※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用
※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。
①夏竦(かしょう/xià sǒng)の結末
前回の騒動の続きで、本ドラマにおいて何かと政争の中心にあり続けた夏竦(かしょう/xià sǒng)の結末が描かれる。重臣たちから度重なる非難を受け続けた夏竦(かしょう/xià sǒng)であったが、仁宗は彼の辺境統治や古文研究の姿勢を高く評価していた。宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が彼にその言葉を伝えると、夏竦(かしょう/xià sǒng)は涙を拭いて「これまでの御恩に対する僅かな報いにもなりませんが、これを後学にお役立て下さい」として、自身の古文研究書《古文四声韵》を手渡した。
夏竦(かしょう/xià sǒng)はこの後まもなくして、皇祐三年(1051年)に病気により薨去(こうきょ/hōng qù:皇族・貴族・高官など、身分の高い者が他界すること)した。享年六十六歳。葬儀の後、彼は太師中書令兼尚書令の位を追贈され、諡号として「文庄」が与えられた。
夏竦の死後、当時の宰相であった宋庠(そうしょう/sòng xiáng)が哀悼の意を込めて二首の《宣徽太尉鄭公挽詞》を書いている。この挽詞(ばんし/wǎn cí:亡くなった人を悼むために作られた詩や文章)の中で、宋庠は夏竦の学問の深さや功績について非常に高く評価し、彼の死を深く悲しんだ。また挽詞には、夏竦が国を治め民を救う才能を持ちながらも、それが十分に発揮できない環境であったことを悔やむ想いも込められた。
②篆書(てんしょ/zhuàn shū)
※画像:百度百科「篆書(汉字古代书体之一)」より引用。
中華世界では尚古主義(しょうこしゅぎ:古いものを尊ぼうとする規範意識)が往々にして強い。春秋時代の孔子は古代の周王朝時代の礼学を尊んだし、北宋王朝時代の夏竦(かしょう/xià sǒng)は秦以前の春秋時代の事物や学術を尊んだ。目の前に移っている社会が混沌としていると、論理学者は自然と過去にあった最高峰の論理の輝きを再発掘し、それをアップデートする事によって現代の乱れや歪みを解消したいと希求するのかもしれない。私もそんな感じ。
夏竦(かしょう/xià sǒng)の《古文四声韵》は全五巻の構成で、その題名の通り「古文=先秦時代の古代漢字」を研究した内容だ。これは完全に夏竦(かしょう/xià sǒng)のオリジナル研究という訳ではなく、その先行研究として宋の郭忠恕が編纂した古文研究書の《汗簡》を基に作られている。この「古代漢字」というのが、上の画像にあるような篆書(てんしょ/zhuàn shū)だ。日本では、この字体は今でも類似する系譜のものを印鑑の字体(いわゆる「印相体」)でお見受けする機会がある。
篆書(てんしょ/zhuàn shū)にはいくつかの種類があり、北宋王朝時代ですら専門的な学びや手引き書などがなければ「これ何て読むの?意味分からん」の状態であった。1000年以上も前に使われていた字なのでそれも当然である。逆に、あれだけ大規模な戦乱を踏み越えながら篆書(てんしょ/zhuàn shū)を読み解く方法を1000年以上もしっかり継承したというのが凄まじい。中華世界の論理学能力の高さと社会体制の強さを伺える。
篆書(てんしょ/zhuàn shū)は大きく分ければ、2つの種類が存在する。それは次の通りだ。
- 大篆(だいてん)
- 起源: 周代(紀元前11世紀~紀元前256年)に使われた古文字で、金文(青銅器に刻まれた文字)がさらに整った形になったもの。
- 特徴:
- 線が太く、曲線的で力強い。
- 文字の形が比較的自由で、異体字が多い。
- 代表例として、周朝の石鼓文などが挙げられる。
- 小篆(しょうてん)
- 起源: 秦の始皇帝(紀元前221年~紀元前206年)の時代に、書体を統一するために制定された。
- 特徴:
- 大篆よりも整然とした形で、筆画が均一で美しい。
- 線が滑らかで、曲線が多く、規則的な楕円形や円形を基調としている。
- 代表例として、秦代の李斯による『泰山刻石』や『峄山刻石』などがある。
<篆書の役割と意義>
- 篆書は、古代中国の公式な書体として使用され、特に印章(ハンコ)や碑文などの公式な場面で用いられた。
- 秦代の小篆は、その後の漢字の発展に大きな影響を与えた。隷書や楷書といった後代の書体は、この小篆が変化・簡略化されたものだ。
③定州紅瓷(ていしゅうこうじ/dìng zhōu hóng cí)
後宮における張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)と徽柔(きじゅう/huī róu)の関係が悪化し続けている。浪費も規則破りも何のその、やりたい放題の自分勝手な妃の張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)は仁宗の寵愛により許され続けていたが、仁宗の娘、徽柔(きじゅう/huī róu)から見ればその愛し方はとても理不尽に感じられた。愛情のもつれが起きた場合、人は自分が愛する者か、あるいは愛する者が愛している別の者か、そのどちらかを深く憎む傾向がある。徽柔(きじゅう/huī róu)の場合は、愛する者が愛している人、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)に憎しみの矢が向けられた。
徽柔(きじゅう/huī róu)はある情報を掴んだ。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)が禁じられている非常に希少な工芸品、定州の「紅瓷花瓶(こうじかびん)」を取り寄せたというのである。ただ、徽柔(きじゅう/huī róu)はそのまま父親や母親(苗心禾)に訴えても効果がないと考え、この事実を周知させるために「自分の生け花を披露したい」と大々的な会をもうけた。何も知らない仁宗たちは、徽柔(きじゅう/huī róu)の活けた花の花瓶の色が悪く、所々欠けている点を指摘した。これを受けて、徽柔(きじゅう/huī róu)は「だって、私の所には翔鸞閣(しょうらんかく/xiáng luán gé:張妼晗の住まい)にあるような紅瓷花瓶がありませんから、この質の悪い花瓶を使うしかないんです」と言った。仁宗は愕然とした表情で、「紅瓷花瓶が?翔鸞閣にあるのか?」と言い、険しい顔をして儀鳳閣(ぎおうかく/yí fèng gé)を出て行った。
この定州紅瓷(ていしゅうこうじ/dìng zhōu hóng cí)は中国の陶磁器の中で特に有名な歴史的工芸品のひとつであり、主に中国河北省の定州(現在の河北省保定市定州市)で制作された。定州は北宋王朝時代から元王朝時代にかけて、陶磁器の製造が盛んな地域として知られていた。
この陶磁器は紅釉(銅を主成分とする発色剤)を用いることで深く鮮やかな赤を発色させる。紅釉(釉薬)の滑らかで光沢のある質感が特徴的。焼成過程で温度や酸化・還元の調整が難しいため、製品の完成度に高い技術が必要となり、当時としても非常に貴重な高級品であった。
倹約を尊ぶ仁宗はこの定州紅瓷(ていしゅうこうじ/dìng zhōu hóng cí)を宮中に持ち込むことを禁じており、しかも宮中では「重臣と後宮の妃が直接人脈を作ること」も厳格に禁じられていた。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)はこの品を敢えて王拱辰(おうきょうしん/wáng gǒng chén)の妻からもらい受けた。彼女は賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán)を自害に追いやった張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)を無罪とした仁宗を許せず、敢えて彼に嫌がらせをしたのである。何という毒婦。
※この後、挑発的な態度を取り続ける張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)に対して、遂に仁宗が激怒。彼は定州紅瓷(ていしゅうこうじ/dìng zhōu hóng cí)をぶん投げて破壊し、他の女官にも響き渡る怒号で「この后宮娘子と大臣たちが直接交流する事は金輪際許さん!」と言い放った。后宮娘子とは、後宮の娘子(ニャンズ/niáng zǐ)、すなわち張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)のこと。この時の仁宗にとってみれば、もはや彼女の名前すら呼ぶのも腹立たしいのだ。心理的な距離感と仁宗の激情を感じさせてくれる細やかな台詞である。
④耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)来たる
※画像:百度百科「北宋(中国历史朝代)」より引用。
北宋王朝の仁宗の治世において武力衝突が続いたのは西方の西夏。一方、この時代では穏やかな関係にあったものの、これまでに何度も武力衝突を起こした北方民族の王朝として遼国(りょうこく/liáo guó)がある。北宋王朝末期を舞台とした『水滸伝』の敵国としても登場する、契丹の民族の系譜を辿る軍事大国だ。厳密に言えば「遼王朝」で、建国は907年、滅亡は1125年。北宋王朝は960年から1127年までの国家となるので、かなり近い時代に隣人であり続けた存在である。
ドラマ内では創作展開として、この時期に遼国(りょうこく/liáo guó)の耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)がお忍びで開封の街に入ったことが明らかになる。その耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)たちの意図が分からずに協議が行われるが、敵意はなさそうだとして正式に迎え入れる措置が取られることになった。上の場面では、左遷先から都に呼び戻された欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)が耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)を出迎えている。
手前の欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)が北宋式の酒令(宴会の席の遊戯)について説明をして、それを仁宗が久しぶりに朗らかな顔をして眺めている。左側手前にいるのは崔白(さいはく/cuī bái)で、その隣が蔡襄(さいじょう/cài xiāng)、右側にいるのが遼国(りょうこく/liáo guó)の皇子、耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)だ。耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)は純粋に北宋の文化を学びたくて、このように国を訪ねて来たという。
「耶律(やりつ / Yēlǜ)」という苗字は、中国北方の異民族である契丹(きったん/Khitan)族の特有の姓だ。特に遼国(りょうこく/liáo guó)の皇族や貴族に多く見受けられた。他にも、契丹族の貴族の姓としては蕭(しょう / Xiāo)が有名。このように姓から民族性をある程度判断できる事例としては、女真族(後の金王朝、清王朝を建国する北方民族)の「完顔(わんがん / Wányán)」や「宗翰(そうかん / Zōnghàn)」、モンゴル族(後の元王朝を建国する北方人族)の「ボルジギン(Börtegin)」などがある。
⑤感佩万分(ガンペイワーフェン/gǎn pèi wà fēn)
※画像:大手SNSサービス「Wechat(微信)」のステッカー例。見ての通り、頭を丁重に下げて深く感謝する様子が見て取れる。「感佩万分(ガンペイワーフェン/gǎn pèi wà fēn)」は古語的・文語的な表現で、同じ意図を持つ現代的な表現としては「万分感謝」となる。
感佩万分(ガンペイワーフェン/gǎn pèi wà fēn)は、非常に深く感謝し、心から敬服することを意味する。「感佩」は感動して敬意を抱くことを指し、「万分」はその程度が極めて高いことを表す。
<構成と意味>
- 感佩(gǎn pèi):
- 感: 感じる、感動する。
- 佩: 敬服する、心から尊敬する。
- 合わせて「感動して心から尊敬する」という意味。
- 万分(wàn fēn):
- 数字の「万」を使って程度が非常に大きいことを強調。
- 「非常に」「心から」といったニュアンスを加える。
- 日本語での解釈
- 「心から感謝し敬服する」
- 「感激の念に堪えない」
- 「深く感動し敬意を表する」
⑥補足:耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)は仁宗を敬慕していた
耶律洪基(やりつ こうき / Yēlǜ Hóngjī:1032年9月14日 - 1101年2月12日)は後に遼王朝の第8代皇帝になる人物。皇帝の名は道宗(どうそう/dào zōng)だ。仁宗が苦慮していた北宋の社会情勢とよく似ていて、耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)が統治をしていた時期の遼国(りょうこく/liáo guó)は文化・経済の面では大発展が見られたものの、内政には権力闘争による数多くの混沌が見受けられた。
彼の皇帝としての評価は功罪共に大きなものがある。功績としては、多民族国家である遼王朝の中で、異民族間の文化的認識を深めたこと。漢民族と契丹民族の融和についても積極的な取り組みを続け、多文化世界を構築した。また、軍事的安定を図り、王朝内外の脅威に対応した点でも評価が高い。
その一方、彼は奸臣の耶律乙辛を信じ切って政治を混沌に貶めたこともある。この耶律乙辛の讒言(他者を貶める虚偽の報告)によって皇后の蕭氏と皇太の子耶律濬が殺害されており、その後もしばらく耶律乙辛の専横が続いてしまった。加えて、耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)は過剰に仏教を信仰するようになり、仏教の保護と推進による過剰な支出が発生。これによって国庫が圧迫され、その後の遼の国力衰退を招く要因のひとつとなった。
その失策の方を見ると素直に拍手を送れないが、先述の通り仁宗同様に気難しい政局の中で彼もまた調整に途方もない苦労と孤独を覚えていた人物に違いない。先ほどの交流はドラマの創作であるが、史実として、は耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)は仁宗を深く敬意していたことが分かっている。彼もまた仁宗同様に「仁柔で刑罰を好まない人物」と評されており、その政治や 美徳の在り方に親近感を覚えていたのだろう。
清寧2年(1057年)、彼が北宋王朝に仁宗の肖像を贈呈して欲しいと願い出たことがあった。朝廷ではそれを呪術に用いるのではないかと疑う官僚もいた。しかし、仁宗は耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)を信じ、「虜(契丹)が我を敬う気持ちだろう」と理解して肖像画を贈った。肖像画を受け取った耶律洪基は大いに喜んで再拝しながら、「圣主也。我若生中国,不过与之执鞭捧盖,为一都虞候耳!(彼こそ真の聖主だ。もし自分が中国に生まれていれば、ただの下級官吏に過ぎなかっただろう!)」と語ったという。
もっとも、この美談は誇張か捏造だろうと疑ったのが、清王朝(女真族)の乾隆帝だ。「契丹の政治や軍事が、宋王朝に劣っていたとは考えにくい。契丹主(耶律洪基)がそこまで下手に出るのはおかしい」と批判をしている。乾隆帝は漢民族ではなく契丹の血統に近い北方民族なので、歴史を見る角度が違うのである。
ちなみに、ついでながら歴史の"バタフライエフェクト"に関する補足をすると、耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)は自国の遼国(りょうこく/liáo guó)と北宋王朝を滅ぼす決定的なひとつの要因を意図せず作り出してしまった人物であると言える。
寿昌年間(11世紀後半)、女真族の完顔阿骨打(わんやんあぐだ/wán yán ā gǔ dǎ)が使者として遼国(りょうこく/liáo guó)を訪れた際、双陸(すごろく)の遊戯中に遼の貴族が不正を行った。これに阿骨打が激怒して小刀を抜いて抗議し、一触即発の事態に発展したが、同行者が止めたことで大事には至らなかった。この事件はすぐに耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)に報告され、臣下は「阿骨打を処刑するべきです」と強く進言をした。しかし、耶律洪基(やりつこうき/yé lǜ hóng jī)は先述の通り仁宗に似た調整的な性格の持ち主であったので、「遠方の使者には信義を示すことが重要だ」と言って無罪放免とした。
この事件からしばらくして、阿骨打は遼国(りょうこく/liáo guó)と宋王朝に敵対的な金国を建国した。金国は一気に勢力を高め、1125年に遼国(りょうこく/liáo guó)を、1127年に北宋を滅ぼすことになった。
この出来事は「放虎帰山(虎を野に放つ:危険な者を逃して後顧の憂いを招く)」という成語の分かりやすい歴史的事象として知られている。
※今回の題材としたのは、中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第五十三集、第五十四集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。
作品紹介