天朗気清、画戲鑑賞

三元論を基軸とした論理学探求の旅路へ

余談:『水滸伝』舞台の宋王朝の朝廷言葉など37:『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』

※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

 

①県丞(けんじょう/xiàn chéng)

 

今回のドラマ回は何かと細かな当時の役職名が話題に上る。ここは皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)と董秋和(とうしゅうわ/dǒng qiū hé)が話し合う場面。かつて曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)に長年仕えていた侍女の繯児(かんじ/huán ér)が、後宮を去ってから八年間が経過。今では善良で立派な夫と子供を得て、幸せに暮らしているという。

 

その夫は挙人(進士の手前の肩書、科挙合格者:現代で言うと大学院卒業に相当)であり、昨年杭州の县丞(けんじょう/xiàn chéng:日本漢字で「県丞」)に出世したらしい。この宋代の「県丞」は地方行政における中級官職の一つで、具体的には地方の「县」の長官である「県令」や「知県」を補佐する役割を担った。現代で言えば、「県令」は市町村トップの「市長」、「知県」は都道府県トップの「知事」に相当し、その副官である「県丞」は「副市長」「副知事」のような立ち位置となる。

 

「県丞」は現代の「副市長」「副知事」と同じように、具体的な行政実務を担う存在。「行政事務全般の補助」「財政管理や租税徴収の監督」「治安維持や司法業務の補佐」「長官不在時の業務代行」といった役割があった。科挙に合格した下級官吏や地方有力者から選任されることが多く、登用は「中央官庁(朝廷)」による直接任命または地方長官の推薦による任命が一般的であった。

 

※こちらは北宋王朝時代を舞台とした『水滸伝』の2011年中国ドラマ版(第二十二集)に登場した鄆城県知県の時文彬(じぶんしん/shí wén bīn)。宋江(そうこう/sòng jiāng)が不幸にも閻婆惜(えんばしゃく/yán pó xī)を殺害してしまった後、その裁きを担当した。

 

②宋代の婚姻はほぼ全て「アレンジ婚」

 

曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が話の続きで、文化人の崔白(さいはく/cuī bái)が、侍女の董秋和(とうしゅうわ/dǒng qiū hé)に長年変わらず想いを寄せていることを伝えた。崔白(さいはく/cuī bái)は書画の中で董秋和(とうしゅうわ/dǒng qiū hé)を想起する鴈(がん)を描いて、その想いを密かに伝え続けていた。

 

曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は先の繯児(かんじ/huán ér)と同じように、董秋和(とうしゅうわ/dǒng qiū hé)にも後宮から出て、崔白(さいはく/cuī bái)と共に生涯を歩んだ方が良いと語った。「一起云游天下(あなたたちは一緒に天下を旅するべき)」と、彼女は優しく言った。後宮にいる限りは恋愛沙汰は禁忌なので、曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)としては董秋和(とうしゅうわ/dǒng qiū hé)に人と同じような市井の幸せを得てもらいたいと願っていた。

 

当ドラマではこのように、展開の都合により社会的な一定の肩書がある者同士の恋愛と婚姻の話がよく登場する。しかし、これはあくまでも創作の範疇であって、実際の文献を追う限りでは「恋愛結婚」は非常に少数であったと考えられる。社会的な地位のある者は、両親らの決定に従う「アレンジ婚(お見合い結婚)」が主流であった。

 

宋代の婚姻制度は『宋刑統(太宗時代に策定された法律)』の影響を強く受けていたとされる。結婚は親が主導する必要があり、子供が成人していても結婚の自主権は親の手にあった。もし子供が結婚について親の命令に従わなかった場合、杖刑に処されることすらあった。また、結婚の成立には媒人(仲人)の紹介が必要であり、婚書(結婚契約書)と婚資(結納金)が要件とされた。また、これは法律に沿ったものではないが、結婚の相談段階で「相媳妇(嫁選び)」や「通资财(財産の確認)」といった風習が広がっていた。

 

いざ親たちの話し合いがまとまって結婚となると、男性側の家庭が結納金を用意し、女性側が嫁入り道具を準備するのが一般的であった。その結婚式の主要な6つの手順は以下の通りである。

 

- 納采(結婚の申し入れ)

- 问名(相手の名前を尋ねる)

- 纳吉(吉兆を確認する)

- 纳征(結納金を納める)

- 请期(結婚の日取りを決める)

- 亲迎(花嫁を迎える)

 

また、宋王朝時代の官僚(科挙合格者)の場合は、「榜下捉婿」という現象もよく見受けられた。これは科挙放榜の後に(科挙の合格発表の後に)婿を選ぶというもので、富商や士人たちが新進の進士(合格者)を娘の婿にしようと競い合う風習だった。本ドラマでも、この話が欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)と王拱辰(おうきょうしん/wáng gǒng chén)の不和に繋がる要素として描かれている。

 

王拱辰(おうきょうしん/wáng gǒng chén)が19歳という異例のスピードで進士の状元(最終科挙合格者のトップ)に躍り出た際、重臣の薛奎(せつえい/xuē kuí)がすぐに自分の長女を彼と結婚させた。しかし、その長女は早くして病死。すると、薛奎(せつえい/xuē kuí)は速やかに次女と彼を再婚させた。この節操のなさを欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)がかつて茶化したことがあることから、二人の関係に大きな亀裂が入ってしまった、という訳である。(なお、こちらも創作の展開だ。)

 

ついでに言うと、宋王朝時代は男性の再婚や女性の再嫁がかなり柔らかに許容されていた。離婚の形式としては、「法定弃妻(法的な妻の離縁)」「官府断离(官府による離婚の裁定)」「协议离婚(双方の合意による離婚)」などがあった。法律は依然として男性を保護する姿勢が強かったが、それでも女性に対する制約は比較的緩やかで、夫が行方不明になったり、離縁された場合には、すべからく再婚が認められていた。

 

よって、宋王朝時代は親の決定権が強い「アレンジ婚」の不自由さがあるにせよ、その後の夫婦の在り方は「何があろうと一度婚姻したら離婚をしてはならない」といった具合のカトリック教圏のような厳格さはなく、むしろ「何かあったらやり直すべし」として、その自由度が高かったと言える。実際、仁宗ですら皇后と離婚(廃号)しているのだから、そのあたりの婚姻に関する自由度が伺える所だ。

 

③知貢挙(ちこうきょ/zhī gòng jǔ)

 

王拱辰(おうきょうしん/wáng gǒng chén)の妻(先ほどの薛奎の次女)が、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)に欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)に対する不満を訴えている場面。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)も、自分の腹心の侍女である賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán)の件(彼女の愛人である夏竦が貶められた件)を通じて欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)に恨みを持っており、深く話に同調した。

 

そして、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)は「あの欧陽修は二度、科挙の最終試験に落第していながら、晏殊が知貢挙になった途端に通過して要職に登用された。きっと、あれは癒着があるんだ」と、何の根拠もないいい加減な噂話を口にした。

 

ここに、再び役職の話が登場。本ドラマで強い存在感を示している晏殊(あんしゅ/yàn shū)が「知貢挙(ちこうきょ/zhī gòng jǔ)」になったとある。これは仁宗による科挙試験の改革に伴う人事異動。これまで美辞麗句(詩の才能)を尊んでいた科挙の最終試験を、具体的な政策に対する論理能力を問う方向性へシフトするために、仁宗は晏殊(あんしゅ/yàn shū)にその役職に就けた。

 

知貢挙(ちこうきょ/zhī gòng jǔ)とは、「特命により進士試験(科挙最終試験)を主管する者」である。一般的には、朝廷で名望のある大臣がこの職務を担当した。清王朝時代のの学者である趙翼の『陔馀丛考・礼部知贡举』によると、唐の初期には「明経進士」の試験は考功員外郎(当時の下級官職)が担当していたが、不正の横行により受験生からの多くの批判が寄せられたらしい。そこで開元24年(736年)、この進士試験は礼部の侍郎がこれを主管するようになった。この時の名称が「礼部知貢挙」で、宋王朝時代の知貢挙(ちこうきょ/zhī gòng jǔ)の原型となった。

 

④《望江南》:欧陽修の詩がゴシップの種に

 

仁宗の慶暦の親政(国内構造の大改革)が始まって以来、欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)や范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)に貶められた夏竦(かしょう/xià sǒng)が、憎しみのあまりに裏で暗躍。欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)のゴシップを静かに広げる種を密かに蒔いたのも彼である。

 

この場面では、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)と王拱辰(おうきょうしん/wáng gǒng chén)の妻が、欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)が若い頃に書いた詩《望江南》の演奏を聴いている。この詩の内容は次の通りだ。

 

---

《望江南》

江南柳,叶小未成阴。人为丝轻那忍折,莺嫌枝嫩不胜吟。留著待春深。十四五,闲抱琵琶寻。阶上簸钱阶下走,恁时相见早留心。何况到如今。

 

江南の柳の木は、葉がとても小さく、立派な木陰を作ることができない。人々はその柳をまるで軽やかな絹糸のように感じ、折るのが忍びないと思う。黄莺(コウライウグイス)でさえ、その枝があまりに柔らかくて止まって歌うことができないと嫌がる。春の気配が深まってから、やっと楽しむことができるのだ。

 

十四、五歳のころ、暇ができると琵琶を抱えてまた柳を見に行った。堂の上では少女たちが「簸钱」という遊びをしていて、私は堂の下を通り過ぎた。以前にその少女を見たとき、心の中に密かに留めていた。それが今となっては、なおさら忘れることができない。

---

 

欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)はこの詩の中で、「柔らかく未熟な、春を迎える前の江南の柳の木」と「成長過程にある娘たち」を結び付けながら、「今でもあの娘たちの美しい姿が忘れられん」と語っている。これは悪心のある者が読めば非常に気色の悪い不埒な"ロリコン詩"となり、純粋な者が読めばとても艶やかで情緒のある"慕情詩"になる。

 

当然、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)たちはその前者となり、「欧陽修は立派なことばかり言って他の官僚を批判しまくっているが、その頭の中には汚い色欲が詰まっているのだ」と罵倒した。

 

⑤滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)の横領事件

 

前回に続けて、滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)の横領事件が朝議で論争となっていた。まず、西夏戦争の前線で必死に使命を果たしていた「慶州知州」の(滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)が莫大な公金を横領したという疑惑が指摘され、これについての調査報告が仁宗になされた。(明確にはドラマ内で描かれていないが、これもまた夏竦が范仲淹の勢力を削ぐために画策した密告であると考えられる。)

 

この報告では、「監察御史」の梁堅(りょうけん/liáng jiān)が退官したため、それを引き継いで細かい調査を行った所、滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)が証拠となる帳簿を全て燃やしていたことが明らかになったと述べた。これには一同も騒然として、明らかに滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)が公金着服の証拠隠滅を図ったものと考えられた。

 

「慶州知州」は「慶州の行政長官」を意味する役職。もともとは「权知某軍州事(暫時的に特定の軍や州の統治を主管する者)」と評されていた肩書であったが、それが「知州(「州(地方行政区画)の長官)」と固定化した。かつては范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)も同じ「慶州知州」を担っていたことがあり、それだけに彼は当時から付き合いのあった滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)や、現地の特殊事情のこともよく知っている。

 

「監察御史」とは、中央および地方の官僚の監察・糾弾(告発)を担当する役職であり、司法および行政の監督機能を担っていた。彼らは官僚や地方長官の不正行為や失態を調査し、皇帝に報告する責任を負っている。何らかの不正を発見した場合は、糾弾し罷免や処罰を求めることができた。「観察御史」は、宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が属している「皇城司(CIAのような情報機関)」と同じように、「皇帝直属の機関」である「御史台」に属する役職であり、独立した監察機能を持っていたので、非常に高い権威を有していた。

 

その宋王朝時代の「御史台」については、以下の3つの部門から構成されていた。

 

  1. 台院: 御史台全体を統括する役所。
  2. 殿院: 宮廷内の規律や皇帝周辺の監察を行う部門。
  3. 察院: 地方における監察を行う部門。

 

「監察御史」は主に「台院」に所属し、中央や地方の監察を担当した。当然、強い権力を持つ一方で責任も大きく、誤った告発や不正行為があれば、御史自身も罰せられることがあった。最高司法機関の「開封府(最高裁判所)」と同じように、御史は公平性と誠実さが何より重要視されたと言える。

 

ちなみに、この場面で登場した「監察御史」の梁堅(りょうけん/liáng jiān)という人物は創作であると思われる。仁宗の父、真宗の時代に活躍した「監察御史」に梁固(りょうこ/liáng gù)という功臣がいるので、それがこの人物の名前のモデルかもしれない。(梁堅が梁固の息子か何かとも考えたが、史実によればそのような人物はいない。ついでに言うと、梁堅は父親の梁灏と共に状元[科挙最終試験の最優秀者]を獲得したという、「親子連続状元」という、科挙の歴史において非常に珍しい記録を打ち立てた人物でもある。)

 

⑥范仲淹の猛烈な反論と横領事件の結末

 

范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)はその報告に対して猛烈に反論。「『三司の度支』なら分かると思うが、報告された十六万貫[約十億円]もの公金を慶州知州が自由に扱える訳がない。慶州知州が融通を利かせることができる公金はせいぜい三千貫[約二千万円]である。しかも、当時は西夏との戦いによる敗走によって極めて難儀な状況であり、滕宗諒は急ぎの兵糧や慰労の福祉確保のために公金を用いねばならなかった。それを重罪とするのは明らかに間違っている」と、彼は断じた。

 

「三司」というのは財政機関で、いわゆる現代日本で言う所の経済産業省。ここは更に三つの部署に分かれていた。

 

- 塩鉄:塩の生産および販売の管理、さらに鉱業(銀、銅、鉄、錫などを含む)の課税を担当。

- 度支:全国の財政収入の統計と調整を担当。

- 戸部:戸籍、税収、および厘金、公債、貨幣などを管理。

 

よって、ここで范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)が語っている「度支なら分かると思うが」という「度支」とは国家を直接管理している責任者たちのこと。彼の発言によって、朝議の場にいた「度支」が「確かにその通りです(慶州知州は十六万貫もの公金を扱えません)」と回答したので、またざわめきが広がった。これでは、そもそも「監察御史」が最初から調査を誤っていたということになる。

 

ここに、滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)の「証拠隠滅」という事実、「監察不備」という事実、それぞれが提出された。滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)は明らかに疑わしいが、その不正調査の精度も疑わしい。結果、これらの状況を踏まえて、仁宗は次の決断を下した。

 

 

「天有灾害 君王唯一应对之法 便是启用能人(天下に災害が起きた時、君王が取ることのできる唯一の対応策は、その解決に挑める有用な人材を登用することだ)」「伝説によれば古代の名君である堯(ぎょう/yáo)は性格に難があっても后羿(ごてき/hòu yì)を登用して国家運営の役に立てた、朕でも不完全であるのに臣下に完全を求める訳にはいかない」「因在战时 理当额外审视处理(戦時中であるため、特別に審査し対処すべきである)」。

 

こうして、仁宗は今回の公金横領疑惑に対する結末として、「滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)の降格処分」を命じた。これにより、滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)は「慶州知州」から「鳳凰府知府」の「天章閣侍制」に降格することになった。「天章閣」は公文書や学術資料を保管する朝廷内の施設であり、重要政策の協議が行われる場所でもある。「天章閣侍制」はそこの管理者だ。確かに肩書としては知州よりも下であるが、十分に温情のある裁定となった。

 

※滕宗諒(とうそうりょう/téng zōng liàng)の「証拠隠滅」の重罪が帳消し同然となった今回の裁定に、どうしても納得ができない王拱辰(おうきょうしん/wáng gǒng chén)は、先の朝議後にボイコットを実行。彼は欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)らの集団が仁宗から偏って重宝されていると感じ、自分は無力であるとして降格を願う奏状を提出した後、髪も結わずに懲罰の結果を待つことにした。

 

※今回の題材としたのは、中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第三十七集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

 

作品紹介

 

著作紹介("佑中字"名義作品)
呑気好亭 華南夢録

呑気好亭 華南夢録

Amazon