※補足1:画像は中国動画共有プラットフォームで公開されている2010年製作の中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん
陽虎(ようこ/yáng hǔ)と勘違いされ、賊として捕らえられてしまった孔子。顔回(がんかい/yán huí)が何とか牢に入ることが出来たが、斉国の兵士たちはまったく何の弁解も受け付けず、刻一刻と処刑が迫っている。孔子はここで最期の言葉として、顔回(がんかい/yán huí)に次の言葉を口にした。顔回(がんかい/yán huí)は記録用の竹簡を兵士に没収されてしまっていたので、涙しながら孔子の言葉を柱に刻み続けた。
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孔子:未知生 焉知死 知者不惑 仁者不忧 勇者不惧 君子不忧不俱 不怨天 不尤人 君子有三畏 畏天命 畏大人 畏圣人之言 朝闻道 夕死可矣 志于道 据于德 依于仁 游于义 志士仁人 无求生以害仁 有杀身以成仁 为政以德 譬如北辰居其所 而众星拱之
生を知らずして、どうして死を知ることができようか?
知恵ある者は迷わず、仁ある者は憂えず、勇ある者は恐れない。君子(立派な人)は憂いも恐れもせず、天を怨まず、人を責めない。君子には三つの畏れるべきことがある。天命を畏れ、大人(徳高き人)を畏れ、聖人の言葉を畏れる。
朝に道を聞く(悟る)ことができれば、夕べに死んでも構わない。志を道に置き、徳を基盤とし、仁に依り、義を遊ぶ。志士や仁人(徳を備えた人)は、仁を害してまで生を求めず、命を捨ててでも仁を成し遂げる。
政治を徳で行えば、それは北極星のようなものだ。北極星がその位置にあり続けると、多くの星々がそれを仰ぎ見るように、人々はそれに従うだろう。
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この場面では、怒涛のごとく《論語》における有名な孔子の言葉が引用されている。それぞれの言葉と《論語》との関係は、おそらく次の通りだ。
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- 未知生 焉知死(未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん)出典:先進編 第十一
- 知者不惑,仁者不憂,勇者不懼(知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず)出典:子罕編 第九
- 君子不憂不懼(君子は憂えず、懼れず[おそれず])出典:顔淵編 第十二
- 不怨天,不尤人(天を怨まず、人を咎めず)出典:《論語》憲問編 第十四
- 君子有三畏:畏天命,畏大人,畏聖人之言(君子には三つの畏れるべきことがある:天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れる)出典:季氏編 第十六
- 朝聞道,夕死可矣(朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり) 出典:里仁編 第四
- 志於道,據於德,依於仁,游於藝(道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ)出典:述而編 第七
- 志士仁人,無求生以害仁,有殺身以成仁(志士や仁人は、仁を害してまで生を求めず、身を殺して仁を成すことがある)出典:衛霊公編 第十五
- 為政以德,譬如北辰,居其所而眾星共之(徳をもって政を行うのは、北辰のようなもので、その位置に居続け、多くの星がそれを仰ぎ見る)出典:為政編 第二
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※画像:SFアニメシリーズ『攻殻機動隊』の押井守監督による映画『イノセンス』に、「"未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らんや"と孔子さまが言っているぜ」という台詞が登場する。なかなか味わい深い対談がなされる場面だが、厳密に言えばこの引用には誤りがある。最後の「や(也/邪)」が余計なのだ。「や(也/邪)」は反語(~ではないだろうか?)を示す表現。言うなれば、軽い疑問形である。一方、原文は「未知生 焉知死?(未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん)」という重い疑問形である。古語っぽく表現したくて格好つけてしまったか、語感の良さを優先して敢えて台詞を調整したか、誤った書き下し文をそのまま転用してしまったか。監督や作家がどのような状況で「や」を付けてしまったのかは不明だ。
- 未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん「や」:生を知らなければ、死も知らないのではないだろうか?=生きていることを理解できない者は、きっと死についても理解できないだろうね。(軽い疑問、推測)※誤り。
- 未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん:生を知らなければ、死も知らないであろう?=生きていることを理解できない者は、死についても理解できるはずがない。(重い疑問、断定)※こちらが孔子の正しい言葉。
②君子は死しても冠を外さない。
いよいよ処刑人が牢屋に入って来たとき、問答の中で孔子の冠が落ちてしまった。この時、孔子がこう言った。
孔子:君子死而冠不免 把冠给我戴好(君子は死しても冠を外さない。冠を私に正しくかぶせよ!)
処刑人はその孔子を嘲笑って、地に落ちた孔子の冠を何度も土足で踏みつけた。隣にいる顔回(がんかい/yán huí)は涙ながらに抵抗をし続けた。
この「君子死而冠不免(君子は死しても冠を外さない)」という言葉は、孔子ではなく弟子の子路(しろ/zǐ lù)が言ったとされている。中華世界の奔漢(純粋かつ粗暴な男子)の原型と言えるような愛すべき粗暴な男、子路(しろ/zǐ lù)。彼が最期の瞬間に放ったのが、その言葉であった。
《左伝・哀公十五年》にはこうある。後に衛国で役人を務めることになった子路は、際に制圧に挑んだが、乱軍に囲まてしまった。その戦いの中で
紀元前480年、子路は衛国の孔悝(こうかい/kǒng kuī)に仕え、家宰(執事官)として官職に就いていた。衛国の前太子である蒉聩(かいかい/kuì kuì)が反乱を起こして孔悝(こうかい/kǒng kuī)に危険が迫ると、子路は危険を顧みずに急いで現地へ駆けつけた。この戦いは圧倒的に不利であり、彼は敵陣に囲まれてしまった。彼は師弟の子羔から「逃げるべきだ」と言われたが、「君主の恩を受けている以上、主君が難に遭う時に自分だけ逃げるわけにはいかない」と答え、乱軍に立ち向い続けた。
その戦いの中で敵の武器により子路の冠の紐が切断され、冠が地面に落ちた。ここで、子路が「君子死, 而冠不免!(君子死しても冠を免れず!)」と言い、身を屈めて冠を拾って紐を結び直した。しかし、その隙を突かれて、彼は敵に殺されてしまった。孔子はこの知らせを聞くと、ひどく悲しんだという。
③雍渠(ようきょ/yōng qú)たちの突入:孔子助かる
子貢(しこう/zǐ gòng)が賄賂によって説得したお蔭で、衛国の宦官である雍渠(ようきょ/yōng qú)が動いた。そして処刑寸前のところで、雍渠(ようきょ/yōng qú)により誤解が解けた。牢に突入した子路(しろ/zǐ lù)が無礼で冷酷な処刑人を誅そうとしたが、孔子がそれを制した。
こうして孔子は危機から脱することができたが、ひとつ雍渠(ようきょ/yōng qú)には借りが出来たということになる。雍渠(ようきょ/yōng qú)はその借りを返して欲しいと、子貢(しこう/zǐ gòng)と事前に合意した交換条件を孔子に提示した。それが、雍渠(ようきょ/yōng qú)が後援している南子(なんず/nán zǐ:霊公)のもとに、孔子から挨拶に行って欲しいというものであった。
先の牢の場面で、子路(しろ/zǐ lù)が処刑人に対して「跪下(グイシャー/guì xià)!」と怒鳴り上げている。字面の通り、「跪く(ひざまずく)」という意味であるが、これには文脈によって幾つかの意味がある。
- 命令口調で使う場合
- 「跪下!」(ひざまずけ!)
→ 権威を持った者が、部下や罪人などに命じる際によく使われる。
- 祈りや儀式の場合
- 「他跪下祈祷。」(彼はひざまずいて祈った。)
→ 宗教的な場面や神への祈りで用いられる。
- 謝罪や懇願の場合
- 「她跪下向父母道歉。」(彼女は両親に謝罪するためにひざまずいた。)
→ 深い謝罪や懇願の際の行為として表現される。
④子路:南子(なんず/nán zǐ)にへつらうことは正しい道か?
こうしていったん落ち着きを取り戻した孔子たちであったが、再び衛国に戻って南子(なんず/nán zǐ)のもとに馳せ参じることが正しいのかどうかについて、弟子たちの間で意見が割れた。南子(なんず/nán zǐ)は衛国の霊公を骨抜きにしている毒婦であるという評価が立っている。その人物にへつらうことは、孔子の仁や義、礼や忠の信念とは完全に相反しているのだ。
特に、この南子(なんず/nán zǐ)の謁見に反対していたのは子路(しろ/zǐ lù)であったようだ。《孔子家世》には次のようにある。
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《史記·孔子世家》
灵公夫人有南子者,使人谓孔子曰:“四方之君子不辱欲与寡君为兄弟者,必见寡小君。寡小君愿见。”孔子辞谢,不得已而见之。夫人在絺帷中。孔子入门,北面稽首。夫人自帷中再拜,环佩玉声璆然。孔子曰:“吾乡为弗见,见之礼答焉。”子路不说。孔子矢之曰:“予所不者,天厌之!天厌之!”
衛霊公の夫人には「南子」という女性がいた。彼女は使者を孔子のもとに送り、こう伝えさせた。「四方の君子(高潔な人々)の中で、我が君(衛霊公)と兄弟の契りを結びたいと思う者は、必ずこの私(南子)に会うことになります。私はお目にかかりたいと思っております。」
孔子はこれを断ろうとしたが、やむを得ず彼女に会うこととなった。
南子夫人は絹の帷(とばり)の中に身を隠していた。孔子が門を入ると、北に向かってお辞儀をし、頭を下げた。夫人は帷の中から二度お辞儀をし、その際に身につけた環玉の音が涼やかに響いた。
孔子はこう言った。「私の故郷では、(こうした場面で)会わないのが礼に適うと思われているが、今は会ったので礼を尽くすまでだ。」
子路はこれを快く思わなかった。孔子は誓いを立ててこう言った。
「もし私が不適切なことをしたのならば、天が私を罰するだろう!そう、天が私を罰するだろう!」
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⑤用行舍藏(ヨンシンシェーツァン/yòng xíng shě cáng)
弟子たちの南子(なんず/nán zǐ)を巡る議論の中に、顔回(がんかい/yán huí)が「先生は用行舍藏(ヨンシンシェーツァン/yòng xíng shě cáng)とも言っているではありませんか」という言葉が挟まれた。この言葉の《論語》の原文は次の通りだ。
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《論語》述而編
用之则行,舍之则藏,唯我与尔有是夫。
用いられるときには進んで仕え、用いられないときには静かに身を引く。このような生き方ができるのは、ただ私とお前(顔回)だけだ。
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つまり、顔回(がんかい/yán huí)がこの場面で言いたいのは、「南子(なんず/nán zǐ)が先生の才能を求めているのだから、進んで仕えるべきだという考えもありますよ」ということだ。この「用行舍藏」は成語となり、以後の時代でも様々な場面に登場する。たとえば、北宋王朝の蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)による《贺欧阳少师致仕启》にはこうある。
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《贺欧阳少师致仕启》
是以用舍行藏, 仲尼 独许於 颜子。
だからこそ、「用いられれば仕え、捨てられれば身を隠す」という態度において、孔子(仲尼)はただ顔回(颜子)だけを認めたというわけだ。
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⑥公叔戌(こうじゃくい/gōng shū xū)
結局、孔子一行は意を決して衛国に戻り、南子(なんず/nán zǐ)のもとに挨拶へ向かおうとした。しかし、その道中の蒲邑(しょうゆう/pú yì)で再び大きな問題が生じた。
衛国のひとつの軍事拠点である蒲邑(しょうゆう/pú yì)は大夫の公叔戌(こうじゃくい/gōng shū xū)が治めていた。彼は南子(なんず/nán zǐ)による政局の腐敗に憤って霊公に諌言し、そのせいで僻地へ左遷させられてしまった人物だ。彼は軍事クーデターを実行段階に移して、蒲邑(しょうゆう/pú yì)を封鎖した。ちょうどこの時機に孔子一行が入ったため、孔子たちが外に出ることが出来なくなってしまったのである。
《左伝・魯定公十三年》の記述によれば、孔子が衛国に到着した翌年(紀元前496年)、衛国の大夫である公叔戌(こうじゃくい/gōng shū xū)が匡城で武装暴動を起こし、衛霊公に反旗を翻したとある。本ドラマでは善良そうな人柄として描かれている公叔戌(こうじゃくい/gōng shū xū)だが、体制側が製作したせいか、彼は逆賊としての色彩が強い。
公叔戌の財産が増えるにつれ、それが衛国公室の利益を侵害するようになったため、霊公は公叔戌を憎むようになった。一方、公叔戌も霊公の耄碌と夫人の南子の政治介入に激しい怒りを覚え、南子の支持者を徹底的に排除しようと企てた。これを受けて、南子は霊公に「公叔戌が反乱を計画している」と示唆。霊公はその南子の言葉をそのまま信じ、公叔戌と支持者を追放した。こうして公叔戌は自らの封邑である匡城の蒲郷(ほきょう)に戻り、兵を集めて反乱を起こしたが、失敗に終わった。その後、彼は魯国に逃亡したとある。
※今回の題材としたのは、中国ドラマ『恕の人 -孔子伝-(原題:孔子)』の第十八集。YouTubeの参考リンクは次の通り。
作品紹介