軽し、神武天皇の政道を中興させる。民を寛仁力本に扱い、道徳紀綱を重建し、長年来の驕奢淫逸の風を一掃する。四海が天恩に沐し、父母妻子を养い、当前の苦難を救い、来生の安楽世界を今日に見ることができる。尧、舜、天照大神の盛世(中国や日本の神話上の理想社会)は再現が難しいかもしれないが、中興の気象は復することができる。この文は各村に伝達され、多くの百姓が見ることができるよう、熱鬧な村の神殿に張貼されるべきである。また、各村に通知し、大阪に往来する吏役に注意するように言うべきである。もし知悉され、大阪の奸人に報告される時は、即座に斬殺せよ。城中の堂々が起こった時、村人が疑慮を抱き、大阪に来ない者や遅れて来る者は、富豪の金米財物は灰烬となり、取り戻すことはできない。このため、事後に我々を毀物充財の人と見做さないよう、百姓に告げる。各村の地頭村長処には年貢租役の賬冊が置かれている。毀賬の事は多くの顧慮があるが、百姓の窮困を拯救するために、この賬冊はすべて焼毀されるべきである。今日の挙働は、本朝の平将門明智光秀、漢の劉裕朱全忠の謀反叛逆とは異なる。天下国家を窃取する私欲によるものではない。我々の宗旨は、日月星辰が明鑑する。湯、武、漢高祖、明大祖の誠心を効し、民を伐罪するのみである。この挙働に疑念を抱く者は、我々の事業が完成する日を見よ。此文は寺院神社の僧侶などが小百姓に宣読する。村長郷老が現前の禍患を恐れて私自隠匿する時は、即座に罪を処する。天命を奉じ、天罰を行う。摂、河、泉、播の各村の村長、郷老、小百姓等へ。天保八年丁酉月日

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当初、彼らは2月19日の午後4時の起義を計画していたが、その前日に平山助次郎や吉見九部右衛門らが裏切って奉行所に密告し、これを即座に大塩側も察知。奉行所が動く前に起義を前倒しにし、2月19日の午前8時頃、起義軍は家屋の壁を倒して出動。天満各地で大砲や火箭を発射し、手榴弾を投げつけた。こうして天満一帯は即座に火の海となった。

 

起義軍は大塩平八郎など20名の頭領の他に、近郊の農村から来た農民約300名が参加していた。彼らは「救民」の大旗を揭げ、難波橋を過ぎて北船場に進軍し、大商人の住宅や米店を襲擊し、奪った財物を貧しい人々に分け与えた。記録によれば、鴻池屋荘兵衛の家だけで、彼らが暴利を貪って蓄財していた黃金四萬両が奪取されたようだ。

 

幕府軍は狼狽し、近隣の諸藩に救兵を依頼。尼崎、岸和田、郡山などの藩が聞報して直ちに兵を派遣。これによって大塩の起義軍はすぐに鎮圧され、頭領たちは離散。一方、市内の大火は容易に收拾がつかず、火勢は天滿から西風に沿って大川を越え、船場、上町にまで蔓延した。船場と上四方面、東は弓町、西は中橋町、北は大川、南は内本町町まで、夜間まで焼け続けた。これによって民家だけでも3389軒が焼失。焼失した町の総数は112町。これは大坂三鄉620町の約2割に相当した。

 

起義の首謀者たちを幕府は次々と逮捕。大塩平八郎と養子の格之助は姿を消した。1837年3月27日、官方はついに平八郎父子が大坂市内の美吉屋五郎兵衛家の獨立房屋に潜伏している事を突き止め、直ちに西組与力の内山彦次郎が軍隊を率いてその屋を包囲した。大塩親子は観念し、準備していた炸薬(爆弾)で自害した。爆破はこれをもってようやく反乱が終わったと安堵したが、自爆によって明確な遺体が無かった事から「大塩平八郎が生きている」という流言が広がった。

 

家を焼かれて失った大坂市民は、「逆賊」を憎むどころか、「大塩先生」、「平八郎先生」と称え、「大塩不死」の伝説を長らく信じていたという。

 

<完全なトレースではないが、原型としての適用>

米を塩に、李俊(りしゅん/lǐ jùn)を大塩平八郎に、童猛(どうもう/tóng měng)と童威(どうい/tóng wēi)の兄弟を養子の格之助に、それぞれ置き換えながら、その出来事の規模をコンパクトに集約したものを、彼らの出会いの起点として捉えると効果的な展開になるかもしれない。(この出来事の結末は三人が爆死を偽装し、別地域の浔陽江に逃げ延びたという事にすれば、原作の地点にたどり着ける。)

 

<あだ名>

あだ名の「翻江蜃」の「蜃」という字は、一説では「大海の蚌(ハマグリ)」を意味するそうだが、別の説では「龍」を示すのではいかと言われている。兄のあだ名である「出洞蛟」の「蛟」が「龍」であるとされているので、ここに作者の施耐庵(したいあん/shī nài ān)は双子兄弟の共通性を意図したのかもしれない。

 

<三元論に基づく特殊技能>

※童威(どうい/tóng wēi)と同様

 

#### 尽忠報人(心術)

**説明**: 童猛は、自分が尽くすべき存在を的確に見定め、その揺るぎない到達点から自身の使命を適切に逆算できる能力「尽忠報人」を持っている。この心術は、彼の高い洞察力と戦略的な思考に基づき、忠義と使命を全うするための行動を導く力を発揮する。

- **効果**:

  - **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、童猛の精神的な力と洞察力に基づく。

  - **思考性(とても濃い)**: 効果的に使命を全うするためには、高い洞察力と戦略的な思考が必要。

  - **関係性(とても濃い)**: 童猛の心術は、忠義を尽くすべき相手との信頼関係を強化し、その目標に向かって行動を導く。

 

#### 具体的な使用例:

  1. **目標の設定**: 童猛は、自分が忠義を尽くすべき相手を的確に見定め、その目標に向かって逆算し、最適な行動を計画する。
  2. **戦略的な行動**: 童猛は、使命を全うするために必要な行動を計画し、それを効果的に実行する。

 

※画像:DALL-E

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

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