私:2001年製作、スペイン映画の『Intacto(10億分の1の男)』を簡単に紹介してくれる?
ChatGPT:『Intacto(10億分の1の男)』は、2001年に製作されたスペイン映画で、ジャンルとしてはサスペンスやスリラーに分類されます。この映画は、新人監督フアン・カルロス・フレスナディージョによって撮影され、特にその独特なストーリーラインと映像表現で評価されました。
映画の中心となるのは「運」という抽象的な概念です。物語は、特別な「運」を持つ人々と、その「運」を賭けて戦う秘密のギャンブルの世界を描いています。主人公の一人、トマスは、幸運を感じる能力を持ち、彼を中心に物語が展開していきます。彼は、他の「幸運な」人々との出会いを通じて、自身の運命を探求していきます。
映画は、緊張感あふれるストーリー展開と、運命に翻弄される人々の心理を巧みに描いており、観る者を引き込む魅力があります。また、カルロス・フレスナディージョの監督デビュー作としても高く評価されています。
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17世紀初頭に生まれたスペイン最高峰の文学『ドン・キホーテ(El ingenioso hidalgo Don Quixote de la Mancha)』は、騎士道文学に没頭し過ぎて自分が騎士であると信じ込むようになった田舎の老人ドン・キホーテと従士サンチョがスペイン全土を旅する快活かつ深遠な物語だ。その後編第五章に次の文言がある。
"el que no sabe gozar de la ventura cuando le viene, que no se debe quejar si se le pasa"
「せっかく運が向いて来たのに、そいつを迎える事をしねぇって奴は、運がそのまま素通りしたって愚痴はこぼせねぇんだよ。」
このすぐ後で、サンチョは『運がうちの扉を叩いているってのに、戸がを閉め切って入らねぇようにするなんて良くねぇってもんさ。』とも言っている。要するに、運(機会)が自分の元へ歩いて来たのならそれを逃してはならないと言っている訳だ。これは運命に対する能動的な希望、すなわち自らの努力を継続した者のみ機会が訪れる道理を述べているというよりも、特に何もしなくても運命が自分たちに降りかかるので、それが良いものであれば利用するべきだという考えを示している。
ここに運命に対する概念の違いが見受けられる。東洋では克己によって運命を自ら掴む事に主眼が置かれるが、西洋では運命が偶発的に到来する事物であると考える傾向にある。今回のスペイン映画もまさに命題は「受動的な幸運」だ。この物語は運命が「生物のように人から人へと流動する」という前提で進む。ある者から幸運が去れば、その幸運を次の者が手にする事が出来る。少々馬鹿げた設定ではないかと感じつつも、案外「私は確実に、幸運がある人物に舞い込む瞬間を目にした」と語る人は多い。ドイツでルーレットにはまって賭博中毒となった作家ドストエフスキーも「勝ちの流れが来ている」といったような表現で、運命が何らかの形状を持ってその場に存在する概念を示していた。
このような幸運は生き物だという概念について、実は私はあまり否定はしたくない。私は幸運とは微生物(及びそれに関連する内臓や脳)の相互作用がもたらす何らかの事象であると密かに考えている。その幸運の微生物群は直感と呼ばれる現実情報の分析能力を向上させるとか、相手の心理状態を読み取る共感性を向上させるとか、そういった効果があるのである。それが、その人物にとって最適な行動選択に及ぶ事を誘い、結果として「幸運」が訪れる。
この幸運の微生物群の作用は神秘的なものではなく、限りなく単純な目的に基づいている。寄生や共生を行う微生物はほとんど例外なく、自らの生存環境の安定化と種の拡大を図る事に特化して自律的な活動を続ける。母体が「幸運」によって身体的、精神的、経済的な質が向上すれば、それが結果として微生物群の生存状態の質も向上させる事に繋がる。彼らは生きる為に、人間に幸運をもたらすのである。
これは私の考えである。一応言っておくが、何の科学的根拠もない。
※画像:DALL-E
作品紹介